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“かわいそうな世代”20代、酒飲まず、車を買わず…「貯金は自己投資しないのと同じ」とジャーナリスト
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1100766.html

「20代からの自分を高める勉強法」などの著書がある、ジャーナリストで経営コンサルタントの中島孝志さんは、現在の20代を「かわいそうな世代」と評し、こう話す。


「20代は将来に不安の要素が多いため、ちょっと先の未来に踏み出すことができない。貯金は地に足がついた人生設計、ともいえるが、投資のようなリターンがないから、若い世代にとっては、停滞、を意味しているのではないか」


20代の若者が保守的になっているのは、同世代にたくさんニートがいてその現実を知っていること。さらに、株の乱高下、年金、サブプライムなど経済面の問題が山積し未来を描ききれないことや、両親が不況の時代を生き、今でも家のローンや、教育費を抱え「カネがない、カネがない」とシャワーのように言葉を浴びせられてきたからだという。


「20代がお金を使わずに貯金しているのは、自己投資をしていないのと同じだから、
これからの人生に向かって投資しなさい、と言いたい。投資は成功も失敗もある
けれども、どちらがおもしろい人生を送れるか、ということだと思うんです」(以上、一部略)
http://www.j-cast.com/2008/03/07017535.html
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時代的に、バブルを経験している世代の物言いには、なんとなく納得ができないなー。世代が違うと感受性や、ものの見方がかなり異なるので、人括りにするのは不愉快だなー。たとえば、家にこもって、友人とネットをしていることやダベっていることが、必ずしも「かわいそう」とはいえない気がする。エコノミーな生き方というものもあると思うのだ。誰もが野心満々に、成長を目指して生きるわけではないのだから。それに、経営コンサルの人のことはよく知らないが、政策的なミスによる不況(そういう部分も多くあったと思う)は、その世代の大人たちにも責務はあるわけで、上からの物言いばかりではだめな気がするなー。そもそも、日本の貯蓄率の高さや投資への踏み切りの弱さは、国家レベルの現象であって(他の国との比較)、一部の世代が不況にあわせて先鋭化したからといって、文句言うのはなぁ。


とはいえ、自己投資のない生き方には、リターンもないのも事実で、やり直しができるくらいに余裕があるのが10代後半から20台であるのも事実。


■氷河期の猛吹雪にズダボロに引き裂かれた人々と、グングン成長した人たち
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080228/1204203051#seemore  

分裂勘違い君劇場


ここでもあってのだが、、、、、どの世代でもちゃんと生き残るやつは生き残るものだし、それ以外の人が、安定を希求するのは、別におかしくない気がするんだがなー。


ふと思うのだが、あらゆる物質的不幸は、成長という輝きによって、克服されることが可能だ。けれども、地球資源が有限で、その有限の克服方向がいまだ分かっていない現代においては、調和や回帰循環するようなライフスタイルが模索されて、それに基づく『社会のありうべき姿』がまじめに考えられてもいいのではないか?と思う。片方の極だけが正しいなんてことはないのだから。そういう意味では、持続可能な社会の建設を動機付けるユートピアのイメージがないことが、問題なのかな・・・とかとか。もちろんこの流れのパラダイムの転換に関する議論は、下の本を思い出したなー。


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ジャック・ウェルチ, スージー・ウェルチ, 斎藤 聖美
ウィニング 勝利の経営
評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ


同時代で会ってみたい人というのはいますか?。僕は、ずっと、このジャック・ウェルチさんを尊敬しています。まだ生きているので、講演会とかの機会があれば、ぜひお目にかかりたいとは思うのですが・・・無理でしょうねぇ。




■定点観測~本物は、長く見続けないと見分けられない


定点観測?とでもいいますか、僕には、「この人だ!」と思った人や組織を長期にわたって気にし続けるというクセがあります。


なにごとも長期の検証を経ないと、信用に値しない、と思っているからです。


だから、本当は実績やあえていうのならば歴史の方が、僕には納得できることが多い。ただ、歴史とは、マクロのダイナミズムを追う形になりすぎて、ミクロの悩み・・・・「その場所、そこの空気の中で、個人が何を苦しみ、楽しみ、同意思決定したのか?」ということの詳細が捨象されて、歴史的解釈という後代の思い込みに塗りつぶされていく部分もあるので、やはりマクロとミクロを同時に見ないと、現実には役に立たないと僕は思っています。そいう問題意識があったので、グリースパンのマクロ分析者としての姿勢には、なかなか唸るものがありまsた。


『波乱の時代~わが半生とFRB』 アラン・グリーンスパン著 ミクロとマクロを同時に見る
http://ameblo.jp/petronius/entry-10067614652.html

アラン グリーンスパン, 山岡 洋一/高遠 裕子
波乱の時代(上)


