テーマ:

**********

>これはこじつけなんじゃないかなあ。あのトールキンが、自分の創作に現実の社会状況をそこまで露骨なかたちで反映させるなんてことがありうるものでしょうか?


英国のファンタジー文学が19世紀末ごろに盛り上がりはじめたのは事実だし、当時の世情とファンタジーの勃興の間に関連があるかもしれないという考えなら僕も否定しません。でも、関連があることとファンタジーの内容とは別のことです。



指輪物語における「エルフ衰退」の解釈/族長の初夏
http://umiurimasu.exblog.jp/6208872/

**********


この指摘は議論になる部分だなーと思いました。


**********

イギリスやフランスといった欧州の列強が全盛期を迎えたのは、既に前世紀のことです。(中略)でも、そんなことがいつまでも続くわけがないから、やがて植民地も手放さざるを得なくなって、衰退の時代が始まる。トールキンの『指輪物語』や、ムアコックの『エルリック・サーガ』で、エルフやメルニボネ人と呼ばれる貴族種族の終焉が描かれるのは、たぶん、ここらへんの状況を反映しているものと思われます。


『らき☆すた』の文化的背景/Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070923/p1
**********

J.R.R. トールキン, J.R.R. Tolkien, 瀬田 貞二, 田中 明子
新版 指輪物語〈5〉二つの塔 上1 (評論社文庫)
井辻 朱美, マイクル・ムアコック
エルリック・サーガ〈7〉真珠の砦

上記の意見は、この海燕さんの指摘に書かれたことなので、僕の最初のこの記事


『らき☆すた』に見る永遠の日常~変わらないものがそこにある
http://ameblo.jp/petronius/entry-10048130571.html

とは主題が違う話なのですが、最近ずっとファンタジーとは何か?っ考えていたので、ちょっと敏感に反応です。とてもややこしいので、少し議論のレイヤーを分解しておきたいと思います。



■トールキンの語るファンタジーとは何か?


議論を整理しておくと前提として、


・トールキンは、自己の創作世界が、現実といっさいの関連がない!ということを強く主張している


・その理由は、ファンタジーが準創造行為であるということ


・準創造行為とは、この現実にありえないものを創造することである
 (逆に言うと、この現実にあるものの比喩や代替物はファンタジーではない)


以下、この話を前から話しあっている不思議漫画blogのさくもさん のブログから少し引用させていただく。


**********

>要するに、ファンタジーの本質とは、現実世界で見られるような人間ドラマを主眼とする物語のことではなく、新しい世界の創造を主眼とした物語のことである、ということですね。そういうファンタジー(新しい世界を創造する)を一般にハイ・ファンタジーと言いますが、トールキンの『指輪物語』を思い浮かべてもらえればよく分かると思います。エルフの物語、ではなく、エルフがいる物語、なのです。エルフがいるということは、どういう世界になるのだろう。どういう暮らしをしているだろう。他の種族との関わりはどうだろう。そういった点を創造するのがファンタジーであり、それを楽しむのがファンタジーであるのです。


ファンタジーとは何か ―J.R.R.トーキン『ファンタジーの世界』より/不思議漫画blog
http://fantamanga.blog17.fc2.com/blog-entry-184.html#more
**********


**********

アイドルになる(=他者からの羨望を集める)という欲求は、現実世界で実現するかもしれないけれど(少なくとも可能性はある)、鳥になる(=現実での物理法則を無視)という、どうあってもこの世界では実現不可能な願望が、トールキンが述べているような本質的な魔法を生み出すのだと思います(*つまり、「魔法」少女モノ、と言われてはおりますが、「他者からの羨望を集めたい」といった他者志向性を根源に持つ願望から来る「魔法」というのは、「ファンタジー」の本質からはかけ離れたものであると思います。それらの欲求を満足させたい方々は、おそらく創造の物語を読むよりも、「人間ドラマ」を主眼とした物語を嗜好されるのではないかと思われます)。


ファンタジーとは何か その2 ―起源
http://fantamanga.blog17.fc2.com/blog-entry-197.html#more
**********

J.R.R. トールキン, John Ronald Reuel Tolkien, 猪熊 葉子
妖精物語について―ファンタジーの世界


まとめると、トールキンは、自分の創作物に関して、ある哲学を持っていました。それは、現実とは一切かかわりあいのない次元での創造行為や脳の働きが、重要なのだ!ということです。




