あの日。美帆が胃腸炎で病院に行って点滴を受けて、病院から帰ってきて布団に寝かせ、一息ついてたら旦那が帰ってきて、「美帆の具合どう?」とか話ながら美帆の様子を見に寝室に行ったら、グラッと。地震。旦那が「ヤバイ!みんな同じ部屋に!」と叫び、私はとっさに窓を開けた。
子供達に覆いかぶさる形で旦那、私が上になった。外からは「家から出ろ!大丈夫か!」と近所の人が我が家に呼びかける。揺れが長く、動けなかった。
とりあえず、しばらく経って揺れが収まり、急いで旦那が私達の靴を取りに行ってくれて、靴を履いて外に逃げた。すぐに大津波警報発令の防災無線。
津波避難所は、家の脇の公園。50人くらい逃げてた。そこで、ケータイのワンセグを見ながら、津波は来ないよね~なんて言いながら余震に怯えていた。
その時、ワンセグに映された映像。市内の海沿いの町が水没していた。
市の職員さんが、まだ通りで立ってる人に「これは訓練じゃない!現実です!逃げてください!」と叫んだ。旦那と「この公園も、ダメじゃない?」と話し、避難してる人を取りまとめてる人に映像を見せ、「上に逃げましょう」と話してたら、通りの向こうをガレキが流れてきた。次に、大通りを家が…。
「上まで走れ~!」
全員で叫んだ。高台まで走り、一息ついたとき、自分の家もダメだろうと感じた。着の身着のまま逃げてきたから、寒い。美帆は、点滴のおかげで調子は良かった。
その日、家には帰してもらえず、近くの裁判所で夜を明かした。
朝、旦那と坂を下った。
避難所だった公園は、ガレキの山だった。もし、逃げてなかったら…ここにいない。
家の玄関には車が突っ込み、ガラスが割れ、2階の窓スレスレまで水がきた跡があった。
それから、裁判所に避難所を設けていただいて、避難所なのに笑いが絶えない楽しい避難所だった。けど、次女の麻央がガレキの埃、土埃などで喘息の発作を起こし、三日連続病院へ。
環境を変えれるならとお医者さんに言われ、内陸寄りの市内の旦那の親戚宅へ今現在お世話になってます。やっぱり、気を使うし、色々あるけど、今はここしか居られない現実。家は、ライフライン復旧まで半年以上かかります。
美帆は小学校入学だけど、学校が始まる目処はたってない。ランドセルは2階に置いていて無事でした。
いつまでこの状況が続くのか分からない。けど、復興に向けて一日一日進んでると信じてます。
頑張らなきゃない。