■あまりに米国的な・・・目的志向持ってそこへ神のように飛翔する


さて、そうしたある程度の時間という評価にさらされ、後継者のジェフ・イメルトもほぼ名経営者出会うことはわかってきたので、やはり20世紀最高の経営者の一人といわれるジャック・ウェルチさんの評価は固まりつつあると言ってもいいだろう。GEという組織も、とても好きでずっと追っているのですが・・・・・というか、いろいろなビジネスの研修や勉強をしていると、ゼネラル・エレクトリックの名前や事象が出てこないことはまずあり得ませんので、追っているというよりは、知らないと話にならない、なのかもしれません。僕は、この世界最強の組織といわれるGEとその中興の祖であるジャック・ウェルチさんを知るたびに思うのは、


ああ・・・なんと米国的、、、アメリカの中のアメリカのような組織であり人間像だ


ということです。アソシーエーションの見本のような(苦笑)。


もっといいかえると、


獰猛な資本主義の狩り場で、幸せに充実して生き抜くことってのはこういうことなんだ!


と、慨嘆します。


この人の本は燃えます。まぁ今のビジネスの教科書の例示を作り出したような経営者ですから、そんなに奇抜なことをっているわけではないですが、読めば燃えます。まるでチープな自己啓発本をあざ笑うかのような、熱狂的な前へ進む意欲が生まれてきます。この人は、きっと組織を率いた時代に、どれだけのたくさんの人間に、強い動機をモチヴェートしてのだろうか?とため息が出るほと、強い波動というかエネルギーを文章からさえ読み取れます。読めばわかるって。



強い目的志向



揺るがない意思



断固たる意思決断



貫徹した実行力



どんな形容でもいいですが、この強い楽天的な「前へ進む!」おれは勝利者になる!というエリート意識は、本当に目的志向な、まさに資本主義社会の見本のような意識の在り方です。


僕は、たまらなくしびれます。


それは、この意識が、何かのコンプレックスの反動といったルサンチマンなのではなくて(少しはないとはいえないかもしれないが・・・)


とても健康な意識としてそこに存在しているからです。


これは、僕的には、けっこう感動もので、このへんの米国の馬鹿みたいに鈍感な前へ進むフロンティアへの純粋な成長意識には、感動させられます。ルサンチマンのない成長意欲って、とても小気味いです。


僕は、シゴトで迷うと、よくこの本をバイブルにして読み返しています。



■成長幻想は幼少期のルサンチマンか?それとも??


とはいえ、僕は、成長への極端な強い意思は、ほとんどの場合、何らかの幼少期のルサンチマンだという仮説を持っています。そして、これはほぼ正しい結論だと云って構わないでしょう。強い動機は、何らかの強い体験・・・・それも強い負の体験から生まれるものでああって、それを正のフィードバックに変えるのが、健康な人間だ、と僕は思うのです。


ところが最近の日本の名経営者や成功者の伝記を読むと、どうも僕にはあまり幸せなようには見えないのです。ヴェンチャーがあまり好きではないのは、なんだか僕にはああいう起業家のモチヴェーションマインドが、病理に見えてしまうんです。もともとマクロの経済分析でもしながら世界を観察してすごせたら、最高だなーという仙人解脱志向が強い学生の頃のからの僕の感覚では、


勝って勝って…そして物質的快楽をきわめて(ブルジョワシー)、それでどうなるの?


という諦観が強く存在しているようです。


ただ、そこは負けず嫌い。少なくとも、ある一定のレベルを超えた勝利者になった上で、それを語らないと負け犬の遠吠えになってしまうので、僕は常に水準は超えるど努力を怠ったことはあり得ません。学歴なんか意味ないさ、と言える程度には、せめて日本の中での最上級の学歴ぐらいはを持ちたい!と思っていましたし、子供のころから。そうでないと、学歴に意味がないといっても、ウソつきになりますから。だって体験できていないんだもん。いうならば、実績を示したうえで、豪語せよ!と思ういます。ある程度は(苦笑)。


文化人類学者・宗教学者の中沢新一さんなんていうペテン師が大好きだったのも、その辺拍車をかけて(笑)、昔で、



「週末にいい車に乗って別荘に行ってダイビングとかして、、、、おいしいものを食べて、いい服着て・・・とか、反吐が出るね、そんな生活」



とか、にこやかに吐き捨てていらっしゃいましたが(笑)、、、今の僕はこのことの真の意味がよくわかります。当時は、実は僕は、



「そういう生活できない人がそういうセリフいっても負け犬じゃねぇ?」



という思い強かったので、単純に肯定はできませんでした。気持ちは共感しましたが。。。。



■世界と同化するか脱出するかの違い~それはどこでもできる



つまりね、、、、僕が何に共感して、何に違和感があったかは、最近わかって来た気がします。


それは、人間は幸福や充実を求める存在であることはわかっています。が、この欲求の向かう方向と強さによって、相対性と絶対性へ向かうという軸で分けることができるようです。言葉が練れていないのですが、



①「同調圧力思考・世界への同化思考」(相対性)





②「全体性希求思考・世界からの脱出志向」(絶対性)



といったイメージに分けることができます。


①は、ようは、おしい食べものを食べて、歌って、愛そう!(アモーレ・カンタービレ)の感覚です。これは、いまいる生活・環境と同化して、生きていることそれ自体の動物的な側面に感謝と喜びを見いだす体感です。ちなみに、「これ」が僕がよく書く「等身大の自己認識」の意味で、let it be…あるがままにそこにあるという感覚です。この行き着く果てが、


ナンシー ウッド, Nancy Wood, Frank Howell, 金関 寿夫, フランク ハウエル
今日は死ぬのにもってこいの日

こういったモンゴロイドやネイティヴアメリカンの自然や宇宙の同化していくことによる充実の希求です。これは非常に簡単なことで、



いま生きて存在している自分を肯定し、同じく存在している他の存在を喜ぼう!