■19世紀末の非人間化に抵抗する無垢な存在としてのアダムへの憧れという文脈


ここからは僕の推測です。


当時の19世紀末のヨーロッパ知識人の文脈を想像してみたいと思います。


アナール学派のアリエスによって、中世からの「子供という概念」の丹念な分析によって、それまでなかった概念が、徐々に近代になるにつれて生まれてくることが分析されています。このころは、いわゆる社会学で言われた「子供という存在の発見」が叫ばれた時代でした。非人間的なロボットのような工業社会での労働者を沢山生み出した資本主義の勃興期に対するアンチテーゼとして、「人間的なるもの」を取り戻そうと考えていたのです。

フィリップ・アリエス, 杉山 光信, 杉山 恵美子
子供の誕生


では、「人間的なるもの」とは何か?


そこで、人間の本質は、人間の創造行為だ、と考えて、それはなにか?ってのを追及していったのです。しかし、けっきょく社会化して「大人」になってしまった人間は、ただの労働力となり、常識の奴隷となります。では、「そう」なる前の人間とは何か?というのが、19世紀末の知識人の問いでした。蛇によって知恵の実を食べる前のアダムとは何か?という議論です。ちなみにこの議論は、20世紀を深く支配した議論です。(もちろんいまでもね、いわゆるマルクスのアリエネーション論です)


それは、子供だ!ということになったんですね。


精確に云うと、無垢な子供。


不思議の国のアリスやロリータコンプレックス、子供の保護の概念が生まれたのも、こういった「無垢」なものへの憧れという19世紀末の資本主義社会の非人間化へのアンチテーゼがあるのです。

ルイス・キャロル, 高橋 宏, Lewis Carroll
不思議の国のアリス・オリジナル(全2巻)

それまでは、子供という存在(=認識)は存在していなかったことが、社会学では明らかにされつつあります。大人の小さいの、というものだったんですね、扱いが。とすると、19世紀末の知識人の基本的感覚として、無垢な状態での無垢な想像力の発露が、非人間化した人間が回復するために必要なものだという基調低音があったと思うのです。


ファンタジーを本格的に実践して創造したトールキンが、理論として、現実の風刺モノなどと一体関係ないものだ!と理論的に喝破したのは、当然だと思うのです。文脈からいって、峻別しないとおかしいですから。



■19世紀末の非人間化へのアンチテーゼという文脈は?


**********

>指輪物語について「いかなる種類のアレゴリーも排除する」と言っています(だったと思う)。誤解されやすい「ホビット庄の掃討」のパートについても、「英国の田園風景の喪失という当時の状況を反映したものではない」とはっきり断言しているはずです。


指輪物語における「エルフ衰退」の解釈/族長の初夏
http://umiurimasu.exblog.jp/6208872/
**********


上記文脈から考えると、トールキンが「いかなる種類のアレゴリーも排除する」といった目的は、ファンタジーという創造行為の理論化の部分からいって絶対に許容できない本質だったからです。がしかし、ではなぜ無から有を作り出すというようなファンタジーという創作物が生まれたのでしょうか?。それも19世紀末の英国に集中して。それはやはり、資本主義や帝国主義などの勃興による社会のあまりの流動化に人間の精神が擦り切れてしまい、存在自体に動揺があったがために、「いまとはまったく別の世界」を志向する意識が生まれたとはいえないでしょうか?。


カールマルクスが、資本論の第一巻を書き上げたのは、イギリスで1883年3月14日(19世紀末)です。彼の描いた共産主義思想は、ユートピア思想と呼ばれますが(マルクスの定義上そう呼ぶと怒られるでしょうが)、「いまの世の中ではありえないような別の世界」を夢想したという意味では、ファンタジーとまったく等価の機能を、工業化時代の非人間化にさらされている人々に対して、持ったと思われます。

マルクス, エンゲルス, 向坂 逸郎
資本論 1 (1) (岩波文庫 白 125-1)
トマス モア, Thomas More, 平井 正穂
ユートピア (岩波文庫)


そう考えると、文脈上は、現実の等価物もしくは比喩として考えては「絶対いけない」トールキンは主張すると思われます。理論の文脈上、そうでなければならないからです。しかし、そういった理論が「出てこなければならなかった社会背景的文脈」を考えると、やはりそれは、この時代の現実背景を無視には語れない、と僕は思います。


