しョうせつおきヴぁ -2ページ目

魔女っ子キルケちゃん(前編)

 オデュッセウス一行は、おそろしい魔女がいるとされるアイアイエー島に漂着した。
 上陸するとすぐ密林が行く手をさえぎった。道中、動物を狩るための罠がしかけてあるのを見つけた。人の住んでいることが窺われた。
「魔女がしかけた罠かもしれない」
 部下の懸念をよそに、オデュッセウスは歩を進める。むしろ魔女に会いたがっているようですらあった。
 森を抜けると、明らかに人の手が加えられた畑が見えた。一見、雑草が生い茂っている粗末な畑に見えたが、そこになっている作物は大ぶりで味もすこぶるよかった。
 単なる畑泥棒と化したオデュッセウス一行を、小柄な農婦が発見する。
「あんれま! こんだらとこにお客さまとは。めんずらしい」
 リーダーのオデュッセウスに限らず、部下たちも歴戦の猛者ばかりである。こんなことで女子供を襲うなどという下劣な真似はしない。
 オデュッセウスからその冷静な判断力を買われている一人の部下が、農婦に話しかける。
「娘、この畑の主人と面会したい。こちらにおられるは、今は名をあかせないが、お前たちが考えるよりはるかに高貴なお方である」
 賢明な判断であろう。しかし娘の返答はとんちんかんなものだった。
「シュ、シュジン……? シュジンってなんずら?」
 部下は言葉が通じないのだと考える。
「アルジ、でわかるか? ……わからないか、そうだな、ではこの畑を管理している者、と言えばよいか」
 オデュッセウスは苦笑する。そんな言い方だと余計にわかりにくいだろう。
「カンリって管理か? 手入れならあたしがしとら」
「む、そうではなくてだな……」
 見かねたオデュッセウスが話に割って入る。娘は見たところ若い。しかし最低限の教養はありそうだ。オデュッセウスはそう判断して、自ら娘に問うことにした。
「娘、その方、誰のために畑を手入れしている?」
「だぁれのってあたしのためだ。あたしが食うんだ」
「ううむ、では、ここに住んでいる他の誰かに会わせてくれないか?」
「この島に住んでるのはあたし一人だ」
「そ、そうか。いや、この島にはキルケという魔女が住んでおると聞いておったのでな……」
「キルケならあたしだ」
 この時のオデュッセウス一行の沈黙は、言葉で表現しがたいものであった。

 しばらく歩くと、大きな、しかしあちこちが痛み果てた、みすぼらしい城が見えてきた。
 途中で見かけた豚小屋も同様だった。あちこちが痛んでおり、悪臭が余計に漂ってくるような錯覚さえ覚えるほどだった。
 娘の案内で城の中に入る。中も同様だ。あちこちが痛んでいる。汚れている。だが不思議なことに、妙に整頓されている印象もあった。おそらく、住人が日常的に使う物に限って、きちんと整理整頓しているのであろう。それ以外の物についてだけ、驚くほど無頓着なのだろう。
(名より実を取る、ってことか。極端すぎるが)
 部下たちの中には、彼女が魔女キルケだと信じていない者も少なからずいたが、オデュッセウスは、彼女がそうである可能性も充分に考慮すべきだと考えていた。
 一方の娘の方はというと、一行の中で一番年下の部下に、豚が子供を産んだだの、狼のいたずらがどうだなどと、相手がどう返事しようが構わぬという態度で、一方的に喋っていた。いや、部下も部下で相槌しか打ってないのだからそうなるのは当たり前だが。
 そんな二人を見ていると、思わず自分の故郷を、オデュッセウスは思い出してしまう。何もない農村だった。自然の恵みは豊かであったが、文化らしい文化はほとんどなかった。ここと同じように建物も畑もみすぼらしかった。そんな村で、同年代の若い男女が会話している。あまりにも日常的すぎる、ただそれだけの光景だった。
 魔女の最初の攻撃を一身に受けていた若い部下が、目でオデュッセウスに助けを求めてくる。彼は知恵もあるし力も年嵩の部下たちに引けを取らぬ。しかし一行の中ではどうしても見下されてしまう。気弱そうな容貌のせいもあるが、性格も気弱だった。
(いい機会だ)
 オデュッセウスは笑いを噛み殺しながら、彼の視線を無視した。