というスタンスです。人間は動物なので、この側面に訴えることは、てきめんに幸福感を人にもたらします。そもそも身体がそういうふうにできているのですから。



ところが、人間は知性というリンゴの木の実を食べてしまった存在で、「いまそこにあること」から「外に抜け出たい」という希求を持っちゃう存在なんですね。


それが、全体性の希求というやつです。哲学なんかでは、トータリティへの希求という言い方をしておりますが、究極的には、「いまここ」からの脱出を求めているんです。「いまここ」という感覚は、世界の断片である自分を認めてそれで世界と融けることを希求しますが、そうではなく、その世界そのものからいったん外に出て、その全体像を眺めよう(という神の視点)のことなのです。


・・・・意味伝わるかな?。


ジョルユバタイユのエクスタシーや死への憧憬も、同じものですね。


G・バタイユ, 酒井 健
エロティシズム (ちくま学芸文庫)

ファンタジーが、「いまここから抜け出ること」という意味があるように、人間には、等身大の自己を、現状を否定して、異なる世界へ抜け出ようとする志向性があるのですね。


そういう意識が尖鋭に出ると、


このままではいけない!もっともっと前へ!!という現状の否定意識が強く前に出てきます。まるで、ネイティヴアメリカンの世界と同化するラフスタイル・・・・物質的にも快楽をベースとしたマターナルなたゆたう自己認識を、破壊してぶち壊してしまいたくなります。なぜならば、それは「ほんとうの自己の求めるところ」を騙し、支配する「悪」のように思えるからです。グノーシス的ですね。




■現われ方は人それぞれ~すべては人間の営み


えっと、長くなって疲れたのでまとめ。


ようは、人間には、「いまここ」を愛する気持ちと、「いまここ」から脱出したいという両極端の意識を同時に抱えた存在である、ということです。


ブッダなんかは、この両方の中庸(バランスをとれ)といいます。ギリシア・ローマの伝統では、「いまここ」は、エキュピリアン派でしょうし、脱出は「ストア」派なんかが、その傾向を持つと思います。まぁ世界の大宗教といわれるものは、たとえばキリスト教は、この両方のダイナミズムを教義に持っています。また昨今の新興宗教や新・新興宗教は、ほとんどが、この脱出派ですね。「いまここ」の否定は、出家と世界への破壊を要請しやすいからですね。


この二元的対立のエネルギーが人間存在の本質である、ということです。


さて、元に戻ります。僕はブルジョワシーな生活を否定する気は子供のころから全然ありませんでした。なにも、世界そのものや人間が動物であることの億面を否定しても、どうにもなるまい、という思いが強くあります。おししいものはおいしいし、空気がきれいなら嬉しいし、SEXは気持ちいいし、カワイイ女の子は最高だし、もちろんかっこいいナイスガイは一緒にいてうれしいし、、、そんなこと否定してもしょうがないだろう?というい思いが強くありました。




だって、世界はこんなに美しいんだぜ!



けど、世界にあふれる害悪を見据える時に、こんな世界滅びてしまえという気持ちにもなるし、、、なにもうまくいかないちっぽけな自分に絶望してその不遇感から、世界よ滅びろという気持ちも起きてきます。真理に程遠いこの汚物にまみれた現世に生きている価値があるのか???浄化しなければならないのじゃないか?(笑)とか、そういう気持ちだってわからないでもありません。



だって、世界はこんなにも汚れているんだぜ!



もっと僕的な等身大の言葉でいえば、「一度しかない人生ならば、ギリギリのエッジまで走って、何かの存在のあかしを世界残せなくて、何の意味があるのだろう?。ただ食べているだけの動物になるのは、許せない」といった気持です。


けど、これは抽象的には、人間存在の本質で、誰にでもある衝動です。


ならば、この「衝動・モチヴェーション」をいかに現実世界に表出・表現できたかでその人間の価値や生きている意義が問われるのではないか?


って思います。そして、そうしたたとえばトータリティの希求が、企業経営やサラリーマン人生というものに向かったとしても、学問の真理探究に向かっても、宗教者として目指しても、そのどれも


おなじなんじゃねぇ!


