ちょっと長いの書きすぎて疲れたたのだが、だいたい書き尽くしたような気もするので終わりにしようかと思ったのだが、勢いというのはなかなか止まらないようだ。どうせだからノっているうちに書いておこうということで、「六本木で働いていた元社長のアメブロ 」に勝手に感想とか書いてみるのである。


再度宣言しておくが、こっちに書いているのは基本的に「異義あり」の部分だけ抜き出しているので、全部反対しているように見えるかもしれないが、それは賛成というのはあえて書いていないから当然そう見えるだけなのだ、と言い訳も書いておいて、選挙にでたことある俺が、政治について書いてみたらどうなるか。 へ突っ込んでみる。


これはまさに「経験者は語る」ということで面白いですよね、経験者と非経験者の違いは埋めようもないものがあって、そこがキモなのだが、


自民党の総裁選びって小泉さん時以外、大体予定調和な感じ。競馬新聞で二重丸のオッズ2倍割れの本命馬がぶっちぎりで勝つ感じ。だから、馬券としたら、面白みがない。だから、さほど世間の関心も、盛り上がらない。

ていうか要するに他人事だからではないのか?自民党員なら別だけど、総裁選びなんてノンポリの浮動票派には関係ないからだと思う。衆院選挙ともなってくると、話は別だけど。実際はもっと無関心なのに、マスコミがことさら騒ぎにしようとしている、という演出っぽさがプンプンする。


だからといって民主党に政権交代したって、実際のところ、自民党の二軍みたいな政党だと私は、思うから(人材的にも、主義主張をみても)、まあ大して盛り上がらないでしょうね。

ということは、元社長氏は民主党が政権持ってもやっていけると見ているのだと想像する。それは少し意外だ。あくまで私見だが、もし民主党が政権取ったら、年金は支払われなくなるだろうし、増税ならまだいいけど、もしかすると国債を全部無効にするとか言い初めて大パニックになるのではないか、と期待しているのである。自民党二軍という見方は巧いような気もするが、どちらかというと二軍よりは二の舞という感じがする。


私なら竹中平蔵さんを推す。まあ、本人はやらないと思うけどさ。私が会った政治家であんなに頭脳明晰で、わかりやすい演説をする人はいなかった。もう政治家じゃないけどさ。

それは何となく分かる。政治は理念だ、というような背景というか、そういうベースに基づいた発想だろう。私は竹中氏は普通にありきたりのことしか知らないので、そのあたりは特に議論する資格はないと思うのだが、一つ決定的に私の政治感で違っているのは、党のトップのような立場の人は、頭脳明晰とか、わかりやすい、ということは二の次で、最も重要なのは政治力だと思っていたのだ。


つまり、政策云々じゃなくて、野党のトップだとか、海外も含めた財界の要人、各地域のキーマンとの交流、そのような対人関係力が一番重要だと思うのである。言い換えれば根回し力だ。政治はどうするかというと、具体的なことはブレインに任せてしまえばいい。むしろ有能な参謀を持つことが極めて重要だと思うのである。一人で全ての問題に最適解を出すなんてのは、現在の情勢を鑑みるともはや不可能なのは当たり前で、それを誰かにやらせる能力、というのがトップに求められると思うのだ。


だから、もし竹中氏が堀江氏の主張するような能力を持つのであれば、表に出てくるのではなくて、出るとしても官房長官あたり、それよりも、表には出てこない、裏のトップとして位置づけるようなチーム構成が適しているような気がする。


政治という意味では、大臣のように表に立つ人たちではなく、実際に専門知識を駆使してプランを立てる、このブレインという位置に立つ人たちが非常に重要だと思うのだが、あまり選挙でそういうところが論点になることはない。ブレインがヤバいとどういう結果になるか、なんてのはまさに堀江氏が一番よく理解していることではないだろうか。とか思ったりするのだ。

うーむ、そうきたか、という感じなんだけど、へうげものですか。ということで今回は「へうげもの」へのツッコミ。しかしツッコミも足りないしボケもない。

へうげもの 1服 (1) (モーニングKC)/山田 芳裕


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「モーニング」という週刊コミックに連載中。「へうげる」は辞書には「ふざける」「おどける」等と書かれているから「へうげもの」は「ヘンな奴」ということ。誰がヘンなのというと、もちろん古田織部のことだと思うけど、このマンガ、ヘンな奴大杉。