 一行は大広間に待機させられた。扉が閉まったとたん、「あの娘は本当に魔女キルケなのか」という議論が部下たちの間で始まった。
 単に変装しているだけではないのか、という意見はすぐさま却下された。彼女の体からは堆肥の臭いがしたし、服に染みついているだけなら、逆に香水が染みついた高貴な人間特有の香りがするはずだ。それは全くしなかった。また、彼女の手のひらには農民特有の鍬ダコがあった、と、もっとも冷静な(娘に最初に声をかけたのも彼である)部下が証言した。
 ではやはり偽者ではないのか。あるいはただ名前が同じだけなのではないか。聞くところによるとキルケはかの太陽神の娘である。そんな高貴な者が生まれながらの農婦のような格好をしているわけがない。
 ならばなぜただの農婦がこのような城に住んでいるのだ? あちこち痛んではいるが、王族の居城に引けを取らない大きさだ。この広間だって、手入れをきちんとしてさえいれば、立派な舞踏会が開けるだろう。
「それに」
 いつの間にか議論に参加していたもっとも若い部下が口を挟む。
「彼女の話、言ってる内容は農民そのものだけど、端々に出てくる喩えっていうか、そういうのが、なんていうか……」
「なんだよはっきりしねえな」
「僕は地方領主の息子だ。農民の感覚も、貴族たちの感覚もわかっているつもりだ。だけど彼女はその両方でもない……いや、両方だから、両方じゃない気がしてくる、というか」
「わけわかんねえよ」
 オデュッセウスはそんな若者の言葉を聞いて、ほんの少し感心した。実は彼も似たような印象を覚えていたのだ。若者と魔女の、ただの農民同士の会話を盗み聞きしながら、かすかな違和感を覚えていた。
 またオデュッセウスは気づいていた。仮にあの農婦が言っていることが全て真実だと考えると、実は何も矛盾はない。魔女は、特別な薬を用いてか、人間よりはるかに長く生きると聞く。たとえ幼少期は太陽神のもとで育てられたとしても、ここでの生活が我々の考えるより長いものであってもおかしくはない。
 なのになぜ我々は疑ってしまうのか。矛盾の原因は彼女の方にではなく、自分たちの方にあるのではないか。
 やがて、部下たちの言葉数は少なくなっていった。彼らは疲弊していた。これまでの航海の疲れ、神々からの逃亡の疲れ。人々を脅かす魔女との遭遇という大事を目の前に、気力だけで威勢を保っていた部分はある。
 埃が徐々に堆積するような沈黙。それから気をそらそうと、オデュッセウスは、彼女がキルケだったと仮定して、相手方の分析を始めた。
 名より実を取る。彼が最初に持った印象だ。これまでの軍事経験に照らし合わせると、一人の武将が思い浮かんだ。大アイアースである。彼も見てくれを気にしない人間だった。それが強さの一因でもあった。彼の軍は強かった。彼自身勇猛で、膂力、技量ともに人並み外れた武人だった。競技会ではたまたま自分が制したが、どう判定されてもおかしくない接戦だった。
 しかし彼は致命的な間違いを犯している。彼は神を信頼していない。神に対し反逆しているというわけではないが、多くの人が神に祈りを捧げるような極めて困難な状況においても、彼はそうしない。頼れるのは己だけ。そういう人間だ。
 オデュッセウスは、彼のそんな性格を、ある鍛冶職人の息子とだぶらせていた。父親は腕のよい鍛冶師だ。息子の技術も確かだが、父親ほどではない。ある時息子は貴人から依頼を受ける。彼は、父の心配をよそに、一人で仕事をこなした。ところが、貴人はできあがった品に満足しなかった。息子の評判はがた落ちした。
 なるほど、もしキルケが大アイアースと同様の性質だったならば、彼女の弱点は父であり神そのものである太陽神ヘーリオスということになるだろう。
 神の娘でありながら、神を信頼していない。なるほど、それで魔女か。
 オデュッセウスはふと、暗くなった空を見上げる。すると、鏡を見ているような気分になった。何も映さない闇の鏡。何も映さないから、自分の見えないところを映し出す。……俺はどうなんだ? 今俺が対峙している苦境は、一部の神々によるものだ。俺は神を信頼しているのか。いや、「信頼している」と言えるのだろうか。
「俺は――」
 オデュッセウスの口からは何も言葉が続かなかった。
 一方、オデュッセウスの独り言は、部下たちの耳には入らなかった。彼らの意識は、どこかから漂ってくる、気が狂わんばかりに食欲を刺激する匂いに集中していた。
「これは南方の料理ですな」
 オデュッセウスより年上の部下が言う。
 その時、とても不快な音が聞こえた。老朽化した扉が開く音だった。部下たちの唾を飲み込む音が広間中に響き渡りそうだった。
 開いた扉の隙間から丸い物体が出てくる。例の農婦の尻だった。彼女は自分の背丈の半分もある陶器を引きずっていた。
 つと農婦は顔を上げ、自分を注視している荒くれどもにこう言い放った。
「おら男手、何ぼーっとしてんだ、酒はこん地下に山ほどあるから、好きなもん取ってこお」
 部下の何人かが弾かれたように立ち上がり、農婦の横を通り過ぎようとする。農婦はその尻をばちーんとはたく。
「ばっかおめ、か弱い娘がこんだらでかい甕を運んでるっつうのに素通りする奴があるか」
「ああ、こりゃすまん、すまん」
 見た目では父娘ほど年齢差がありそうな二人のこんなやり取りに、部下たちがどっと笑う。残った部下たちもやおら立ち上がる。唯一、冷静な部下がオデュッセウスに目で判断を仰いでいたが、オデュッセウスは頭を振るだけだった。これほど見事に場を掌握されたならば、拙い抵抗は裏目に出る。そういう場合はむしろ相手の策に乗ってみるのも充分考えるべき選択肢である。などというのは言い訳で、オデュッセウス自身、この香ばしい匂いにすでに屈していたのだった。それを自覚しながら彼はうそぶく。
「ああ、腹減った。腹が減りすぎて死にそうだ。これは新手の拷問か?」
 すると農婦は、聞き捨てならぬという態度でこう返してくる。
「なぁに言ってんだ。いきなりこんだら人数で押しかけてきて。こちとら豚一頭を一人でさばいてたんだ、ちったあ我慢せえ」
 農婦の言葉に男たちはどよめく。
 一方、オデュッセウスは軽い混乱を覚える。豚一頭をこんな小娘がさばくだと? いや、農婦なら可能かもしれない。それを生業にしている民もいるだろう。また、魔女も可能だろう。そもそもそんな作業は魔女にとってお手のものだろう。どこにでもあるような、農民たちが豚を屠畜する光景と、想像上の魔女がするおぞましい血の儀式が、オデュッセウスの頭の中で溶け合い、混じり合っていた。
 そんなオデュッセウスを一人残し、リーダーの明確な許可を受けた部下たちは、魔女とともに宴会の準備に取りかかった。