と思うようになりました。なぜならば、すべては人間の営みだから。しょせん舞台や役の違いに過ぎない。


そう思うと、


ダライラマ14世テンジン・ギャッツォ, His Holiness The Dalai Lama, 塩原 通緒
幸福論
評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ


こういつた本も非常に同じベースで見れるようになってきます。僕は、ジャック・ウェルチの本を読むとき同時にこの本も読み返すようにしています(笑)。なかなかこういう組み合わせで読もうとする人はいないと思いますが、結局は、同じ人間の営みで、同じく人間存在の謎に迫ろうと、生きている意義を世界に示そうとする意味では同じことではないか、と思うのです。


そして、中庸を知る・・・・・バランスをとり、世界と自己との距離のバランスを感じながら、世界そのものに挑戦するためには、ある程度、両極端の思考を身体に知性にしみこませておかなければならないのではないか、と思うのです。


そうすると、この2冊なんか、いいんですね。国境線のようにジャンルが違うので使われている言葉や対象とする読者や事物が全く違うのですが、人間存在の希求というベースで解釈して翻訳しながらおどろくほど似たことを言っている気がします。・・・なんて、いうひとはまずいないか?(苦笑)。でも、僕にはそう感じます。


まっ、なるべく極と極を行ったり来たりすると、おもしろいですよ!ってことです。

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福沢 諭吉
学問のすすめ (岩波文庫)


評価:★★★★★星5つ

(僕的主観:★★★★星4つ)


出来る限り古典を読もう、と思い立ったので、とりあえず今一番自分ブームの一つである福沢諭吉先生のこれを読んでみた。いや、、、、意外なほど口語体で読み易く、3時間もかからず読み終えた。これが明治時代の3000万人しか人口がいない日本で、400万部売れたという大ベストセラーだというのは、わかる気がする。本当にわかりやすい。


実は同じ日に、アマルテティアセンの本を読んでいたのだが、非常に類似する部分を見つけて驚いた。


アマルティア セン, Amartya Sen, 大石 りら

貧困の克服―アジア発展の鍵は何か (集英社新書)



福沢諭吉先生の文章を読んでいた、非常にびっくりしたのが、儒教や孔子の教え、、、とりわけ日本人の倫理の枢軸を押さえた朱子学の価値観に強く反論しているんですよね。つーか、間違っていると力説(笑)。これ、当時は凄いインパクトだったろうなー。


えっと、なぜびっくりするかとば、「門閥制度は親の敵」という標語とともに、中津藩の勤勉な下級武士だった父親を凄く尊敬していた福沢先生のエピソードは有名で、その父も兄も儒教など論語や孔子の専門家だったんですよね。だから、その価値観をああもストレートに批判しているとは思わなくて、びっくり。赤穂浪士の仇討なんていうものも、近代国家としてはあるまじき行為と断罪している。


それでね、上記のアマルティアセンは、ノーベル経済学賞を取得したインド人ですが、この本は、アジアの通貨危機の前後のシンガポールのリー・クアン・ユーやマレーシアのマハティールなどの主張の権威主義的で自由を制限した開発独裁が、東アジアの奇跡を生んだのだ、という論調に対して、丁寧に論駁する講演集を集めたものなんですね。


そこで、孔子などの権威主義的な開発独裁を肯定する論調が、その裏返しのオリエンタリズムとしての欧米の意見にも多いのだが、それは本当か?と問いかけるのです。アジアが権威主義の伝統ばかり強調しているが、「その伝統があること」と、「自由主義的な個人の自由を重要視する伝統」がゼロであることは、イコールではないはずだ、と問うものです。


実際に、イギリスの政治哲学者アイザイア・バーリンが「私は、古代世界において形成された確証を見つけていない」といっているように、「個人的自由というものが西欧で明確された」などというのは、思い込みで、決してそうではないのではないか?と投げかけています。なるほど、これはおもしろい。


そして、近代国家のあるべき姿を明確に指示した日本・・・・いやアジアで初の近代国家としてあり方を説いたこの本、『学問のすすめ』の中に、官を権威とする考え方が専制政治に慣れたアジアには根強くあり、それはダメなんだ!と明確に指示しており、洋学(ここでいうのは、たぶんサイエンスのことと考えていいはずだ)を学んだものは、国に使えるべきではなく、民間に出るべきで、国家はその民間を保護すべものであって主軸であってはならないと何度も述べていることです。見事に日本の官僚中心のお上さまさまの弊害を見越しているんですよ。そして、そのためにこそ、福沢諭吉は、何度も招聘されようが最後まで国家に仕えることなく、民間で活躍するエリートの養成としての慶応義塾を創設し、在野でありつづけました。


なかなか興味深い。このへんの哲学と、センの問題意識は似ていると思うのです。どちらも、アジアに近代国家を根付かせるにはどうすればいいのか?というテーマがあるので、この類似は興味深い。


このへんは、僕のテーマとも重なるので、もう少し細かく読み込んでみるつもりです。


福沢 諭吉, 岬 龍一郎
学問のすすめ―自分の道を自分で切りひらくために
福沢 諭吉, ハイブロー武蔵
図解・速習 『学問のすすめ』 (通勤大学文庫)
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評価:★★★★★星5つのマスターピース

(僕的主観:★★★★★星5つ)