最近の一押し漫画、第二弾。


むぅ、一押しがいくつもあるというのは、ちょっちゅね。でも確かにへうげものは結構面白い。どこが面白いかというと、やはりキャラが立っているというか、滅茶苦茶なのがいい。お得意の極限までデフォルメされたコミカルな絵柄と、訳の分からない擬音。

今書いた「ちょっちゅね」というのは加藤清正の口癖なのだが、見た目がボクサーの具志堅みたいな感じで、最近の登場人物だと歌舞伎っぽい伊達政宗がすげェェェんだァ。

どうでもいいか。


微妙に史実に基づきながら


どこまで本当なのか全然分からん。実は私、このマンガ、単行本は全く読んでない。でも連載で殆ど読んでいるはず。連載では信長が秀吉をハゲと呼んでしまうシーンがあったのだが、あれ直ってるのかなぁ、それとも私の勘違いなのか?

時代的には戦国時代、連載では既に信長は殺されていて、そろそろ秀吉が朝鮮に侵略しに行くというあたり。秀吉の描写としては、山田風太郎の妖説太閤記が「秀吉はロリ」という視点で一貫していて面白い。

妖説太閤記〈上〉 (講談社文庫)/山田 風太郎

¥770
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へうげものの秀吉はどうか。狡猾、悪くいえば悪役、しかしリアリスト。ここに千利休が出てくる。千利休も理想への追求はともかく、やはり手段は問わない系で顔も怖い。主人公の古田織部は鑑定家としては一流、しかしビジョンに俗なものが入っていて、いまいち凄い成果が出てこない。つまり、そこそこ成功するがトップにはなれないタイプ。ほにゃら~んとした性格が世界制覇を邪魔しているのだ。

はて、この作者、一体この作品で何を言いたいのだろうか、というのはちょっちゅね。面白かったらいいだろ、みたいな所でオチが付いているのかもしれないが。

ちなみに、デカスロンもヤンサンの連載で読んでいた。

デカスロン 1 (1) (小学館文庫 やB 11)/山田 芳裕

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スーパーマンみたいなのが出てきてほぎゃぁぁと叫びながら十種競技で大活躍するという話。何やらせても凄いのだが、高飛びだけ苦手という設定がいい。北京ではやらなかったようだが、オリンピックの種目からは消えてしまったのかな、デカスロンは。

で、こういうの見ていて思うのだが、やはり元社長氏のエネルギッシュな雰囲気から来ているのだろうか、
頂上目指せという感じのコミックを推してくるのが面白い。例えば、へうげものを現在連載している「モーニング」で私の一押しは何かというと、やはりこれしかないのが、「僕の小規模な生活」だ。

僕の小規模な生活 1 (1) (モーニングKC)/福満 しげゆき

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勘なんだけど、多分元社長氏は、こういうのは全然見向きもしないと思う。モーニングのサイトにあるこのマンガの紹介ページにストーリーが出ているけど、主人公の「僕」というのが、


だけど仕事の方はエロ漫画の依頼が極々たまーに入ってくるだけ。働かなきゃと思いつつ、バイト募集の広告を見つけては、応募しない理由を探す“僕”。


ライブドアという革命的な会社を立ち上げた社長なんて生き方に比べたら、まさに対極にいるというか、規模が違いすぎる。

同じような悲惨系のマンガにしても、元社長のイメージから想像すれば、どちらかというと、まだ例えばディアスポリスみたいなのが好みじゃないかと勝手に思っているのだが、どうだろうか。

ITっぽい話も書くと、こうやっていくつかコミックを紹介した。Web で機械的に手当たり次第に紹介するのはspamと同じで何の意味もないが、ブログにこうやって私は面白いと思うと作品紹介すると、やはりその人の個性とか感性が見えてくるような気がする。そのような情報が集まれば、次にこの新作、この人に受けるだろうか、というのが判定できると思う。

Amazon の場合「これを買った人はこれも買っています」という、過去のデータを元にした分析をマーケティングに応用していて、既に実装されているのだが、これをさらに突き進めると、こういう傾向の人が多いから、こういう作品を作れば売れるのではないか、という予想を立てて、それから作品を作る、というところまで行けるという訳だ。

