テーマ:


天使とダイヤモンド  


評価:★★★★星4つ

(僕的主観:★★★★星4つ


■あらすじ

かつて都立高野球部(都立高校が甲子園に出場したなんてほとんど切ったことがない快挙・・・一度国立高校が出たのを聞いたような気がするが・・・)のピッチャーとして甲子園に出場した加野圭吾は、大学を卒業し、高校二年生の古典教師として赴任することとなる。


そこには、いとこで双子の大沢開・大沢七美のがいた。二人は、子供時代に圭吾の甲子園での姿が忘れられず、いとこの圭吾に野球部の顧問になってくれと要求し、こういう。



「圭ちゃんと一緒に甲子園へ行」くことを5年間夢見て努力してきた、と。



開が小五の時ゼンソクの治療のため療養学校に移って以来、会っていたなかった圭吾だが、彼らの強い要請に悩みつつも、結局顧問を引き受ける。実は、圭吾が、死ぬ思いで出場した甲子園の一回戦で、歴史的惨敗を喫してしまい、歴史に残る笑いものになっていたのだ(これは実際にあった話)。がんばってやったが、余りに厚かった甲子園の壁。いまでも、そのことを思い出したなかった圭吾だが、それを振り切ってがんばろうとする。

 そして、甲子園を目指すための部員が揃いはじめるが、そのチームメイトである、少年野球のエースだった七美や、喘息で苦しんできた体の弱い開や、彼の診療所時代の友人だった久保田など、それぞれの思いが同時に語られていく。


これは、いってみれば、タッチと同じ構造なんですね。モチヴェーション自体は。

 
あだち 充
タッチ 1 完全版 (1)  

ただ、実は、僕の世代にはめずらしく僕は南ちゃんが大嫌い(笑)。かわいいと思ったことが皆無なんです。あんな男に何かを期待するような女のどこがいいんだ!(笑)と、中学ぐらいから、嫌っていました。甲子園に行きたいならば、男に『つれてって』とかぬかすな!(笑)と、ムカついていました。もちろん、女の子が甲子園に出れないのは分かっていますが、でもなんか、他人に何かを期待する姿勢は大嫌いなんです。




■喪失と成長/男の子になれなかった少女


僕は、那須雪絵さんの『天使とダイヤモンド』と榎本ナリコ『センチメントの季節』 の中にある短編『永遠の少年』がとても強く印象に残っていて、大好き。映画サッカーをやりたくしょうがない英国のインド人コミュニティーの少女を扱った『ベッカムに恋して』もそうだ(この題名の邦題のつけ方にも文句がある。本当は、ベッカムのように曲げろ!が正しい)。

   



それは、これらの作品が男の子になれなかった少女たちがテーマだからだ。


「男勝りの才能を持っているのに、成長して女になってしまったばかりに、男の子(主人公)と同じグラウンドに立てなくなる女の子をみるとぐっと来る」


あとがきで、榎本ナリコさんは、永遠の少年いついてこう評している。これは、単純にいえば、男の子的なモノへ憧れた少女の断念と喪失が主要なテーマで、であるが故に、普遍的に


「人生での喪失と断念」


という男の子的に云えば去勢のテーマとも重なるんです。そこには、あきらめ、悔悟、それでも捨てきれない希望、といった、とても成熟していながら、まだ夢を捨てきれない健気さに溢れています。


ちなみに喪失感を一番わかりやすく描いた最近の作家では、村上春樹さんの『回転木馬のデットヒート』だと思う。歴史的に見ると、1920年代のフィッツ・ジェラルドなんかが僕は一番上手いと思う。ちなみに下記の春樹の書評のテーマは、僕が本を読むときに最も深く考えるテーマで、短いけど、なかなか傑作だと思っているんですが・・・(笑)。↓