アナロジーでないはずないじゃないですか。滅びゆく貴族の感覚なんて、この時代の基本的な文学テーマです。サンテグジュペリがその想像力の基本に置いたのは、貴族社会の最後の生き残りであった伯母の家での子供時代の記憶でしたよね。子供時代はだ貴族の館で暮らした彼も、彼の生活自体は、ほとんどがサラリーマンで、NYのアパートメントでくらしています。このあたりのノスタルジーが影響を与えたかったとはとてもじゃないが思えない。だって、全文学や出版物の基礎みたいなイメージですからね。実際の生活の変化、という意味でもね。

サン=テグジュペリ, Antoine de Saint‐Exup´ery, 内藤 濯
星の王子さま―オリジナル版
ナタリー デ・ヴァリエール, Nathalie Des Valli`eres, 南条 郁子, 山崎 庸一郎
「星の王子さま」の誕生―サン=テグジュペリとその生涯 (「知の再発見」双書)


とりあえず何が言いたかったといえば、族長の初夏のumi_urimasuさんも海燕さんも、どちらも主張としては正しいと思うのです。それを全体的に包括・整理した上で、そこから何を言うのか?って議論になるのかな?と思うのでした。


とりあえず、僕が聞いてすぐ頭に浮かんだのはこの図式でした。正しいかどうかはわかりませんが。だれかファンタジー詳しい人、ぜひ意見を聞きたいです。ちなみに、僕もファンタジーには詳しいわけではないので、ぜひ詳しい人ご意見を頂戴したく。

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:

■ファンタジー今昔ものがたり 1900年から2007年までの名作を紹介
http://weekly.yahoo.co.jp/25/fantasy/index.html
株式会社トーハン企画推進部児童書担当の二宮政文氏の記事



この記事話題でしたよね。

ゆるゆる+メリハリ+バランス
http://d.hatena.ne.jp/chika_kt/20070831

やっぱりね。僕もこの記事には、凄い違和感があって、漫画家のおがきちかさんも批判的なコメントを書いているので、さすがに違和感感じた人は多かったんだなーと。ファンタジー好きには、非常にカチンとくる記事だったですよね記事自体のコンセプトやアーカイブとして一覧性があるなど、とっても良い記事だと思うし、わざわざ『ハリーポッターシリーズ』というウルトラメジャー作品と、和製ファンタジーの極北にある上橋菜穂子さんの『精霊の守り人』シリーズというウルトラメジャーとはいえないが、その質と深さの素晴らしさは筆舌に尽くし難いこの作品を、宣伝するという意味ではなかなか考えた広告コンセプトだったと思う。広まることは僕はうれしいので、話題にすること自体は、そのやり方を問わず悪いこととは思わない。


しかし・・・・


**********


>ちょっと前からヤフーのトップページに「ハリーポッターVS守り人・日英ファンタジー対決!」とかって見出しがあったので、うへえ、と思ってましたが(ここでなんで「うへえ」なのかも、うまく説明できないなー)
http://d.hatena.ne.jp/chika_kt/20070831

**********


おがきちかさんが、こう書いているが、僕も「うっ」と思った。それは、かなりカテゴリーの異なるものを、同じレベルで対立させていることがあり、ハリポタの購買層への訴求力を利用して、全然別のカテゴリーに誘い込もうという宣伝側のみえすいた意識が見えてしまうからではないでしょうか?。まぁあまりによく使う典型的な広告手法なので、僕はいまさら批判する気はないですが。


**********


>今や「ファンタジー=児童書」ではない


わおー!今や、っていつからだよー!ファンタジーは子供の趣味ではありません!しっけいだな!むしろ大人になってから読んだ方が面白い本もあると思うけど。
http://d.hatena.ne.jp/chika_kt/20070831

**********


まさに、その通りだ。この記事を書いた人には、物語に対する強い蔑視があるのだと思う。文学とかそいうものが一流で大人が読む価値のあるもので、それ以外は、低レベルのものであるという文化の二元論的な意識があるのだと思う。こういうのは、60年代のアメリカのカウンターカルチャー(対抗文化)やデュシャンら現代美術の挑戦、それに日本のサブカルチャーのグローバルな広がりとかを考えると、あまりにあまりだ。古臭いにもほどがある化石みたいな発想だ。


