2013年、夏・其の二

テーマ:
 11月1日。曇り、11度。

 昨日(10月31日)の医師の診察によれば、ほぼ完治しているとのことだったが、まだ当分は薬(副作用のある)を飲み続けろということだった。もう診察に通わなくて良いのは嬉しいのだが、薬の副作用を我慢しなければ行けないのは辛い。


(各写真をクリックすると、拡大画像が見られます)

 27日の日曜日(この日から冬時間)、びっくりするような嬉しいことがあった。ある最大手SNSのコミュニティをのぞいたら、中学時代の同級生と思われる書き込みを見つけた。その書き方から◯◯君ではないかと、月並みな比喩だが、電流が体を走り抜けるような感覚を伴って思った。その直感は大当たりで、彼のトップパージへ行くとHPのURLがあり、そこにはもう一人探していた友人の姿があった。そのようにして、まさに芋づる式に同級生たちの消息を知ることが出来た。今もまだその興奮の最中にあるので、少し冷静になったときにこのことを書こうと思う。今日はちょっと怖かった体験の記憶。


 

 
 高校一年のときに体を悪くして、しばらく医者通いをしたことがあった。もう大丈夫と言われた最後の検診のとき、「また少しずつ運動をした方が良い」と医者に言われ、一人でハイキングを始めた。始めの数回は、上り下りのゆるやかな多摩丘陵をスニーカーを履いてゆっくりと歩いていたのだけど、いつの頃だったか高尾山に歩いて登ってみようと思いついた。それが、その後山歩きにのめり込んだきっかけになり、なけなしの金をはたいて登山靴を買った。高尾山の頂上に着くと、西の方に高い山が見えた。いかにも山慣れた姿の人に訊くと、その山は景信山と言い、高尾山より百メートル以上も高いと言う。僕は登山用の地図を買い(これが間違いのもとだった)、景信山にあっという間に登り、さらに西にある陣場山にも登った。そのようにして御前山・三頭山・雲取山などに登り、秩父連山を縦走した。南北日本アルプスのいくつかの山に登り、やがて大菩薩連嶺にのめり込むことになった。大菩薩嶺の北に丸川峠という寂しい峠があり、そこに小屋があった。その小屋のオヤジが素朴で実に親切な人だったのが、大菩薩にのめり込んだ大きなきっかけだったように思う。

 丸川荘(いまのオーナーは、二代目の方らしい)。
 http://www5.ocn.ne.jp/~touge17/




 大菩薩連嶺には、いろいろな登り方がある。一日しか休日のない場合、僕はよく夜行日帰りという登り方をした。夜中の11時50分頃に出る中央線最終の鈍行に乗ると、塩山には3時半頃に着く。できれば車中、塩山行きの人で柳沢峠方面に行く人をみつけ、TAXの相乗りをして裂石というところで下りる。まだ暗いなか、頭にライトをつけ登山口を探し、それから木の根につかまりながら急勾配の踏み跡にちかい登山道を登る(60年代後半、とても登山道といえる道ではなかった)。ときどき藪の中でごそごそと音がし、動物の目が光る。やがて夜が薄らと明け、2時間ほどで丸川峠の小屋に着く。前日に電話を入れておいたので、起きて待っていてくれたオヤジさんと再会。みそ汁とおにぎりの朝飯を食べ、他に登山客がいなければ(平日はほとんどいない)2時間ほど仮眠させてもらう。起きたあと、オヤジさんと茶を飲みながら世間話をしたあと大菩薩嶺へ向かった。

 大菩薩嶺への道はほとんどが森林の中である。一カ所、富士山が素晴らしくきれいに見える場所があり、いつもそこで小休止をしていた。その日は列車の中でも小屋についてからでも寝られず、前日の夜は9時まで仕事をしていたおかげで、その小休止の場所に着いたときには体のだるさを感じていた。木々に上を塞がれた登山道は風が通らず、まだ四月末というのに蒸し暑く感じられた。それでも頂上(2057M)へはいつものペースで登ることが出来、眺望を得られない場所なのでそのまま通過。雷岩という開けた眺望のある場所で昼食のための大休止をした。丸川峠のオヤジさんに頼んであった握り飯をむしゃむしゃと食べ、雲ひとつない眺望を楽しみながらタバコを一服。陽の光はまだ強すぎず、ポカポカとした暖かさは実に心地よかった。




