東大に文理両方で合格した男が綴る、受験の戦略

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先日、祖母とゆっくり話す機会がありました。


昭和3年12月1日生(86歳)


数年前に祖父は他界し一人暮らしをしていたのですが、脳梗塞を患いました。


術後には手足のしびれが生じて段差があると踏み越えられなくなり、一人暮らしを断念。


現在は私の実家で私の家族と同居しています。


ちょっとボケ始めたかと思うこともありますが、頑固で自己主張だけは欠かさない祖母ですが、先日祖母の過去について聞く機会がありました。


それは戦前戦中のこと。


13歳になったばかりで大東亜戦争開戦、終戦時には16歳になった祖母ですが、戦前戦後にどのような事を考えどのような事をしてきたのか、初めてうかがい知りました。


そこで、本日はここに書ける範囲で書こうと思います。


≪小学校の教育≫

祖母は会津の小さな村に生まれ15歳まで暮らします。そこで受けていた小学校での出来事についてです。


・会津にいた頃はABCまでは教えられたけど、それ以降は教えてもらっていない。というか、教えちゃいけないことになっていた。そのため、25歳ほどになってパートで電気系の仕事をした時には図面や回路が英語だったので、とても苦労した。


・小学校には修身の時間があった。内容にはあんまり関心がなく、詳しくは覚えていない。内容は良い言葉や天皇陛下の事、明治天皇の事などをやった。


・修身の時間は小学校3年から卒業6年生まであって、教育勅語を素読した。ただ読んでるだけで、子供には内容や言葉が難しくて、内容が理解出来ていたわけではない。どんな内容の事が書いてあるかは教えてもらってないし、詳しくは覚えていない。多分、良い事が書いてあったんだろうとは思っている。教育勅語の本があるから、ただ勉強しているもの。いわゆる『軍国主義の象徴だ』のように、怖いモノとか悪いものとは思ってない。


・修身は、今は学校でも家でも教えないし、墨塗りになったのも知っている。


・『人には悪い事しちゃいけない』『金は親子でも他人』『人の振り見て我が振り直せ』こういう事は祖母から教わった。(祖母の祖母のこと)


・(おまけ)九九は“ククザン”と呼んでいた。


≪外から見た空襲について≫


その後、祖母は15歳くらいで東京に出てきます。開戦して2年後くらいですね。状況した祖母は、東芝の本社@川崎でラジオの真空管作りの仕事をします。

そして迎えた、1945年の3月、東京を始めとして各地に空襲が起こりました。


祖母は川崎の寮と本社の往復をする生活だったそうですが、仕事中に空襲警報が鳴り『焼夷弾が来たから、逃げろー』と声が聞こえたそうです。


しかし職員達は『どうせ自分の所には落ちないだろう』と逃げる人はあまりいなくて、むしろ2階の洗濯干し場に出て(ベランダのような所?)皆で空襲の様子を見ていたとのこと。


視線の先にB29が空に現れて、円を描きながら焼夷弾をパッパッパッパと落としていき、丸い火の海が出来て、その後に円の中に焼夷弾をいくつか落としていく、


祖母の感覚だと、円を描くのに何十個も焼夷弾を落として、真ん中には2~3個落としたそうです。


焼夷弾は、空の上空ではただの塊ですが、落ちてしばらくするとパッと開いて花火のように火広がります。


それを見て、職員たちと『キレイだね~』なんて言って、遠くで被爆する様子を見ていたと祖母は行っていました。


まさか、空襲を目にして、キレイと感想を漏らしているとは驚きました。


祖母は、そのような光景を2~3回ほど見たと言っていました。


≪空襲に遭った日の事≫

それから数日経ったある日(3月15日くらい)ついに川崎にも空襲の魔の手が忍び寄ります。


祖母は、昼頃に東芝の本社で働いていたのですが、突然会社の上に焼夷弾16個が落ちます。(川崎のような工場地帯は空襲がヒドかったそうです)


急いで逃げようとして荷物をまとめていると、隣のガラス課の塔から火がバーッと出ていくのが見えます。


焼夷弾の火が建物の中の全部に充満しており、その火の勢いでドアが開くほどだったそうです。


そして、建物を出たら地面も全部火の海。バケツで水を汲んで、みんなで消したそうです。


情報が入ると柳町工場は無事とのことで、そこへパジャマで逃げてきます。水をかぶって出てきたので、びしょびしょです。


また情報が入り鉄道が動いているらしく、とにかく何も考えず田舎まで逃げようと必死に動いたところ、川崎駅は電車が停まらないと言われてしまう。


すると、六号橋まで行けばトラックが出ていて品川まで乗っけてくれるという新情報が入ったため、一人で六号橋まで歩いていきました。


余談ですが、川崎ではモノが全て燃えちゃっていて、そこら中で牛が横になって寝ていたそうです。

情報通り、トラックに乗っかって品川まで連れていってもらい、そのまま電車で上野に到着。


上野の人だかりはすさまじかったようですが、何とか若松行の電車に乗る事が出来、長時間かけて会津若松の実家まで帰ったそうです。



≪兵隊について≫

祖母の2~3歳上までの男子は戦争に行ったそうです。(つまり、20歳以上あたり)対して、同年代はまだ戦争に行っていない世代だそうです。


当時、戦争に行きたくないとは言えない時代であり、赤紙が来たり、20歳の時に行われる兵隊の検査に合格になるといかなきゃいけないものだそう。


祖母の田舎(会津若松の村)の若い男性は家の仕事があるから行きたいとは思ってなかったのではないか?との事です。


一方、もし志願したら若くても戦争に行く人もいたと思うのだそうです。(但し、17とか18にならないと行けない)



『兵隊になって日本を救ってね』などの応援はしなかったようですが、兵隊になって戦地に赴く時には、歌を歌って見送ったようです。(露営の歌など)


例えば、祖母のおじさん(お母さんの弟)は海軍の兵隊になり、見送りに福島から神戸まで行った事があります。


しかしそのおじさんは、船に乗って行ったらすぐに戦死してしまったそうです。(場所は不明)


兵隊の見送りでは、神戸に行ったケースが多いそうです。


ちなみに、祖母の知り合いに特攻隊はいないようです。



≪その他≫


・戦争が終わったら、アメリカ兵に酷い事をされるとか強姦されるとかは思った事はなかった。とにかく戦時中は一生懸命に仕事をすればよいと思っていたし、空襲の時は急いで家に帰れば良いと思ってた。


・戦争に勝つとは思わなかった。


・戦後、日本は徐々に変わっていったのはわかったが、若かったからあんまり考えてなかった。


・田舎の方では、お寺の鐘が取られた、鍋が取られたっていうのはあったが、東京や川崎ではそのような事はなかったのではないか。


・福島の家は昔からの名家で、日本刀が家にあった。しかし、戦争で持っていかれてしまうかもしれないので、川に一度捨てて隠した事もある。(その後の事は知らないが、恐らく川から拾い上げたのではないか)


・田舎では、お米が十分に取れると兵隊にあげなきゃいけなくなるから、土に穴を掘ったり、部屋に穴を掘ったりして隠して自分たちの分を確保した。


・天皇陛下(つまり昭和天皇)は皆で歓迎をした。天皇陛下を尊敬しているというわけでもないけど、一番偉い人だからそうしていたという感じ。


・皇室は昔から続いて来ただから、偉い人だという認識。


・今の皇太子殿下なども、日本の昔からのしきたりをしっかりやってるから、偉いなと思う。

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