まぁ話題になることは、別い悪いことではないが。。。。


しかし、しかしである。あまりにといえば、あまりな差別意識がにじみ出ていて、がっかりしてしまう。ああ、この人は境界を超えるという物語の本質に鈍感なまま生きていく人なんだな、と思ってしまう。コンセプトがうまく、しかも網羅性のあり方など、児童文学のファンタジーをたぶん好きなんだろうな、とは思うのだ。これだけの記事を書くのだから勉強もして読んでもいるのだろう。しかも仕事でかかわっているのだから。


が、「それにもかかわらず」こんなに狭い視野で、なんてさびしいんだろうと思う。さびしいっ、なんか、泣けてくるほどさびしい。こういう文章を見ると胸がゾワゾワする。無意識の差別意識・境界意識・上下の区別。


世界がこんなに豊かで豊饒なのに、まったくそれを見ないで、「これが正しいものだ!」と押し付けてくるいやらしさ。勝手な線引きをする・・・それは、ありだとおもう、、、けれども、それが「ハイ(高級な)」とか「正しい」という価値判断を伴うと、非常に腹が立つ。

いいものかそうでないかは、その人それぞれが決めるものだ。もちろん、評価の線引きはあるとは思う。質による評価付けというのは確固としてあると追う。・・・・が、それをイデオロギック(適当な造語)に、ある種の、正当性を主張されると、違和感ありまくり。いまの時代で、そういった全体の包括的価値基準を語りたいならば、それこそ『十二国記』や『ドラゴランス』『Fate』とかとかを同じ線上で正当に評価した視点が比較としてなければ、おかしい。否定するにせよ、だ。フェアではない。


**********


>それを受けて以降、高校生以上が対象となる「ハイ・ファンタジー」から子供向けの「ロー・ファンタジー」まで、対象読者別に数多くの作品が世に送り出され、併せて過去の名作の再評価や映像化も活発に進んでいる。

http://weekly.yahoo.co.jp/25/fantasy/index.html


**********


これも、あいまいな定義の用語を、あまりにあいまいに使い過ぎ。ぜったい誤解が起きるし、教育上よろしくない。世の中の豊饒さを型にはめるイデオロギーはいまの時代には、子供にとって物凄い有害だ。現実が多様で豊饒なのに、画一的な見方しか教えないでイデオロギーで支配すると、現実と概念の世界にあまりに齟齬があって、苦しむのだ。多様性恐怖症は、強いパニックを引き起こすので、とても教育上よろしくない。まじで。



『ハリー・ポッター』中心史観の恐怖。/Something Orangeさんより
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070826


ちなみに、ネーミングセンスさすが。さすがです。海燕さん。これは、エスノセントリズム(自民族中心主義)的な、発想なんですよね。そして、自分が極端な差別していることに気づいていない鈍感さ。さびしいですね。こういう発想を見ると。


**************


>そのわりに、初めノベルズ形式で出版され、のちにハードカバーになった『西の善き魔女』*21は載っているので、本を出版形態で差別しているんじゃないか、と思ってしまいます。たぶん、ノベルズのままだったら載せてもらえなかったでしょうね。


 あと、『グイン・サーガ』*22とか、『アルスラーン戦記』*23とか、『デルフィニア戦記』*24とか、そこらへんのエンタメ系も、当然のごとくないですね。『ブレイブ・ストーリー』*25や『アラビアの夜の種族』*26もない。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070826

**************


ちなみに、さすがわれらが海燕さん。このファンタジーという言葉に触発されて出てくるリストが、素晴らしい。そう、あなたみたな脳内空間が僕の理想です。まじで。このリスト、全部読まねば、と胸が熱くなります。包括的にファンタジーというくらいならば、この海燕さんのリスト全部をちゃんと分類しなければ、ダメなんだと思うよ。これだって、欧米系のSFや日本のサブカルチャーに偏っていて、それ以外の物語に言及が少ないわけだしさ。


世界は、もっと広く豊饒なんだよ。


なんで、わざわざ狭くするのかなー。


ファンタジー今昔ものがたり 1900年から2007年までの名作を紹介/族長の初夏さんより
http://umiurimasu.exblog.jp/


**************


>どこか慧眼の出版社が、指輪物語級の非欧米ファンタジーを探しだしてきてドカンと出版してくれたりしないものでしょ

うか。


**************


とてとても同感です。


AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:
 
