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■無題

ネギの記事というよりは、はし君自体の気持ちの話なのでは?って気もしないです(笑)


そうかも(笑)。


確かにちょっと駿-ネギ被るってのは強引かも。でもなんか頑張って欲しいじゃないですかーと思って(笑)。駿とネギが同じというよりは、駿とネギを見るぼくの視点が似てるという話だったんでしょうね。


はし 2007-11-04 14:42:56
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□成長というのはヘタレな自分に思い悩みつ続けること
http://ameblo.jp/petronius/entry-10053904866.html


これは鋭い指摘。


というか、「感想」や「感情移入」を考える時にいつも思い悩む重要な点だと思う。



>駿とネギを見るぼくの視点が似てるという話



いつも感想のサイトの記事や人の意見を聞いていて思うことは、「それは君の視点(=感情)」であって、その物語の文脈のファクト(=事実)ではないのじゃないか?ということ。


もちろん、次にくる質問は、



では、Fact=事実ってのはなんだ?って質問。



物事の判断は、主観と客観を完全に峻別することはできないと思うのですよ。

塩野七生さんの『ローマ人の物語』のカエサルの章で物凄く心に残っているのは、



「人は見たい現実しか見ない。」



というもの。

塩野 七生
ローマ人の物語〈5〉― ユリウス・カエサル-ルビコン以後


人間は幻想の世界にいて、リアルに触れるのはとても難しい生き物なのだろう。


ところで、それでもなお、何かを行為したり意見を言うときには、この主観と客観をできるだけ丁寧により分けたいと思うのだが、、、そのためには視点をめぐる感情移入機構とでもいうべきメカニズムが、どういうふうになっているの?ってことを、明らかにしなればならないんだよねぇ。


人生哲学としては簡単なんだよね。


だって、ちゃんとリアルを直視している人は、大きな物事を為せるし成長できるから、ご褒美がある。まぁそれ故に引き受ける労苦も追いけれどもね。


けれど意見は、人生(=個人)ではなくて、普遍性が必要なので、どうしても、メカニズムを前提に話さないと、ただのたわごと感想になってしまう。難しいことです。

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あずま きよひこ
よつばと! (1)

評価:★★★★★星5つのマスターピース

(僕的主観:★★★★★星5つ)


■マンガの演出・表現技術の最高峰の一つなのでは?


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この手の作品、嫌いじゃないんだけれども、実はまだ評価する言葉が自分のなかで見つけ出せていない。物語性で評価すると、そもそもドラマツゥルギーがほぼ「ない」ってのが特徴で、よつばとなんか、夏に買い物に行くだけだったり思いっきり目的LESSなんだよなー。


『相沢家のえとせとら』真未たつや著 ・・・・・女の子がかわいくてさー、やばいっす。
http://petronius.ameblo.jp/petronius/entry-10026014837.html
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以前、4コマの真未たつやさんの4コマ漫画でこのような意見を書いた。僕は、たぶんこの類のマンガの中で、表現と演出の技術の最高峰に位置する作品が、たぶん歴史的にも、この『よつばと』だと思っています。そして面白さもね。


そう思う方は、やはりいるようで、伊藤剛さんが下記でそう書いていますね。


http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20041128/p1
伊藤剛のトカトントニズム


けれども、どうも僕は何が面白いのかがよく説明できないんですよ※1。ましてや、僕はどちらかというと日常を描く作品は嫌いで、思いっきり非現実的なファンタジーか、そうでなければ何か強烈なセンスオブワンダーをもたらしてくれる作品にご執心な人なのですが、何がこの作品に強烈に感動をもたらすのかがわからなかった。


     
 

前の記事でも書いているが、


物語性で評価すると、そもそもドラマツゥルギーがほぼ「ない」ってのが特徴で、よつばとなんか、夏に買い物に行くだけだったり思いっきり目的LESSなんだよなー。


主人公に目的が存在しない、ただそこにいるだけ。日常があるだけ。そして、一つの話まるまるで、だいたい一日ぐらいのよつばの日常を描写しているだけにすぎない。


僕の物語読解は、



1)主人公や登場人物の持つ根源的な動機や人格ドラマツゥルギーの原理


2)その背後のレイヤーに隠れているマクロの力学



の分析がメインになっています。


「人間なるものの」の本質を知りたい、どんなん動機で世界を眺めているのかを知りたい、という個人的な欲求と、その動機がどのような舞台(=現実)で規定されて制約を受けているのか?ってのを解析したいんですね。



ところが、どうよ?