 なだれ込むように宴会は始まった。男たちは、持ってきた酒から飲み、出てきた料理から食った。
 オデュッセウスは、魔女自らが口をつけた料理だけを食べようと決めていたが、出てきたのは大皿料理と大鍋料理で、魔女はそのどれもに口をつけていた。そんな杞憂をしていたのが馬鹿らしくなったほどだ。冷静な部下も同様のことを考えていたのだが、オデュッセウスの視線に対し彼はゲップを返してしまう始末だった。
 魔女は酒も飲んだ。すぐ顔が赤くなった。すぐ足元が覚束なくなった。お相手を務めていた最年少の部下によりかかったりした。小皿が足りなくなると、最年少の部下は魔女に指示され、給仕役も務める羽目になった。
 宴もたけなわなその時、魔女が叫んだ。
「ああああああ!」
 男たちがいっせいに彼女を見る。オデュッセウスも例外ではない。
「……き、き」
 き?
「着替えんの忘れてたあ!」
 横にいた最年少の部下の肩を、農婦は力いっぱい叩く。
「おめーなんで言ってくんねえの? 王族の前でこんな格好してる奴がいるか? おめ見たことあるか? こんなうんこ臭い服の奴が王様と酒を酌み交わしてんのとか。あっりえなーい」
「え? いや、その」
 農婦は、最年少部下の肩に手をかけ立ち上がろうとする。ふらつく。最年少部下が支える。
「おー、おめ、若いのに気が利くの。よし、着替え手伝え」
「は?」
「あたしを部屋まで連れてってえん」
 農婦はわざとらしく最年少部下に倒れかかる。他の部下たちがそんな二人のやり取りに口笛を鳴らす。
「ゆっくりしてきな、こっちは勝手にやってっから」
 髭面の部下の一言に男たちはどっと沸く。そんな声に農婦は真顔で答える。
「ばっかあたしとするなら朝までだべ?」
 一瞬、場は静まり返るが、すぐさま先ほど以上の笑いが起きる。
 農婦はそんな男たちの態度にカチンときたのか、続けて吐き捨てる。
「おめら今でこそ笑ってやがるけんどなあ、あたしが着替えてきたら、その目ん玉ポロリと落ちちまうぞ」
 おお、と歓声の音色が変わる。別の部下がはやし立てる。
「そりゃあ楽しみだ。おい若造、そういうわけだから一発で我慢しとけよ」
 また下卑た笑い。農婦は本気でむかついているのか、また真顔で返そうとする。
「ばっか一発したら朝まで……」
「しませんよ!」
 制したのはその若造だった。
「おろ、しないの?」
 きょとんとした顔で農婦は若造を見る。
「どっちなんですか」
「んー、とりあえず着替えながら考えるべ」
「考えなくていいですから、着替えましょう。着替えたいんでしょ?」
「もしかして怒ってるぅ?」
「怒ってませんって。だから行きましょう、部屋はどこですか?」
 そんなやり取りをしながら、若造は農婦を引きずって部屋から出ていく。車座は相変わらず笑いが渦巻いている。
 オデュッセウスは少し不快感を覚えていた。農婦の下劣極まりない態度にではなく、部下たちの態度に。
 また、彼は農婦が魔女であることを確信していた。まずこの酒。上等な酒ばかりだ。器の陶器も、イタケー王である自分ですら感心してしまうほどの見事な細工が施されている。
 それに、彼女はなぜ自分を王族だと知っていたのか。出会ってから自分は一度も名乗っていない。もちろん、これだけの部下を率いているのだからそういった予想はただの農民でも可能かもしれない。しかし太陽神の娘であれば、神々をも二分させた先の戦争について知っているだろう。加えて、戦争に勝ちながらも、神々が差し向ける追っ手から逃れようとする不運の将の話も……。
 相手が広大で精密な策を講じてきた時、それにあえて乗ってみるということは、実際に有効な戦略である。そのような高等な策は、外側からいくら見ても穴は見つからない。しかし内側からなら、ほんの些細なひび割れが見つかることがある。
(しかしこれは……)
 むしろ穴だらけだ。外側も内側も。むしろ自分たちが進んで穴に入っている。いや、策だと考えるからおかしくなるのだ。これは策などではない。ではなんだ? 策とは人工的なものだ。人為的なものだ。森の中にしかける罠だ。しかしこれは……むしろ森そのものだ。策というより森。人為というより自然。
 そう、今の状況は、魔女の策によってではなく、自然にそうなったとしか思えない。
 オデュッセウスはいたたまれなくなり、つい魔女に声をかけてしまう。
「おい、娘!」
 将の声に場は静まり返る。若造は父親に叱られる子供のようにびくんと彼に振り返る。
 続いて農婦がだらしなく振り返る。
 オデュッセウスは混乱した。何を問いかけようとしたか忘れてしまった。いやそもそも考えてなかった。なんでもいいから、農婦の、魔女の策を、人為の欠片を見つけたかっただけだ。
「この鍋料理、大層美味である。私も部下もとても満足している。しかして、この食材は一体なんだ?」
 農婦は答える。
「豚の臓物。うまいっぺ?」
 純朴な笑みを浮かべながら。
 一方、臓物と聞いて部下たちの匙が止まる。それを見た年嵩の部下が呆れた声でこう言う。
「なんだお前ら、臓物食ったことないのか? 俺の故郷では名物料理だぞ。いやしかし、それよりこの料理は美味い。初めて食った味だ。香辛料が違うのか……?」
 年嵩の部下ががっつく。それを見て部下たちの匙が再び動き始める。
「なんだなんだおめーら、食いもんに負けた女の気持ちも少しゃー……」
「まあまあ、先に着替えましょ、着替えて奴らの度肝抜いてやりましょう」
 若造が機転を利かす。
「おめーら見とけよーっ」
 農婦の宣戦布告とともに、扉が閉まる。
「大将、別に妙なもんじゃありませんぜ。うちの故郷では普通に食ってます。それと似てはいるが、風味が違う。いやこちらのが断然美味い。うちのを馳走しにくくなったくらいでさ」
 先ほどの年嵩の部下がオデュッセウスに声をかける。オデュッセウスも知識でそういった料理の存在は知っていた。彼は再び臓物料理を食い始める。美味い。確かに。
 彼の頭の中では、農民が豚を屠畜している場面と、魔女が執り行う想像上の血生臭い儀式が、完全に溶け合っていた。

