前回の投稿に引き続き「頑固親爺の徒然手記(難問解決への道標) 報道の精神はどこにある 」への感想である。


G氏のご意見によれば、小田氏は、いじめを抑止するための方策を3点挙げていると指摘されている。

G氏は小田氏が「いじめはなくならない」と考えていると主張されていたから、つまり、小田氏は「いじめはなくならないが抑止できる」と考えていると理解されているのだろうか?


個人的には、この種の問題は抑止できれば十分で、残りはレアケース・事故として扱うのが現実的だと思うので、そういう解釈ならそれで構わないと思う。それはそうとして、その3点とは何かについて引用させていただきたい。

いじめを抑止するための方策に関して次の3点挙げておられる。
 その1は、本能的な欲望を抑制する機能は大脳皮質がつかさどっているから、躾や教育等による大脳皮質へ働きかけが重要であること。
 その2は、いじめには必ず罰を与えること。
 その3は、幼児期のスキンシップが大切であること。

皆さんはこの文章の意味が理解できただろうか?


恐縮ながら、私には「その1」に書かれている内容が分からなかった。幸い、小田氏の著書にこれに対応すると思われる箇所があったので、原著を元にして自分なりに要約したい。私の解釈としては、この本は、いじめを抑止する方策を次のように指摘していると考える。


いじめを抑制するためには、しつけや教育が重要である。具体的には、

1. いじめには必ず罰を与える
2. 同情心を育てる
この二つが重要である。


1. は原文では次のようにより具体的なことが書かれている。

弱い者を攻撃すれば、もっと強い者から攻撃をされるという怖さを教えることである。

(小田晋著、大人社会のいじめを心理分析しよう、p.62)


2. は、いじめられている人に対して「かわいそうだ」という心を持つことができれば、いじめは抑止できるという話だ。もっともだと思う。しかし、どうすれば同情心が育つか。小田氏は、幼児期の母親の影響が重要だと主張なさっている。

母親の腕に抱かれ、やさしく話しかけられることで子どもの心は落ちつき、情緒的な部分が育っていく。

(同書、p.84)


なお、これらがいじめを「抑止する方策」である点に注意が必要である。これはいじめる側の立場にならないための提案であって、いじめられている人への自衛策ではない。幼児期のスキンシップ云々という話は、現にいじめが発生する状況になってしまったら手遅れなのだ。


では、いじめられる側はどう対策すればよいか。もちろん、この本はそこも具体的に述べているのだが、最初に紹介したように、この本は大人社会におけるいじめを想定して書かれている。だから、今回の中学生の件に適用することは難しいかもしれない。


例えば次のような対策が提案されている。

会社や周りの人間との間に距離を置いてみる (p.101)
思い切って自己主張してみる (p.102)

自己主張というのは本文中では「喧嘩」という表現もされている。「モーニング」というマンガ雑誌に、先日、いじられ役のキャラが年に一度ブチ切れてクラス中を凍りつかせるという話が出ていた。確かに普段おとなしい人が怒ると怖いものだ。


(つづく)


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前回の投稿に引き続き「頑固親爺の徒然手記(難問解決への道標) 報道の精神はどこにある 」への感想である。


いじめはどうすれば防止できるか。この重大なテーマに対して書かれた小田晋氏の著書がある。G氏は紹介したブログで、これ対して持論を主張なさっている。

この大学の名誉教授で、国際医療福祉大学教授の小田晋先生の著書に、「大人社会のいじめ心理を分析しよう」と題した本がある。

重箱の隅をつつくようで甚だ恐縮だが、小田晋氏の著書は「大人社会のいじめを心理分析しよう」(大和出版、ISBN4-8047-6070-9)だ。「大人社会のいじめ心理を分析しよう」という本は、私が探した限りでは地球上には存在しないと思われるので、探して読もうという人は注意してほしい。


まず、この本が「どうすれば大人社会のいじめを防止できるか」というテーマに関して書かれているという点を指摘しておきたい。それは、この本のまえがきには『「いじめ」防止のための処方箋として』(p.3)と書かれていることからも容易に想像できる。