 僕は目の前に見える富士山と、その前に連なる山々の尾根を見ながら「平日と言っても、今日は裂石から誰にも会わないなんて珍しい日だ」などと、のんびりと思っていた。雷岩についてすぐに汗を拭き、下着のシャツを取り替えていたおかげで実に良い気分だった。毎日の生活のことや、大学・仕事のことなどは一切忘れ、「こんなふうに、一生山歩きをして過ごせたら良いのに。丸川荘のオヤジさんに雇ってくれって頼むのもわるくないなあ」などと、次から次へと妄想にふけっていた。僕は妄想にふけっているうちに寝てしまったらしい。寒さで目を覚ました。周りを見渡すとなにも見えず、一面灰色の世界だった。ヤバイ!じつにヤバイ!僕は自分の失態に呆れ、あわててセーターとその上に赤いヤッケを着込んだ。山では、場合によっては夏でも凍死する危険があるのだ。

 いそいで取り出したものを小型のキスリングに詰め、濡れたアルミのコップをキスリングに吊るした。冷えて震えながら下山の支度をし終え、立ち上がると一人の男が霧の中から現れた。その男は僕をちらっと見たのだけど、霧のおかげで顔はよく見えなかった。山の吹きさらしの場所で、不覚にも寝込んでしまった僕は、自分が感じているよりもはるかに動揺していた。僕の横を通り過ぎた男の赤いヤッケが霧の中に薄まってゆく。とっさに僕は彼の後を追った。彼も下山の途中だろうから、彼のあとをについてゆこうと思ったのだ。僕が7~8メートル後ろに近づいても、彼はき気づかないようだった。彼の足取りは確固としていて、僕にとって早すぎも遅すぎもしないちょうど良い歩きかただった。彼の背負っているキスリングは、僕のそれと同じようなリュックザックだった。彼もアルミのコップをザックにぶら下げていて、そのコップが右へ左へと揺れ、下げた金具にあたる音がしていた。

 霧の中を彼はつねに同じ足取りで、迷うこともなく尾根の傾斜を下っていた。キスリングにぶら下げたコップが揺れている。かすかに金具にあたる音が聴こえる。僕の背中でも同じような音がしている。木の枝が僕のほうをかすめた。やがて下草が靴を濡らしはじめた。そのとき、彼のキスリングに下げたコップの音と、僕のそれとが同調していることに気づいた。同じ歩調。赤いヤッケ。同じようなキスリング。それに下げたコップの音の同調。僕は立ち止まり、「俺は自分の後ろ姿を見て歩いてきたんだ」と思った。そう思ったとき、体中を襲う悪寒に震えた。濃い霧の中でかすんで見える『おれ』が、かすかに振り向いたように見えた。僕は一目散に逃げるようにきた道を引き返した。道とも言えない急な道を僕は下りてきてしまっていた。必死になってその尾根を登った。振り向かなかった。ものすごく怖かったからだ。尾根を走るように登りながら、ポケットから磁石を取り出した。わずかに立ち止まって見ると、ほぼ西に向かって登っている。僕は南西方向に張り出している唐松尾根を下りるつもりだったのだ。ということは、『おれ自身』の背中を見ながら、東斜面にある丹波山村の谷へ下りて行ったことになる。大変なことになるところだった。その先は登山道などなく、当時は原生林に近い神奈川・東京の水源地帯だったからだ。




 僕はなおも走るように登り続けた。後ろを振り向くのが恐ろしかった。『おれ』がついてきていて、引き戻されるのではないかと恐ろしかったからだ。雷岩から大菩薩峠につづく尾根に出た時は、嘘のように晴れていた。一瞬、大菩薩峠経由で下りるか、それとも雷岩に戻り唐松尾根を下りるか迷ったのだが、結局雷岩経由で唐松尾根を下りることにした。どれだけ歩いても悪寒は去らなかった。時計を見ると4時半。最終のバスには間に合うと思い、必死で歩いた。唐松尾根を走るように下りる途中、夕方の光に映える美しい富士が見えたが、カメラを取り出す気にはとてもなれなかった。「今日は写真を一枚も撮らなかったな」と思ったが、「撮らなくて良かった」とも思った。もし『おれ』が写っていたら、冗談ではすまされないほど恐ろしい。バス停につくと、まだ30分以上時間があった。僕はどうしようかと考えたのだが、次のバス停まで歩くことにした。立ち止まっていると、また震えがやってきて立っていられそうになかったからだ。