■回転木馬のデットヒート

http://ameblo.jp/petronius/entry-10001795047.html  




この『天使とダイヤモンド』は、登場人物たちの喪失感と成長が描かれますが、とりわけ、少年野球のエースだった七美の屈折が、僕には、胸に突き刺さった。



「だって、私は公式試合には出れないんだよ!」



彼女をめぐる話は、とてもキツイ話ばかりなのだが、もと診療所に隔離されるほどデブだった久保田くんは過酷な減量しキツイ訓練に耐え、最期にエースとなってプロにまでなるのだけれども、七美はその彼と結婚するという設定になっていた(ほんとに最後の最期の一ページに書かれているエピソード)。



・・・・・・・男の子を目指した少女たちは、みんなあきらめて主人公(=男)の彼女とか奥さんに収まってしまうんだよね。それって悲しいね。



と、どこかで誰かが書いていたが、僕もそう思う。


それを振り切った、『ベッカムに恋して』の主人公に喝采を叫びたくなるのも、その悲しさが念頭にあるからだ。でも、あれは恋人が、足が悪くてプロを辞めざるえなかった少女サッカーチームイングランド代表の監督で、自分の仕事のサポートに回ってくれる男性であったから、、、つまりは、通常の男女の主客関係が逆転していたからできたことであって、普通はできない。


いまの世の中は、男女関係なく、家庭や恋人関係ではフロントとバックにわかれるのが安定した形だと思う。いや、別に家庭や恋人に限らず、だが。僕は、お互いが平等なんて簡単には信じない。なぜなら、夢を追う行為とは、他人を切り捨てる行為と同義だからだ(ロックスミスだ!)。そんなに世界は甘くない。だから、必然的に前え進むモノとサポートという役割分担はできてしまう。そのどちらかがた偉いという価値判断は抜きにしてだ。


前線で戦うものとバックヤードで補給を維持するもの、この形態は、すくなくともいまの核家族形態では普遍的で、性別に関わらずこの構造に落ち着きやすい。


とすれば、当然現実の男尊女卑の社会構造から、女性がバックヤードに押し込められやすいし、かといって、そこから前へ出て戦うのも、単純に男性が戦うよりも社会的プレッシャーはデカイ。難しいことだと思う。だから、夢をかなえ自分をまっとうしたいと願う個人(女性)にとっては、女性であるほうが息苦しい社会である事実だろう。同時に、常に前に行くことばかり要求される男性的価値観の中で、ボロボロになった男性が自殺しやすかったりゲイに転向しやすいのもまた理解できる。


とはいえ、そういった不可能性に挑戦するからこそ、女の子が男の子のスポーツや物語の主人公を目指す行為には、ロマンチシズムが宿り、物語としてはすごく面白い、と僕は思う、まぁ、面白いで片付けられる問題ではないが。これは、少女が男の子的価値観の主人公になることの難しさが、表出されているロマンチシズムなんだと思う。

ちなみに、那須雪絵さんの全作品には、この性差による違いの断念がよくテーマに上がっていて、僕は興味深い。



■永遠に時間が止まった空間と性差のない世界


本来、那須雪絵の代表作といえば、なんといっても男子高校の寮生活を描いた『ここはグリーンウッド』だ。僕も大好きで、何度この作品を読み返したか知れない。あまりに男くさい男子寮がかっこよくて経験してみたくて、京都大学に行った友人に頼み込んで、2週間ほど遊びに行って潜り込んでいたことがあったくらいだ(笑)。まぁ京都観光兼ねてだけどね。もう、取り壊されてなくなったそうだ。残念。。。

ここはグリーウッド05.11②  

この作品は、僕がネギまでいう、永遠に止まった時間の回帰という物語構造の典型的な作品。

このことについて書いた書評↓

http://ameblo.jp/petronius/entry-10001762193.html  


それが、男子寮というところに、すごく納得させられる。というのは、性差に敏感で、本人自体も子供の頃野球チームに属していたという著者の那須雪絵さんいとって、性差が性差として表れてこない、認識しないで住むという空間がある意味ユートピアとして感じられるわけで、それには、「男子寮」という学園のしかも、少女が出てこない異世界というのが、最も典型的に楽園願望を満たしてくれる舞台設定になる、というのは必然であったと思う。


