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西洋近代の自己同一性問題と物語を生きる人間について~ロマンティシズム宣言
http://ameblo.jp/petronius/theme-10002674514.html


>人間は、物語を生きる存在であり、

物語と現実というのは本質的な部分で区別がつかないものなんです


前回、こう書いた。これは僕の信念であり、現実という過酷な海を渡る僕の羅針盤となっている考え方で、抽象的な概念ではなく、僕の生き方の指標なんで、これを学問的抽象的に批判されることがあっても揺らがない。ことの正しさはどうでもいい次元の話だからだ(笑)。


■体内で信念と化したものと、ただの記号の違い


「知」は、


①その信念を胸に抱き体内に飲み込んでい生きるモノ



②ただ単にロゴスの世界に浮かんでいる抽象的なモノ



と二つがあるように僕はいつも感じられる。


②の世界は、相対主義の世界。真っ白な秩序も構造も順序もない世界に、記号が浮かんでいるイメージ。でも、②から自分が好きなものを選び出して絶対化の決断をして、そして現実の過酷さにさらされることによって、どこにでもあり、優先順位もないどうでもいいものである②の「知」・・・・記号が、唯一無二の「替えが聞かないもの」へと昇華していくこと・・・・自分自身の力でさせること、、それが生きるってことなのかな、と思う。そして、もちろん忘れてはいけないのは、②には可能性や選択肢は無限にあるけれども、すべては選べないということだ。選ぶということは、他の選択肢を否定していくこと。


話がずれた。


まっ、ようは、その概念を「生きる」ということと、「その概念そのもの」ってのは、違うってことです。


閑話休題



■現実を至高のものとする価値判断は正しいのか?


これが出てくると、物語と現実、虚構と現実、ロマンティシズムと現実、二次元と三次元、についての態度をどうするのかってのが問題になってきますね 。一方はファシズムに繋がったり、また一方は本田透さんの電波男のように現実からの逃避への言い訳に繋がったりと(笑
質問のメール


この記事を書いたときにメールで上記のようなサジェッションを受けた。実は痛い部分であった。ようはね、物語を生きるといった時点で、「いま生きている現実」を最優先にするという、「至高の現実(パラマウント・リアリティ)」論は、否定されてしまうんですよね。だって、優劣差異がないと言っているんだもの。


しかしながら僕は、実は、自分の人生の中で、


「自分自身が物語の主人公であること」


そして


「至高の現実の体感の世界で世界を獲得していくことが、もっとも価値が高い」


を大前提とした議論を展開しており、まだまだ説明不足&追及不足ではあるが、「ナルシシズムの地獄」という概念で、人間が「至高の現実(paramount reality)」以外の世界で生きることは地獄であるという価値判断をの既にしているんですね。


僕のブログでの意見やいつもしゃべる内容には、実は絶対的な矛盾が存在しています。

実は気づいていたんですが(笑)。。。。それは、



A:「至高の現実(パラマウント・リアリティ)」を最優先すべきであるという強い実存主義的態度


と、、、


B:しかし同時に「多元的現実(multiple realities)」で世界の優劣は存在しない



と主張しているのです。


まぁ論理的には、、、というか結論として、Aが最優先されてそれを基礎的ベースにBがリンクされて構造的に世界を体感しているという議論は云うことは云えますが、、、、、


もう少し歪曲してシンプルに質問を変えてみると


*********


現実と虚構に差がないと考えるならば


現実を選択しなければならない理由はどこにあるのか?


どこが、異なるものなのか?



*********


という疑問です。


>「現象学的社会学」を提唱したアルフレッド・シュッツによれば、我々は通常「現実」として理解されるような単一の現実を生きているのではない。私たちはむしろ「多元的現実(multiple realities)」と呼ばれる、互いに矛盾しあうことのない、いくつもの現実を生きていると捉えられる。例えば少女がママゴトをして遊んでいるとき、少女にとって、抱きかかえている人形はまさに彼女の子供で、少女はそのとき母親になっているのだ。


 そういう多元的現実のうち、他の意味領域に対して基礎的な位置を占める日常生活世界の現実のことをシュッツは「至高の現実(paramount reality)」と呼び、我々の経験の基礎的な原型がここで構築されることを主張した。また日常生活の世界は、我々が他者とコミュニケーションを通じて関わり合うような「間主観的」な世界でもある。かつては社会学の内部でも「仕事の世界」と呼ばれたように、至高の現実は、物理的な因果法則によって我々が世界との関わりを経験するような現実だと考えられていたが、オンライン上でのコミュニケーションが可能になった現在、「至高の現実」を、いわゆる物理的な現実に限定することにどれほどの意味があるだろうか?
http://internet.watch.impress.co.jp/www/column/socio/socio11.htm
社会学の理論で斬る「ネットの不思議」



a

現象学的社会学


アルフレッド・シュッツ, 森川 眞規雄, 浜 日出夫


次へ続きます。別に僕もわかっているわけではないので(笑)。


まぁなんといっても、本田透さんのテーゼに精確に反論しないといけないですよね、わかりやすく。いやーみんな、本田さんの意見を稚拙だとか、限界あるとか言うんだけれども、すっごいわかりやすく、精確に否定した意見を見たことがないんですよねー。いや、確かになんとなくだめなのはわかるんだけれども(笑)。

   

でも、それって、信用できない。自分の頭で考えた実感しか僕は信用できない。とりあえず、僕は頭悪い(=飲み込みが遅い)ので、僕は、「わかった!」というまでに時間がかかるし、抽象的な論理だけでは身体が納得しない。いや抽象的にはシンプルに否定できるんだろうけれども(苦笑)。ただ、体感から出てきた言葉でないと、なんか不誠実な気がするし、信用できないです。


彼の投げかけている疑問は、実は抽象的議論ではなくて、体感の問題だから。体感として、こんな現実を生きていても仕方がないだろう!と言い切られると、それは実は僕も否定できない。僕もそう感じているんで、感じたことは、頭で精密に否定してそれ以外の選択肢を考えないと、僕自身が納得できない。


いまだ僕の体感は、上記のAとBを並列に受け入れていて、必ずしもAが最優先であるとは思っていな節がある。これは、正しさの問題ではなく、体感の問題。


これって、、、このモヤモヤってしたものって、、、、なんだろう???と日々考えます。



■関連記事


「魂」の話・瞬間物質移動機①


「魂」の話・物体瞬間移動機②


「魂」の話・物質瞬間移動機③


『本と映画と、ときどき仕事』のまぎぃさんより

http://blog.livedoor.jp/magimagi7/

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