前回のがあまりにもアレなので、そそくさと次のツッコミを。「お酒のお話」である。


日本酒も「夏子の酒」のときのブーム以来、相当数のおいしい、ちゃんとした酒蔵のものが届くようになった。

ブームっていつのことなのかな。原作が連載されていたのは1988~1991年頃。この頃に Programmers' Forum が始まっているから何度かオフ会で話題になったような記憶がある。酒を飲むと、やっぱり「亀の尾」の話が出てくるのだ。


でも元社長さんって1972年生まれなんだよね…。


という話はサラっとおいといて、個人的にこれはウマいと思った酒が2つある。1つは天狗舞。言うまでもなかろう。もう一つは銘柄が今は分からなくなってしまったのだが、とあるスーパーで何気なくかった黒糖焼酎。これがよかったのだ。


そこで終われば平和なのだが、実は例えばこの天狗舞、二度とお目にかかれないのだ。もちろん、天狗舞のような超メジャーな酒は、どんな店に行っても必ず置いてあるのだが、…


違う、こんな味じゃない!


違う酒を混ぜているとか、そういうことは言いたくない。造った年によって出来が違うという話もあるし、それは本当なのだが、母さん、ほんとにあの天狗舞どうなったでせう?

やっと次のネタに進める。ということで「夢精の話」について。


女性にはちょっとわかりにくい話かもしれないが、寝てる間にエッチな夢をみたりして射精してしまうことを夢精という。

女性は寝ている間にイクことってないのか?という質問は怖すぎてどんな質問掲示板にも書くことができない。


あずまひでおの漫画で、手を使わずに…という話ありますよね。何だっけ。

今回で「技術が経済のパイをひろげるって話 その3」への突っ込みは終わる。今更だか、こんなに長くなるのなら別のコラムにすればよかったような気がするのだが、とりあえず行ってみよう。


一つの技術の発明が、どれだけ、一人ひとりの生活を豊かにするか。周りとの相対的格差を感じるより、以前の自分たちとの格差を感じ、自分たちがどれだけ豊かになったかに満足できるようになればいいと思う。

1箇所typo直しました。ローマ字入力?


2つ問題がある。まず最初の問題は、前回書いたようなネットの特徴から導かれるものだ。ネットの普及で情報が溢れている。格差は、これらの情報を選択する能力によって再構築され、拡大している。


人間、他と比較しないと、自分達がどのような位置にいるのかは分かりにくいものだ。ネットを使って今まで知らなかった世界を知ってしまったために、もっと上も下もあることに気付いてしまうのである。


通勤列車に立っていると、目の前の一つ隣に座っている人が降りることがよくある。そこの前に立っていた人がそこに座る。1つずれていたら座れたのに、と残念な気分になる。


ところが、座席に座っていると、ちょうど向かいの席の人が降りることがある。このとき、目の前に立っている人は後ろが見えないから気付かない。離れたところにいる人が空席に気付いて、そこに座ってしまう。目の前に立っている人は、自分がチャンスを逃したことを意識していないから、残念に思ったりはしない。


もしケータイに現在乗っている列車の空席状況がリアルタイムで表示されるような機能があって、立っている人が全員それを見ていたりしたら、何が起こるだろうか?


もう一つの問題は最初のテーマにある。「豊か」かどうかを判断するのは最終的に人間の心だ。物がたくさんあるという状態と、豊かという状態は、ちょっと違うと思う。


ライブドアのパブリックジャーナリストのセミナーに行ったことがある。5W1Hを書けみたいな当たり前の話ばかりだったが、デジカメで撮影するときに広角レンズがなかったら、レンズの前に近視用眼鏡を重ねるとよい、という知識は今でも活用することがある。


余談だが、実はその時もう一つ身に付けた技がある。写真を撮るという技だ。


六本木ヒルズのオフィスビル内は、撮影禁止である。だから、デジカメで撮影とかすると、警備員が飛んでくる。撮影してはいけませんと怒られる。ごめんなさい、知りませんでした。


実はこれで1枚撮っているという技だ。


私の経験では、この後に画像を消去しろとまでは言われたことはない。もし言われたら消去すればいい。


このセミナーで、次のような問題が出た。


インタビューしたい人を誰か思い浮かべて、その人への質問をできるだけ多く考えてください。


何分か後、いくつ考えたかを問われた。1つの人、2つの人、と順に手を上げさせたので、私は様子を見ながら3つか4つのあたりで手を上げた。確か、殆どの人はギブアップ状態だったと思う。


