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■教養主義と感性はいつの時代も対立構図となりやすい~しかし、それは本当に対立しているのか?(もちろん反語法)



この記事を書いたときに、実は、リアクションでいろいろ興味深かったのだが、非常に感情的な反発が多い感じがして、なぜだろう?と思ったいた。というは、僕自身も、非常に感情的にこの記事を書いているからだ(笑)。


■物語を読むのに必要な教養~ネギまをもっと楽しむには

http://ameblo.jp/petronius/entry-10014435836.html



これは、実は、分析や評価という名ののもとに、自分の「生き方宣言」・・・・いいかえると実存(自分の生きる目的や価値・実感、、、と読み替えてもいい)を仮託しているんじゃないかな、と思う。


それだと、実は議論にならないので、僕自身も表現を考えるべきであったのかな、と今は思う。ブログやメールなどの文字情報は、すぐ感情論になりやすいんですよね。まぁ、そういうのも含めてリアクションを、投げあうことができるとブログの楽しさなのだけれどもね。



えっと、これって世界を見る姿勢が根本的に違うんですよね。


今回は、細かく書かないで次回に譲るとして、


教養主義 VS 感性


というものなのではないかな、と思います。では、教養主義とは?感性とは何か?という質問が来るんですが、そこは今、つれづれに考えているので、次の記事まで想像してください(笑)。


結論としては、実は、この対立はいつもジャンルの衰亡では発生する流れで、しかも、世界感受の形式としては、たぶん最終的には対立していないものだと思うのです。だから、より論を進めていけば、実は対立するものではない、というところへ話が進むと僕は思っています。



教養主義は僕の記事や、岡田斗司夫さんのオタクイズデッドの議論に現れているのだけれども、


彼のオタクの定義は、



「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力を持っている人たち」



といいます。僕的な言葉で言うと、価値基準を自分で決められる人々、ということです。デイビッドリースマンでないですが、現代都市文明は、基本的に「他人志向」。他人と同じことをして、安心したいという欲求が強い。そのくせ、本質的なところでは同じを望むのに、表面的な部分で差異化したがる、、、矛盾した生き物です。しかし、そういった世界にあって、価値の線引きを自分で決めようと志向する人とびとも必ずいます。


このことがとっても象徴的に現れたのが、


1960年代の米国のカウンターカルチャー


です。日本語に訳すると、対抗文化です。この話は、結構有名なので、また語るのも少し気恥ずかしいですが、


そもそも西欧文化は、正統(オーソドックス)と古典が強く確立していて、それ以外をクズとみなす傾向がとても強い社会です。こうした傾向の社会で、非常に故人に自由や多様性が制限されると、とっても息苦しい社会になります。50年代のアメリカのコンフォーミズムという保守回帰の時代が、その雰囲気をとても強いのですが、60年代にリベラリズムが台頭し、正しさや、価値があるものは、必ずしも、古典や正統だけではない!!と叫ぶ若者が現れ始めました。対抗とは、文字通り正統・古典への対抗です。


音楽などでは、ロックなどがその象徴ですね。もともとクラシック(=古典音楽)以外は、ゴミみたいな扱いだった世界の常識へのレジスタンスだったんです。ちょっと振りですが現代美術のマルセルデュシャンなども、そうした巨大なオーソドックスカルチャーへの解体を志向しました。1917年の『泉』ですね。こうした、何百年にヨーロッパ文明世界の常識やオーソドックスカルチャーへの抵抗者・解体者として、立ち上がったのがカウンターカルチャーです。現代美術などが典型的ですが、世界的に話題になった現代美術のデュシャンは、壊れた便器をただ置いただけでした(笑)。キャンベルのスープ缶の絵をたくさん書いただけの人もいました(笑)。

ウォーホール

1962年アンディ・ウォーフォールがロサンゼルスで発表した作品ですね。


泉

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%BB%A5%EB%A1%A6%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3

はてなダイアリー


このわけのわからない現代美術などは、ようは、


オーソドックスカルチャーの破壊と解体を志向している


のです。


本当のカウンターカルチャーは、巨大なオーソドックスを破壊するために、ヘタをすると、オーソドックスの担い手自体よりもオーソドックスのことを深く理解して、その本質を破壊しようと志向している人たちなんです。


つまりね、単純に言うと、世の中で


これが正しい!!!


とか


これが価値があるもの!!!


と、常識視されているものに対して、絶望的な戦いを、論理と透徹した価値基準で戦いを挑む人々なのです。


日本での展開は、米国とは形がかなり違いますが、80~90年代の岡田斗司夫さんたちが考えていたのは、たぶん位置づけてにこれでしょう。岡田斗司夫さんが、第一世代のオタクをエリートで貴族、と呼ぶのはそういった意味合いなんだと思います。彼の時代は、まだオタクが馬鹿にされ、正統な文化である文学や哲学などの教養主義が・・・実は中身は既にスカスカなくせに幅をきかせていました。しかも、某宮崎事件等があり、世間の風当たりも冷たかった。そこに、新しい意味と価値を作り出したのです。


こういった第一世代・・・・・ようは、オーソドックスを深く理解して、価値基準を自分自身で決めてきた人からすると、そもそも価値を自分で決めないで、彼らの作り出したインフラストラクチャーの上で戯れるだけの姿を見ると、たぶん絶望的な悲しさを覚えるのでしょう。こんな世界を創りたいわけじゃなかった、と(笑)。


まぁ、僕も後続世代なので、そこで泣かれると、やっぱり大きなお世話、と思って今いますが・・・・時代は変わるのです。いつまでも同じではない。


■オタクイズデットは、いまここで言うべきことなのか?