 塩山へ向かって歩いていると、後ろから来た山仕事の車が止まり乗せてくれた。助手席に座ると、その親切な人は「どうした?顔が真っ青じゃないか」と言った。僕は「すみません」と意味もなく謝り、「どうも風邪を引いたみたいで悪寒がするんです。でも流感とか、うつるような病気じゃないと思います」と、震え声で言い訳のような、訳の分からないことを言った。

 これが、この夏ぼんやりと過ごしながら思い出した記憶のひとつだった。

 このネット世界の辺境にあるブログ記事を読んでくださった皆さん、有り難うございます。この話しは作り話ではなく、僕自身が体験したもので、誰がなんと言おうと僕にとっての真実です(笑)。

 著作権はブログ管理人にあり、転載等を禁じます。

AD

2013年、夏・其の一

テーマ:

 10月15日。曇り、15度。

 


 
 10月に入ってから10度以下の気温が続いていたのだが、この数日あたたかさが戻ってきた。雪線も1500メートル以上になり、これなら10日に見た二羽のはぐれたツバメも稜線を南へ超えられたかもしれない。無事を祈る。



 今年の夏は、文字通り記録的な暑い夏だった。6月にも30度を超える日が数日あったのだが、7月に入ってから8月初めまで30度前後の暑い日がひと月以上続いた。37度以上になった日が数日あり、スイスでは滅多にない寝苦しい夜があった。このような暑さは想定外なので、どこの家にもクーラーというものはないし、買おうと思えば専門の業者を呼ぶ以外ない。そんな記録的暑さの続く夏を、僕はアプリゲームと本を読むことでやり過ごした。何もすることの出来ない夏、何も予定を立てられない夏を鳥の声を聞きながら藤棚の下で過ごしたのも、初めての体験だった。

 

 5月末に退院してから3週間ほど辛い毎日が続いた。あまりの消耗に、俺はこのまま老人になってしまうのではないかと、心底心配だった。幸い3週間を過ぎる頃から体力が回復してきて、これなら大丈夫だと思えるようになった。そんな心身の消耗の中でなにをして過ごしたかと言えば、本を読む以外考えつかず、次から次へと本を読んで過ごした。もちろん難解な文章は読めないので、頭を使う本は敬遠して気楽なものばかりを選んだ。それらのなかに、「新・東京23区物語」と「東京自転車日記」泉麻人著(新潮文庫)という本があった。


「新・東京23区物語」は、東京23区を面白おかしくそれぞれの区の成り立ちや特色を書いたもので、なかなか楽しめる本である。この本を読んでいて、子供の頃母につれられて隅田川の水上バスに乗ってお化け煙突を見たり、また勝鬨橋が開いて船が通過する様を見に行ったりしたことを思い出し、さらに浦安の先の浜に何度か潮干狩りに行ったことを思い出した。当時の水上バスは今のような立派な観光船ではなく、木造のぼろ舟で、文字通り川沿いの住民たちのバスだったらしい。らしいというのは、当時の僕が子供過ぎてそれを断言できる確たる記憶がないからだが、昭和20年代に水上バスに乗って東京観光をする酔狂な暇人はいなかっただろう。

 

 お化け煙突は東京電力の火力発電所の煙突で、当時低い家並が続く東京の空に際立って高くそびえていた4本の煙突のことである。見る場所によって1本に見えたり、2・3・4本に見えたりして、見える本数が変わるためお化け煙突と呼ばれていた(別の説もあるが、煩わしいので書かない)。着物姿の母がしゃがんで、一生懸命「見ててごらん、船が進むと煙突の数が変わるのよ」と説明してくれていたのだが、当時の僕がその意味を理解できていたかどうかは怪しい。説明してくれる母のにおいと声、そしてつかんでいた母の着物地の感触をかすかに憶えている(気がする)。物心ついてから何度もこのお化け煙突を見ているので、母の説明を理解できていたように思い込んでいたが、それがどうも怪しいということに思い至ったのはこの夏の収穫。

