ネットで積極的に書いている人なら、罵倒されてヘコんだ経験のある人も結構いるだろう。批判慣れしていない人は、単なる間違いの指摘でさえ、心に深刻な傷を負ったりするかもしれない。批判的なことを書かれたブログが簡単に閉鎖・消滅するのを見たことのある人もいるだろう。

もちろん、それは批判される側の問題でもある。ネットはそのような人が出てきて無傷でいられる所ではないのだ。ネットが末端の個人と個人が直接コミュニケーションする場であるかぎり、そこはある意味、激しい戦場なのである。戦場だから、敗れ去る人ばかりではない。吸収力のいい人は、批判は糧として自己成長の材料として使う。誹謗中傷でさえ、その裏には何かがあるという事実を重く見る。そのような活用手法に慣れると、ネットをさらに使い込んで自らをレベルアップすることもできる。

ところで、この映画の批評は、中傷などという低いレベルのものではない。掲示板に書かれていることを、実際に見ていただきたい。例えばYahoo!映画 - あなたを忘れない - 作品ユーザーレビュー という掲示板には、700件以上のユーザーレビューが公開されている。私もいくつか見たが、個人的には、ちゃんと筋道の通ったものが圧倒的に多いように感じたのだ。

この映画の監督は「国境に関係なく、人として行動することの大切さを訴えたかった」と主張しているそうだ。それなのに、なぜ掲示板では、韓国が善で日本が悪という前提で描かれた一方的な映画であるとか、事実とは異なる脚色が許せないとか、そのような投稿がこれだけ圧倒的多数集まるのか考えてみてください。情報操作? 組織票? そのような気配があるかどうかは、見て判断してほしい。

レビューをいくつか読めば、この映画を、「日本を批判している」という理由で反発しているというよりも、事実を元にしたように見せかけた映画の内容が、殆ど事実に基づいていない捏造だ、という所に憤慨していることが分かる。事実とは全く違っているフィクション・創作なのに、実際にあった現実のことを伝えているかのように見せかけている、というのだ。一言蛇足しておくなら、それが日本を差別している内容だ、というのがこの盛り上がりの主因だと思うのだが。

一つ具体的に紹介しておこう。新大久保駅で実際に起きた事故では、日本人も線路に下りて助けようとして犠牲になった。この映画にはそのことが描かれていない。これは流石にまずいと思ったのだろうか、公式サイトには、それを描かなかった理由説明したページがある。しかし、映画を見る人には、そのような場所に文章があるということなど知らないだろう。この事故を知らない人だったら、日本人は他人を助けようとしないという、誤った先入観を植え込まれるかもしれない。

人を傷つけるのはネットだけではない。むしろ、映画作品というのは、その露出度を考えれば、それ以上に多数の視聴者を一撃で傷つけることもあるし、影響力も桁違いに大きく、持続性がある。このようなネットの反応は、その単純な事実への危機感が現象として現れたのではないか。

Yahoo!映画の掲示板による評価は、700件以上のレビューによる総合評価が、5点満点で 1.6 点だ。ちなみに、評価は最低でも1点なので、この点数は、最低点を付けている人がかなり多いということを意味している。これは異様に低い評価である。

(ちなみに、レビューの数が多くてかつ点数が低かったものとしては、「ゲド戦記」が記憶に新しいのだが、そのゲド戦記でさえ、総合評価は 2.37 点なのである(2月20日現在)。)

しかもイメージワードのトップ3は、「絶望的」「不気味」「恐怖」である(2月20日現在)ホラー映画ならともかく、人として行動することの大切さを訴えたいという趣旨の映画のレビューが、なぜこうなってしまうのだろうか?ここにこの映画の本質があるような気がする。

ネットは全然怖いものではない。怖いのは人間そのものの方だ。ネットがなければ、多くの人が本当は何を考えているのかなんて分からないというだけの話だ。気付く機会もなく、最後まで人生を全うすれば、確かに傷つくこともないだろうし、それも一つの生き方である。

特に、映画監督という職業には、大衆の声を反映させたり、世評を考えて次の作品をどうこうしたり、というような義務はないと思うし、むしろ、世間とは隔離されたところで、黙々と自ら信じるものを作った方がいいのかもしれない。わざわざネットを見たりするから話がややこしくなる。真実を知りたくなければ、ネットは使わない方がいい。