この作品は、ジュネものやBL(ボーイズラブ)といわれる、男同士の恋愛を描く今の巨大マーケットとして成長としたジャンルの嚆矢として語られるのも、頷ける。まったく、そういった男性同士の恋愛なんていう要素は皆無であるにもかかわらず。


これは、女性の社会進出と男女機会均等法、男女平等教育が一般化した時代以後の、それでも簡単には動かない女の子的価値観と、男尊女卑の社会構造から必然的に導かれるサブカルチャーの回答であった気が、僕にはする。


男性的マッチョな「前え進む」進歩的価値観が強すぎるが故に、そんなご立派な男性!になれない、少女たちは性差がない無菌空間に逃げ込み、そもそもいくら男性でもそういった厳しい競争に打ち勝つことのできない男の子たちは、その競争から「下りて」オタク的な萌えの価値観の中で永遠に戯れて現実を直視しないことを選んだのが、80年代以降の日本社会な気がする。


全部、ただ「そんな気がする(笑)」だけなのだが。




最近の、つなさんとらさんの下記の書評を読んで、そんなことを考えた。


■傭兵ピエール 男の論理 女の論理 (日常読んだ本blog)

http://ameblo.jp/tsuna11/entry-10006019688.html  


■プラテネス(3) イイ女 ワルイ女 (手当たり次第の本棚)

http://ameblo.jp/kotora/entry-10005709499.html  




那州 雪絵
天使とダイヤモンド 1 (1)  
 
那州 雪絵
天使とダイヤモンド 2 (2)  
 
那州 雪絵
それからどしたの仔猫ちゃん―天使とダイヤモンド完結編収録  
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テーマ:
月山 可也, 伊賀 大晃
エリアの騎士 6 (6) (少年マガジンコミックス)

************

『エリアの騎士』は、ヒロインの美島奈々がサッカーしてる回だけじっくり読んでしまいます。以前のアンケートで、「今後のエリアの騎士に期待するもの=美島奈々の活躍」と書いて送っただけのことはあったというものです(愚)。

http://d.hatena.ne.jp/izumino/20071121/p1

ピアノ・ファイア/いずみのさんより

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きみとは本当に意見が合うねーいずみのくん(笑)。愚とか、かいちゃダメです。まさにまさに、そうです!!!!。僕エリアの騎士なんて、奈々ちゃんしか見ていないもの(爆)。



今週の、奈々ちゃんのサムライブルー姿に、もう胸が張り裂けそうです(笑)。



ほんとヤバいって。ちょーかわいい。


僕がなんで、こんなに興奮するかは、ほんとぉぉぉぉーーーに僕のブログを読み込んでいてくれる人ならばわかるかもしれない。映画『ベッカムに恋して』や、榎本ナリコさんの『センチメントの季節』4巻の「永遠の少年」や、那須さんの『天使とダイヤモンド』を読めば、わかってもらえるだろうと思う。


奈々ちゃんを、ここからどこに持ってくかが、僕には見ものです。



あだち 充
タッチ (1) (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉)
あだち 充
クロスゲーム (1)

ちなみに、この類型あだち充の『タッチ』的なものへの大きなアンチテーゼになっているのではないか?って僕は思っている。そしてあだち充自体が、『クロスゲーム』で、それを何とか越えようとしている。



『センチメントの季節』榎本ナリコ 永遠の少年~断念を共有するやさしさ
http://ameblo.jp/petronius/entry-10001730819.html


榎本 ナリコ
センチメントの季節 (4) (Big spirits comics special)
那州 雪絵
天使とダイヤモンド 1 (1)
那州 雪絵
天使とダイヤモンド 2 (2)
那州 雪絵
天使とダイヤモンド (白泉社文庫)
パンド
ベッカムに恋して
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TONO
カルバニア物語 2 (2) (アニメージュコミックス キャラコミックスシリーズ)

評価:★★★★星4つ(ただし9巻以降を考えると★5つ)

(僕的主観:★★★★☆星4つ半)