 

 もうひとつ同じようなことを思い出した。潮干狩りの想い出は、以前にもブログに書いたような気がするのだが、この夏思いだしたのは、記憶にある限り、生まれて初めての潮干狩りのことだ。デズニーランドのある浦安市は、昭和三十年代末まで埋め立て地はなく、市に昇格したのは昭和五十六年のことらしい。二十年代の浦安町では漁業が健在で、そこから千葉方面には遠浅の海岸が続いていた。僕が初めて経験した潮干狩りがどこの浜であったかはわからないが、当時の交通事情を考えると、日帰りである以上浦安からさほど遠い浜ではなかったはずだ。


 潮が引いた広大な浜で、僕はしゃがんで砂を掘っている。掘っているうちに水が浸みて底にたまり始めた。僕は浸みてくる水と競争するように穴を掘り続けた。熊手の先が固いものにあたり、カチッという音がする。なおも掘り続けると貝が姿を見せた。貝はもぞもぞと動き、また砂の中にもぐろうとする。僕は砂と一緒に貝をつかみ、母に見せた。まだ赤ん坊だった弟を抱いた父が遠くを見ている。その視線の先を見ると、どこまでもつづく遠浅の浜の向こうに、初夏の陽にゆらいだ数人の人たちが滲むように見えた。永遠につづくかのように思えた夏の一日。

 

「この貝は、毎朝あさり~しじみ~っておじさんが売りにくる貝とおなじ貝よ。あのおじさんは毎朝早く、こういう貝をたくさんとって売りにくるの。それをお母さんは売ってもらって、みんなで食べるのよ。わかる?」という意味のことを、母はにこにこ微笑んで説明してくれた。



 この夏思い至ったことは、この母の説明を聞き、僕がそれを理解したと思っていたのは、その後の潮干狩りの体験がいくつも重なり、それを当然のこととして理解していたと思い込んでいただけだ、ということだった。勝鬨橋やお化け煙突、そして潮干狩りを初めて体験したとき、僕は幼すぎて川を行き来する大きな船を通すために交通をストップして橋を上げるとか、菱形に並べて建てられた四本の煙突の数が場所によっては重なり、本数が違って見える理屈や、漁師が朝早く大量のアサリやシジミを遠浅の浜や河口で穫り、それを町から町へと売って歩く労働の仕組みなどはまったく理解できておらず、ただ呆然とそれを聞いていただけだったのだ。もちろん母は、僕が理解することを期待していた訳ではなかったのだろう。ただたんに、自分の息子に何事かを教えるための積み重ねの最初の一歩を踏み出したに過ぎなかったのだと思う。

 入院手術という初めての体験をしたあと、ただただぼんやりと過ごしたこの夏、連想が連想を生み、そんな60年以上も前のことを思い出し、楽しんでいた。

 其の二は、ちょっと怖い話し。

AD

ふたつの初体験、其の二。

テーマ:
 9月30日。曇り、14度。

 救急病棟の医師が言ったように、その後の検査の結果手術以外の選択肢はないと言われ、入院手続きをした。手術を承諾してから手術後までに、(僕個人にとってということなのだが)興味深いいくつかのことがあったので記しておきたい。


 廊下からの眺め。
(各写真をクリックすると、拡大写真を見られます)

 検査の結果を医師に説明され手術を承諾した時の精神状態なのだが、自分でも驚くほど動揺はなく、坦々とした気持ちでその現実を受け入れていた。基本的に僕は臆病な人間で、健康だった頃の自分だったら、手術と聞いただけで怖じ気づくのではないかと思っていたのだが、あまりの平静さに我ながら意外な思いであった。もちろん、スイスは医療水準の高い国であり、病院の設備や保険等のシステムが完備している国だという、無意識の安堵感があることは間違いない。


 手術後の眠りから覚め、最初に目に入ったもの(以下同じ)。

 ところが5月20日、つまり手術前日の夕方6時半(そのとき、偶然時計を見た)に奇妙な感覚におそわれた。それは、視覚的に暗い灰色の空間に沈み込むような感覚で、現実世界からどこかに移動させられるて行くような、言いようもない不安な心持ちであった。僕はソファーの背に頭をもたれかけ、思わず深いため息をつき、これはいったいなんなのだと思い目をつぶった。その奇妙な感覚にとらわれていた時間は5分から10分ほどの間だったと思うが、それが過ぎ去ったあと、自分を捉えたその不安感について、今も考え続けている。