評価:★★★★★5つ 傑作マスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ傑作

■世界がそこにあるかのような「ありうべき感」~手段化による卑劣さゼロ


saoriさんに『裏庭』の感想を書きますとか言って、まだ描けていない(苦笑)。ごめんです。でも、言いたいことは似ているんだよね、、、今回長々書いているageの『マブラブオルタネイティヴ』の感想とね。家世界ファンタジーの基本は、



1)現実からの逃避~目の前のリアルに目をそむけて異なる世界へ脱出願望


2)現実への帰還~現実のアナロジーを通して現実に向き合う勇気を得ることによるナルシシズムの告発



異世界へ行くことで現実から逃げるんだけれども、疑似現実で様々な経験をすることによって「現実から逃げることになった本当の原因」を直視する勇気を持つ、という構造。これは、ナルシシズムの告発と克服を同時に描く様式美です。

ようは、それを描くときに・・・・


1)いったい「本質的に作者は何をいいたいのか?」が重要なポイントである



ことと、



2)異世界を異世界として成立させているかどうか?。言い換えれば、作者がいいたい抽象的な「理念・本質」を言うがための「手段」に貶められていないかどうか?


がポイントになります。
  


saoriさんへのコメントで、以下のように書きました。


>小説の舞台やテーマが、自分が言いたい事を相手に押し付ける道具になってしまっていて、世界そのものを再現する喜びよりも、先に日常世界での現実での説教を他者にしたいと言う意思のほうが勝る傾向が強く、それはいやな感じを僕は持ちます。


たぶんここがポイントなのでしょう。この「手段化による卑劣な印象」を避けるためには、その世界がその世界らしい「らしさ」をどれだけ、構築できたか・・・・になるのでしょう。単純に、その異世界自体をどれだけ深く作者が愛しているか?といっても構いません。なぜならば、手段化というのは、なぜ卑劣な印象を与えるかといえば、「その人が他人に意見を押しつけて説教したいが故の道具」としているところに不愉快さを感じるのでしょうから。それは説教。基本的に説教という形式は、よほど環境が整わないと他者には受け入れられないコミュニケーション方式なのです。


梨木香歩著『裏庭』と上橋菜穂子著『精霊の守り人』を読んで~始まりは嫌悪感から①
http://ameblo.jp/petronius/entry-10032012251.html

『西の魔女が死んだ』 梨木香歩著 主人公のマイは卑怯で小賢しい
http://ameblo.jp/petronius/entry-10007439986.html




■文字による「別世界・別人格」の構築


あっ、せっかく「手段化による卑劣な印象」というか「手段化による説教」という概念を思いついたので、このあたりを展開しておきたい。簡単に云うと、異世界やキャラクターが、作家の言いたいことを相手に説教・押し付けるための道具になっているかどうか?ということですよね。いや、もちろん、実際は、道具なんですよ。言葉なんですから。けれども、作者の顔や人格が物語世界にしみ出てしまうというか、そういうのが下手だなーと思うのです。たとえば、漫画家の高河ゆん。あの人とか、ほんと滅茶苦茶な世界なんですよ。けれども、キャラクターへの異常な偏愛が伝わってきて、「そこにいるかのような」…作者の自己愛ではない何かがあるようになるんです。世界に対してでもキャラクターに対してでもいいのですが、なんというかなー道具を超えた「愛情」というかそういうものが感じられないとダメなんですよ。どんなに頭がよくて理知的でも、この理を超えた感情みたいなものを垣間見せてくれないと、文字による「別世界・別人格」の構築はできない気がする。



■その世界が、その世界として存在している感覚


ちなみに、saoriさんは女性だし、この記事とかで女性が読んでいると、わけわかんねーと思うかもしれないので(笑)、比較はどうか思うのですが、いま盛り上がっている『マブラブオルタネイテイヴ』というギャルゲー・ノベルゲームにも似た印象を抱くのです。エロゲーですが、僕がやった全年齢版は、そういうシーンとグロい殺戮シーンカットですから、これならばチャレンジの価値ありますよ(笑)。あっ、ちなみに、これ好きな人は、性別関係なく相当楽しめると思うので、機会あればどうぞ。ジャンルを超えて世界を楽しめないのは損ではないかなーと思う。どんなジャンルも越境して最高のものを経験できればそれに越したことはないと思うのですが・・・。1ジャンルに固執するのは、僕は趣味じゃない。とはいえ、ヲタクの萌キャラ楽しみを知らないときついかなーとは思うけれども。