海燕さんとさくもさんのおススメで、気になっていたのだが、書店にどこにもおいてなくてやっとアマゾンで注文して買いました。素晴らしい。また素晴らしい物語に出会えました。ちなみに10巻の「公爵の日」は、ツボだったようで、僕は号泣しました。横で見ていた妻が、どうしたの?と不思議な顔をしていました。


************

タイトルからわかるとおり、この作品の舞台はカルバニアという架空の王国。まだ十代の王女タニアが、この国で初めての女王として即位したあたりから、物語は始まる。

 口うるさい貴族やら老臣やらに支配された王宮で、タニアが心を許せるのは、親友の公爵令嬢エキューだけ。

 古くさい慣習やしきたりと悪戦苦闘しながら、ふたりは少しずつ女性の地位と権利を確立していく。ある種、フェミニズム的といえなくもないけれど、堅苦しく考える必要はない。

 ときには頭の固い男たちと衝突しながらも仕事に励むタニアたちの姿は、ほとんど現代のOLそのもの。何も考えなくても十分楽しく読めると思う。

 この作品がフェアなのは、ふたりの少女を囲む男性たちが、たんなる型通りの性差別主義者ではなく、それなりの思想と良識をそなえた大人である点。


中略


かれらは、エキューの夢にとって障害ではあるが、しかし、決してただ保守的なだけではない。エキューやタニアに匹敵する深い内面のもち主として描かれている。

 もちろん、きびしく見ていけば、タキオの主張はパターナリズム(父性的温情主義)に過ぎないし、ライアンはバイセクシュアルであるにもかかわらず、「結婚」という異性愛的制度に囚われている。

 しかし、こういった男性たちの態度のリアリティこそが、この物語をシンプルな「女の子の自立物語」以上に奥深いものにしているといえるだろう。


□ファンタジィは女性をどう描いて来たか。Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070915/p2

*************


僕は、なるべく女性差別主義者ではありたくないな、とは思う。けれど、人間は、自分が「その立場」にならなければ、想像力が及ばないことは多々あるものだ。人間は弱いく小さい。どんなに理論的に抽象的に平等などの「正しい」価値観を叫んだところで、なかなか自分の「立場・役割」を超える想像力は持てないのが卑小な人間だ。かといって大上段に私は、差別を許さない!とか、逆に男よりも攻撃的な女性フェミニズムの闘士の人々を見ていると、なんて自然体でないのだろう、とも思う。なんというか、あまりに人工的なにおいがする。まぁ社会構造がそういう差別構造を支えている場合には、そうやって振り子が振り切れたような極端な態度や生き方こそが、野蛮に大きく世界のドアを開くのであろう、とは思う。そしてそれは勇気だとも思う。それは、火花のように華々しい美だ。


・・・けれど、本当は、なぜ戦うの?といわれれば、それは、誰もが自分らしく(これも手垢にまみれた嫌な言葉だが)自然体に生きるために決まっている。自然体に生きるために、無理をしなければいけないなんて、なんて大変な世界なんだ、人間の生きる世界は・・・。本当は、華々しく散る火花ではなくて、穏やかに長くともりつづける夕方の電燈でありたいものだなー、と僕は思う。そして、みんな自分の「立場」という小さい箱に閉じ込められて、そのように育った制約によって作り出されたデモーニッシュなものを抱えた心を抱えつつ、健気に生きているものなのだ。


みんな、そのさびしい、小さい自分をなんとか、支えて生きているんだと思う。


だから、「その」難しさを、たとえば男性側の生き方だって決して楽ではないし、相手を好きが故に、認めているが故に、間違ったものを要求してしまうことが世の中の真理なのだと思う。


世界とは矛盾の塊なのだ。


だから、主題である「女の子の自立の物語」を描きつつ、そういったその他の視線もちゃんとした温かみを持って包含して描けるこの世界観に、僕は、ぐっとくる。


深い人間理解。世界を矛盾のままに立ちあげて物語力。


いや、素晴らしい作品です。


関係性ばかりここまで書けるのは、素晴らしい。


・・・・とここまで、誉めたのですが、、、実は、そうはいってもそれほど面白いとまでは言えないかな…とも思っていました。それは、この物語が、エキューとタニアが、女性としてというよりは、「一人の人間として」「あるがままに受け入れられる」という物語であり、それが女性が社会に出る・・・女性初の国王や公爵という主題を置くことで、物語にはなっているが、ようはそれだけである。何が面白いと云えば、エキューらの内面描写が深く、人間理解が深い・・・だけともいえる。


普段の僕の言葉でいえば。関係性のみに焦点が合った作品であり、背景の物語…マクロが描けていない、と断言できるだろう。



しかしっ!!!


