6月16日

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16日の夜の9時、ハナが死んだ。

もう1週間前から何も口にしなくなっていた。サビ猫のルドもそうだった。ルドは8年前にやはり腎不全で死んだのだった。

腎不全の末期は吐き気がひどくて一切食べ物を口にしなくなるという。

それでもハナはパンの耳が大好きだから、無塩のパンをむしって食べさせていたのだが、やがてそれにも顔をそむけるようになった。

いや、そんなことはいい。

死に際して、小さな奇跡を見た気がするのでそれだけ書こうと思う。

昼間、ハナは庭の片隅の土の上で伏せていた。そこが気に入っているようで、家に上げても庭に下りたがった。

それでも梅雨の時期だ。いつ降り出すかわからないので、日が暮れる前に抱き上げて(あまりに軽くて胸が痛む)軒下のベランダへ移動しておいた。

ハナは何も食べていないのにお腹を壊していた。するとハエがたかる。ハエは恐ろしい。あの虫はまだ息をしていようが、脈打っていようが、構わずタマゴを産み付けるのだ。タマゴは翌日には孵る、孵るとすぐさまその生き物を喰い始める。

ベルゼブブという悪魔はハエの格好をしているが、あれはまさに悪魔と呼ぶに相応しい生き物だ。地獄の亡者の貪欲さ、醜悪さで瀕死の動物を食い荒らすのだ。

私はぬるま湯でお尻の周りを拭いてやり、イソジンを皮膚に触れないよう体毛の表面にそっと塗った。ハエはイソジンの匂いを嫌う。

そうしてオババに後を頼んで買い物に出た。いろいろ考えて、家庭菜園用の虫除け網を買うことにした。そこに虫除けのスプレーを塗布して蚊帳のようにハナを囲ってやろう。名案に嬉しくなった。

食事を終えて8時半ごろ、虫除け網を持って階下に降りていった。

胸をえぐられた。

ハナはベランダから土の上に下りていた。立ち上がる力もないので、這いずって降りたのだ。ベランダには蛇行の後があった。

ーーああ、そんなに庭にいたかったのならベランダに上げるんじゃなかったーー

 後悔の念がどっと押し寄せた。

「ハナ!」

 網戸を開けながら声をかけた。その時だ。ハナのシッポがしゃんと上向きになったのだ。

「ハナ! ハナ!」

 ムスメとオババも声をかけた。

 ハナはシッポを振った。左右に勢いよく。立ち上がることも、顔を向けることもできないのに、その振り方はまるで元気な頃の、飼い主の顔を見つけた時の「嬉しい! 嬉しい!」という振り方だった。

 どこにこんな力が残ってるんだ、と思った。奇跡を見た気がした。

 ベランダにはお腹を壊した痕跡が筋になっていた。

 ムスメの持つ懐中電灯を頼りにお尻の回りをぬるま湯でそっとふいた。

「この目はもう何も見ていないね」

 オババが言った。見てみると、目は見開かれていたが、光が失われていた。

 無力感が襲いかかって来る。私はどうしてやればいいんだろう。

 お尻を拭くのをやめた。タオルを手に呆然とした。この犬の最後の望みは何か、わからない。私はデクノボーだ。

 私はハナの頭を撫でた。

「ハナ、大丈夫だよ」

 囁いた。

「ハナ、なんにも怖くないからね」

 この世の外れ、あの世の入口まで一緒に行ってやろうと思った。身体はここにいても、私の心はハナと一緒に暗いトンネルをくぐってる。その様を思い描いた。いつものリードをつけて、暗い道をどんどん行く。まっすぐ行けば光が現れるはずだ。

ーー三峯神社の神様、動物の神様、どうかハナを光の世界へお導き下さい。あの時、お願いしたじゃないですか、来てください、迎えに来てくださいーー

 悲しいから乱暴な祈りになってしまった。

「死んだね」

 オババが言った。

「ハナ、ありがとうな」

 私達は抜け殻を囲んで泣いた


 翌日、葬儀社が来た。

「なんだか眠ってるみたいだねぇ」

 オババが言うと、黒スーツの担当者が頷いて

「安らかに亡くなったんじゃないですか? 苦しんだわんちゃんはもっとむごい表情をしていますよ」

 と静かに言った。その言葉に救われた。迷わずに逝ってくれた気がした。

 棺の中に北海道の写真を二枚と小さな花束を納めた。ハナの大好きなキュッキュと音のするボールも入れてやりたかったが、どこかに埋めてしまったらしくて見当たらなかった。

 いつかひょんなんところから出てくるかもしれない。その時は笑って手に取りたい。



「犬小屋どうするかね」

 オババが聞くので

「でも、またどこかで迷い犬や捨て犬と出会うかもしれないよ。そうしたらまた飼うでしょ? だからこのままにしておこうよ」

 と答えた。

 オババは黙って何も言わなかった。オババの年ではもうペットを飼うのはしんどいかもしれない。だとすればハナはオババの最期の犬になる。


 その日の午後、篠つく雨が降った。ハナの臭いも汚れものも洗い流していくんだなぁ、と眺めるうち、唐突にU町の海が目に浮かんできた。ビーチコーミングの時に時折見つける鳥の死骸や小動物の骨、そういったものは波に洗われて真っ白だった。

 自然はこうしていろんなものを洗い流していく。あるものは海の水に溶け込み、あるものは土に染みこんでいく。

 それが地球という星の埋葬法だ。ハエやウジにしたって同じ。奴らは奴らで腐肉を土に返すという役割を神様からになっているのだ。

 地球の氏子はそうして地球と言う母の一部となる。 

 そこからまた新しいものが生まれてくる。


 



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