よつばには、目的が存在しないんだよ。


そんな4~5歳児にないに決まっている(笑)


世界の仕組み?


・・・・・って、ただ、とーちゃんがいて、隣の家があるだけ、ぐらいだ(苦笑)。


それで世界のすべてなんだよ。


かっ解説するほどのこともない・・・・・。




なのに涙が出るくらい美しく感動的なの。




もちろん日常の一回性への回帰※2という、この系統の物語の面白さへの感覚同化※3の技術を持っていない人ならば、入る込むのは難しいかもしれないのだが、それは好き嫌いの次元や技術の有無にすぎない。


この美しさは理論的な確立があると思う(作者の無意識にせよ)ので、だからこそ7巻まで継続してもその美しさがぶれない。



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>そして今日、この新刊を読んで、さらに「よつばの世界」に満ち溢れている幸福と、同時に感じるはかなさのようなものはいったい何なのかについて考える。恵那と、よつばと、みうらが自転車や一輪車に乗って町を行く数コマの身震いするほどの美しさを前にして、どのように言葉を紡げばいいのかとすら思う。素晴らしい。
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20070928/1190961311

伊藤剛のトカトントニズム

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うん、そうなんですよね。最初の頃は、これはよつばの、子供の体験に感情移入させることによって、その子供の視点(=一回性のワクワクの視点)を、読者が再体験することで、強烈なノスタルジーを喚起するという構造になっていると思っていました。


これは今でも正しいと思っています。


でも、一つ難しい問題があって、ではこれを小説で、よつばの一人称で描いたらこの「雰囲気」を出すことができるのか?って考えるんです。


たぶんできない。


小説には小説の技法があるでしょうが、このマンガの面白さは、マンガの表現的な部分を追っていくと機械的に、身体がよつばの体験を感じてしまうようなメカニカルな自動的な感じがあります。


つまりは視点をそういう風に誘導していると思うんです。


それってなんだ?ってところで、


うーん・・・・・


って止まるんです。


そこで、止まっていたところ、mixiでいずみのさんが、映画理論でいう「半主観的映像」※4の話をしていらっしゃったので、なるほど!って思ったのです。


**********

7巻P40に、よつば視点(同一化技法・モンタージュ型)のコマがみられる。

「よつば視点」とは、かつて作者あずまきよひこ氏自身が「ユリイカ」2006年1月号のインタビュー(インタビュアーは私)で意図して描いていないと語ったものだ。「よつば視点」を描かないのは、よつばの「内面」は見せないという意図によるいうことだったが、ではこれは何を意味するのだろうか。

伊藤剛のトカトントニズム

**********


僕もうまく説明できないんだけれども(このへんは、いずみのさんが理論化してくれそうなので、それを待っている身です)、簡単に言うと、


我々が感情移入している先が、よつばであって、よつばでない状態がある。


よつば自身が体験している視界の映像を、神の視点から眺めているような状態で固定されている感じだと思うんですよ。


小説でいうと、神の視点(三人称)と主人公の視点である一人称の中間に位地する感じなのだが、これが何?といわれると、うーん・・・へなへなとなる。


映画理論的にとか、哲学的にいうと廣松渉さんの間主観的な概念とかと似ているんですが、まー今それをここで話すのも違うと思うし(笑)。


廣松 渉
世界の共同主観的存在構造
廣松 渉
事的世界観への前哨―物象化論の認識論的~存在論的位相


とりあえず、

とっても凄いよ、ということが結論です。


■備考*****************

※1:何が面白いのかがよく説明できない


映画ですらあまりに複雑怪奇でまともに勉強する人はそんなに多くない問題で、まだ発達中で表現史の解析もあまりなされていない「マンガ表現における視点の問題」が面白さの核心だから、言葉で説明できないんだよね。だって理論がないんだもん。