ちょうど、紙屋研究所さんのところで『よつばと』の書評 が挙げられていて、かなり捉え方が異なったので、思い浮かんだことを書いてみます。

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>榛野なな恵『Papa told me 』にたいして、関川夏央は、妻を亡くした文筆業の父と娘、という人物配置に次のようなコメントをくわえている。

 「娘は、セックスをしなくても許してくれる妻である。口うるさいが、やわらかな頬をした小さな母である。再婚しないのは娘のためだというのはいいわけで、たんに彼自身の都合のためでもある。もっとも、徹底したエレクトラ・コンプレックスの娘のほうも、今後永遠に恋愛にもセックスにも悩まずに済むから、心安らかに暮らせるという有利さはあるだろうが」(※1)


あずまきよひこ『よつばと!』/紙屋研究所・漫画レビューの畑――自意識の栽培
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yotubato.html

 
****************

■そもそも表紙を見れば、目指しているものは全然違うと思うのだ!


うーん・・・・これは、受け入れ難い。


いや、紙屋研究所さんの視点、論旨は、正しいとは思うんです。僕もかなり前から、この系統の物語り類型に対して似ている論旨 を展開しているので、いわんとすることはわかります。でもこれは、榛野なな恵さんの『Papa told me』の本質は言い表しているのだが、『よつばと』の本質ではないと思うのです。精確に云うと、よつばとに当てはまるけれども、必要条件であって十分条件 ではないという意味です。


関川 夏央
知識的大衆諸君、これもマンガだ (文春文庫)
斎藤 環
博士の奇妙な思春期

『よつばと』の永遠の日常性を成り立たせるために、「「三十代頭脳労働男女」の欲望の理想化」という設定を選択していることは、まさにその通りだと思います。僕も最近考えていたのですが、男性のオタクが娘がほしい!と考えることとや、仕事に疲れ切って男化した競争社会の女性が癒しを求める欲望などが、結果として、この系列の永遠の日常によって癒される逃避ポイントを見出すというのは、典型的なものだと思います。

すたひろ
おたくの娘さん (第1集)
小川 彌生
きみはペット (1)

が、その設定は使っているのですが、『よつばと』の描こうとしているのは、「それ」ではないと思うんです。ただ設定が同じだからと言って、必ずしも目指しているものが同じとは限らないと思うのです。永遠の日常にも種類があると思うので。


結論を言い切ってしまうと、同じ癒しでも、この作品は


永遠に終わらない夏休み


を描いているんだと思うんですよ。


フリッパーズギターは、まさに僕も連想していたんで(笑)、うぉぉぉっシンクロて思いましたが、「夏休みは終わりだ」といいながら、彼らの全盛期は全編夏休み気分じゃないですか。ちなみに『Three Cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった』は、名作でしたねー。何回か聞いたかわからない青春時代の思い出です。

Flipper's Guitar, 小沢健二
Three Cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった


僕は、紙屋研究所さんとは逆に、この作品全編(いまのところ7巻まで)において性的なものを感じ取れないので、不思議な感覚を得ました。おっしゃるとおり、ヲタクの願望の本質を映し出したような設定・作品世界の構造であるのだから、「性的な視点」が隠されていないとおかしいです。


>お隣にいる三姉妹は「美女」「女子高生」「小学生女子」である。表面からは消して回った性は、この3姉妹に息づいており、そのときどきにむけられる、あずまの彼女たちへの性的なまなざしをみるがいい。何も性的なイヴェントは起こらないけど、作品世界のそこかしこに性的な空気が充満している。


でも、ほんとに?


本当にこの作品で、例えば隣の3姉妹に性的な視線を感じる??


僕は、それはまったく感じないなー。


いろいろな人にぜひ聞いてみたい。


もしかしたら、物語の本筋と関係なしに、ふうかかわいいよーとか、性的な視点を持つことはあるかもしれない。けれど、、、、本からストレートに読み取れるかなぁ?。この作品で、そう読むのは少し読み方がアクロバティツクな気がする。


それは、やはり我々が誘導されている視点が、よつばが見た周りの世界という部分に固定化されている※1と僕は考えるので、よつばの父親の視点に感情移入することは、作品の流れ上ありえないと思うのですよ。


***************
※1

我々が感情移入している先が、よつばであって、よつばでない状態がある。よつば自身が体験している視界の映像を、神の視点から眺めているような状態で固定されている感じだと思うんですよ。小説でいうと、神の視点(三人称)と主人公の視点である一人称の中間に位地する感じなのだが、これが何?といわれると、うーん・・・へなへなとなる。


□『よつばと』 あずまきよひこ著 マンガの表現力の到達点の一つ
http://ameblo.jp/petronius/entry-10049280825.html

***************

もちろん、そういうふうに無理やり読むことは可能です。マンガは、多視点が存在するので、どのように読み抱えるのもそれほど難しいことではあません。小説と違って、基本的には、神の視点で空間を切り取らざるを得ないのですから、構造上は。それ故に、同人誌が生まれることになったわけでしょう?。だから自分に実際に娘がいたりすれば、父親の視点に偏って感情移入することはあり得るとは思います。が、少なくともそれはこの物語の本質における主要な視点ではないと思うのです。