違うのだ。


おおっ、これは作者が、設定との人間理解の深さから、「関係性のみ」のショートストーリーで終わらせることができなくなってしまっている。物凄い成長をしているのだ。そもそも7~8巻までは、一話完結のコメディといっても差し支えのない作品である。もともと第一話は、ただの読み切りであった。作者もいつ止めてもいいもん、と書いている。


実際に、マクロは描けていない(気がするし)、せっかくの国際政治関係も全く生かされない、ただ単に男装の麗人エキューの珍道中みたいな話だ。が・・・・やはりこれだけの人間理解を描く人。何か隠れて胚胎しているような気がしてしかたがなかったのだが!9巻のパーマー兄弟の話から、この作品は、マクロを包含した物語へと展開する。こんな展開の仕方があったのか!と、目から鱗です!。(つづく)


TONO
カルバニア物語 9 (9)
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東北新社
マリー・アントワネット (通常版)

評価:★★★星3つ

(僕的主観:★★★星3つ)


恋をした、


朝まで遊んだ、


全世界に見つめられながら


この日本版のコピーが秀逸だった。







■万人に注目されたい露出趣味願望


コピーは、ソフィアコッポラ監督の演出の本質の意図を十分すぎるほど掬っていると感じるなー。女性に凄く人気であったというが、鑑賞後、だろうな、と思った。


これは、露出趣味というか、自分が世界の主人公になりたい少女の願望を、まるでこれでもかっていうほど露骨に演出していて、この映画が異常なほど好きな人は、万人に注目されたい願望が極まったキワモノの露出趣味の人が多いと思う。この映画の主人公自体はそういう下品ではないのだが、これにハマるとすれば、少し不思議ちゃん願望があるのだろうなー。まっキレイにいえばお姫様願望。ちょっと、ストレートすぎて恥ずかしかった(笑)。僕はこういう系統の女性は、非常に苦手なので、ちょっと苦笑してしまった。


なぜかって少し分析すると、この映画はすべてが、マリー・アントワネットという14歳で親も好きな猫ともいきなり切り離された少女の孤独が基本にあって、異邦の世界にいる「ひとりぼっちの私」という一人称で、世界のすべてが切り取られてるのです。


最後の最後まで、この「ひとりぼっちの私」という一人称から主人公が変化することはありません。


いいかえれば、成長がないってことです。


この視点(=人格のドラマツゥルギー)を分解すると、


・異邦の地に一人ぼっちで投げいれられた孤独


・孤独を埋めるべき家族との記憶(マターナルな安心感)の不在※1


・その孤独を埋めるために自分の周りのものすべてを代償行為とする




まずこうなっています。


ナルシシズムの地獄ですね。普通は、こういった独善的な視点は、長く続きません。それは単純で、そんな「あらゆる周りの人から注目され続ける」というような特権的で特別な地位に、人は若くして立つことは不可能だし、なによりもそのような立場には実力以外で立つことは難しいからです。




そう、しかし時にこの子供のような心性で、世界のすべてを手に入れてしまう場合があります。特別な生まれや立場で、若くて、美人(美少女)であった場合です。若くして大成功した(実力とは限らず)俳優や女優やモデルなんかも似た立場ですね。といわけ、こういう実力によらない世界からの注目というポジションは、


美少女


というロールモデルの属性のようです。だって、美少女って、ようは「美しい」だけでしょう?。なんの実力でもないし、それが長く続くわけでもない。根拠のない存在なんですよ。この場合の美しいというものには、他者からの視線というものが隠れています。そしてそれだけに、強烈で儚げな妖気のような存在なんです。こういう少女の狂気というのは、男性側からでも女性側からでもどちらで物語として利用しやすい記号なので、よく出てきますよね。