※2:日常の一回性への回帰


体験の一回性は、僕のブログではよく見かけることば。ジャズの理論でいうインプロヴィゼーション(=一回性)の概念と、実存主義哲学における実存の感覚を合わせたような意味で使っている。


どんなことでも「はじめて」なことは、イキイキ、素晴らしい体感や感情を僕らにもたらしてくれます。けれどども、同じことを繰り返すうちにこの感覚は磨滅していきます。それは、脳の構造の中に、反復行為の始めることと帰結にリンクが出来上がると、その間のプロセスを省略する機能が脳にあるからだそうです。


慣れ


というのも、この機能によります。身体に覚え込ませるというのは、この脳の反復機能を利用したものです。しかし、この機能が、人間から、「その時出会った現実」を「現実のまま」受け取るという感受形式を奪うことになります。


この一回性のワクワクを、どうやって再現したり取り戻そうか?という議論は、実存主義哲学や都市文明の退廃につきものの発想です。


※3:この系統の物語の面白さへの感覚同化


専門用語ではなく僕のテキトーな造語。ある物語の系統お「好き嫌い」というのは、その物語類型自体への感情移入や理解の方法を知らないが故に発生することが多知思っています。


つまり、


「私はフランス映画嫌い!わからないもの!!」


といっても、根源的に嫌いかどうかはわからなくて、その理解の仕方や感受の仕方を「知らないが故に」拒否しているということはとても多い。わからないものに努力することは少ないので、食わず嫌いになっている可能が高い思っています。


※4:半主観的映像


岡田 晋
映画学から映像学へ―戦後映画理論の系譜

■関連記事


神のみぞ「見る」/ピアノ・ファイア
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070910/p1

三人称の不思議/ピアノ・ファイア
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070913/p2

三人称視点の語り手は誰?/三軒茶屋 別館
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070913/1189610005

続・三人称視点の語り手は誰?/三軒茶屋 別館

http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070915/1189848748

銀英伝とライトノベル/三軒茶屋 別館
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070820/1187614665

仮説:メタ=メタフィクション+超虚構/三軒茶屋 別館
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070711/1184080885

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神のみぞ「見る」/ピアノ・ファイア
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070910/p1

三人称の不思議/ピアノ・ファイア
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070913/p2

三人称視点の語り手は誰?/三軒茶屋 別館
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070913/1189610005

続・三人称視点の語り手は誰?/三軒茶屋 別館
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070915/1189848748

銀英伝とライトノベル/三軒茶屋 別館
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070820/1187614665

仮説:メタ=メタフィクション+超虚構/三軒茶屋 別館
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070711/1184080885


いずみのさんから講義を受けている身として、読んでいなかったので(申し訳ない!)読んでみたのですが、凄いですねー。なんなんだこの濃さは。うーむ素晴らしい。ちょっと感動しちゃった。

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ついでに言うと、先日ペトロニウスさんが「ここで提示されているスクランの読み方なんかは初歩に過ぎなくて、スクランと
いう作品の議論にはまだ入っていない」みたいなことを仰ってましたが、この「報恩関係」の先に続く問題がそのひとつにあたると思います。

 これは逆に言うと、読者が「そのテーマ」に触れることさえできたなら、過程としての読み方はどうだっていいんですよね。直観的に感じられる人は、ロジック抜きでパッと感じられるでしょうし、読み方はなんだっていいんですね。


 ただここでは、ぼくやぼくの周囲で行われている「読み方」を提示しているだけで。


 物語の深い所に入っていけるなら、手段はなんだっていいのだと思います。ちょっと厳しい考え方をすれば、「自分の読み方は自分で考えろ」ということも言えます。


 あとそもそも、自分のサイトを使って「他者に読み方を説明する」という任を受ける立場でなかったら、ぼくももっと感性的な読み解き方をしていたと思います。データベースの方ではわざと冷徹な書き方をしてるんですけど。


 漫画は心で理解するのが一番だと思ってるんですけど、でもネットでそれを人に伝えようとするのは難しいですよね。
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ピアノ・ファイア - 報恩関係の物語
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070607/p2