G氏の主張によれば、はこの本には次のようなことが書いてあるという。

人間に限らず脊椎動物が基本的にもっている3つの欲求は食欲、性欲、攻撃欲で、いじめは、この攻撃欲の発現であって、生命の存続に不可欠なものとされている。

最初にこの文章を見たときには、いじめが生命の存続に不可欠ってどういう意味なのだろうかと驚いたのだが、小田氏の原文には次のように書かれている。

いじめというのはつまり、他者に対して肉体的、あるいは精神的に攻撃を仕掛ける行為である。そしてこの攻撃性がなければ、いかなる脊椎動物も生きていくことはできない。

(小田晋著、大人社会のいじめを心理分析しよう、p.30)


つまり、小田氏の主張は攻撃欲は、生物が生きて種を残すためには不可欠な性質の一つだということであって、いじめが不可欠などという話ではない。そもそも、この本は「いじめ」防止のために書かれているのだから、いじめが防止できるという前提がないとおかしいだろう。しかし、G氏は次のように主張なさっている。

教授も、攻撃欲がある限りいじめはなくならないとの考えである。

一般論として、どのように本を理解するかは読者の自由に委ねられていると考えるべきだろう。だから、G氏がそう解釈されるのは構わないと思う。ただ、私には、そのようなことが一体どこに書かれているのか理解できなかった


私見としては、むしろその逆で、小田氏の考えを要約するならば、「いじめ行動が人間の本質的なものである」(p.33)ことを承知した上で、「犯罪という認識をもたせ」(p.37)たり、文化という「攻撃の抑制機能」(p.40)を刷り込むことで、いじめに対応できる、ということではないかと解釈したい。


「対応できる」というのが「なくならない」という意味なのだと仰るのなら、そうですかとしか言いようがないが…。


いじめ自体はある意味昔からあった。少なくとも30年以上前から話題になっていた。ただし、現在問題になっているような「いじめ」は、より最近になって急激にクローズアップされてきた問題である。また、さらに遡って昭和の初期、あるいはそれ以前に現代のような「いじめ」が問題になることは希であった。


もしいじめが人間の本質的な行動で、なくすことのできないような性質を持つなら、昔から今のようないじめがあったはずである。いじめが現代に特有の問題であるのなら、それは現代社会にいじめを誘発する要素が現れた、もしくは以前は存在した「いじめを抑止する要素」が失われたと考えるのが合理的だと思われる。


実は、昔はいじめを抑止できていた理由がこの本に出てくる。小田氏の主張によれば、例えばそれは「ボスの存在」や「管理社会」で説明できる。ただ、今回これについて詳しく述べると話題が逸れすぎるので、省略させていただく。


(つづく)

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So-netブログの新機能 (1)

テーマ:

So-net ブログが7つの新機能を登場させるということでキャンペーン中。便乗すればポイントがもらえるというので、ちゃっかりと乗っかることにした。7つの新機能って言い回し、何か温泉天使【古】とかプリキュア7【謎】みたいなノリだが、最初の新機能は、これだ


タグとキーワード



いや、実に素晴らしい。タグだよ。キーワードですよ。今までなかったのが不思議な位だ。特にタグとキーワードを分けたところが…まてよ、タグとキーワードの違いって何だ?


一般論でいうなら、タグというのはそのコンテンツの性質を示す。これに対してキーワードは、コンテンツに含まれている要素、もしくはより具体的な個々の言葉を指すことが多い。例えば、コンテンツの中に実際に出てくる言葉をキーワードとして自動的に抽出したりする。


例えばぬこの話を書いた記事があるとしよう。この記事のタグに「ぬこ」と付けようという判断は適切である。それるによって、「ぬこについて知りたい」と思った人が「ぬこ」というタグで検索することができる。このとき、本文には「ぬこ」という言葉が一切出てこなくても構わない。内容がぬこに関することであればいいのだ。


「ぬこ」というのは具体的すぎてイメージがわかないかもしれないが、例えば「時事寸評」というタグを付けた記事本文の中に、「時事寸評」という言葉が一度も出てこないことはありがちだし、日記の中に「日記」という言葉が出てこなくても別に違和感はなかろう。このようなコンテンツ全体の性質を表現するキーワードが「タグ」なのである。


ていうか、まあどうでもいいんだな実際は。明確に使い分けられている訳ではないし。もちろん、システム上は区別されているはずである。例えば、私のブログのソースを見たら、最初の方にこんな行が出てくる。