 偉丈夫ぞろいの部下たちも、さすがに酔いが回り始めていた。
 農婦が部屋を出てからは、年嵩の部下の発言のせいもあってか、故郷の話題で盛り上がっていた。中には涙ぐんでいる部下もいる。オデュッセウスもまた故郷イタケーに思いを馳せていた。
 まるで夢心地だった。上等な酒を飲むと人はこうなってしまうもの。戦争からこの方味わってきた苦難が夢なのか。そんなことすら考えてしまう。
 故郷の風景は各人の心深くに刻まれている。であるならば、やはりあの戦争の方が、あの混沌の方が、夢なのではないか。神々にもてあそばれる夢。神々の手のひらの上で見させられる夢。
(……酔いが回っているようだ)
 そう自覚しながら、自嘲半分に酒をあおる。
「しかし奴ら遅えな」
「もしかして本当にヤッてたりしてな」
「何い?」
「なんだお前、もしかしてうらやましいのか? あんな肥臭え女に立っちまったのか?」
「馬鹿言うな、主君の前でそんなことになっちゃーいけねえだろ、つってんだ」
「あーわかったわかった」
「なんだてめえ、馬鹿にしてんのか」
 力自慢の二人の口論に野次が飛ぶ。
 オデュッセウスはそんな部下たちの姿に、本音を言えば、うんざりしていた。以前はもっと理性と品格を持った面々だと思っていたが、日を追うにつれ、まるで蛮族のような振る舞いが目立ってきた。
 いつの間にか例の冷静な部下が横に座っている。下卑な喧騒から逃れてきたのか。オデュッセウスは、彼とともにイタケーに帰ることができたならば、彼になにがしかの要職を担ってほしいとまで考えるようになっていた。
 しかし一抹の不安もあった。彼は常に冷静だ。逆に言えば、彼は常に心を開いていない。自分にさえも。忠義を尽くしてくれているのは明らかだが、その本心が見えない。野心のためか。野心でもよい。国が発展するならば動機はなんでも構わない。神を十信仰するならば、時に一の裏切りが必要となる。今の自分の苦境はそのせいかもしれないが、俺は間違ったことはしていないと考えている。
 神を信頼していない、のか、俺も。
 オデュッセウスは頭を強く振る。冷静な部下が自分の方を横目で見ていることに気づく。居住まいを正す。冷静な部下はすでに視線を宙に戻しており、何も言ってこなかった。
 力自慢同士の口論は、腕相撲で決着をつけることになった。床に這いつくばって腕を組む両者。にらみ合い。一触即発。まさに火蓋が切って落とされんとしたその時、あの不快な、扉の開く音が響いた。
 最年少の部下が入ってくる。続いて、扉の向こうの闇から、闇が浮かび上がる。二重の闇。闇の鏡。自分の見たくないところを赤裸々に映し出す鏡。
「ちゅーもおーく!」
 魔女の声が響く。
 闇が柔らかい生肉のように震えたかと思うと、闇という生き物が唾を吐いたかのように黒い物体が踊り出てくる。
 あの農婦だった。いやすでに農婦ではない。
「おお……」
 蛮族たちの戸惑いのごとき歓声が上がる。
 戸惑っているのはオデュッセウスもだった。魔女は着替えていた。黒地のドレス。見たこともない意匠。異国の物か。確かに魅惑的なドレスである。
 しかし戸惑っていたのはそんなところではなかった。魔女は変身したが、とりわけ美女に変身したというわけではない。ただ服を着替えただけだ。彼女自身は何も変わっていない。髪もぼさぼさのまま。おそらく化粧もしていないだろう。
「うわ何この薄いリアクション」
 魔女が眉をしかめて言い放つ。
「いや見違えた! 素晴らしい!」
 わざとらしく年嵩の部下が言い、手を叩く。他の部下たちもそれに続く。
 オデュッセウスもなおざりに手を叩く。いや、確かに見違えてはいる。農婦は美しく化けた。しかし驚くほどのものでもないのも事実。そう、実に微妙なのだ。微妙な変身。どこにでもいる農婦が、何か特別な機会に恵まれ、一生着られないような高価なドレスを着てみました、というだけ。
(お前魔女だろうが)
 部下たちの野蛮な口調に影響されたのか、そんな言葉がオデュッセウスの喉に引っかかる。
「あーうっさいうっさい、よかんべ? こんな機会滅多にあるもんじゃなし。何十年ぶりかだべこんなん着たの。おめらもっそいレアな瞬間に立ち会ってんだべ?」
 魔女の足取りは通常のそれに戻っていたが、顔は赤いままだった。
 魔女は車座の中に入ると、オデュッセウスの前で立ち止まり、優雅な身のこなしで一礼した。
「先ほどのご無礼、大変申し訳ありませんでした。このような土地ですゆえ、歓待には数多くの非礼があったかと存じます」
 口調にしろ身のこなしにしろ、先ほどの農婦とは思えない、立派なものだった。むしろ着替えなどよりこの変わり身に、オデュッセウスは驚いた。
「い、いや、突然訪れたのはこちらの方であったし、あなた方の対応は当然のことと、我々は考えております」
 ある女神に笑われたこともある事務的な口調。社交の場となると、オデュッセウスはどうしてもこんな口調になってしまう。
「んだ!」
 伏せていた顔を上げる魔女。
「そうだべ、いきなしこだら人数でやってくるそっちが悪いんだ。くるとわかってたらこっちだっていろいろ準備したずら。なのにまあ、いつものように肥を撒こうとしたら畑泥棒がいるじゃないか。そりゃ右往左往するわさ」