■物語を読解するフレームワークとは?~何にでも疑問を持つ意識

僕は物語が大好きです。なしでは生きていくのも嫌です(笑)。


けど、大の親友たちや、付き合った女子たちとかと、自分の世界観や物語解釈を聞かせていると(僕は好きになった人とほど何かを共有したがる癖がある)、実は、かなり自分が一般的とはほど遠い解釈を物語の受け取り方をしていることに気づいたネットなんかがなかった、小学生から高校ぐらいまでは、人間はわかりあえないし、まったく理解なんてできないもんだと思っていた(苦笑)。


素で話すと、変人扱いされることも多かったし(笑)。


少なくとも、女の子を口説くのには、ヤローでつるんでアウトドア系などをして遊ぶには、「この深く追求する姿勢」は、変な人のように思われるので、封印していた。ヲタクだなーって、馬鹿にされる(僕は三十台の団塊のJr世代だけれども、まだぼくらの世代はをヲタクという言葉は相当日陰で市民権のない扱いだったしね)し、女の子にもてないのは、イヤだったしね。もともと、体育会系で部活や道場の往復が多くて、そういった本や漫画など…言葉で世界を理解するタイプの友人が周りになかったことも、それに拍車をかけた。体育会系は、物語を頭や文字ではなくて、身体で感受する形式を好むので、身体で世界を体感する人は、そもそも文字やマンガを好まない。だから、子供の頃の僕は、こう思った。


マンガや小説は、個人の心の奥で隠れて楽しむもの…ってね。


そうやって、二重思考が慣れるようになった。マンガ???そんなもの読むわけなーじゃん、くらいの感じで、ナンパにいそしんでいた時代もあった。やめやしなかったけれどもね。ただ他人に理解されようという意識は、既に小学生のころには消失していた。親や仲のいい友達すらまったく理解できないものを、いちいち世界に訴えても仕方がないし、合理的ではない。どうせ、世界は「僕」には興味がないんだ。けど、世界は等しく「誰にも」興味がない。だから、人から愛されたり現実で生きていくには、「愛されよう!とか理解されよう!」とか無駄なことを思うのではなく、「自分が愛すること、自分が理解すること」から始めないと、いけないのだ、と小さい僕はそう思ったようだ。そう日記に書いてある(笑)。暗い子供だ。今のようにネットで、内面や趣味の似た嗜好を容易に探せて、友人になれるなんてことは、僕の子供時代では信じられなかったと思う。


ちなみに、具体的に云うと、たとえば、赤松健さんの『魔法先生ネギま』。僕のここ2年ぐらいの記事を追っている人はわかると思うけれども、キャラクター人格の深読み、メタ的な物語の解体、マーケティング視点、それに本当は物語の類型や人格からの予測(これは書いていない)とかとか、ここでは書いていないけれども、膨大なメモとかがある。別にネギまだけではなくて、僕は好きになったものには、すべてこういう姿勢で臨む。シゴトでも、まったく同じ。営業のキーマン対策に、動機分析とかメモ帳をつくって管理してますもん。もちろん自分の担当したプロジェクトや仕事をの業務分析を膨大に書いている。彼女についてはしないのだけれども(笑)。というか、自分が好きな子に対してだけは、分析が当たらないんだよね、なぜか。不思議に。というか、自分が読めない人だからこそ好きになるのだろうけれども。


・・・・僕は、子供のころから


「世界って、、、現実って、、、なんで「このよう」なんだろう??」


って思っていました。世界が「ある」ことが不思議で、その理由を考えるという、変人な子供だったんですよねー。いま思いかえしても、アホだ。・・・・いつもいつも、不思議な気持ちがした。別に橋の下で拾われたとか、自分が異星人とか思ったことはないが、、、何だか間違って、この世界に来てしまった異邦人的な感覚がどうしても抜けなくて、現実を一歩引いた位置から分析的に眺める癖が、どうしても抜けない。


昔あるイギリスの貴族が、文化人類学にはまって、、、貴族社会でどうしても馴染めずそこが自分の居場所ではない、と思い詰めたのその貴族は、大学で文化人類学を学び、フィールドワークをたくさんするのだが・・・そのフィールドワーク先の部族や村でさえ、やはり彼は異邦人。世界の果てまでいっても、「どうしても今いる現実の世界になじめることができない・・