アージュ
マブラヴオルタネイティヴ DVD-ROM版 リニューアルパッケージ

えっとね、比較に戻ると、この作品の白銀武という主人公は、自我が薄いのです。状況に流されやすい人なんです。それには、ギャルゲーという媒体の構造上の制約条件や、そもそもヘタレの自意識を解体告発するのが主題なので、主人公に強い自我を持たせるよりは、受け手の意識と一体化「させやすさ」を選んでいるんですね。


>白銀武という主人公は、基本的に信念がない主人公です。アージュの作品は、基本的に主人公が意志しない自我があやふやなモノが多い。これはノベルゲーム・エロゲーというジャンルの持つ多選択肢というものを保証するには、必須なんです。


>そういう意味では、これほどまでに凄まじい壮大な物語を描きながら、なぜかアージュの作品には、個性が感じられないのも、それが理由かもしれない。白銀武という人格は、「アージュ製作者サイドの本質である自己のナルシシズムを告発するという脚本・演出というマクロの意志」の奴隷であり道具に過ぎないからなんでしょう。
『マブラブオルタネイティヴ』 その2 日常と非日常の対比から生まれてくるキャラクターの本質
http://ameblo.jp/petronius/entry-10039733001.html



凄い道具として主人公を設計しているんだよね。物凄い自覚的に、卑劣にも!(笑)。でも、、、その卑劣さは、狙い!なんですよ。受け手の精神を解体するための意図なんですよ。そもそもが、受け手にメチャメチャ攻撃的な意図なんで、これはこれで判るんです。ちなみに、この作品は、「気持ちが悪い」と嫌悪する人が多いそうです。その素晴らしい世界構築力への賞賛と同時にね。ようは、「手段化の卑劣さ」も意図した世界構築の一部になっていて・・・・しかも最終的には、「この卑劣さ」自体が大きな物語の一部なんですよね。まぁそこはオチのネタバレに繋がってしまうので、これ以上は書かないのですが、、、、、この主人公の自我の薄さをカバーするように、非人類に攻撃される人類の絶望的な状況を、これでもかって詳細に、執拗に描いているんですよねこの作品は。だから別世界・異世界に強い・・・なんというなかなぁ魔力みたいな引き付けるものが生まれるんです。おとぎばしや過去の物語・・・童話みたいなものは、万人が感情移入できるように、主人公の自我は薄い空っぽなものが多い。説話とはそういうものです。けれど、その代りに、歴史のアーカイブを利用した世界観の詳細な「ありうべき感」があるのです。だからこそ感情移入できる。まるでそこいるかのような「異世界へ連れ出される」・・・・・別の世界に連れて行かれる・・・ファンタジーの語源ですよね。そういう感覚が到来する。


『裏庭』がダメだなーと思うのは、舞台が現代なんですよ。それと、別世界の描写も、すべてが抽象化すると「作者が意図していること」が明確に分析できてしまうのです。それって・・・・あまりにパーフェクトネス。なんというか、機械のようで、世界の生々しさが感じられないで作りもののブリキに感じてしまうのです。そうすると、自我が薄い(=受け手との一体化を狙った)ことが、マイナスになって、まるで作者に説教されているような印象を受けてしまうのですね。そういう意味では、『裏庭』の僕の印象の悪さは、「作者のいいたい本質」よりも、「作者の小説の書き方」に非常に不満があるのだと思う。手段が悪すぎて、いいたいことに「聞く耳を持たない」って感じになってしまう。だから、手段自体を除けば、その主張に共感するしないは、あると思う。ただし、、、手段の選び方も、その作者自身や世界観そのものを表現してしまうから、やはりそういう意味では僕にとってはかなりの駄作と位置づけられる。