<meta name="keywords" content="ニュース,事件,事故,話題,視点,社会 " />


これは META タグと呼ばれている情報の一種だ。タグなんて言葉を使うとややこしいかもしれないが、とりあえずこれによって検索エンジンが判断に迷わずに済む、といわれている。


では、タグやキーワードを付けるとして、具体的にはどういう手順なのか。このあたりは、So-net の公式サイトに丁寧に解説されているから紹介してみよう。


20080408-01

まずは自分の記事やファイルにタグをつけるましょう。

_| ̄|○


魔性の女?


いやいやいやいや、スルー力発動、まずブログの管理画面を開く。「設定」タブをクリックすると、「基本設定」という画面が表示される。ここで「ブログのタグ」という所に、タグを1つ書いて「タグの追加」ボタンを押すだけだ。


キーワードも同じ画面で指定することができる。少し下にある「プログキーワード」に、カンマ区切りでキーワードを並べるだけでokだ。


ていうか、何で操作を同じにできないのだろうか?


ということで、とにかく問題はキーワードやタグを付けるという作業の煩わしさである。すごく面倒なのだ。何とかならないのか?


ということでここで出てくるのが Web2.0 である。それって死語じゃないかという不届きモノがいるかもしれないが、実はそういう時に、ブログとかWebページを読んだ人が勝手にタグやらキーワードを付ける、というのが例えば「はてなブックマーク」のようなサービスなのだ。Web2.0 的には集合知、ということだろうか。自分の気付かなかった視点でのタグが付いたりするので副作用も期待できるのだが、もちろん弊害もある。勝手にタグを付けられるということは、付けて欲しくないようなタグも付いてしまったりするのだ。


いまいちまとまってないが、あと6つ機能が出てくるはずなので、多分次回に続く。

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中途半端だが、どうも続かなくなってしまったので、とりあえずこのネタは一旦終わらせたい。最後にもう一度 livedoor blog の規約を見ておきたい。

利用者が著作したウェブログとそれに付随するコメント及びトラックバックは当該ウェブログを著作した利用者に著作権が発生するものとします。

ここで、コメント及びトラックバックを書いた人は事実上特定できない、という前提にしておく。原稿用紙に書いた小説は、筆跡や署名、所在、発表された書籍など、様々な付随情報によって著作者を特定することができる。しかし、ネット上でメールアドレスに相当する文字列だけで、しかも本人の特徴すら見られないよう短い文章をもって、著作者を特定することは極めて難しい。そういう意味である。

※善意に解釈すれば、メールアドレスや投稿者の署名をもって、著作者を推測することはできる。

著作権法では、著作権は著作者に発生することになっている。法に反した利用規約は意味をなさないから、この利用規約は、コメント及びトラックバックの著作者をブログを著作した利用者とみなす、と解釈すべきだろう。

ただ、実際にコメントを書いた人とブログの管理者とは異なることがある。その点、私見としては、この規約には無理があると思う。もちろん、livedoor blog の思惑と私の想像は違っているかもしれない。

ブログのコメントを管理者が削除しても著作権的にはokだろう、という話を今まで書いてきた訳だが、それ以外の場合はどうか。

コメントを削除する場合
 特に許可はいらない。

他にコピーする場合
 著作権者の承諾があればok。

一部修正する場合
 著作者の承諾があればok。

他のブログにコメントごとコピーするような機能が用意されているブログがある。ココログや Jugemは、ブログをエクスポート(ダウンロード)すれば、コメントの内容も全部ファイルに保存できる。これをそのまま別のブログにインポートしたときに、コメントも含めて登録されたら、コメントも複製したことになる。このとき、もしコメントの著作権が「実際にコメントを書いた人」にあったら、承諾がないと複製権の侵害になるおそれがある。

ブログの機能としてコメントを自由に付けられるように設定していたり、あるいは、サイトに掲示板を設置しているような場合、著作権の扱いを誤ると、想像以上にややこしいトラブルに発展する危険がある。それだけは頭に入れておくべきだと思う。

なお、今回書いてきたことは、あくまで私の考えに過ぎないので、念のため。実際に法的な問題に発展した場合には、責任をもてないので、参考程度に考えていただければ幸いである。本当にトラブルになりそうな場合は、弁護士に相談して欲しい。
コメントを書く側の視点に立ってみよう。どうすれば、コメントを書いたのが私であることを証明できるか?