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表現の自由とは何だろうか。マスコミは自分に都合のいい情報でなければ流さない。これがマスコミの表現の自由である。

考えるまでもなく、至極当然のことだ。自分に都合の悪い情報を流すことは、自己の存在の危機に晒されることになるからだ。スポンサーの怒りを買って降りられるのも怖いし、今後の取材が拒否されるのも困るだろう。「自社の不祥事も報道しているではないか」と反論する人がいるかもしれないが、誤解してはいけない。自社の不祥事を報道するのは、それを隠しておくと、本当に都合の悪いことになるである。

だから、映画の紹介記事は、毒舌が売りのコーナーや、よほどマニアックな映画評論系のコラムでもない限り、普通は好意的なことだけを書くものである。場合によっては、公開前から絶賛されることも少なくない。しかし、ネットはそうではない。

基本的に、ネットという場は、何かを見て感じた人が、それをそのまま書く。特別な背景があれば別だが、面白くもない映画を面白いと評しても得する訳でもないし、面白いものを面白くないと書いても、たかが一人の戯言に社会が動くこともない。思ったことをそのまま書いて何の不都合もないわけで、そこにはいかなる情報操作も介在しない。スポンサーもないし、取材拒否なんて関係ない。だからそこには真実が集まることがある。常に真実であるとまでは言わないが、マスコミというフィルターを通すよりも、圧倒的に真実性は高い。

もっとも、掲示板の中には、管理人が気に入らない投稿を削除するようなものがない訳ではない。幸い、インターネットには無数の掲示板がある。ブログで自分から情報発信することもできる。この種の情報を上から操作して封じ込めることは、どんどん難しくなっている。

また、最近はブログに製品評を書いたら報酬がもらえる、というようなビジネスもあるようで、そのように金銭が移動し始めると、内容の信憑性は薄まってくる。暮しの手帖 という雑誌があって、今はどうなのか知らないが、昔、家電製品のレビューがよく掲載されていた。スポンサーが付くと公平に評価できないので、全て自腹で購入して評価したときく。お金というのは怖いものだ。

予断はさておき、監督は「人を容易に傷つけるネット」という。むしろ、映画のような露出度の多い作品が遥かに危険ではないのか。それは、ネットにおける個々の投稿などは比較にならないほど多くの人を、たった一撃で傷つけることができるからだ。しかし、もちろん、人を傷つけるのはネットではない。あくまでそれは人なのだ。

(つづく)

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「あなたを忘れない」という映画が話題を呼んでいる。この映画の公式サイトは「http://www.korea-japan.jp/ 」だ。

あれっ、と思った人はいないだろうか。それとも、このURLに、何か作為的なものを感じたのは私だけだろうか?普通、このような公式サイトには、映画のタイトルを連想しやすいような文字列を選ぶものだ。それはSEO対策という意味でもあるし、ユーザビリティという点でも当然の発想である。今から何年かたって、いや、今の時点で、「あなたを忘れない」という映画の公式サイトの URL を想像できる人が何人いるか。

この映画は、日韓共同で作ったということになっている。マスコミの報道をみても、何も知らなければ、国境を越えた友情云々、というようなテーマの映画のように見えるはずだ。だから、こういうURLになっているのだろう。ただ、話題になっているのは、日韓共同制作だからという意味においてではない。

この映画の監督は、新聞記事のインタビューにこんなことを言っている(もっとも、新聞記事がインタビューしたときの言葉を正しく伝えたとして、だが)。


表現の自由はあるにしても人を容易に傷つけるネットは怖い。メディアのプロとしてどう対応するか考えていかねばならない


この映画が話題になっているというのは、実は、これが日韓共同制作なのに反日的な内容だという批判の声が多数出てきたからななのだ。

この映画は、2001年に新大久保駅でホームに落ちた男性を助けようとした韓国人がいたという話を元にして創造したフィクションだ。報道でも「ドキュメンタリーではない」と明言してあったし、フィクションであるということは明白な事実である。