たとえば、榛野なな恵さんの『Papa told me』や高野真之さんの『BLOOD ALONE』は、まさにおっしゃる通りのロジックで読み解けるし、「それ」こそが物語の本筋であると思う。


http://ameblo.jp/petronius/entry-10039069316.html


『Papa told me』の主人公の知世に対する視線は、亡き妻への視線とまさに重なっている演出が何度も繰り返されている。また知世のほうも、父親に対して、あきらかにそんなの小学生レベルじゃねーよという複雑な愛情を抱いている。これが、ヲタクの男と、仕事に疲れた女の、日常から逃げたい気持ちの集約点であるというのは、まさにいいわけがしようがない。『BLOOD ALONE』であっても、同じだ。これは亡き妻ではなく愛した姉への視線だしね。もうこの表紙を見れば、、、、わかるでしょう(笑)。



『Papa told me』は、的場知世(まとばちせ)と小説家の父親的場信吉の関係性こそがこの物語の主題であって、SEXの介在しない父娘の相思相愛の関係性が、まるで時間が止まったかのような楽園の癒しのイメージを与える代わりに、物語の時間が進まなくなってしまっている。実際、連載が中断して筆が進まないのは当然だ。ここからどこへも持っていけないからだ。『BLOOD ALONE』のミサキが吸血鬼であるという設定も、このテーマには「止まってしまった永遠の時間」という烙印が必ず押されてしまうからなのだと思う。現実的には有難い関係性だからだ。


何を言いたいのかといえば、これらの2作品の特徴は、SEXが介在しないだけで、明らかに男女の恋愛関係にある閉じた関係性にあるということだ。そこで、いくら仕掛けに性的なものを排除する仕掛けやガジェットを設置しようと、それが明らかに相思相愛の男女関係であることは、否定できない。

榛野 なな恵
Papa told me―完全版 (1)


これらの作品は、愛情の関係性こそが物語の本質であるから、紙屋研究所さんの意見は、まさに妥当といえると思う。


でも、翻って考えてみると、


『よつばと』には、そういった閉じた男女の恋愛関係は、父と娘間には、完全にない(と僕は思える)。

なぜならば、よつばは、娘というよりも子供であり、もっというと正直言って動物の域をでない(笑)。だって、知世やみさきに比べると圧倒的に自意識が薄いのだ。これほど自意識が薄いと、男女関係などの複雑な感情の交換は不可能だ。


ここで読者が外部の視点から見るときに、読者の焦点が合っているものは、


『Papa told me』は、娘の知世と父親の信吉


『BLOOD ALONE』は、ミサキとクロエ


だと思う。それ以外は、風景に過ぎない。



けれども、『よつばと』は、


よつばと世界そのもの(=よつばが見た世界)


の関係性に焦点が合っているように見える。


けっして、メインは、よつはと父親でも、父親と三姉妹でもない。


だから性的な視点など発生するとは思えないのだ。


ましてや、「よつばの視点から見た世界を、神の視点として外から眺める」というこの作品の構造で考えると、よつはが、大人であれば当たりまえであるものを、体験の一回性で、ドキドキしながら「初めて出会うもの」として感動する・驚く情緒「こそ」がこの作品の肝であると僕は考えるので、その日常の驚きという名のセンスオブワンダーなどに比べると、この世界ではセクシャルなものはむしろ忌避の対象というか・・・・忌避だと意識的すぎる言葉だな・・・そもそもそういうものを見る世界観ではないので、連想がむしろ起きにくいと思うのだ。


だって、そもそもよつば自体も、あまりに小さな子で、内面もないし、萌え(感情移入という意味で)でもないし・・・・そもそも内面の自意識を抱えていないでしょうこのキャラクターは。そこで、セクシャルなものが、介在する余地は、物凄く少ないと僕は思うのですが。



■永遠に続く夏休みに逃避するというエンターテイメントの類型


この作品を、もしどこがおもしろいの?という質問を受けたら、


子供の頃の夏休みに、田舎に遊びに行く時に楽しかった思い出はありませんか?


仮に行った経験がなくとも、「夏休み」というノスタルジーを思い浮かべることはできませんか?


って答えます。

ソニー・コンピュータエンタテインメント
ぼくのなつやすみ PlayStation the Best
ソニー・コンピュータエンタテインメント
ぼくのなつやすみ2 海の冒険篇

基本的には、このゲームと発想の原点や面白さのポイントは同一のものと僕は考えています。もっと原初的にいうと、夏には夏至とか、死者が帰ってくるとされる感覚の特異点が、どうも人類の共同体には現れるようで、文化人類学的にいうとそれが「祭り」の原初になっています。そういった、日常の転換ポイントを、時間の感覚の中からではなくて、意識的に作り出したのが(=つまり商品にしてパッケージにした行為)、これらの「永遠に続く夏休み」というヒーリングエンターテイメントである、と僕は考えています。このへんのわかりやすい説明は、中沢新一さんの『サンタクロースの秘密』がいいです。薄いしね。