 どっと笑いが起こる。部下たちだ。「おい、畑泥棒だと」「いやあれはそう言われても仕方ない」「違えねえ」などと、好き勝手に野次を飛ばす。
 そんな部下たちをよそに、もう一度貴人の身のこなしで礼をする魔女。
「拙い宴ですが、どうぞごゆるりとお楽しみくださいませ、オデュッセウス様」
(なぜ私の名を?)
 頭を上げた魔女がふらつく。横に控えていた若造がそれを抱き止める。
「うし、酒だ、ポチ、酒持ってこい」
 そう言う魔女を車座の一角に座らせ、若造が酒を取りにいく。なぜかわからないが、今や彼はポチと呼ばれているらしい。
 一方のオデュッセウスは、酔っ払った脳みそを叩き起こし、フル回転させていた。
 彼女が魔女キルケなのはほぼ間違いない。俺の名を知っていた。おそらく今俺がどういう状況に陥っているかも知っているだろう。しかし、俺たちの来訪が突然だったのは事実じゃないだろうか。もし来訪を予期していたのなら、もう少しましな罠をはり巡らしているだろう。魔女の対応は行き当たりばったりにしか見えない。
 何より自分が酔っ払ってしまったら罠も糞もない。そう言う俺も酔ってはいるが、まだ冷静な判断はできる。いや、彼女は酔ったふりをしているだけかもしれない。先ほどの足取りは確かだった。しかしあの赤ら顔はどうなる? 酒をしこたま飲んでいるのも間違いない事実だ。ふらついた足取りは演技だったのか? ではなぜそんな演技が必要なのだ? 俺たちをあざむくためか? ならばなぜ今その演技を中断したのだ? いや違う。あれは明らかに無理をしていた。むしろちゃんとした足取りの方が演技だ。
 そんなことはどうでもいい。問題はそんなことじゃない。
「で、お前ら何発ヤッたんだ?」
 髭面の部下の揶揄に、ポチと呼ばれている若造が反論する。
「ヤッてません!」
 魔女が手をひらひらさせながらポチを擁護する。
「こいつだめだ。意気地がねえ。着替えてる間ずっと目えつぶってただ」
「なんと、もったいねえことしたなあ、おい」
 ガハハと髭面が笑う。
「ほんともったいねえ、こんなうら若い体を前に」
 魔女がちらりと胸をはだける。荒くれどもの視線が集中する。
 中身は全く変わってないのだが、農婦姿の時と比べ、明らかに男たちの興味の種類が変わっている。
 あれは農婦だ。中身は農婦のままだ。変わったのは服だけだ。服だけの変化に部下たちの視線は左右されている。お前たちはどこを見ているのだ? よく見てみろ、そのドレスだってところどころに虫食い穴が開いてるじゃないか。「滅多に着ない」という彼女の言葉は真実だろう。お前たちの見方では真実は見えない。うわべではなく中身を見ろ。そう、中身だ。肉体の中には、ちょうど今俺たちが食っている臓物が……、違う、そうじゃない。その中身じゃない。
 オデュッセウスは目をそらす。しかしどこに目を向けても、あのみすぼらしい豚小屋の臭いが臭ってきそうだった。
 たまらず視線を上に向ける。
 天井近くに開いた窓から夜空が見える。星は見えない。雲がかかっているのだろう。よくよく見れば凹凸がある。夜だから雲に見えないだけだ。夜空はうねっている。闇の鏡は平面ではない。滑らかではない。無数の巨大な黒い蛇が蠢いている。
 臓物のごとく。
 それをさばく魔女。いやあれはただの農婦だ。どこにでもある風景だ。そうだ。これはどこにでもある風景だ。だから夢じゃない。
「血の雨」
 魔女が臓物にナイフを突き立てる。夜空から黒い血の塊が降り注ぐ。
「糞尿の雨」
 そのままナイフを横切らせる。腸が裂け糞便が降り注ぐ。
「お前が向かうべき世界」
 魔女の含み笑い。
 ……酒に何か入っているのか? いや部下たちは何も見えていないだろう。彼らは魔女の浅黒く焼けた肌に見惚れている。
 オデュッセウスは自分の腕をさする。粘っこい汗。粘っこいが血でも糞便でもない。
 飲みすぎだ。
 そう結論づける。
 あれは酒が見せている幻覚だ。隠さなくてはいけない。
 臓物の夜空を白い布で包み隠そうとする。シルクの感触。合わせ目を糸で縫う。針を刺すたびシルクが揺れる。当然だ、内臓を刺しているのだから。柔らかくてきめ細かくて白いシルク。優しい肌触り。これはなんだ? シルクだ。そうだ、肌だ。柔らかくてきめ細かくて白い肌。自分を包み込む肌。縫い針はやがて細い首筋に到達する。これは……、
 妻ペーネロペーの肉体が目の前に転がっている。生きているのか。かすかに痙攣している。しかし視線は宙をさまよっている。生きてはいるが魂がこもっていない。
 これはただの肉だ。ペーネロペーと呼ばれているだけの肉塊だ。
 馬鹿な!
 思わず視線を部下たちの狂態に向ける。いつの間にかあの冷静な部下までもが、輪から離れてはいるが、無表情ではあるが、魔女の浅黒い肌に見惚れている。いや、肌の向こうを見ているようでさえあった。肌の向こうにあるのは、臓物……。
 オデュッセウスは強いいら立ちを覚えた。怒りと言ってもいい。
 魔女は四つん這いで車座の周囲を飛び跳ねている。そのうしろを、腕相撲をしていた部下が、これまた四つん這いで追いかけている。そういう鬼ごっこでもしているのか。畜生の鬼ごっこ。