インタビューは技術である。慣れの問題なのだ。だから、慣れてなければ結構難しいが、経験があれば簡単に質問を作ることができる。つまり、練習しとけよ、という話なのだ。


実は私はこういうのは練習したことがあるので、いくらでも思いつく。というとウソだが、まあ10個位ならすぐに。つまり、10個ほど思いついたのに、3つか4つと言われたときに間違って手を上げたのだ。もちろん、私がそうなのだから、他にもフェイクの人がいただろう。


閑話休題。私が想定したターゲットは堀江社長(当時)だった。ライブドアのセミナーなんだから、真っ先に思いつくのは当然だ。堀江氏が絶好調の頃の話である。今も絶好調だったらすみません。


その時に書いた質問の中に、こういうのがあった。


今まで食べたもので、一番美味しかったのは何ですか?


こんな質問、誰でも思いつきそうだが、これだって慣れてないとなかなか出てこないものだ。しかも相手が超大物のときに、こんな下らない質問を本当にできるのか、という問題もある。


ところが実は、これは私のとっておきの質問で、機会があればよく使うネタなのだ。ただ、インタビューをするなんて機会は滅多にないので、最近使った記憶がまるでない。実は、この質問は続きがあって、相手が答える前にこう言うのだ。


「私だとそうですね、高校の時にクラブの後輩の女の子が作ってくれたお弁当が、味はよく覚えてないけどあれが一番美味かったです。」


言ってることは滅茶苦茶だか、さあ元社長、この後で何と答えるか、皆さんも想像してみて欲しい。


まさかフランスの超高級レストランで食べたン万円のフルコースとン十万円のワインが…なんてことは言わないと思う。どうだろうか、いや、言ってももちろん構わない。ただ、こっちは最近、財政的な理由で好物のコロッケ蕎麦を我慢してカケにダウングレードして食うような生活が続いているのだが、もし本当にそんな返事をされたら、「へぇ、意外と貧しい生活なさってるんですね、精神的に」とかうっかりボソっと言ってしまいそうで怖い。:-p


もちろん仮にも堀江氏が、そんなことを言う筈がない。もっとスゴイのが出てくるに決まっている。例えばそういうの毎日だったから特に印象はないなぁ、位は言うだろう。子供の頃に山で道に迷ってまる1日何も食べられなかったときに老婆が現れてくれたおにぎりが…、みたいなのが出てきたら完全に降参だ。


宗教の真髄は、実はそういう所にあるのだと思う。


満足するというのは心の状態である。それどころか、何か思うとか感じるというのは全て心の働きに帰着する。この「心」というのが曲者なのだ。ヒトがどれだけ満足するかは、基本的にそのときの状況に完全に依存するし、もっと言えばその人の人生に完全に依存する。


しかもそれは絶対評価ではなく、むしろ相対的なものなのだ。だから、腹減っているときにメシを食うと美味い。仕事をした後に食うと美味い。どんな美味い料理だって満腹のときには価値が激減する。だから、先ほどの質問は高級食材を答えるクイズではなくて、「美味い料理を食う」ための心とはどのようなものでしたか、と問うているのである。「豊か」に対する価値観を尋ねているのだ。もう一度引用させていただく。


将来への漠然とした不安感も、世の中を覆希望のないもやっとした感じも、以前のように宗教などでは、解決できないのかもしれないと思っている。

物があると、人間はその「物がある」という状態に慣れすぎてしまう。これが「豊か」という状態から人をどんどん遠ざける。持てば持つほどもっと欲しくなるか、持ってしまったところで「持つ」ことに対する意欲が消滅してどんより、ということもある。


イエス・キリストは「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がやさしい」と言った。My Fair Lady のヒロイン、イライザの父親のアルフレッドが、金持ちになったときに、…あれ、何て言ったんだっけ、とにかく何か言った。そういうことだ


だから、「豊か」は、実はむしろ宗教の中にこそあるのではないか。極論をいえば、宗教のない所に豊かという状態はない。だから、私の反論としては、宗教を失った現代人はどんなにモノを集めてもちっとも豊かになれない。たらふく不自由なく食うだけではメタボにはなれても豊かになれないのだ。