・・」という孤独と違和感が死ぬまで抜けきらなかった。文字通り、世界の果てまで、、、ギアナ高地とかインドネシアの島々まで、行き着きながらも・・・・。


この人の調査資料と日記は、本当に深く共感した。


必ずしも多いわけではないが、実はこういう感覚を抱えながら生きている人ってのは、とってもメタ的に世界を一歩引いてみる特殊な感覚で世界を見ている人ってのは、、、、少ないわけではないってのが、こういうネットでは結構わかる。ほんものか、その振りを気どっているかは、その継続性を追えば分る。こういうのは、何十年も消えないものなのだ。そして、年齢を深めるほど深くなる。


しかい他に知り合いがいるのは、、、こういうのって、楽しいなーと思う。人は、一人っきりで生きているのは、やはりさびしいものなんですよ。かといって分かり合えるわけではないが、少なくとも似たような孤独を抱えている人が、まぁいないこともないのだな…と思うのと、地球上に一人ぼっちと思うのとはまた違ったものだ。


なんか、、、くさい話になってしまった(笑)。学生時代の話を書いたりしたからかな?(笑)。


閑話休題



■なぜ、物事をあるがままに理解できないのだろう?~脳はあまりにも多くを見落とす



さて、そうして、、、、けっこう世の中には、自分と似たような物語の捉え方をしている人が、いるとわかったのですが・・・・逆に大学で専門的に勉強したり、理論を学んだり、こういう友人たちを話しているとわかってきたのは、、、


なんでこの程度のことがわからないんだろう?って驚きです。いや、そういう高い視点から見た言葉は少しいやらしい。なんで、もっと深く中身を理解しようおしないのだろうか?って思う。好きならば。


いや、、、とりわけ付き合った女の子と映画の話、映画観た後のお茶で話すじゃないですか?。よくよく聞いてみると、まったく僕と理解が違うんですよ(笑)。最初は、解釈の違いなのかな?、趣味の違いなのかな?って思ったのですが、相手のこと好きなだけに、よくよく深く話すじゃないですか?、、、そうすると、そもそも基礎的な読み取りをしていない・・・つまり、基本的なリテラシーなしで、物事を受け取っているというのがわかってきました。そういう人は、物凄く多い。ましてや、ここで対象に挙がった観察対象は、たぶん日本でも有数の大学を出ている人だったので、学歴や会社のブランドが高いからといって、必ずしも背後に隠された文脈への深い感受性を持つわけではない、ということだと思います。すごくペーパーテストが得意で、最高学府の最高学歴にいる「文脈感知に障害がある人」ってのは、実はすごく多い。


いや、訓練していなければ、学者のように理解するのは困難なのはわかります。リテラシーは、訓練によって獲得するものですから。


そういう人に、そもそも「自分が得意でない物事の受け取り方(=不得意分野のリテラシー)」を丁寧に教えると、「そんな解釈の方法があったのか???」と驚かれることが多く、逆に、僕と違う世界観を生きている人が、「どんな解釈をして生活しているか?」ってことに多く気づかされて、、、、それは、他者と出会うことだと思うが、人生がとても豊かになっていくような感覚を受けた。


好きな人のことは、当然、深く知りたいですもん。


この過程は、説んにするのが難しいのですが「教える」という一方的なものではないです。お互いの世界観の交換と、新しいものに出会うことの「世界観のヴァージョンアップ」と僕は読んでいたのですが、、、、恋人や親友と、、、一緒にいることの世界の感受がダブルになる・・・倍以上に広がっていくような、世界が輝くような感覚です。


ただ唯一大きな違いは、僕が、このプロセスを動物のように受け取るのではなくて、対象に少し距離を見た遠くから眺めるメタ的な感覚で眺めていること。


①ベタ(=対象との動物的一体化・共感)に捉えること



②メタ(=対象に距離を置いて全体を批判的分解的に文脈で評価)に捉えること


の二つを意識的に、交互のスイッチを切り替えるように…自覚的にそれを行っていたことが、大きな違いです。この二つを同時に訓練して切り替えができると、非常に安定した人生を送れるし、大事なものを見失わない。けどそれはなかなかできないことですがね。ただ、近代社会で、成熟した大人であって、、、しかも生きる動機を失わないには、この二つのバランスが必要なのようです。①のベタばかりだと、この複雑な近代社会は生きられないし、物事を一方的に受け取ってしまう。かといって、②のメタばかりだと、実は生きる気力が失われて、、、行動したり表へ出る意欲が失われるようなのですね。どうもそういうふうにぼくには見える。