私はこの映画をまだ見ていないのだが、具体的にどう反日的だという批判が多数あるにもかかわらず、それに対する筋の通った反論は一切見たことがない。例えば、天皇陛下が見た映画なのだから批判してはいけないとか、日韓友好のための映画なのだから批判するなとか、そういう反論は見たような気がするが、理由はこれこれで、だから反日的という批判は的外れだ、というような論理に基づいた批判は記憶にないのだ。だから、ネットを見ただけで判断すれば、これは反日的映画なのだろう、と思い込むことになる。まあ実際どうなのかは知らないが。

(つづく)

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「子どもを埋めたい事件」とでも命名しておこう。説明しておくと、福島みずほ氏の公式サイト(福島みずほと一緒に国会へ行こう (福島みずほ公式ホームページ) )に「子どもを埋めたい人の気持ちは?」という記述があった。これ自体は物騒ではあるが単なるtypoか変換ミスの類だと思われるのだが、それをコッソリ直して何の訂正も謝罪も行わなかったから、大変なことになった。


掲示板やブログに急激に伝染している理由の一つはそこにあると思う。

一般論として、密かに直して問題点を隠そうという態度に反発する人は多いだろう。すると逆に、そういうことがあったと他人に伝えたくなるものだ。隠そうとするものを余計見たくなる、というのは人間の隠れた基本的な心理の一つなのである。

大流行には、もう一つの原因がある。福島氏が柳沢大臣の発言の揚げ足取りを執拗に行っているところにある。もちろん、揚げ足取りではなく意味のある主張だという人もいると思うが、私見としてはあのような前後の文脈を無視した曲解は言いがかりの域すら越えないただの揚げ足取りとしか感じられないのだ。そうなると、揚げ足取りをしている人の揚げ足を取りたくなるというのも、基本的な人間の行動パターンの一つだ。2ちゃんねるでよく「今日のおまえが言うなスレはここですか」という発言があるが、自分のことを棚にあげて…という感覚は、意外と万人に共通したもののようである。

2月6日には、「子どもを埋めたい人」を AltaVista で検索しても、該当の公式サイト1件しかヒットしなかった。

2007-02-06
20070212-01

これが、7日の午前中で約50件。午後になると265のサイトがヒットするようになる。

2007-02-07
20070212-02

さらに8日の午前中に800件、午後になると1,380件。ちなみに12日現在だと、22万5千ページがヒットするようになった。

2007-02-08午後
20070212-05

2007-02-12
20070212-06

Web のような「世界中に情報発信」の大原則は、間違ったら訂正するということ。間違えることが良いとは言わないが、エラーは不可避というのは定説であり、ユーザーインターフェースの分野でも常識である。間違えることを前提に全体を設計する位だ。

何をどう訂正したかを明確にすることで、訂正したという事実も広まる。本人は削除したつもりでも、情報は、世界中のブラウザのキャッシュに残っている。検索エンジンのキャッシュは、検索サイトに要求すれば消してもらえるかもしれないが、いずれにしても、何かを書いて公開していたという事実は誰にも消せないのである。たとえそのページがなくなろうと、サイトがなくなろうと、地球が滅亡しようと、事実はどこまで行っても事実なのだ。

失言を理由に大臣は罷免すべき、あるいは辞任すべきだと主張するのなら、「子供を埋めたい人の気持ちは?」のような表現をする人はどうなのだろう、という人もいるかと思う。中には、うっかりではなく、普段から思っていた本音が出てしまったのだろうと考える人だっているかもしれないのだが、実際、私もこういう誤記はいくらでもやったことがあるから、自らの経験から想像すると、単純ミスの可能性も否定はできないと思う。まあしかし、訂正、謝罪しても許さないという態度を自ら実践するのであれば、自分が間違えたときも訂正・謝罪しても許してもらえないと考えるべきだろう。それ故に密かに消そうとしたのだと思うが、ちょっと遅かったのだ。このちょっと遅いというのがネットでは致命的だ、という事例の一つになってしまいそうだ。

参考: AltaVista
老舗の検索サイト。Google で検索したら、余計なサイトが多数ヒットするように見えたので、今回は問題のフレーズが適切にヒットして出てくる AltaVista を使って状況をチェックした。