ということで、続きなのである。ここまでは、ココログに一度書いたのを転載してきたのだが、今回からはアメブロで直接書いている。


なぜココログからこちらに移動してきたかというと、XHTML が間違っているのに指摘してもなかなか直してくれない、というのは特に関係なくて、記事を書いて投稿ボタンをポチっと押してから完了するまでに数分待たされる(誇張なし)からだ。


アメブロなら長くても数秒待てば更新完了する。他のブログだって、大抵そうだ。書いていて気分が楽だ、というより当たり前である。特に、ちょっとした誤字を修正するのに数分、というのは我慢の限界を超えている。修行している訳ではないので、そういう苦行はやりたくない。


ということで、技術と経済の話のはずなのだが、なぜか宗教と豊かさの話にどんどん逸れていく。今回書くことのポイントは「格差」だ。


私は格差は、マスメディアのグローバル化やネットの世界的普及によって、今までアクセスできなかった情報に触れることにより、心の中に顕在化してきたものだと感じている。

インターネットの前にはパソコン通信というモノがあった。インターネットは、より本質が抽出されたインフラであるが、根っこにあるものはいずれも同じである。人と人とが一次情報を直接やりとりできる時代になったのだ。


言い換えれば、それまでは口コミや井戸端会議のように僅かな例外を除けば、マスコミ等の情報を伝える仕事をしている人によって恣意的に加工された情報しか手に入らなかった。グローバルな情報は常にフィルターがかかっていたのだ。


インターネットの普及して、今まで隠されていた真実を誰でも見ることができるようになった。情報世界の大きな質的変化だ。マスコミが好き放題やってきた情報操作は、もはや通用しない。取材された人が報道を見て、言ったことと違うと暴露できるのである。実際、堀江氏は別記事でそれを実践している。(井上トシユキがいい加減なことを言っている件 )


今私たちは、偏った情報しか見ることができなかった世界から、全てを見ることができる世界への遷移ステージにいる。


インターネットは情報の質だけではなく、量も変えた。特に、情報が劇的に増え、比較が可能になった点は注目したい。紙の新聞の時代は、とっている新聞以外に書かれていることは分からなかったし、TVのニュースは、見ているチャンネルのものしか分からない。もちろん、多数のニュースを見れば複数の情報は手に入るのだが、それがいろんな意味で難しかった。インターネットのサイトは、殆ど同時に多数のメディアの発表を見ることに可能にした。多数のマスコミを比較できると、情報操作も当然難しくなる。捏造しても、他と比べたらバレてしまうのである。


逆に、多くのマスコミが不自然に同じ側を向いていると、それを知ることによって、裏に隠れている力が見えてきたりすることもある。


時代が一歩前に進んだのだ。もちろん、良いことだけではない。情報の洪水とか、情報に溺れるという表現がある。何でも情報がgetできるというのは、殆ど何もgetできないというのと似ている。人間の処理できる情報量には限りがあるのだ。既に限界をはるかに超えた量の情報がインターネットに溢れていて、人間は全ての情報を確認することができない。時間が足りないのだ。実は、IT革命の本質は、この大量の情報をまともにくらった人がどうすればよいか、という所にある。


将来への漠然とした不安感も、世の中を覆希望のないもやっとした感じも、以前のように宗教などでは、解決できないのかもしれないと思っている。

宗教が解決してきたのは、そのような難問なのだろうか?確かに多くの宗教は、来世という概念でソレ(不安)を払拭しようとしてきた。これによって、死という得体の知れない恐怖に対して、来世があるから死んでも怖くない、というような説得が可能になるのだ。


はてなとか、知恵袋とか、ユーザー間の質問解決系の掲示板を見ると、この種の質問が定常的に出てくるのが分かる。死にたい、生きているのがつまらない、苦痛だ、という相談事だ。「死」というのは回避不可能なイベントなのに、その後どうなるのか分からないという困った性質を持っている。


死といえば生。「人間はなぜ生まれるのですか」のような永遠のテーマもよく質問される。このような疑問は、本来、宗教が解決してきた分野なのだ。元社長と宗教との関連度は想像できないのだが、宗教を甘くみてはいけないことだけは確かである。オウムの事件があって、あれだけ叩かれてなお信者が教祖の写真を拝んでいるといった噂もある。ガセかもしれないが、宗教というものの持つ力を想像すると、あながち噂では済ませないモノがある。