男性側では、ナボコフの『ロリータ』でしょうし、『ヴァージンスーイサイド』の原作であるジェフリー・ユージェニデスの『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』なんかもそうですよね(あれは微妙の視点が入り組んでいるけれども)。女性側からだと、サガンの『悲しみよこんにちわ』なんかも思い出させられる。フランス映画に出てくるロリータのモチーフは、こういったイメージが再現されている感じがしますね。男性と女性どっち側の視線で、映画を取るかによって作品のイメージは変わりますが、女性の方がいいものを撮ることが多い気がする。

ウラジーミル ナボコフ, Vladimir Nabokov, 若島 正
ロリータ (新潮文庫)
ジェフリー・ユージェニデス, 佐々田 雅子, Jeffrey Eugenides
ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹 (Hayakawa Novels)
フランソワーズ サガン, 朝吹 登水子, Francoise Sagan
悲しみよこんにちは

話がそれましたが、さてマリー・アントワネットには、自分の孤独を埋めるために周りのすべてを自分の代償行為としてとらえる独善的な視点を、奪われるような契機が全然存在しないのです。いやーそうでしょう!。美少女で、フランス王妃ですよ。しかもこの時代のブルボン王朝のヴェルサイユ宮殿という閉じられた貴族文化の爛熟期の繭の中です。


だから、この独善的でナルシシズムだけ世界の夢から、処刑されるまで覚めることがなかった、というのがこの映画の演出であり、世界観であり、そして感情移入のポイントになります。他者に出会うことが皆無であったということです。


ようはね、死ぬまで夢見てました!って演出なんですよ。




最後の最後まで、「世界の主人公である自分」という全能感から脱出しないままに、悲劇の王妃として終わりました、という脚本。


そう、これは、夢をずっと見続けて、自分が世界の主人公であることに埋もれていたい人にとっては、最高に感情移入できる最高の物語なんです(笑)。これが、凄い好きだという女性は、少し自分の人生を省みましょう。こういったわがままが通じるのは、そうだなーーー親が大金持ちか結婚相手が大金持ちで、自分のわがままがすべて通じる時だけなので、そんな都合のいい人生は、なかなかありません(苦笑)。勘違いは人生を崩壊させるから。・・・・って、かといって、このわがままが死ぬまで通る人も、中にはいないわけではないので、そういう人にとっては大きなお世話だけれどもね。



※1:母親の偉大で英明な君主であるオーストリア・ハプスブルグ帝国の皇帝マリア・テレジアからは、「~べき」という要求ばかりで、愛される記憶がありません。近くに育っていれば、マリアテレジアも家族の愛を与えられたでしょうが、、、。マリア・テレジアの息子(マリー・アントワネットの兄)は、見事で英明な君主になっているので、教育は良かったんだと思いますよ。家族が仲がいいので有名でしたからね、ここわ。


僕は、ソファア監督のその他の映画を見ていないのだが、このような少女心理をえぐるからには、相当病んだ作品が多いのではないかな、と思いました。なかなかここまで見据えるのはできないものですよ。フワフワとしたわかりにくい心理描写を、ちゃんと丁寧に追っていくので、男の僕でもちゃんとアントワネットの気持ちにシンクロできた。まぁ僕は女性の視点シンクロするのに抵抗がない人なので、万人ができるかはわからないが、、、とにかく物凄く女性に向けてつくられた映画であることは間違いない。

東北新社
ヴァージン・スーサイズ
東北新社
ロスト・イン・トランスレーション

■マクロへのかかわりが全くないのは、史実なのか演出なのか?