■いずみのさんが主張していること~物事を受け取って起きる感情と基礎的な技術論は別のこと


話が、、、、、あまりに当初の意図とずれた・・・・・(苦笑)。


今日は、いずみのさんの


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>これは逆に言うと、読者が「そのテーマ」に触れることさえできたなら、過程としての読み方はどうだっていいんですよね
。直観的に感じられる人は、ロジック抜きでパッと感じられるでしょうし、読み方はなんだっていいんですね。

 ただここでは、ぼくやぼくの周囲で行われている「読み方」を提示しているだけで。
*********************

ペトロニウスさんによるスクラン話、それに対するレス
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070530/p2


この話を敷衍したかったのです。前置きが長すぎる・・・おれ。


物語には・・・いや現実でもいいのですが、「読み方のフレームワーク」というものがあります。ただ読むだけでは、ただ見るだけでは、実が現実や物語というものは、ほとんどその情報を読み取ることができません。ただあるものを、あるがままに受け取ることも、実は難しい。西田幾太郎の純粋経験ですね。ジョンレノンではないですが、Let it beは難しいのです。たいていは、そこで提示されている情報の、ほんの上澄みの部分しか人間は受け取れません。だからこそ、フレームワークというものが、発明されているんですから。つまり受け取る側に、データベースと解釈のフレームワークがないと、非常い歪んだ薄い理解をしてしまうのが、人間というものなんのです。


感性や個性などといわれるものは、実はこの基礎的な、、、数学や論理的に解ける土台の部分を、きちっと理解した後の来るものであって、先に来るものではないのです。


いずみのさんが言っているのは、「読み方」・・・・たとえば、反復や対比、主観間のうつろいというマンガ表現での技術論的の話であって、解釈の話ではない!!!って言っているんですよね。

僕が「議論の出発点にもたっていない」というのは、このことです。


*********************
>実は、この反復とか暗示とか対比なんてのは、実はこの作品を読み解くために基礎研究に当たるにすぎない、初歩オブ初歩
です。
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*********************
>読み方、というのは「リテラシー(literacy:識字能力,教養)」と同じ意味ですが、「文字が読めるようになる」のと「
そのテクストの意味を掴む」ことは、まるっきり別だと思います。
*********************


そう、まったく違うの。そもそも、今の時代は、文字は読めるけれども文脈が読めないという人種が・・・というか世界認識が非常に幅をきかせている時代なんですよね。これは、大きな物語が消失して、多様性が尊ばれる時代だから。こういう世界では、感受性の基礎をなす根幹の部分である共通基盤としての「教養」が姿を消します。知的読解によって読み込まれる文脈への理解が失われれば、「動物的快楽のボタン」によって、人は簡単に動員され、涙腺や笑いのつぼを押されるようになります。それはそれで、演出の技術の一つとしては、素晴らしいものだが、、、快不快だけで人格がコントロールされていまうことに、僕は嫌な気分を覚えます。


*********************

>……こっちの方の「読み方」を、このサイトではまだ書いていません(漫画の表現論的な話なので)。要するに、この「反復リスト」だけでは「初歩の50%」に過ぎなかったりするわけです。

 うーん、自分で書いてて、何ふざけたことを言ってんだろうという気がしてきた(笑)。まぁ、続けます。


 で、「読めるようになった」その後に、「何を感じ取るか」。それが問題でしょう。


 これは逆に言えば、「同じ読み方を使っても、感じ取れるものは人によって違ってくる」ということじゃないですか?