■別の世界のありうべき感~それがそこにあるという存在感


ちょっとというか死ぬほど(笑)話がずれましたが、そういう意味では、上橋菜穂子さんは、すばらしい。文化人類学者だそうだが・・・・学者にありがちな対象を突き放した距離感がない。しかし、国家や文化をというマクロを冷静に突き放して構築している見事な構成力。1作目で、あれほどの傑作を書いたので、それがどこまで続くのか…と思ったのですが、、、この人は天才だ。学者的な冷静なマクロを見据える視点・世界の構築力・・・・にもかかわらず物語のダイナミズムと一人一人の人間の心のひだまでのぞく素晴らしいキャラクター造形。これが、ほんものと、偽物の差だ、と思う。レベルが違い過ぎる。これが児童書向けに今まで、たくさんの人に開かれていなかったのは、日本社会の損失だと思うよ。まじで。なんつかー上の文章で疲れてしまって(僕はいつもそう、、、前置きが長すぎる)詳細を書くのはまた今度にするのだが・・・いやー素晴らしいですよ。


■『闇の守り人』/手当たり次第の本棚さんより
http://ameblo.jp/kotora/entry-10038867383.html

相変わらず評が鋭い。とてもとてもぐっときた。


>一作目が、いわば、生きるという事を見つめる物語であるならば、


二作目は、死を見つめる物語だからだ。


その通りだと思う。実際は、文庫1冊分。長くない。それで、これだけの密度を描ききれるというのが信じられない。マクロもミクロも申し分なさすぎるほどに深い。それもただ深いレベルじゃない。世界の本当に奥深くまでレイヤーを飛び越えて透徹されている。ここまで、ファンタジーで「世界」というもののレイヤーを深部まで描いている作品は、まずお目にかかれない。しかも、児童文学だけあって、ものすごくわかりやすい。これだけ深く複雑なものを、これだけにシンプルに描けるのは、信じられない。これは、このシリーズは、歴史に残る日本の文学史上に残るべき偉大な物語だ。この2冊だけでそういいきれる。まだまだ続くかと思うと、、、泣けてくるよ。うれしくて。


ほかの凡百の作品とはケタが違いすぎる。


たとえば、『マブラブオルタネイティヴ』なんかはアーカイブに残るべき素晴らしい傑作だと思うけど、それは同時代性に支えられている部分も多分にある。時代を関係なく、しかも特定のジャンルによるハードル(たとえば萌えキャラで楽しむとか)なしに、万人に開かれているという意味では、ダメだろう。しかし、この小説は違う。まさしく、小説。まさしく物語といえるのが、上橋菜穂子さんといえるであろう。


>しかし、この作品の凄いところは、そういう内面的な部分が過不足なく描かれていると同時に、「現実」の部分でも、大きな動きがあることだ。


今回は、カンバルという、貧しい山国を舞台に、その国がたちゆくにはどういう事が必要なのか、そのために、人ならざるものと、どのように関わっていかなくてはいけないのか、そして、人の欲望がいかに際限がなく、そのためにはどんな酷い事でもできるのか、そういった事を、見事に描き出しているのだ。なんか、背景の説明で、、、ベタに主人公の素晴らしさを語ることができなかったので、また次に行きます。



■闇の守り人/憂世の因果律亭
http://yu-yo.way-nifty.com/weblog/2007/07/post_580c.html


先日『精霊の守り人』を読んで「次はいつ文庫になるの?」とびくびくしていたのですが、幸い、それほど待たずにすみました。


本当に早く次が出てほしいですね。


■参考記事


物語の嘘に対するファンタジイの誠実
http://fantamanga.blog17.fc2.com/blog-entry-234.html#more

現実の単純化の結晶としての物語と、その美しさへの違和感
http://fantamanga.blog17.fc2.com/blog-entry-233.html

ファンタジーとは何か ―J.R.R.トーキン『ファンタジーの世界』より
http://fantamanga.blog17.fc2.com/blog-entry-184.html

ファンタジーとは何か その2 ―起源
http://fantamanga.blog17.fc2.com/blog-entry-197.html


AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:
田辺 イエロウ
結界師 (1)

この手当たり次第の本棚のとらさんの記事は、実はずっと頭に深く残っている。というのは、前にネギまの記事でも書いたのだけれども、日本ってのは、東西両方のファンタジがー深く通俗文化・エンターテイメントに浸透しているので、不思議な奥深いところまで、ガジェッドや宇宙観の部分が展開する場合が多い。たとえば、ネギま主人公のネギ君は、西洋魔法を操る中国拳法の拳士であって、そんなのは絶対イギリスやアメリカではありえない発想ですよね。そういうのって、面白いっ!って思うのです。