 部下の右手が黒いドレスの裾をつかむ。太ももが露出する。筋肉が踊っている。
 なんて汚らわしい。
「キルケ殿!」
 抑えたつもりだったが、自分の声が震えていることにオデュッセウスは気づいた。
 喧騒が静まる。部下たちの目に理性が戻る。目の前にいるドレスに着替えた農婦が、魔女キルケであることを思い出したのかもしれない。
 鬼ごっこをしていた部下が、裾をつかんでいた自分の手を見て、思わず床になすりつける。
 しまった、とオデュッセウスは思う。魔女は今の行動に気づいただろうか。
 オデュッセウスは言葉を続ける。
「キルケ殿、話がある」
 魔女は四つん這いのままオデュッセウスに近づく。先ほどのふらついた二足歩行より安定している。足が四本になるわけだから当然、なのか。
 オデュッセウスの足元に腰を下ろす。顔の正面に股間がある体勢。
 そこから自分を見上げる赤ら顔。目が潤んでいる。酔っ払っているのは確かだろう。
「ぷひゃっ! オデュさん顔真っ赤!」
 魔女が吹き出す。笑い転げる。我に返った部下たちはそんな二人をぽかんと見つめている。
 まるで犬が格上と見なした相手にそうするがごとく、魔女は仰向けに寝っ転がる。オデュッセウスの足元で。
 魔女の息は荒い。さっきまで鬼ごっこしていたせいだろう。腹部が上下している。体に密着した黒いドレスが、汗をかいたように光っている。皮膚と溶け合っているかのようだ。いや、単に生地にそういった素材が織り込まれているだけだろう。
 ペーネロペーという肉塊をくるんでいたシルクの縫い目が、ぷち、ぷち、と裂けていく。
 オデュッセウスは目をそむける。裂けた縫い目の向こうに、なぜかもがき苦しむ女の顔が見えたような気がしたからだ。血まみれで誰だかわからぬが、まるで拷問を受けているかのような……。
「何か御用でしょうか」
 振り返ると、二本足で立っている魔女がいた。頭を下げている。表情は見えない。
「二人きりで話がしたい」
 事務的に答えるオデュッセウス。
「そうですか、では、二階にバルコニーがございますので、そちらへご案内しましょう。わたくしも少々飲みすぎてしまいました。夜風にあたれば酒精も抜けるでしょう」
 ゆったりと身を翻し、歩き出す魔女。どちらが演技なのだろう、とオデュッセウスは思う。しかし数歩歩いただけで魔女はふらつく。やはり二本足より四つ足の方が歩きやすいようだ。
 そんな魔女を見て、ポチと呼ばれている部下が魔女にかけ寄ろうとする。思わずオデュッセウスは「おい」と彼を制する。
 ……自分はなぜ彼を制したのだろう? 魔女の化けの皮をはいでやりたかったのか? いや充分はがれている。むしろ彼女は皮の内側を見せつけている。
「ポチ」
 魔女が若者を呼ぶ。あてつけか。魔女が若者に何か言い渡すと、若者は走って部屋を出て行った。まるで犬だ。自分がなついている主人にかけ寄ろうとすると、もう一人の主人に制され、意気消沈していたところに、なついている方の主人が声をかけてくれた、というところか。
 魔女がこちらを振り向く。
「少々お待ちくださいませ」
 そう言ったかと思うと、また足がふらつく。誰も助けようとはしない。魔女は近くにあった柱にもたれかかる。まるで、愛しい恋人に寄りそうがごとく、柱に抱きついている。
「きもちいー……」
 たとえば、酒をしこたま飲んだ時、床や壁にはりつくと、その冷たさが心地よく感じることはないだろうか? おそらくこの時の魔女はそのような状態だったと思われる。
 一方のオデュッセウスは、いらいらしていた。何のため待たされているのか問おうとした時、若者が帰ってきた。
 若者は魔女に何かを渡して、車座に戻っていく。魔女はオデュッセウスを手招きする。
「なんだ一体」
 魔女は小さな瓶をオデュッセウスに差し出す。
「酔い覚まし」
 魔女の手にぶら下がった小瓶を見て、オデュッセウスは機転を利かす。
「薬か」
「まーそんなもん」
「もう一方の手にあるのは?」
「こりゃあたしの分だ」
「同じ薬か?」
「んだ」
「ならそちらをいただけないか」
 魔女は一瞬きょとんとしたが、すぐに意味を飲み込んだらしく、鼻で笑うような表情をする。
「用心深いこって」
 魔女はもう一方の手にあった小瓶を差し出す。オデュッセウスが受け取る。しかしすぐは飲まない。魔女の動向を見定めてからだ、などと考えている間にも、魔女はあっさり小瓶の栓を抜き、中身を一気にあおった。
 魔女は顔をしかめる。
「……相変わらずまっず」
 などと言ってゲップをする。
 それを見てオデュッセウスも栓を開ける。臭いを嗅ぐ。薬っぽい臭いだ。
「一気に飲んだ方がいいぞ、良薬口に苦し」
 言われた通り一気に飲み干す。とても苦い。それに酸味がする。胃から内容物が逆流しそうになるが、一度こらえると平気だった。口の中の苦さは残ったままだった。
 オデュッセウスの表情の変化を見ながら、魔女がくっくっく、と笑う。
「胃腸の薬も配合しとるでな、しばらくしたら腹ん中もすっきりすっべ」
 ふらふらと階段に向かう魔女。「水も持ってきてもらやよかった」などと言いながら。
 オデュッセウスは彼女のあとをついていく。