「情報の私物化の禁止」「情報の取捨選択は閲覧者が行う」という標語にはピンと来るものがある。私がNIFTY-Serve にプログラマーズフォーラム (FPROG) というコミュニティを立ち上げたのは、1988年のことだ。パソコン通信というサービスがあった時代のことだ。今月末で、@nifty 上でのプログラマーズフォーラム は消滅するが、このフォーラムというのは管理者にとって、「情報の私物化」との日々の戦いの場だったのである。

(※ なお、ここで言う「私物化」というのは情報を誰にも使わせない、という意味のソレではなくて、公共のスペースを私用に使ってしまうという方向の話なので、紹介したブログの話とは微妙なずれがあるのでご注意いただきたい。)

掲示板に来る人達は、基本的に、自分の興味のあることを自分の扱える範囲内で書こうとする。大勢が共有する場所だから、できるだけ多くの人に興味を引くことを書いてもらえるとベストなのだが、世の中そう甘い訳がない。話題が一般的なものになるとは限らないし、むしろ、内輪話になることが非常に多い。

今でこそ、インターネットに常時接続で固定料金という時代になったが、当時は1分いくらという制度で料金が取られるシステムが当たり前だったのだ。コンテンツにどの程度の有益な情報が含まれているかは、オーディオの用語を流用して、S/N比と呼ばれている。内輪話が多いというのは、S/N比が低いということになる。その場合、「金を払ってゴミを読ませるのか」と管理者が怒られる程度ならまだいいのだが、最後は誰も見に来てくれなくなる、というのが一番怖い。つまり、「ここは見る価値がない」と利用者が判断するのである。

では、どうやって掲示板を私物化させないか、多くの人に興味のある状態を保つにはどのように電子会議をリードすればよいか、というあたりが SYSOP のノウハウなのだが、それはおいといて、今回書きたいのは、今はインターネットが普通にある時代だということである。今のような時代では、むしろ、どんどん好きなことを勝手に書いてしまうというスタイルもアリではないか、ということが言いたいわけだ。

これはある意味、ネットの私物化なのである。結果的には私物ではなくて共有物に間違いないのだが、共有スペースだというのを意識するのではなく、インターネットに出ている情報は全部オレのもの、という感覚で使ってしまうのがミソである。

もちろん、公共性の高い掲示板でそういうことをすると、いくら情報の読み書きのコストが低くなったといっても、顰蹙を買うことは間違いない。そういう常識が必要な場では、それなりのネチケットが必要なのだ。逆に自分で開いたブログなんかだと、自分しか読まないメモ帳のつもりでどんどん書いてしまった方がお互いのためになることもあるんじゃないか、という程度の話をしているのである。今更言わなくても、こういうのは前世紀から言われていたことだが。

そういうことで、近藤氏がブログで「どうすれば興味のある話だけを読む仕組みが作れるか、と考えるべきで、どうしたら興味の無い話を書く社員の口をふさげるか、を考えてはいけない」と主張しているのはもっともで、激しく同感なのだが、ただ、そのためにどういう戦略を使えばいいか、と考え始めると、これは難問どころではない。

ちなみにフォーラムではそれをどう解決していたかというと、当時はネットで情報を探すにしても、対象となる場が少なかったから、まず場を決めておいて、そこからノイズを除くという戦略で何とかなったのだ。Web の場合、場の広さが尋常じゃなく広大なので、ノイズを除くよりも、有効なコンテンツを探す方が大変になる。まずそこから何とかする必要があるのだが、google のような検索エンジンであれ、はてなのような人が介したシステムであれ、やはり「必要な情報がなかなか見つからない」というのが現状のような気がする。

一つはっきりしていることがある。この難問を解決するためには、コンピュータは絶対に必要だ。そして、よいソフトも必要になる。それだけは間違いない。

CNET Japan Blog に「近藤淳也の新ネットコミュニティ論」というブログがある。割と面白いと思って読んでいたりするのだが、今回は、その中から「情報の私物化を禁止する」という記事に関して思ったことを書きたい。

前半は読んでいて結構びっくりした。どこにびっくりしたかというと、要するにコードを再発明するな、というようなことが書かれているのだ。これを最初に読んだとき、今は1970年なのか、と思ったのだ。