IPアドレスから投稿者を追跡できるのでは、という話を以前紹介した。確かにサーバーにIPアドレスの記録が残っていれば、プロバイダの情報などと照らし合わせてコメントを投稿した人が特定できるかもしれない。ただし、コメントにIPアドレスが直接表示されているわけではないし、サーバーにIPアドレスの記録がいつまでも残っている保証もないのだ。

現実的には、コメントに著者名を書いておけば、その人が書いたものとみなす、といった程度の対応は可能だろう。ただし、個人を特定できる程度の情報が書かれていないとダメである。また、署名はその人が書いたことを推測するための情報になるが、その人が「私は書いていない」と主張したり、他の人が「実は私が書いた」と言い出した場合には困る。

こうしてみると、誰でも書けるような場所に置かれた著作物の著作者が誰か、という問題は結構シビアだということが分かる。ただ、これを割と簡単に解決する方法がない訳ではない。例えば、トラックバックがそうだ。

トラックバックは、他のページを参照するための情報を指定して、そこを見てください、という仕組みである。便宜上、本文の要約などをトラックバック先にも掲示することがあるが、本文が別のブログにあるということが重要なのである。なぜなら、そのブログの記事を書ける人は限られているからだ。

ブログの開設者として登録するときには、住所や氏名など、ある程度の個人情報を入力しなければならない。これらは本人を特定するための有力な情報である。もちろん、厳密に言えば、それだって詐称されている可能性は否定できない。しかし、誰でも書けるという状況に比べたら、個人の絞込みが、次元が違うレベルで達成できていることになる。

従って、ブログの記事本文の著作者は、そのブログを開設した人とみなしてよいだろう。つまり、著作者が特定できるということである。

※ブログによっては、記事を書く人を指定することができる場合もあるが、この場合も基本的に、原理としては同様のことが言える。

※ブログを廃止したり、または、ブログを管理する会社がサービスを終了したような場合には、その後の著作物の扱いに深刻な影響を及ぼすかもしれない。ネットにおける著作物に対する、今後の課題だと思う。

(つづく)
ブログに付いたコメントを勝手に削除すると、文句を言われるのではないか。そういう心配はあると思う。なぜ削除した、という程度は問い合わせが来るかもしれないが、その前に、訴えられたりしないのか、ということを考えてみる。

先にお断りしておくが、これは私の個人的な見解なので保証は致しかねる。話が違うと後で言われても責任は負いかねるので、そのつもりでご理解いただきたい。ということで書かせていただくなら、現実的に、コメントを勝手に消したという理由で訴えられることはまずないはずだ。というのは、訴えてもまず勝ち目がないのである。

表現の自由がどうとか言ってゴネる人がいるかもしれないが、そもそも、他人の管理しているブログに書く権利自体が、あるかどうか疑わしい。むしろ、ブログを荒らして管理者の編集権を侵害したという理由で逆に訴えられる、という流れの方が、筋は通っているような気がする。

では、コメントが著作物だと仮定して、それを勝手に削除することは、著作権の侵害にはならないか?

著作物を著作権者の許可を得ずに複製するのは、複製権の侵害になるおそれがある。しかし、著作権法には複製する権利は出てくるが、著作物を非公開にする権利とか、公開された著作物をそのまま公開し続ける権利というのは定めていないのである。

※出版権というのはあるが、ブログのコメントに適用するには性格が違いすぎる。

但し、コメントを部分的に切除したら著作者人格権の侵害になるという話は以前書いた通りだ。全部消してしまう場合には、それも該当しない。

もっとも、法的に問題がないとしても、コメントを勝手に消された側としては、面白いものではないだろう。なぜ消したかと理由を問われるかもしれない。被害者らしき誰かが「消せ」と言ってきたので、私としては責任を負いかねるので消した、というだけでも理由としては十分だと思う。

ニフティサーブでは、発言を勝手に削除したということからトラブルになることがあった。会員規約では管理者が発言を勝手に削除していいことになっている。しかし、それでも納得できないという人はいるのだ。こんな所に書くのも何だが、都合の悪い言論封殺が目的だとしか思えないような、一方的な削除もあるにはあったのである。