  その理不尽とも思えるほど突然襲ってきた不安感とは、一体なんだったのだろう。病気治療のための手術とはいえ、体(臓器)の一部を切り取るという行為である手術を坦々とした気持ちで受け入れた意識の表層に対し、その薄い表層下のさらに奥深くにある生命体としての恐怖(不安)から来たものかもしれないと思っているのだが、どうだろう。



 手術そのものより不安だったことは、全身麻酔だった。手術前の諸々の検査のなかに、麻酔科の医師との面談があった。部分麻酔の可能性について質問すると、その医師は「あなたのケースだと、全身麻酔を勧めます」と言い、いくつかの説得力のある理由を挙げた。僕は止む無く全身麻酔を承諾したのだけど、そのことに対するかすかな不安は手術当日まで消えなかった。とい言うのは、70年代中頃に交換医師として大学病院に来ていた日本人の麻酔科医師に聞かされた全身麻酔の危険性を拭い去ることが出来なかったからだ。当時その医師と親しくなり、医者の世界のことや麻酔による事故のことなどをさんざん聞かされていた。それから40年近くが経ち、その頃と今ではすべての面で安全になっているだろうことを想像することは出来ても、麻酔で意識を失いそのまま・・、という不安は常に頭のどこかにあった。



 医師には守秘義務がある。しかし何人かの医師と親しくなり、医師同士や親しい間柄で、他に伝わる心配のない時は、酒でも飲むと彼らはけっこう饒舌になることを知った。当時この医師から、週刊誌に売れそうな話題をいくつも聞かされたものだった(笑)。閑話休題。

 手術の前に鎮静剤を飲まされ、麻酔科へ運ばれた。着くとすぐにものすごい美人の女医さんが何やら僕に話しかけている。僕は「きれいな人だな~」と思いながら受け答えをしていたが、一体なにを話したのかまったく記憶にない。そうしているうちに、腰のあたりにチクッという痛みを感じ、それ以後のことは憶えていない。 目を覚ましたとき、にこにこと微笑む医師の顔があった。「予想よりずいぶん長くなり3時間かかりましたが、手術は無事に終わりました」   という言葉を聞き、(生き死にがかかった大手術ではないにせよ)「ああ、俺は生きているんだ」と安堵した。朝7時に病室から運ばれ、また病室に戻れたのは午後の2時を過ぎていた。そしてベッドに移されたとたん、意識を失うような深い眠りが訪れた。



 病室の窓から。遠くに見えるかすんだ山は、ドイツの黒い森。

AD

ふたつの初体験、其の一。

テーマ:
 9月25日。晴れ、22度。

 
 病室からの眺め。
 (各写真をクリックすると、大きな写真を見られます)

 4月30日、体調が悪くなった。その日はさほどひどくは感じなかったので、明日同じような様子だったら医者に電話しようというくらいのつもりでいた。結果的に、それが間違いだった。5月1日はメーデー、全国的に休日だということを忘れていた。やむを得ず救急医に電話をしたのだが、患者をたくさん抱えているらしく、家に往診に来てくれるのは、早くても7時過ぎになるという。結局医者が来たのは8時前。それまでに体調は最悪な状態になっていた。痛みが増し、すでに痛みがどこから来るのかわからないほどにまでなり、ひたすら医者を待った。ところがこの医者、どうも誤診をしたらしく、もらった薬はまったく効かず痛みはひどくなる一方で、やむなく同じ医者にもう一度電話をすると、救急車の手配をするという(多分、誤診に気づいて焦ったのかもしれない)。救急車を待つ間は、まさに地獄だった。あまりの痛みに気を失うなどというが、そのときは、出来ることなら気絶したいと思ったほどの痛みだった(この痛みの推移については観察していたので、出来る限り正確に書いてはみたのだが、個人的なことであることと、あまりにも生々しい感じがするので、ここには載せない)。