例えば科学教。そんな宗教あるのかと言う人もいるだろう。今私が作ったのだから当然だ。科学は絶対である、という宗教の信者は多い。


科学はロジックとしては説得力のある体系の一つであるから、信用するのは間違いとはいえないかもしれない。しかし、科学では説明できていない事象も、たくさん残っているし、多分いつまでも残るだろう。特に存在論。なぜ宇宙はあるのか。なぜビッグバンが起こったのか。これは永遠に説明不可能な命題である。なぜなら、Aの原因がBだとしたら、Bの原因は何か、という新たな問題が発生するからだ。いつまでたっても新しい問題が解けない状態が続くのである。


インターネットは情報伝達能力においても、今までになかった強烈なパワーを持っている。だから、宗教に対しても、特に布教という点においても今までになかった効果をもたらすのではないか、と期待、いや危惧するのだ。


それに、宗教が今まで一体何を解決してきたのか、そこも突っ込んでおきたいけど、ごめん、限界かな、ここでまた切る。

(つづく)

技術が経済のパイをひろげるって話 その3 を読んでちょっと書いてみた。


と言っておいて、のっけから余談なのだが、何回かこういうの書いてて思ったのだけど、昔、NIFTY SERVE でフォーラムとかあった頃は、こういうのにリアクションがないとちょっと寂しい感じがした。ところが最近は、読んでいる人のリアクションなんかどうでもいいというか、むしろ無反応を期待して書いている。だから、少し前に「トラックバックできないからしない」みたいなことを書いているが、仮にトラックバックできる設定だったとしても、まあいいんじゃないかな、という感じになってきた。


個人的には、基本的に、批判的なことを書くときはトラックバックを付けて相手に知らせる、ということにしている。フェアとかアンフェアとかそういう意味もあってそうしているのだが、堀江氏のようなステータスの人は、わざわざこっち見にくることもなかろうし、という安心感もある。


さて、本題、いってみよう。


100年前に暮らしていた人達に比べると相当豊かな生活をしているはずだ。それに異論はあるまい。

あるよ


豊かって何だろう?まず短絡的に考えてみる。つまり、たくさんモノが持てたら豊かだということにする。


確かに技術は画期的な進歩中で、昔はなかったが今はあるモノは非常に多い。しかし、昔はあったのに今は手に入らない、というモノだって結構あるのではないか?


若さ、なんてのは冗談だからおいといて、東京に暮らしていて、たまに田舎に行くとそれが分かる。おいしい水、おいしい空気、静かな夜。そんな簡単なものが東京では手に入らない。東京の夏は、真夜中でもセミが五月蝿い。まあでもそれって田舎行けば手に入るじゃん、と言われたらそれもそうだ。メガスターというプラネタリウムがある。何百万個の星を映し出して、天の川も忠実に再現するし、それ以上の普通では見えないものまで見せてくれる。東京で天の川は見えない。でも、田舎にいけば見える。


とにかく、技術や産業がある種のモノの生産性を劇的に上げた、それは真実なのだ。しかし、それと同時に、それらの技術がいろいろなものを奪い取り、殲滅したのも事実である。


じゃあもっと絞り込んでみようよ。食べることについて。昔は餓死する人だっていた、という話をした。今は日本でそういう人はいない。いや、最近も「おにぎりたべたい」と書き残して餓死した人いたけど、超レアケースだし、だから全国ニュースになるのだ。「食えなくて死ぬという人は殆どいなくなった、つまり豊かだよね」という視点ならどうだろうか。


その点は確かにそうだ。世界というレンジでみれば、毎日1万人の子供が餓死しているけど、日本は関係ないよね、つまり「日本は豊かな社会になった」ということだよね、たとえ食料自給率40%でも、日本が食えれば日本は豊かだ。という人はきっと多いだろう。日本には。


生産性は確かに上がった。死亡率も減った。すると人間はどんどん増える。毎日1万人の子供が餓死するといったが、実は昔はもっと死んでいたかもしれない。そういう意味では、世界的にどうなのかという点も、よく考えてみないと結論は出せない。