(続く、多分)

からっぽの体

 それがそうであるためには炸裂してなければならない。
 それが質量である。

 こんなフレーズが浮かんだので、そういう小説を書こうとした。実を言えば、小説を書こうとしている僕自身が小説の中の登場人物なのだが。
 いわば、小説の中の登場人物が、実際の書き手を登場人物にして小説を書こうとしているわけである。
 メタ小説などと言うものになるのか。しかしメタ小説は実際の書き手から離れている感触を受ける。であるならば、メタ小説に対抗するための反メタ小説、などと表現できるものになろうが、そこまで深く考えていない。
 実際、僕はわりとメタ小説が好きだ。映画や演劇もメタになっているものが好き。メタが好き、というわけではないが、いろんな好みの小説や映画や演劇の中に、メタが数個混じっている、ということであり、別にメタに偏執しているわけではない。
 たまたま僕が書こうとした小説が、「ああそう言えばメタ小説的なものと言えるだろうか、どうでもいいけど」というような程度で思いついただけのことであり、先の文章は深く考えないでほしい。

 ここで一つ断っておかなくてはならない。僕は自分を書いている書き手について何も知らない。知っていたら、そいつと話し合うなどして、今自分が置かれている生活環境を改善させたりできるだろう。知らないからできない。僕はこの先起こる物語の続きを知らない。
 知らないのにどうやって登場人物にするのか。これが一番の問題である。至極当然の問題である。
 馬鹿げていると自分で思う。しかし、冒頭の「質量」が、それを書かせようとしている。いや、この「質量」が発する万有引力に、だろうか。そうであるならば「質量」こそが僕の知らない書き手となるだろうが、僕は「質量」を、知っているとは言えないが、知っている。言語化できないそれの存在を知っている。それは平たく言えば、不快や苦痛と呼ばれるものである。
 であるならば、僕を書いている書き手とは不快や苦痛の根本的原因、となるわけだが、どうだろう? うん、これを仮に採用して進めてみよう。
 ああ、一つ補足しておかなければならない。今は便宜的に「書き手」と表現しているが、おそらくそれは、人間ではない。

 わたしが彼女を見つけたとしても、彼女はわたしを見つけられない。なぜなら僕の世界にわたしは存在しないからだ。
 わたしは痙攣している。痙攣している人体がわたしなのではなく、痙攣自体がわたしである。
 彼女が住む僕の世界では、わたしそのものは見つけられない。だけどわたしを表象するものならばときどき見つかる。
 たとえば脳波。異常な脳波として見つかる。もちろん、異常さが微細すぎて見つからない場合だってある。微細だからといってわたしが存在しないわけではない。わたしの影響が弱いとは限らない。たまたまそいつの脳波という表象が、わたしを照らさなかっただけである。サーチライトの影にわたしはいる。
 彼女の場合、わたしを風の中に見出すことがある。曇り空の中に見出すことがある。彼女が野糞していた時、聞こえた木々のざわめき中に、わたしは見出される。この時彼女は脱糞しながら糞を体内に戻している。