病院の庭。

 救急車に乗せられ、痛み止めの点滴をされたおかげで、僕が指定した病院へ走る途中、今どこを走っているかがわかるようになってきた。そして夜間の救命救急。いろいろな処置をされている間、痛みをこらえるためにベッドのパイプを力一杯握っていたらしく、右手から肩までが棒のようになっていた。痛みが薄らいできたとき、看護師さんに「これが夜間の救急かあ。初めての経験だよ」と独り言のように言うと、40代半ばと思われる看護師(女性)さんは、「そうですよ~、これが救命救急病棟ですよ。体の力を抜きましょうね」と言った。そしてそのとき思ったことは、「しまった。カメラを忘れてきた」ということだった。バカな話しだが、今でもあの救急病棟の写真を撮れなかったことを残念に思っている。


 同上。

 よほど強力な痛み止めの点滴をされたのだろう、血液を採られたり医者に質問をされているうちに、カーテンで仕切られた他の患者たちの話すことが聞こえるようになってきた。患者の奥さんなのだろう、入院の手続きのことや病歴についての会話が遠くから聞こえてくる。また別の患者は、今まで日常的にどのような薬を服用してきたかという質問に痛み止めだけだと答え、その痛み止めの薬について長々と説明をしている。医者が去ったあと、その患者が愚痴のように話す痛み止めの薬について、看護師さんが根気よく聞いて相手をしている。どの話し声もひそやかで、簡単に言えば暗い雰囲気が病棟を支配している。医者もそうだが、救急に運ばれてきたそれぞれの患者に対し、根気よく話しを聞いたり手当をしている看護師という人たちに、言葉では言えない感慨をもつ。いってみれば、大変な仕事を良くやるよな~、ということなのだが、それだけでは言い表すことの出来ない尊敬と感謝の念だったのかもしれない。僕はこのまま入院という事態を想像していたのだが、幸いにも明け方の4時頃病院をあとにすることが出来た。あとは通院してより詳しい検査を受け、入院・手術ということになるだろうという、医者の言葉どおりになった。

 つづく。

ゴン18歳

テーマ:


 各写真をクリックすると、拡大写真を見られます。

 2013年8月30日。晴れ、25度。

 4月21日、ゴンは18歳になった。この数年、毎年冬が来ると元気をなくし病気がちだったので、18歳の誕生日を迎えることが出来るとは思っていなかった。オス猫としては長生きの部類に入るらしい。なにしろ人間の年齢にすれば百歳以上になるのだから、たんにペットとしてではなく、家族の一員として一緒に暮らしている僕としては、これほど嬉しいことはない。



 この数年、ゴンにいくつかの変化がある。人間同様、猫にも惚けるということがあるらしく、どうも少しずつその症状が進んでいるらしい。眠っていて突然目を覚まし、トコトコと階段の方へ歩いてゆき、ふと立ち止まり「俺はいったいなにをするつもりだったのだろう?」というように考え込むときが多い。また、ご飯を十分に食べたのに、またすぐあとで要求することも多い。そんなときは一口二口食べ、「あっ、そう言えば腹減ってなかった」とでも言うように、プイとどこかへ行ってしまう。まったく手のかかる気難しいジイサンになったものだ。そして、最大の変化は耳が遠くなったことだ。庭で寝ているゴンを呼んでもまったく反応がない。近づいて行って大きな声で呼ぶと、びっくりして頭をもたげ、どこで声がするのだろうという風にキョロキョロとする。そして、耳が遠いことと関係があるのかどうか、この一年ほど声を出して意思表示をするようになった。以前はまったく声を出さない猫で、人の足に体当たりをするように、行動で意思表示をしていたものだった。


「ゴン、誕生日おめでとう」と言っても、まったく反応なし。


 なんとか玄関までつれてきたのだけど、不機嫌そうにして僕を見ない。


 最後の手段で、誕生日のプレゼントに買った子牛のステーキ肉をちらつかせたとたん、「オッ!」という顔で寄ってきて、目の輝きが俄然変わった。嗅覚は衰えていないらしい。





 現在18歳4ヶ月。毎年冬になると、この冬を乗り切れるのだろうかと心配するのだけど、今年は僕の方が壊れてしまった。ゴンは心配そうにやってきて、ベッドの上に乗っても、僕の体の上には乗ろうとしなかった。この18年間、ゴンとは多くの想い出があり、ずいぶんと助けてもらったのだ。寿命がくれば仕方がないが、それまで元気で長生きしてほしい。