回想旅日記 ~熊本県人吉城~ | 旅するカメラ

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4月から始めたこのブログ。
そう言えば人吉城へ行った事を書くのを忘れていた。
ちょうど梅雨の時期でどこにも遠出できないので
回想旅日記シリーズ。人吉城編。

南九州へ行く際、ついつい高速道路をぶらり途中下車して立ち寄ってしまうのがこの人吉城。
一番の見所は「はねだし」と呼ばれる独特の形をした石垣ではないだろうか?


はねだし


説明書きには「武者返し」と書かれている。
初めは戦国時代の敵の侵入を阻む事を第一に考えられて造られた石垣だと思っていたのだが、
説明書きを読むと「防火の為」と書いてある。
以前「そんなはずはない。防火の為にしては刎ね出しが小さすぎる」と反論された事もあったのだが
近くにある資料館の方に説明していただいたのだがやはり「防火の為」と言うのが第一の目的だそうだ。

この「はねだし石垣」が造られたのは文久2年。
文久2年と言えば1862年、時は既に幕末期。(寺田屋事件が起こったのがこの年)
戦国期とは違いそこそこ平和な時代が続いた頃である。

この年に起きた「寅助火事」と言う大火事に寄って人吉城内の建物はほとんど焼け落ちてしまった。
そこで防火の為に造られたのがこの武者返しと呼ばれる「はねだし」石垣。
もともとは石垣の上に多聞櫓が乗っていたのだが、さらに石垣を積み高さを出した後「はねだし」石垣を配置した。
写真をよく見てみると石垣の上の部分の色が違う。(白っぽい)
その部分が後から石を積み上げた部分だと言う。

資料館の方に伺った話によると最初に人吉城が築かれた1600年代は石工さんの技術が高かった為に
大きな石を使っていたのだが、寅助火事の後に組まれた石垣はすでにそれだけの技術を持った石職人が
いなくなり組みやすい様に石を小さく割って組んでいるとか。
石垣の石だけで造られた時代が分かってしまうものらしい。

また、人吉城の「はねだし石垣」は防火の為に造られたものだが、ヨーロッパでの建築工法としてのはねだし石垣は
敵の侵入を防ぐと共に、いざと言うときには一番上の石を落とす事に寄って攻撃にも使えるように設計されている。

跳ね出しアップ


当時の最新鋭の石垣を採用したと言う訳だ。
このはねだし石垣は日本国内では他には五稜郭に採用されている。(まだ見た事が無いので見てみたい・・・)

隅櫓跡



と、すっかり「はねだし」石垣に夢中になっていたらすぐ横に新しく「堀合門」が復元されていた。

門できてました。


この他にも今、ちょうど築城400年を記念して人吉城は復元ラッシュなのだ。



水ノ手門
水ノ手門

多門櫓
多門櫓


長塀
長塀

角櫓
角櫓


だけどやっぱり人吉城のお勧めは「石垣」。
最初に紹介したはねだし石垣の他にも素晴らしい石垣があちらこちらに残っている。

二の丸


三の丸付近



本丸には天守は建てられず護摩堂が置かれただけだった。
今も本丸には礎石だけが残る・・・

本丸


石垣



う~ん、何度見ても、何度訪れても味わい深い城跡だ。


そしてお城を堪能した跡は、人吉城のすぐ目の前にある「元湯」で一休み。
小さな浴槽が一つあるだけのいたってシンプルな共同浴場なのだが、なんと言ってもお湯がいい。
人吉城と合わせてお勧めである。

元湯

(※ロッカー等はありません。荷物は番台のおばちゃんに預けましょう。)