そういう場合、なぜ勝手に削除するのか、ということで電子会議上のバトルに発展する。しかし、ただ、それだけの話だ。場が荒れても、削除したことを理由として裁判や事件になったことはなかったと思う。もちろん、場が荒れたら誹謗中傷の類の発言も飛び出してくる訳で、そこから発展するとどうなるか分からないが。少なくともそれは削除したことよりも、侮辱とか名誉毀損ということが問題になっているわけだ。

今から十年以上前だと、今のブログのように自由に意見を書けるオープンスペースは普及していなかった。パソコン通信の掲示板等は、ある意味公共的な性質も持っていたのだ。今では個人で簡単にインターネットに掲示板を開けるのだから、どうしても発表したいなら自分で場所を作って書いてくれ、で済む訳である。どうしても一連の発言と関連させたいというのなら、トラックバックという手もあるのだし。

ということで、何か言われたら消せ、というのが、かなり安直だが逃げの一手としては割と効果的だと思う。もちろん、心配なら、万全を期すという意味で、ブログのどこかに「コメントは都合により予告なく削除することがありますので、あらかじめご了承ください」とでも書いておけばなおよい。

なお、削除したからといって、最初からそこに無かったことになるわけではない。一定期間公表されていた、という事実は残るはずだから、その点は注意が必要だ。

ところで、ブログは第三者からのリアクションがあってこそ成立するシステムだ、という考え方もある。その場合、勝手にコメントを削除するような一方的な行動が望ましいのか、という意見はあるだろう。私見としては、ブログのコメントのように、責任が書いた人ではなく管理者に来るリスクが大きい場合は、一方的に削除するのも妥当ではないかと思う。

まあ実際にそのようなトラブルに巻き込まれる確率は極めて少ないかもしれないのだが。

(つづく)
今回のテーマ、のほほんとここまで読んできた人が結構いるかもしれないが、ところで、皆さんはもしかして自分のブログを持っていたりするのだろうか? だったら、あなたも数百万円支払えという裁判に巻き込まれるかもしれない、という話を今している訳で、のほほんとしている場合ではないのだが。

ブログにヤバいコメントが書き込まれた場合、誰の責任になるのか。もちろん、基本的には書いた人の責任である。しかし、ブログのコメントを書いた人を特定するのは難しいと指摘した通りだ。すると、責任がブログの開設者に回ってくる可能性は高い。

ところで、2ちゃんねるの投稿で逮捕者が出たことがあったと思うが、2ちゃんねるは投稿者の情報が分からない筈なのに、なぜ投稿者が特定できたのか? 詳細は知らないので想像だが、多分、IPアドレスから追跡したのではないかと思う。

IPアドレスって何だ、という人がもしいたら、インターネット上の機器に割り当てられた識別番号だと思ってくれればよい。簡単に言えば、IPアドレスと時刻を指定すれば、その時点で世界に一つだけ該当するパソコンがある、というような感じだ。実際はNATのような仕組みもあるので簡単ではないのだが、一応、機器が特定できるというのは重要な情報になる。

インターネットにダイアルアップで接続するような場合には、同じパソコンからアクセスしても、毎回IPアドレスが変わることがあるが、プロバイダ側で記録しておけば、いつからいつまでどのアカウントにIPアドレスを割り当てた、という情報が残っているので、時刻情報があれば、やはり機器は特定できるのである。

ただ、IPアドレスからコメントを書いた個人を特定するためには、もちろんコメントを書くのに使われたIPアドレスの情報が必要だし、場合によってはプロバイダの接続記録が必要になったりするので、現実的には、ブログの開設者レベルでは到底知ることができないと考えた方がいい。

とか書いたらビビる人が続出するかもしれないが、基本的には、ヤバそうなコメントがあったら削除すればいい。特に、被害者から消せという要求があった場合に消してしまえば、まず問題にならない。もちろん、連絡してきた人が本当に被害者なのかとか、何をもってヤバいというのか、google がキャッシュしていたらどうなるのか、等の問題はたくさんある。

では、コメントをブログの管理者が勝手に削除しても構わないのだろうか?