だとしても、ギョーザ食ったら中毒で倒れ、国産だと思って買っていた鰻は実は中国産、というのが豊かな生活?何か違和感がある。私見としては「食える」というのは「豊か」とはレイヤーが違う話のような気がする。もちろん、食えないと豊かではない、ということは言えるかもしれないが。


国産地鶏は固いからイヤだといって買わない人がいるから、柔らかい外国産の鶏を「国産地鶏」と偽って売ればよく売れるのだそうだ。美味さの基準が変わったといえばそれまでだが、本当は、味が分からない人間が増えているのではないか。小さい頃から化学調味料の味を刷り込まれ、美味いものといえば、ラーメン、カレー。まあ私だってそうなんだけど多分。そしてもう一つ失われたものは、


片や今はどうだ。部屋にずっといれば夏を感じることもないくらいに涼しいし、

エアコンはどこにでもある。ここ数年、地球温暖化の原因がCO2だとかいうビジネスモデルに世界が乗せられているのだが、例えば東京のエアコンを全部停止したら、東京都の気温は温暖化する前の状態に戻るような気もする。他にも熱源増えてるから無理か。


夏は暑いのが当たり前だったのが、今ではエアコンが当たり前になっている。快適かもしれないが、昔からの「部屋で夏を感じる」という楽しみが奪われてしまったとも言える。夏はエアコン、と清少納言も書いているが【嘘】、日本に昔からあった四季折々の空気が今はないのだ。例えば、「たきび」という歌がある。


かきねの かきねの まがりかど

まず「かきね」が滅多にない。


特に東京では、垣根の家は珍しい。泥棒が入りやすいからだろうか、手入れが大変だからか?大規模集合住宅が増えると、相対的にそういう曲がり角は少なくなる。六本木ヒルズにそんなものはないでしょ?


たきびだ たきびだ おちばたき

元社長氏は、たきびの経験はあるだろうか。今の東京23区内でたきびなんてしたら消防法違反で逮捕されそうな気がするが、いや確認したわけではないですよ、単なる想像だ。でも、ダイオキシンが出るとかいって、ゴミも燃やすのは本当に禁止のはずだし。そもそも、都内でたきびをするような量の落ち葉が確保するのは難しいし、それを焼く場所というのはもっと大変なことだ。道路は舗装されているから、後始末も大変だろうし。


関係ないけど、セカンドライフって、焚き火できるのかなぁ?


しかし、失われたものの中で本当に一番大事だったのは、落ち葉とか場所ではない。たきびをしている近くを子供が「あたろうか」「あたろうよ」と相談しながら歩いている、そういう、見ただけで癒されるような風景だ。なぜそれが癒される風景かというと、そこに人と人との繋がりが見えるからである。もちろん、今だって下校途中の子供たちがお喋りしながら帰宅するような光景は普通にあるのだが、そこから何か抜け落ちているような気がするのだ。


またぞろ長くなったのでここで一旦置く。次は宗教の話だ!


(つづく)


※ 本記事は2008-09-03に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。

体罰論。 を読んで。


最近親とか学校の先生が体罰することに、結構厳しい処分がされるようになって違和感覚えます。

体罰と暴力は区別すべきだと思う。「罰」というイメージ云々というよりも、「罰」と「しつけ」の違いだ。ただ、今回は深く考えずに「体罰」と表現することにする。


体罰はいけないという理由が、単に苦痛を与えるから、あるいは暴行は刑法犯であるというような短絡的な観点から来ているのが問題だと思うのだ。


「苦痛を与える」という方法は、学習システムの中においては効果的な方法の一つである。効果があるから、そういうやり方が古来からあり、今もあるのだ。


コメントでも誰か指摘していたが、体罰を受けた側は、なぜ悪いのか分からなくても、その行為を止めようとすることがある。善悪でなく罰がイヤだからよくない、と考えることがコメントした人の主張だったと思うが、そうだ、実はこれが体罰の効果の本質だ。


、殴られると痛い痛み回避しようとするのは、人間の本能的な行動である。だから、殴られないようにする。そのために行動パターンを変える。これが体罰による学習のシステムの基本サイクルである。体罰とはそういう本能的なレベルでの刷り込みを行う学習方法である。この「本能的」というのは非常に強力であることに注目して欲しい。