コードの再利用なんて話はパソコンがなかった時代から問題になっていた話で、どうすればいいのかという方法論も、専門家が熱く議論し尽してきたのものであって、当たり前というか、先人の知恵を拝借すれば今更考える必要もない話なのである。ただ、当時と違うのは、ブロードバンドで世界中が接続されているという現時点の環境だ。これによって何が変わるのか、という話が出てくるのかと思ったら、そうでもないので、かえってびっくりしたのである。思わず「はてな?」と考え込んでしまった。

北風と太陽という話をご存知だろうか。というと「失礼な」と言う人もいるだろう。この話を知らない人は日本では殆どいないと思う。では、その話を活かしているかというと、私は自信をもって「はい」と言うことができないのだが、この話の教訓は要するに「力で片付けるのでなく問題を解決しろ」ということだろう。

例えば、「自分のパソコンにコードが全て入っている」という状態には、確かになりがちである。ただし、それには原因がある訳だ。履歴管理用のサーバがないというのは論外としても、仮にソース管理のツールを入れておいても、コードは check out してローカルファイルを作業したりすると、その中間物が他から見えないということがある。意外とこの中間物に宝があったりするものだ。

では、ファイルシステムを共有して、ローカルにはファイルを置かせないようにすれば問題は解決するのか?見かけ上は解決するかもしれないが、それが北風流のやり方にならないように気をつけるべきだ。共有できないからしていないのか、それとも「したくない」という別の理由があるのか、ということである。

例えば、作業中のコードは見せたくないという人もいるのである。極端な話すぎるかもしれないが、「他の人が見るのならこの書き方はやめておこう」というような判断もあるかもしれない。実際、こう書いたらアノ人が何か言ってくるだろうからヤメ、みたいなことはない訳ではない。共有を意識して、コードがアグレッシブになれないとか、チャレンジングな処理が書き辛い、程度で済めばいいが(よくないけど)、おかしなフィルタがかかってしまうと、チームが妙な雰囲気になったりすることもあって、なかなか一筋縄ではいかないような気がする。

「ソフトウェア開発 = プログラミング + コミュニケーション」であると思う。

プログラミングのスキルは、プログラムを書きまくればある程度身につくが、チーム開発の場合は、プログラミングがうまいだけではゴールにたどり着けない。このコミュニケーションのスキルの一つが「情報の共有化」なのだ。今「スキル」と書いた通り、まさにこれは技能であって、誰でも最初から簡単にできる性質のものではない。まず、情報をどうやってうまく共有するかという技術を身に付ける必要がある。

近藤氏いわく、「情報共有に対する前向きな姿勢や理想像が必要」ということで、これは全く同感なのだが、問題は、どうすればそれが得られるか、ということなのである。実際は、そこが非常に難しい。

情報共有のシステムを作ることはもちろん重要だが、それだけにこだわりすぎて、何か本質的なことを見失ってしまわないように、気をつけなくてはいけないと思う。ツールはコミュニケーションの助けにはなるが、ツールがあればうまくコミュニケーションできる、というような安直なものでもないのである。

(つづく)

THE BIG ISSUE という雑誌というコラムを以前書きましたが、今回はその番外編です。

今日12/22、02:33からフジテレビの NONFIX というドキュメンタリー番組で「路上の未来~ホームレスライフ」が放送されました(今終わったところです)。この種のドキュメンタリーは過去にも何度か深夜番組で見た記憶がありますが、今回は、ホームレスの人たちが THE BIG ISSUE を売るという特集でした。

見覚えがある人もTVに出ていました。新宿西口にいた人です。一度は通り過ぎたのですが、次に前を通ったときに、疲れたのかタバコを吸っていたので妙に可笑しくなってそこで買ったのです。そりゃ一日中立っていたら疲れますね。

第6回に、「毎回1ページでも2ページでもいいから「私はこうしてホームレスになった」というような独白記事があったら」と書いたら、販売員のストーリーが毎号1ページ掲載されているというご指摘がありました。FROM THE STREETS というコーナーです。1ページのインタビュー記事です。