個人的には、マリーアントワネットをどう描くかが凄く興味深かった。物語の層の厚みを増すためには、歴史のアーカイブを利用するといいのだが、歴史そのものを描くときには、その監督が、その歴史の物語「どの部分」を強調してメッセージを作り出しているか?という部分が、注目される。過去の大作品系統のように、すべてを包括して歴史を再現しようというような骨太の映画は現代のような時代では少ないんですよね。


けれどもねー演出は、たしかに上記で非常に一貫性があるものであったんだけれども、これだと、あまりにマリー・アントワネットが馬鹿すぎて、、、本当にそうなのだろうか?って気がする。僕はこのへんの歴史を分析したものを読んでいないので、わからないが、あの絶対君主マリア・テレジアの娘が、こんなにマクロの政治について無理解なものであろうか?って不思議な気がする。そういう意味では、映画としてはできがいいのだが、僕としては、好きではなかったし、歴史の視点・・・・僕の中のマリーアントワネット像を壊すほどのパワーはなかったので、センスオブワンダーは感じなかった。これならむしろ、『ヴェルサイユのばら』のほうが(アニメの)、よほどセンスオブワンダーだった。


池田 理代子
ベルサイユのばら (1) (集英社文庫)
池田 理代子
ベルサイユのばら(5冊セット)
パウル・クリストフ, 藤川 芳朗
マリー・アントワネットとマリア・テレジア秘密の往復書簡
山之内 克子
ハプスブルクの文化革命 (講談社選書メチエ)

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Norah Vincent
Self-made Man: One Woman's Year Disguised As a Man

書評:女が男のフリをして1年生活したら?
http://www.chikawatanabe.com/blog/2007/10/1.html  



これは、おもしろそう。ぜひ読んでみる。つーかドキュメンタリーとかにしてほしいなぁ。凄い興味深い。


*************

>・・・・その1年間で、彼女が発見したのは


「男は大変だ」


ということ。「俺について来い」的リーダーシップと家族を支える経済力、という「昔からの男の仕事」に加え、繊細な思いやりとやさしい理解力が求められる。


これは大変です・・・と。(ま、これは、あえて1年も潜入しなくてもわかることではあるが、そこは実体験の深みがあるわけです。)


さらに、男同士の会話は常に表面的で、心に深く潜む悩みを語り合ったりしない。しかし、悩みを聞くのが得意な女性とは「友達」になれないので打ち明け話をする相手が誰もいない。。。。これが、結構男性の孤独を深めている、という観察もある。


http://www.chikawatanabe.com/blog/2007/10/1.html  
(強調は管理人)

*************


そうそう、女性の共同体と男性の共同体(=友人関係)の違いは、感情のシェアだと思うのだ。男性は、なぜだか、感情のシェアが凄く下手だし、そもそもそういう文化というか習慣がない。だから。吹けば飛んでしまうようなフワフワした「その時の気持ち」というものを、共感して、悲しみ、喜び、とうことができない。百合の文化・・・・たとえば、『マリア様がみてる』などの、百合というか、、、レズビアニズムとまではいかなくとも、こういった女の子同士の共同体に、憧れる男子の気持ちは、そういう部分にあるのではないかな?と思う。


今野 緒雪, ひびき 玲音
マリア様がみてる ―イン ライブラリー (コバルト文庫)
長沢 智, 今野 緒雪
マリア様がみてる 1 (1)

いわゆる米国でのゲイ・コミュニティーの繊細さも、それそのもの本質とは別に、この部分があるからなのではないか、と思う。なぜアメリカ社会でゲイコミュニティが一大勢力と化すのかは、強烈な競争社会の孤独の中で、繊細さや心の奥の部分を大事にするような生活習慣の関係を男が身につけるには、ある種の競争から「降りる」という宣言が必要だからなのかもしれない、と思う。男性原理のマッチョな価値観(=成長こそ正しい!)には「私は同意しません」という宣言を明らかにするためにね。まぁ僕はゲイではないし、知識もないのであまり軽々しく論評することではないのかもしれないですが、なんとなくアメリカのいくつかのゲイ関連の小説などを読むと、そんな気がします。


中沢 新一
森のバロック (講談社学術文庫)

ちなみに、ゲイに関する論考では、この本の話が面白かったなー。やはり、ゲイの本質は、ギリシアや日本の武家社会の本質である「友愛」の概念を考えないでは、分析できないのではないかと思う。


てきとーな徒然文章でした。

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