理想的なのは、そこで思考停止してしまったらそれまでなのだが、体罰が受ける側がなぜ殴るのか、なぜ殴られたかをきちんと考えて、理解する、というパターンだ。むしろ、そうでなければならない。しかし、特に子供にはそれが何故なのか、理屈で説明しても理解できないことがある。例えばマッチで遊んではいけないとか、屋上で柵の外に出てはいけないとか、他人にナイフを向けてはいけないとか、そういう緊急性の高い内容で、どうやって理解させるかという問題もあるし、理解より先に行動を止めないと危険な場合がある。


殴らなくても粘り強く説得すれば分かるのではないか、という意見があるかもしれないが、それは完璧に否定しておく。大人になっても殴っても分からないような奴が大勢いるのは説明するまでもない。もちろん説得しても理解力がないので無駄だ。もちろん、殴ったら分かるのかというと、そうではない。しかも、殴ったらやらなくなるか、というとそうとも限らない。特に反抗期に殴るのは逆効果となる可能性もあるし、妙なトラウマを与えたら、後に非常に大きな影響が残ってしまう。


もう一つ、この種の反射的な行動を利用したトレーニングという視点も捨てがたい。特にスポーツの分野のように、反射的な行動を体で覚える必要があるような場合である。間違った行動に対して、痛みを感じさせることで、それを矯正するのである。


例えば、フォームが崩れたら電撃ショックを与えるような装置を考えてみる。フォームがおかしいとビリっと来る訳だ。こうするとフォームを単にビデオに撮影して見ながら直していくよりも、早く熟練できると思うのだが、どうだろうか?


刺激を怖がってしまって危ない、というかもしれないが、この場合は、そんなに強い刺激にする必要はない。体に何かサインを送ることができればいいのである。極端にいえば、もしかすると痛みを感じない程度でもいいかもしれない。その方が効果が小さいと思うのだが、実験した訳ではないので、これは誰か実験してみて欲しい。


Wii Fit にそういう機能を付けたら面白いのではないかと思うのだが。ヨガなんかでポーズが悪いと電撃でおしおきだっちゃ、みたいな。フラフープを落とすと大変とか。


さて、昔ならこんな蛇足しないで誰かひっかかるのを待っていたのだが、コメントの応対するのも何だし蛇足する。スポーツ学習で書いた、一人で刺激を受けて学習する装置の件を除けば、私は別に体罰に賛成だとは一言も書いてない。もっとも反対だとも書いてないが。単に、体罰にはこういう効果があるのではないか、という指摘をしただけであって、それ以上でもそれ以下でもない。


これ書いておかないと、昔だと、私が体罰賛成主義者だという前提で猛反撃する人が必ず出てきたのである。つまりツリなのだが、そういう罠にハマる人には「どこに賛成と書きましたか」と反撃する訳だ。


ところで、


俺らの時代なんて、タコナグリでボコボコにされてたもんなあ。

やりすぎると効果半減ですよね。慣れちゃうから。


※ 本記事は2008-08-31に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。

暑いね なんですけど。


日本の夏を感じるね 船 ここ三年くらいは。

船って何か分からないけど、typo っぽいのでスルーするが、そういわれると最近は日本の夏を感じないようだ。私の場合。なぜだろ?


考えてみたが、多分、蚊取り線香を使わなくなったせいだと思う。


あの煙、体にはよくなさそうだが、あの香りがないとどうも物足りない。もっとも、電子蚊取りは体によくなくないのかというと、蚊が実際に死ぬような成分なんだから、よくなくないことはないと思うのだが。蚊と人間は違うから、よくなくないことはないことはないのだろう。多分。


※ 本記事は2008-08-30に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。

麻布十番祭り である。このお祭り、大勢見に来るというよりも、どうも狭いところでやるせいか、凄い混雑になるようだ。


その日は夜までプログラム書いてて、麻布十番の駅前通ったのは0時頃だった、確か。


果ては、あなたを撮っているのではなく、風景をとっていたら、あなたが勝手に写っていたとかいう意味のわからない言い訳。

対応が偉いと思った。私なら「じゃあ私も風景を撮る」といって、風景を撮って晒していたかもしれない。そんなことをしたら、肖像権が何だとか訳の分からないことで訴えられたりするのだろう、つまり罠かもしれない。元社長氏がそういうのにはひっかからないのは、やはり百戦錬磨ということなのだろう。


※ 本記事は2008-08-29に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。