(つづく)
前回 SNS という言葉をとーとつに出してしまったが、これはソーシャルネットワーキング某、と呼ばれるものだった…と思う。自分でも何なのかよく分かっていないのだが、要するに、友達から紹介されないと入れない秘密結社のようなものである。某というのは、サービスなのかサイトなのかシステムなのか分からないので、早い話がごまかした。

SNSには、匿名の第三者は読むことも書くこともできない、という特徴がある。もっとも、参加時に個人が特定できるほどの個人情報が必須かどうかは定かではない。今のところ、私が参加しているSNSは、十分以上な個人情報を提供しないと入れない。この場合、運営側からは、コメントを書いたのが誰なのかということを、個人レベルで特定できるのである。

@niftyのフォーラムという場にも似たような性質を持っている。書いた人が誰なのか、IDで特定できるのだ。もちろん、それが実社会の誰なのか、第三者には知るよしもないが、ニフティ株式会社が把握しているということが重要だ。ちなみに、それが誰かなんて情報は、フォーラム管理者ごときでは全くアクセスできませんので、念のため。

少し前に、2ちゃんねるで損害賠償訴訟があった。今もあるのかもしれないが。2ちゃんねるに掲示された文章が元で損害が発生したから、賠償しろ、という話である。訴えられたのは発言者ではなく、2ちゃんねるの管理人である。なぜかというと、発言者を特定するのが難しいというよりも、発言者が発言を削除できないからかもしれないが。

もっと昔の話を。その昔、ニフティサーブで損害賠償訴訟があった。FSHISO 事件として有名である。この裁判で訴えられたのは、運営会社のニフティ、フォーラムを管理していたSYSOP、問題の発言を書いた発言者、この3者だ。

発言者を訴えることができたのは、実際のところ、被害を受けたと主張した人が発言者を知っていたからだが、それ以上に、ニフティサーブの場合、発言者を特定できるようなシステムになっていたという事実が重要である。

なお、この裁判、一審では3者ともに損害賠償しろという判決が出たが、高裁でニフティおよびSYSOPには削除の義務はないということで、発言者だけに損害賠償を支払えという内容に変更されていることに注目しておいて欲しい。

FSHISO事件の損害賠償金額は、数十万円というオーダーである。これに対して、2ちゃんねる訴訟では、例えば管理者に400万円支払えという判決が出ている。損害の性質による差も非常に大きいと思うが、もう一つ無視できないのは、@niftyという閉じた世界と、インターネットという全世界との差ではないかと思う。

ちなみに、現在はいわゆるプロバイダー責任法があるため、当時とはかなり状況が異なっていることにも注意が必要だ。

(つづく)
コメントが著作物であるなら、著作権はまずコメントを書いた人に発生するはず。ではなぜ、コメントの著作権をわざわざブログの作者に帰属させなければならないか。SNSとは違って、ブログのコメントには大きな落とし穴がある。ブログの場合、コメントを誰が書いたのかを特定することが、非常に難しいのだ。

例えば Ameba Blog にコメントする場合には、名前とURLを書くことになっている。多分、書かなくても構わない。書かないと登録できないシステムもあるかもしれないが、デタラメを書けば同じことだ。この種の情報がない場合は、誰が書いたのか判定困難だ、というのは分かると思う。

では、これらの情報が書いてあったらどうだろうか。他のブログだと、さらにメールアドレスを書く欄がある場合もある。流石にメールアドレスのような個人情報まで書いたら個人は特定できるのでは?

と誤解している人がいるのではないか。確かに、確実とはいえなくとも、個人が特定できる可能性は高まる。しかし、それらの情報から個人が特定できても、それはコメントを書いた人を特定したことにはならないのである。

例えば誰かが、名前を「フィンローダ」、URLを「phinloda.ameblo.jp」と指定してコメントを書いたら、それは私の著作物になるのか? ならないとすれば、一体それは誰の著作物なのか? そのことをどうやって証明できるのか?