*********************

>最後に、ちょっと気を付けてほしいのは、こういった読み方はマニアックではあるけども、「いずみのの独創的な読み込み方」などではなくて、「与えられた作品を吟味することで、自然と導かれる読み方」である、ということです。

 ここは、この議論をする上で非常に重要なポイントだと考えています。

 「そこに描かれた出来事」を、筋道に沿って理解することで生まれる、「物語を読む快楽」だと思います。

 斜に構えて眺めたり、作品をいじり回すことによって生まれる「分解する快楽」(二次創作的な快楽と言ってもいいかも)

とは違うものである筈です。

*********************


「与えられた作品を吟味することで、自然と導かれる読み方」と、いずみのさんが主張するのは、基本的なリテラシーがあれば、本当は誰でも読み取れるものであるにもかかわらず、その部分が読み取れてないがために、物語の豊饒さに気づかないというさびしことが発生して、作者の意図から外れた誤読が横行してしまうということを言っているのだと思います。


いや、作品は、消費者のもの。誤読でも、オリジナルな体験で、それが読み手の過半になれば、それでいいじゃないか?って思う人も意見もあるかもしれません。それは否定できない。


が、、、やはり「芸」というものは、受け手と作り手の、背後に隠れているコンテキストの共有がなければ、レベルが落ちて陳腐化してしまうのだと思います。


それでは、自分が好きなものの水準が下がっていくことになり、、、それは寂しい。


なんか、ながくなったが、そんなことを思いました。


備考:西田幾多郎(1870-1945)明治3-昭和20 哲学者。近代日本の代表的哲学者として,その哲学はしばしば〈西田哲学〉と呼称される。石川県に生まれ,1894年東京大学哲学科選科を卒業,96年に金沢の第四高等学校講師,次いで教授となった。そのころから,物心両面の苦悩のうちに参禅の経験を重ねたが,やがて当代の日本に広い影響を与えていた T. H. グリーンの理想主義的人格主義倫理学やW. ジェームズの純粋経験の哲学にも学びつつ,主客未分の〈純粋経験〉の世界を実在の根本実相と観ずる立場に到達した。それを論述したのが《善の研究》(1911)であり,この書は,近代合理主義,理想主義と,現実の日本の非合理的情念,実利主義との間で近代的自我の確立に苦しんでいた当代の青年に,衝撃的な影響を与えた。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/mekata-h/nisida.html



■関連記事~物語をもう一歩深く読むためには


小林尽『School Rumble』考 ピアノ・ファイアより


1:一目でわかる『School Rumble』の恋愛関係
http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/man/school01.htm


2:『School Rumble』における少女漫画ラブコメの図
http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/man/school02.htm


3:双方向を目指す想い
http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/man/school03a.htm


■小林尽はなんでここまで深い読解力を読者に要求するんですか??
http://ameblo.jp/petronius/theme-10002674514.html


■「読者に気付かれないような仕掛け」を作品に入れることの価値は?
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070528/p1


■『School Rumble』における反復・対比・暗示のリスト
http://d.hatena.ne.jp/liquid-fire/

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小林尽はなんでここまで深い読解力を読者に要求するんですか?①


「読者に気付かれないような仕掛け」を作品に入れることの価値は?
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070528/p1


『School Rumble』における反復・対比・暗示のリスト
http://d.hatena.ne.jp/liquid-fire/


ピアノ・ファイア いずみの先生より



■「小林尽はなんでここまで深い読解力を読者に要求するんですか?」


これは、昨年、飲み会でいずみのさんに呆然と云った言葉です。


同時にこうもいった。



「これをわかりやすい形で分析して、世間に広めるのは、いずみのさん、あなたの役割だって」。



・・・えらそうですねー、僕(笑)。


けれども、見事に深めてくださって、感謝の言葉もございません。こういうコラボレーション・・・・そして、自分お言葉が世界に、相手の心に広がっていくさまを見るのは、とてもうれしい。生きててよかったって思うよ。


実は、この反復とか暗示とか対比なんてのは、実はこの作品を読み解くために基礎研究に当たるにすぎない、初歩オブ初歩です。これがまず認識されていないと、そもそもこの作品の文脈・・・コンテキストが理解できないので、スタート地点にすら立っていない。・・すげぇマンガだ(笑)。