私は毎号買っている訳ではないので、今から書くのは19,20号の2つしか見ていません。で、率直に言いますが、申し訳ないのですが、私には全然面白くないのです。1ページにうまくまとまった記事ですが、簡単に言えば「ホームレスだけど頑張ってます」という、ただそれだけの内容です。あっそう、としか言い様がなくて、これなら現場で納期が1か月も遅れている所で担当者に逃げられてどうしようか、というSEの話の方がよほどリアルなのです。

今見たテレビの番組はそれに比べて実にリアルでした。THE BIG ISSUE の売り上げ程度でどうやって暮らせるのだとか、その前はどうやって食っていたのかとか、販売員が350人いて、その中で自立できた人はまだ20人しかいないとか、そういう話が出てくる。THE BIG ISSUE の紹介記事は「人生がおかしくなった」みたいに書いてくれるけど、どうして、どんな風におかしくなったのか、というのが分からないのです。それはインタビューというスタイルの限界ではないかと思います。

松井計さんが書いた「ホームレス作家」という本があります。この方はホームレス失格だと自称しています。確かに路上生活の話は出てきますが、ホームレスというには何か違和感があります。でもまあリアルなのです。だからそういう意味では面白い。

これが本人が自分で書くのと、インタビュアーに伝えるということの、差なのかもしれません。
前回書いたのは、インターネットを使って情報を送り手から受け手へ直接配信すれば、途中のコストが限りなく削減できるのではないか、というアイデアである。このアイデア自体は間違っていない。

この種のアイデアで問題になるのは、どうやって料金を回収するかだ。20円を徴収するために銀行振り込みを使ったりしたら、振込み手数料の方が高くなってしまって、トータルコストは200円どころではなくなってしまう。クレジットカードを使う場合も、手数料がどこかで加算されていて、同じような問題が発生する。

実はこのような小額を支払う仕組みは、マイクロペイメントと呼ばれている。料金回収の手数料の問題は、誰かが一括してとりまとめることで解決することができる。興味のある方は、マイクロペイメント、もしくは小額課金、というキーワードで検索すれば、解説しているサイトがたくさん見つかるはずだ。

THE BIG ISSUE の場合、考えなければならないことは他にもたくさんある。例えば、それを買うときにちょっと話をしたりとか、そういった機会が生まれるのだが、そういったコミュニケーションを重要視する人がいるかもしれない。逆に、インターネット販売にすることで、面と向かって直接対話できなくても、掲示板による新たなコミュニケーションの場が生まれる。

厳密にいえばインターネット販売とは直接関係ない話だが、今までの話は何だったのだということを一つ書いておくと、あくまで私見だが、あの雑誌がまるごと電子化されていて、検索、引用が簡単に出来るのなら、200円どころか 300円出しても構わないと思う。つまり、データとして検索できるとか、簡単に引用できるというのは、それだけでも物凄い価値なのだ。

そのためには、パソコンに保存した全ファイルを検索するような仕組みが必要になるのだが、次期OSになるとそのような機能が標準で付いてくるらしい。実はフリーソフトを使えば、そんな程度の機能は前世紀の頃から実現できているのだが、その話はまたの機会に。

まあ逆に、そんなのどうでもいいけど、ネットで200円って高いなぁ、という人もいるかもしれないし、そのあたりは微妙な話かもしれない。

最後に、もう一つ注文を付けておきたいことかがある。THE BIG ISSUE はホームレスの人たちを支援する、という名目だった筈だ。ところが、この雑誌をどう読んでも、なかなかホームレスの人たちの話は出てこないのである。そういう意味で、なぜかある意味ふつーの雑誌、なのだ。

もしこの雑誌に、毎回1ページでも2ページでもいいから「私はこうしてホームレスになった」というような独白記事があったら、毎回200円出してでも買っていたと思う。現実的には、そういうことが書ける人が少ないのかもしれないが、逆に、そういうことを知りたいという人は大勢いるのではないか。

誰でも情報発信できるようになった現代で、もちろん表現力も重要かもしれないが、もっと重要なのが内容そのものだ。インターネットは、書き手が一次情報を直接伝える場を提供し、その結果、メディアが慣習的に隠そうとしてきたリアルな世界を見ることが可能になった。そういう性質を活かせないというのは、もったいない話だと思うのである。

最近は自治体なども含めて、ホームレス支援のプロジェクトは増えつつあるようだが、インターネットをうまく使ったアイデアがどんどん出てきてほしいと思う。

先頭|(5)
インターネット化で激変が期待できる分野の一つが情報産業だ。ブロードバンド時代の今となっては、情報そのものを配布するコストは限りなく無料に近い。

インターネットで有料ページで公開すればどうか、あるいは有料ダウンロードにすればどうか。インターネットで情報そのものを直接発表すれば、印刷コストもいらないし、できた雑誌の運送コストもいらない。販売員の人件費も…あれれ?