「結界」の通俗的にいわれている定義は、以下だ。

概説
本来、仏教用語で、清浄な領域と普通の領域との区切りのことである。この境界線を示すために、神社・寺院などの境内や建築物では意図的に段差を設けたり、扉や柵、鳥居や注連縄などを用いる。一定範囲の空間に設定されたタブーを視覚化したものとも言える。また、聖なる領域と俗なる領域という二つの世「界」を「結」びつける役割をも持つ。
古来より村の境に配置された道祖神、庚申塔などの石仏は災厄を村内に入れないようにするための結界の役割をしていたともいわれる。

◇結界の例
修業の障害となるものが入ることを許されない場所、土地に対しても用いられる。女人結界などがその例である。
この他、生活や作法上注意すべきなんらかの境界を示す事物が、結界と呼称される場合もある。作法・礼儀・知識のない者は境界を越えたり領域内に迷いこむことができてしまい、領域や動作を冒す侵入者として扱われ、無作法または無作法者とよぶ。

◇茶道具としての結界
茶道具の一つで、客畳が道具畳に接続している時に、その境界を表示するために置かれる物を「結界」と言う。これは炉屏とも呼ばれる。

◇フィクション作品における結界
小説、ゲーム、漫画など、フィクション作品に登場する「結界」とは、ある領域内を守る目的で、なんらかの手段や道具などを用いて持続的な霊的防御を施すことを言う。例えば霊的な能力を持つ者が、その力を用いて悪霊などの外敵を排除し侵入させない霊的な壁に囲まれた空間を生じさせるという描写が為される。

本当は、東洋的なファンタジーをもっと深くえぐってほしいなーと思う。そのためには、中国と韓国のエンターテイメントがもっと流通するといいなぁ。そのためには、その文化の持つ宇宙感覚が、広く人口に膾炙しないといけないのだが…もう少しなんか出ないかなーと思う。

武田 雅哉
桃源郷の機械学
こういう本がもっと読まれるといいのだろうけどなー。
いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:

<<ハリポタの評価について>>


アマゾンドットコムの『賢者の石』のレビューを100個くらい読み返してみたのですが、すると実は当時の評価が2分しているという事に気づきました。



*********

①手放しで、素晴らしいと感動する人(僕もこれに入るのか?)


②大人が読むに値しない、もしく子供だまし(子供に有害?)

********


という意見です。

①は単純だが、②は鋭いところをついていると、思う。というのは、


********

1)倫理性


2)宇宙観

********

を問う部分が多かったからだ。


1)は、子供が大人を出し抜くとか(ただのいたずら)、単純な勧善懲悪、というのは、倫理として問題なのではないか、という指摘。たしかに現実の社会は、絶対の正義と絶対の正義がぶつかり合う世界であって、誰かを倒せば世界が幸せになる、という考え方は甘すぎる、という指摘は、鋭いと思う。


ただ、これは4巻以降のポッターが暗い世界に追い込まれていくこと、絶対と思われていたダンブルドア校長が実は魔法成果の政治力学を生き抜くしたたかな男で、必ずしも無謬ではないことがあきらかになって否定されています。たしかに、1~3巻くらいまでは通じた批判だが、これはもう云えまい。


ただ2)は鋭い。指輪物語やナルニア国のように、


『世界や宇宙そのものを1から創造してしまう』


という意思が欠如している事を指摘しているからだ。SFファンとしては、魔法使いが(本来敵対しているキリスト教の)クリスマスを祝う時点で、えっ!と思う人は多いだろう(笑)。暦や言語、風習や動物怪物の生態系等、どうしても『世界の創り込み』からいうと、傑作『闇の左手』等と比較しレベルが低いと思う。


それは、わかる。


でもね、


僕は、①の肯定派なので(笑)、このJKローリングさんは、物語る人であって、そういう②の宇宙観はどーでもいいぐらい人々を捕らえるストーリーをかけるのだから、いいではないか、と思うし(・・・宮崎駿や黒澤明に言われる批判と同じだと思う。)倫理の部分も、この正しさを問えない成熟社会で、だれが世界の平和のために戦う気概を持つのか??、子供たちが、そういう正しいことを頑張ってまっとうしようと勧めるこの話は、十分に倫理的だと思うけどなぁ。


どうでしょう?この分析は。まぁ、一言でなにがいいたいというと、やっぱり僕はポッター好きです(笑)ということです


amazon JKローリングインタヴュー
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/feature/-/566984/249-6221746-3861115

いいね!した人  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。