萌えカルチャーと教養主義 その2 ヒエラルキー崩壊

Something Orangeの海燕さんより引用


いつも、良質の記事を、継続して上げられている海燕さんのところより下記の記事を引用。かなり多めになってしまったが、その他にかなり深く突っ込まれているので、過去記事を探して読まれることをお薦めする。ことの方は、非常に敵的にかなりの記事をクールに書いているので毎回楽しみにさせていただいています。


http://d.hatena.ne.jp/kaien/searchdiary?word=%2a%5b%a4%bd%a4%ce%c2%be%5d
>このことについてもう少し深く考えるためには、「昨今のヲタクカルチャーや萌え文化」が、「教養」を重視する岡田斗司夫的なオタク趣味とはあくまで別物だということを理解しておく必要があると思います。



>岡田さんの「オタク学入門」では、オタクには上下があり、それはかれの知識量や作品に対する探求度によって測ることができる、という思想がはっきりと打ち出されている。

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 だからオタクには上下がある。オタク度は「濃い」「薄い」で表現される。濃い、というのはオタク文化における「情熱が激しい」というか、単に「好き」とか「面白かった」では終わらない、終われない、ありあまる気持ちといえる。

(中略)

 彼は自分のその情熱のなさ、濃くない態度に「まだまだ」と思う。そして自分はなぜ、もっともっと濃くなれないのかと悩む。「好き」というだけでアニメを見ているわけではないのだ。もっと濃く、もっと深くを目指して日々、精進する。これこそがオタクの道である。



――岡田斗司夫「オタク学入門」

--------------------------------

>岡田さんに対しては、美少女ゲームやライトノベルを黙殺したという批判もあるわけですが、そもそも岡田さんが代表する世代の価値観では「Kanon」や「AIR」は語れないといったほうが正確なのではないかな。

 これらの作品はある意味、萌えカルチャーを代表する極北的傑作だと思いますが、緻密なプロットだの合理的解決だのを期待するかぎり、どうしようもない駄作でしかない。

>さて、そういうわけで「昨今のヲタクカルチャーや萌え文化」はオタク第一世代的の文化に比べると、非常に感性に片寄った文化であるわけです。そう考えると、べつの時代の感性の産物である「古典」とされる作品が受け容れられにくいのもしかたないのではないかと思うのです。


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■前島日記さんより
http://d.hatena.ne.jp/cherry-3d/20060528/1148830096



■オタクイズデッド

http://d.hatena.ne.jp/kasindou/20060524#p1
Kasindouの日記さんより


これらを読んで、問題の構図が、実は教養主義と感性という非常に水と油的な世界感受の違い(AIRなどのゲームに対する岡田氏の黙殺はとても典型的に見える)が、世代の対立となっているのだと思う。しかも、この感受の形式は、世代対立であると同時に、生き方の実存の対立になっているので、相互に相手のことがとても理解できない、できにくい関係にある。だから、感情的な発言になりやすい。AIRで涙する層には、貴族である岡田氏の苦悩は理解できまい。同時に、貴族である岡田氏に、都市一般市民となった第三世代以降の僕らの世代の苦しみは理解できまい。まぁ岡田斗司夫さんの分析力は、神のごとき天才だと僕は思っているので(笑)、頭では分かっているだとも受けれども、実存は難しいんだよね、頭ではどうにもならないから。


そう・・・・確かに岡田さんの分析は、本質は間違っていないが、自己のアイデンティティーを投影にしすぎた結果、ある種の層を黙殺しているという愚を犯している・・・気がするんだよね。僕もよく知っているわけではないので、これはあくまで仮説だけど。


もう少し細かく考えないとなんともいえないが、これは、70年代の文学の分析を書いた話と、非常にている構図な気がする。これは、感性と教養主義の対立なんだな。この構図は、もう何度も歴史的に繰り返しているもので、ジャンルの衰亡氏を分析すれば、非常に類型的な話のような気がする。



そう考えると、オタク(岡田さんの言う)が死んだ、のではなく、パラダイムが短い期間に変化しただけで、これらは回帰的に回っていくもののような気がする。


文学は死んだ、と80年代に言われたが、それと同じ構図のような気がする。確かも、村上陽一郎の科学史の解説にも似たロジックがあった気がする。やはり、最後に問いたい質問は、仮に上記の僕の構図が正しいとするならば、いまここでオタクイズデッド!と叫ぶことに何の意味があろうか?。いまは、まさに岡田斗司夫さんの慧眼により、プチクリ!を叫ぶ時代であって、教養主義の問題は、、、、もう少し異なったアプローチが必要なのではないか、と思うのだ。いや、いいたいことは分かりますし、賢者の預言は正しい、と思う。感性は重要だが、それで価値はたいてい作れない。ジャンルが衰退するだけだからだ。だが、一度過ぎ去った過去は、もうもどらない。どう、それにアプローチするかは、もっと深く考えなければいけないのだな、と思った。いつまでも、世代対立とヒエラルキー論ばかりしてもしかたがない。なぜならば、僕は、、、そしてたぶん賛成いただけると思うが、みなさんも、面白い物語が多く読めて見れて、人生が楽しくなることが目的なのだから(笑)。ただ単に、昔に帰れ!!は、ロマンチストのバカだ。常に必要なのは未来への処方箋だと思う。・・・・ということで、少し感性について考えます。


竹内 洋
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