 書き手が僕を侵略している。少し休憩しよう。
 僕は田舎で育った。田舎にもいろいろなレベルがあるが、結構な田舎だと思う。僕が小学生の頃は、いまだ外風呂で五右衛門風呂で外便所だった。子供の頃は怖くてよく母についてきてもらった。小学生くらいには慣れてしまったが。
 まず小便器が家の中にできた。これだけでも大発展だ。父の書斎も離れにあったのだが、そこと母屋を繋げる廊下を増築し、途中に便所と風呂を備えつけた。
 文明開化である。
 しかし僕はこの増築には多少の不満があった。僕は父の書斎を秘密基地のように思っていて、そこで意味のわからぬ難しい本を読むふりをしながら、一人の時間を満喫していた。
 母屋と繋げてしまうと、秘密基地としての魅力がいっさい失われてしまったように思えた。便所にくる祖母の足音、不用意なドアの開け閉めの音、いろんな雑音が入ってくるようになった。
 何より、その風呂場には、化け物が住んでいた。僕は「髪の毛ババア」と呼んでいたのだが、長く大量の黒髪が湯船に浮かんでいる。しかし中にいるのは黒髪に似合わぬ老婆だ。
 この妄想にはネタがある。小学校の近くに「髪の毛ババア」と呼ばれる老婆が住んでいたのだ。腰まである長く艶やかな黒髪をしたしわくちゃの老婆。いくら小学生でもそれがカツラであることがわかる。
 大人になってから、この老婆が、昔火事に遭い頭皮を大火傷していたことを知った。
 子供とは残酷だ。よく老婆に向かって
「髪の毛ババア発見しました! 総員退却!」
 などと言って逃げたりした。もちろん僕もその一人だった。
 しかし子供の言い分だってあるだろう。子供たちは、そんなことを言っても何も怒らず無口なままの老婆に対し、怯えていたのだと思う。だから退却していたのである。
 だから僕は湯船にババアを沈めて殺した。
 祖母は湯船に浸かりながら死んだ。
 火事に遭ってそうなったのだから、むしろバランスの取れた死に方だと思う。
 祖母が死ぬと、父は書斎にこもることが多くなり、僕の秘密基地は完全に存在しなくなった。
 別に祖母や父を恨んでいるわけではない。友人と山の中に作った秘密基地も、いつの間にか自然消滅した。今ではそこにコンビニが建っている。

 侵食するんだよね。股の下から生えてきた木がわたしを貫通し、頭という花を咲かせる。花はいずれ枯れる。ぽとりと椿のように落ちる。
 それがいやで、逃げ出したいんだけど、陰部から侵入してきた木は、わたしの体内に枝を伸ばして、なかなか抜けない。これを抜くことは体をからっぽにすることだ。
 からっぽの体。
 それが僕。

人間らしさという洗脳

「あなたは他の誰かを守りたいのよ」「あなたは他の誰かを守りたいのね」「あなたは他の誰かを守りたいのでしょう?」「あなたは他の誰かを守りたがっている」「あなたは他の誰かを守りたいだろう」「あなたは他の誰かを守りたいんですね」「あなたは他の誰かを守りたいのだな」「あなたは他の誰かを守りたいに決まっている」「あなたは他の誰かを守りたいのさ」「あなたは他の誰かを守りたいと思っている」「あなたは他の誰かを守りたいのだ」「あなたは他の誰かを守りたいのよ」「あなたは他の誰かを守りたいのね」「あなたは他の誰かを守りたいのでしょう?」「あなたは他の誰かを守りたがっている」「あなたは他の誰かを守りたいだろう」「あなたは他の誰かを守りたいんですね」「あなたは他の誰かを守りたいのだな」「あなたは他の誰かを守りたいに決まっている」「あなたは他の誰かを守りたいのさ」「あなたは他の誰かを守りたいと思っている」「あなたは他の誰かを守りたいのだ」「あなたは他の誰かを守りたいのよ」「あなたは他の誰かを守りたいのね」「あなたは他の誰かを守りたいのでしょう?」「あなたは他の誰かを守りたがっている」「あなたは他の誰かを守りたいだろう」「あなたは他の誰かを守りたいんですね」「あなたは他の誰かを守りたいのだな」「あなたは他の誰かを守りたいに決まっている」「あなたは他の誰かを守りたいのさ」「あなたは他の誰かを守りたいと思っている」「あなたは他の誰かを守りたいのだ」「あなたは他の誰かを守りたいのよ」「あなたは他の誰かを守りたいのね」「あなたは他の誰かを守りたいのでしょう?」「あなたは他の誰かを守りたがっている」「あなたは他の誰かを守りたいだろう」「あなたは他の誰かを守りたいんですね」「あなたは他の誰かを守りたいのだな」「あなたは他の誰かを守りたいに決まっている」「あなたは他の誰かを守りたいのさ」「あなたは他の誰かを守りたいと思っている」「あなたは他の誰かを守りたいのだ」「あなたは他の誰かを守りたいのよ」「あなたは他の誰かを守りたいのね」「あなたは他の誰かを守りたいのでしょう?」「あなたは他の誰かを守りたがっている」「あなたは他の誰かを守りたいだろう」「あなたは他の誰かを守りたいんですね」「あなたは他の誰かを守りたいのだな」「あなたは他の誰かを守りたいに決まっている」「あなたは他の誰かを守りたいのさ」「あなたは他の誰かを守りたいと思っている」「あなたは他の誰かを守りたいのだ」……




「わかります。私もそうだから」