ちなみに、これは大学時代かなりに調べたりしたことがあるのですが、永遠の夏休みや、それを包含する「永遠の日常」の物語り類型は、祭りやテーマパークなどのの演出に非常に有効な効果を上げるということが、わかっています。で、ちなみに、ディズニーランドやディズニーリゾート、ディズニーワールドなどはこの記憶と永遠の日常めぐる心象風景を、徹底的に研究して作られた空間演出方法です。

能登路 雅子
ディズニーランドという聖地 (岩波新書)
中川 理
偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション
クロード レヴィ=ストロース, 中沢 新一, Claude L´evi‐Strauss
サンタクロースの秘密 (serica books)
中沢 新一
精霊の王
折口 信夫
死者の書・身毒丸 (中公文庫)

基本的には、『よつばと』も忙しない灰色の退屈な日常からの脱出である点では、『Papa told me』『BLOOD ALONE』の求めている逃避の欲望と同じではありますが、それを、SEXを介在しない安心できる娘や少女に求めることと、子供の視点から見た一回性の体験に求めるかでは、かなり違うものだと思うのですよ。


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■半主観的映像が解説されているのは

クリチャン・メッツ『映画記号学の諸問題』か、『映画理論集成 新装版』収録のジャン・ミトリの論考ですね。

『映画学から映像学へ』は読んでなかったり。



しかしよつばとって、みんな味わっているであろ感動、というものにイマイチ共感できないんですよね(以前も言いましたけど)。



一度、よつばとがすげえ好きっていう人に、「ここのここがこう感動した!」っていうのを逐一挙げてみてほしかったりします(笑)。

いずみの 2007-10-06 00:12:16

岩本 憲児, 波多野 哲朗
映画理論集成 新装版

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僕は、すげぇ好きというほど中毒ではないので答えるには違うかもしれませんが、いずみのさんへの回答を兼ねると、これらの「永遠に終わらない夏休み」という退屈な日常からの脱出モチーフは、経験的に、日常でシゴトなどで逃げられなくやりたくないことに時間が拘束される人々ほど強く希求するようです。


また、この日常からの退避は、刺激を求めるのですが、それがセクシャルな刺激ではなくて、こうしたなノスタルジーや子供時代の体験の新鮮さに求める人は、かなりの確率で、性的なものに飽きているか、もしくはそうとう枯れてきているナイスミドル(笑)な年齢の人が多いようです。刺激の強烈さという意味では、セクシャルなものの方が、短期的にはノスタルジーを上回りますので。


もちろん「永遠に終わらない夏休み」というのは、ある種の逃避先の楽園イメージなので、それが、受験に疲れている中学生や小学生でも、十分に志向の対象になります。日常に退屈していて、性的なもの以外で充足しようと考えると出てくるモチーフですから。「夏休み的なもの」から疎外されている人ならば、誰でもいいわけですから。


えっと、この「永遠に終わらない夏休み」を希求するには、第一条件として、自分の目的意識のないところの雑務に毎日追われている人々でないと、あまり感動しません。


第二条件として、これが「よつはのこどもの視点+まわり」への感情移入を伴うので、失われた子供時代への追体験と、同時に子供にそういった体験を与えてやりたいと思う大人の視点が混ざっているので、自分の子供時代に愛されていなかったと思う不遇感と、だからこそ、その分他者を愛してあげたいという幾分大人な視点が入り混じるのです。


だから、シゴトに疲れているけれども仕事から逃げられない責任を持つ子供を持った20後半から30代後半くらいの男性が一番ぐっとくるかもしれません。


そういう意味では、そもそもこの本を読んで、メチャメチャ感動する層ではないんですよ、いずみのさんは。僕もですがね。だいたい「いいなーほんわかするなー」という意見は、第一条件の意見で、それ以上の強い感動を感じる人は、第二条件に当てはまるのではないかな、と思います。



■時間感覚の差異による体験の一回性に関する演出の区分け

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□よつばとは

面白さの説明が困難ですね確かに。面白さの根源が、一回性や意味の再発見であるのはおそらくそうなんでしょうけど、例えばハチクロのように一回性のかけがえのなさを強調するような演出があると、どうもそうゆう気はしないですしね。



まったく主観的によつばとを読んで思うのは、こうゆう体験があるのであれば、世の中の父親というのが娘に萌え狂う気持ちが良く分かるなーという事でしょうかw。



GiGi 2007-10-06 10:59:22
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羽海野 チカさんの「ハチクロのように一回性のかけがえのなさ」も、確かにモチーフは同じです。が、「よつばと」が、「永遠に終わらない夏休み」の日常の反復性を演出の力点に置いているものと、季節の移り変わりなどの「時間の経過が前提」になって回想している視点のハチクロでは視点の置きどころがまるで違います。もっと正確に言うと時間に対する意識が違います。