このドラマでは当たり前のこの反復等の技法の異様に文脈無視の、、、非常に外した(連載でさらっと読む読者が思い出せないように設計している!としか思えない(苦笑))形式を脳内補完してつなぎ、そして、、、、さらに主観間を説明なしに連続でうつりかわる感情移入の技法が異様に高度化した手法を読みこなし…そこで初めて、議論がスタートするのだ(笑)。


小林尽を、漫画界の高踏派と呼びましょう!。




■もうねーーー高野がかわいくて仕方ないの、最近。


えっとね、さすがにもうすぐ3時になるので、あんまりかけないんだけれども、とりあえず一言云っておく。(分析は別途書きます)。



あのな、このいずみのさんの解析を読み込んで、、、ほんとうは、僕のようにリアルに5時間ぐらいぶっ通しで講義を受けると(ありがとうぅ!!)最高にいいのだが、、、、


スクランすげーーーー面白いよ。まじで。やばいよ。



ランドリオールもそうだが・・・・最高に面白い物語は、実は、批評家・・・・解説者を必要とすると僕は思う。それがなくてもわかることは、大前提なのだが・・・・『わかった』という次元が、動物的快楽のボタンレベルでは、真の知的快楽と、、、真の世界の深さの喜びを味わえないのだよ。それには先導者がいると思う。



批評家とクリエイターと、そして僕ら読者の、ありうべき美しい三位一体。


・・・・ただ、この作品は、裏にある異様にわかりにくいコンテキストを読み解かないと、この微妙な関係性の物語を読み解けないので、実は本当に面白いところを全然読めていないのだ。一般読者は待ったそこに気づいていない(気づいている人はかなりマイナーだと思う(苦笑))。少女マンガの高度な技法をさらに進化させてい感じ。


スクラン。


連載では、読み捨てる面白い物語。ただの出来損ないのギャグ漫画。



けど、いずみのフレームで、単行本を通して読んで見ると・・・・・・


うおっ!!!って唸るぜ。絶対。


ちなみに、まだ理由はぜんぜんわからないのだが、、、いずみのさんの解説を読んで、、、実は、異様に高野が、八雲に優しいのがわかった。。。。この視点だけで、僕は泣きそうだもん。(ここはあえて説明しないので、調べてみてください)。ちなみに、そりゃー八雲に優しい人は、僕は大好きですよ。ねーはらはらさん !!!(意味不明)。


こういう暗黙のハイコンテクストな作品は、読み解いて、それが一致したとき・・・ふかぁーーーい感動が訪れる。こういう物語体験ができると、人生幸せだよね。



■質(Quality)と人気(Populality)は反比例する?~新しい時代の物語


>この、異様なまでの「気付かれにくいことをやり続けるコダワリ」と、「高いポピュラリティ」を両立させているのは何なのか?これは、マーケティングや作品論などを考える上で非常に興味深い問題になっていて、ペトロニウスさんも含め、漫研のGiGiさんとも良く議論した問題だったりします。一定以上の「深さ」を持つ物語というものは、どうしてもポピュラリティを下げてしまう、というジレンマを持ちます。つまり、「自発的に、積極的に楽しもうとする姿勢や努力」を読者に求めなければならない(強いなければならない)からですね。本当に深くて「凄いもの」は、誰でも簡単に見れるようなものじゃないからこそ「本当に凄い」のだとも言えます。

 それが普通、なのですが、オフ会でペトロニウスさんの口から良く出てくるのは、「深さがあって、商業的にも成功するのが最高じゃないか?」という言葉だったりします。

 それは一種の理想論でもあるのですが、しかし興味の尽きない問いかけでもあるのは、確かです。 




この話は、実は、漫研のGiGiさんと、『コードギアス・反逆のルルーシュ』の評価について、深く暖めている議論なのだ。

バンダイビジュアル
コードギアス 反逆のルルーシュ 1

この作品の、記号ぶっこみ型で本質のドラマツゥルギーの表面を飾り立てる形式が、実は、新しい時代の物語の片鱗では・・・・という話があって、このことは魔法先生ネギまにもハヤテにも援用できるフレームで、、、しかも人気と質という部分の反比例をどう回避するかの現代型の手法だという・・・・


ってこの話はまだ暖めているので、コードギアスが終わったら(笑)書くでしょう。


ちょっと、さすがに寝ないとやばいので、このへんで。

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