となっては訳が分からなくなってしまう。THE BIG ISSUE はホームレスの人達が販売して手数料を受け取ることで成立するのだから、そこに工夫が必要になる。

キャンペーン中の缶コーヒーやペットボトルに、ネットとか携帯でプレゼントの応募をするためのIDシールが貼っているものがある。あのような感じで、キーワードを販売するというのはどうか。ただ、個人的には、そういう工夫はどうも気に入らない。労働を作るために、本来必要のない仕事をわざわざ作るというのは、あまりよいことではないと思うのだ。

そのような無駄を排除する最も単純な方法は、ホームページを持ってもらうことだ。そこからダウンロード販売とか、あるいは、アフェリエイトみたいな感じで扱うことにすればいい。仕組みとしては簡単で、既にある技術だけで実現可能だ。

しかしこれも実際にやろうとすると難問である。ホームレスの人たちのホームページというのは、現実的には殆どないだろう。私は見た記憶がない。住所不定だと、プロバイダに加入するのも難しいだろうし、そもそも、ホームレスなのにどうやってホームページを作るのだというか、回線確保するのだとか、パソコンはどうするとか、支払いが発生したとして、振込み口座はどうするとか、ややこしい話がいくらでもあるのだ。

1冊売っていくら、というようなシステムだと、インターネット喫茶で作業したら足が出てしまいそうだし、そもそも、個人が特定できないような状況でホームページを作ることができたら、悪用されたときの問題も考えておく必要がある。もっとも、ホームページを作成するスキルがあったら仕事がいくらでもあるのでは…というあたりで何かジレンマに陥りそうな気もするが。

(つづく)

先頭|(4)|(6)
ところで、誰も指摘しようとしないのは予期した通りなのだが、なぜこの話のテーマがインターネットなのか。実は今回書きたかったのはそのことだ。

ある雑誌が仮にある人にとって 20円の価値しかないというのは、それは逆に、20円の価値があるという事実でもある。つまり、それは 20円なら売れるのだ。しかし、現実的に、雑誌を20円で売れというのは無茶な話だ。モノを販売するには、製造原価以外のコストもかかるからである。

ペットボトルのお茶は、容量が少ないほど過激に割高になる。具体的な金額は分からないのだが、お茶そのものの製造原価に比べて、輸送費などの上乗せする流通コストが高いためらしい。

印刷物も同じで、インクや紙のような材料費に対して、固定費が無視できない。部数が少なくなればなるほど、コストは劇的に割高になる。コミケとか行けば分かるように、同人誌の世界、30ページで1000円なんて珍しくも何ともない。いや、実は行ったことはないのだけど、まあそれはおいといてだ。

だから、サンデー毎日とTHE BIG ISSUE をページ単価で比較したのは、その時点で無茶な話なのであり、むしろ、THE BIG ISSUE が200円で販売できるというのは、コストを考えるなら奇跡なのかもしれない。

もちろん、製造原価に比べて安いという事実と、買う人にとっての価値は別の話だ。とはいっても、部数が少ない雑誌が割高になるのは宿命ではないか、仕方ないではないか。そういう結論になってしまうのは避けられない。しかし、本当にそれを打開できるアイデアは何もないのか。

ここで登場すべきは、インターネットによる電子出版なのである。ほら、やっとテーマ通りの話になった。

つまり、ホームレスの人々を支援するのにインターネットは使えないか、という話をしたいのだ。いまや8割の世帯がインターネットを使っているという。インターネットは、インフラとしては既に趣味の領域からあって当然の地位に昇格しているのだ。

(つづく)

先頭|(3)|(5)