ハチクロは、竹本君や成長した後の登場人物たちが「青春という名の過去を振り返る」というノスタルジー&モノローグの視点で、すべての物語が構成されているように僕は思うのです。明示的ではないですが、すべての客観視点の作者突っ込み以外の、登場人物の思いは、「現在から過去を懐かしんでいる俯瞰した視点」に見えます。


10巻の最後のセリフで


「あの奇跡のような日々は いつまでも甘い痛みとともに



胸の中の遠い場所でずっと なつかしくまわりつづけるんだ・・・・」

chapter64


とありますが、これは成長した未来の竹本君が、過去の青春時代を懐かしむというノスタルジーな回想の空気を感じさせませんか?。僕には少なくともそいうふうに読める。つまりこの作品は時間から見ると「未来の時点」から、過去という名の「現在」を振り返るという構造になっています。だから、時間は過ぎ去ってしまって「終わってしまったもの」という寂寥感が、全編を覆うのです。これは青春ものによくあるスタイルの時間感覚です。この、もう戻らないものという意味で、「かけがえのない大切なもの」の演出をするのです。これは、既に失われてしまっているという未来からの視点だからなのです。より喪失感が強く出る演出なのですね。


けど、よつばとは、よつばの「いま現在のリアルタイム」を描いているんです。時間の経過が「ある」と考えるものと「ない(かもしれない)」物語空間の差はかなり大きなイメージの差です。


ちなみに、世のお父さんがみんな娘に萌え狂っているのかは、僕にはわかりません(笑)。しかしながら、たぶん上記で考えた視点で分けると、



1)安心できる萌え対象としての娘(を見ている男性としての視点)


2)一回性の体験をしている子供の視点(を守りたい大人の視点)


3)自分の一回性を追体験させてくれる投影装置としての子供の視点



との3つくらいに分解できて、どれによっているかで、指し示す意味がかなり変わると思います。オタクの欲望といわれるのは、1)が過分に偏っている世界なのでしょう。



■感情移入における対象との距離の問題


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□萌え?

私はハヤテのごとく!に出てくるキャラ達にも感情移入は出来ません。ネギまもそうです。



でも、キャラが何でこういう行動をとるのかについては共感し、理解できます。こういったマンガのキャラがとる行動はとてもけなげだったり、純真であどけないものだと感じます。


これって萌え?



萌えオタ 2007-10-06 09:26:52
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畑 健二郎
ハヤテのごとく! 11 (11) (少年サンデーコミックス)
赤松 健
魔法先生ネギま! (7)


これは、このマンガというよりは、感情移入の距離感の問題であって、ある種の技術論であって、作品の視点誘導の力云々ではないのではないでしょうか。僕も、ネギまは群像劇スタイルをとって演出していること、はやてはメタフィクションの視点が常に存在して物語を動かしていく作品であるという構造上からも、実は、あまり感情移入しやすい作品ではないと思っています。


ただ、そうはいってもキャラクターを記号化してそれにファンをつけるという意味では、非常に現代的な作品で、これをシンプルに萌えてキャラに感情移入する人と、もう少し引いてメタ的に楽しむかは、その人の性格や癖によるところが大きい気がします。だから、萌えオタさんの質問に対しては、それは萌えだと思いますが、萌えの定義がないところでは、何とも言えません。ただ感情移入には、種類があるという提起にとどめます。


そもそも他者を理解するときには、



1)同じ視点に同一化して追体験する




2)神の視点から見て、他者(=キャラクター)の置かれている外部環境から導き出される構造を理解する



という二つの手法があります。


非常にぶっちゃけて言えば、1)は主観的に感じることで、2)は客観的に「そうだろう」と類推することです。


これを距離で考えると、



1)は、距離がゼロです(自己と他者の距離)



2)は、他者を高い視点から俯瞰的に眺め見降ろしている視点です(距離が離れている)



このどちらが好きなタイプかは、その人の個人的な好みによります。意識的にマンガや映画は視線誘導を、1)にもっていくか、2)に持っていくかで、その作品のコマ割りや吹き出しが、同一化現象を起こすよう誘導されているのか、誰からから誰かを見た印象(誰に同一化させるか?)なのか、客観的な神の視点なのか、ということがわかる場合もありますが、よほど技巧的な演出をしないと、1)か2)かは読者の恣意に任されてしまうところがあるようです。


また先ほども指摘しましたが、マンガが小説のような一人称になれないのは、内面のみを描くことが困難だからです。必ず外部から見ているシーンのショットのシークエンスでしか、物語世界の現実を切り取ることはできないので、必然的にそこに出てくるキャラクターの誰の視点を選択することも、たとえ作者に演出したり誘導する意志が全く皆無であっても可能です。そうでなければ、BLの同人誌は、過半が成り立たんかったでしょう。


ちなみにどっちの視点が優先権を持つかは、その演出力の過多によります。


いいたいのは、萌えオタさんは、客観的の外から俯瞰的に見るのが癖なのではないですか?という疑問です。これは性格なんですよね。


なんか、長くなりすぎたので、ここでしめます。


いいたかったのは、よつばとに、性的な視線が多いとは思えないなーと思うことです。ないとはいわないけれども。


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