考えて欲しいのは、そういうことだ。名前やURLは、書き手が誰かを想像するには十分な情報だが、それを書いたのがまさに本人であることを全く保証していない。これらの文字列は、誰でも好き勝手に指定できるため、個人情報であると同時に、その個人の行為であることを証明できないという、不可思議な情報という立場を超えることができないのだ。

もちろん、大抵の場合、コメントはこれらの情報に対応した本人が書いている訳で、内容も問題なければ全然問題ないのである。問題になるのは、このコメントが元で犯罪事件に発展したり、損害賠償の訴訟になってしまうような場合だ。その場合、コメントの責任は誰が負うことになるのか?

(つづく)
再び著作権の話に戻る。まず、livedoor blog の利用規約を再度引用させていただく。

利用者が著作したウェブログとそれに付随するコメント及びトラックバックは当該ウェブログを著作した利用者に著作権が発生するものとします。

これに反発する意見がいくつかあった。要するに、コメントを書いた人の著作権はどうなるのだ、ということだ。私も、このシリーズの初回、そういうルールのブログにはコメントを付けないと書いた。

なお、コメントの文章が著作物かという話には今回は触れない。著作物であるという前提で話を進める。

もちろん、コメントだろうが何だろうが、基本的に著作権は著作者に発生するに決まっている。著作権法でそう決まっているから、しょうがない。しかし、著作権は譲渡できる。だから、コメントを書いた人に著作権が発生したとしても、もし「コメントの著作権はブログの作者に帰属する」というような約束事があれば、その約束は有効になるだろう。

この場合、著作権はまず著作者に発生し、すぐにブログの作者に譲渡されたことになる。ただ、そういう規約にするのなら、普通は「発生する」ではなく「帰属する」と表現するものだが。実際に、著作権が著作者以外の第三者に帰属する例は、いくらでもある。例えば、雑誌の読者コーナーに応募したネタとか。

ここで問題になるのは、そのコメントを改変していいか、ということである。copyright という言葉からも想像できるが、著作権とは基本的にコピーする権利だと覚えておくとよい。コピーと改変は全く別の話なのだ。著作権法第二十条に、次のように書いてある。

著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。

この権利は同一性保持権と呼ばれている。同一性保持権は、著作権ではなく、著作者人格権という別の権利に含まれている。つまり、著作権が譲渡されたとしても、自分が著作者でない限り、勝手に改変することはできない

ということは、コメントの著作権がブログの作者に譲渡されたとしても、それを勝手に改変することはできないのである。切除もダメである。なお、ここで「切除」というのは、コメントの文章の一部をカットすることを意味する。全文を削除するのは切除には該当しない。全部なくなってしまったら、結果的に著作物を使っていないことになるから、もはや著作権法の出る幕ではないのだ。

livedoor blog の利用規約は、そう考えると実に微妙である。「著作権が発生するものとします」という表現は、「著作者とみなします」と解釈することも可能なのである。前述のように、著作権は著作者に発生するに決まっているからだ。

もしブログの作者がコメントの著作者でもあれば、ブログの作者がコメントの内容を自由に変更していいことになる。ただ、私見としては、コメントを著作したのはコメントを書いた人だ、という主張の方が筋が通っているような気がする。

私はCマガジンという雑誌に「フィンローダのあっぱれご意見番」という連載コラムを書いている。だから、このブログは「裏ご意見番」という名前なのだが、それはまあおいといて、このコラムの内容は、@niftyのプログラマーズフォーラムにも少し遅れて掲載している。(ただ、申し訳ないが、@niftyの会員でないとフォーラムに掲載されている内容を見ることはできない。)

Cマガジンの記事とフォーラムの記事を比較してもらえば、細かい内容がかなり違っていることが分かるだろう。Cマガジンは編集の人が細かい表現を変更しているのだ。雑誌などの出版物では、全体としての表現を統一するために、ルールが決まっていたり、あるいはページ数の都合でカットする必要があったり、ということで、原稿がそのまま使えることは少ないのだ。そこで、編集部の出番となるのだが、もちろんこれは、著作者が了承しているから行えるのであって、無断で変更している訳ではない。

ちなみに、この連載の場合、私としては変更を了承というより、好きなように変えてくれという状況に近い。というのは、その気があれば、フォーラムとか自分のサイトとか、自分の書いたままの状態で公開することはいつでも可能だし、実際そうしている訳で、つまり、簡単にインターネットで情報発信できる現在においては、細かい表現に固執する必要がないからだ。

(つづく)