■ラスボス問題~出発点
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■ヒーローは悩まない
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■非人類との殲滅戦
http://blog.livedoor.jp/magimagi7/archives/53028806.html
『本と映画と、時々仕事』さんより
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この人、本当にクリエイターなんだろうか?(笑)。偏見かもしれないですが、クリエイターと批評家の思考形態は、真逆なので両立することは非常に稀なんですが・・・凄い論理的で唸ります(笑)。僕ごときが論評するのも失礼な言い草ですが・・・・・。凄い論理的な追及の仕方ですねー。あっ、引用ありがとうございました。
実は、上記のラスボス問題は、自分の中で最近考えている「次の物語とは何か?」というテーマと、これまでの「善悪二元論の解体」というテーマを繋げる問題提起で、ここ数年進まなかった部分に大きな光を投げかけそうなものだったので、、、、少しづつ解析を進めているのだが、先にかなりまとめられてしまった(苦笑)。ホロウとかやっているからかもしれないが・・・まっ負けた…(というわけではないんだが?(苦笑))とか思ってしまいました。とりわけ「非人類との殲滅戦争」が「生存競争」に置換されて善悪の基準という人間の理解できる範囲から飛び越えてしまうというある種の逃げであるという指摘は、鋭い。・・・なんか、くやしい(笑)。
つまりは、現代の物語は、その最高レベルのものでも、悪を・・・人間の悪というものを描けていないということになるからだ。それは、つまり他者※1が、人間が描けていないということに等しいとも言えるのだからだ。
現代物語である『新世紀エヴァンゲリオン』や『硫黄島からの手紙』『ダンスウィズウルブス』などは、結局善悪二元論のカタルシスに入りきれなくて、、、その悩みを行っている主人公の内面の成長の物語に没入してしまうんですよね。 もしくは、物語のダイナミズムが、非常に消極的になってしまう。
- キングレコード
- 新世紀エヴァンゲリオン Volume 1
-
ワーナー・ホーム・ビデオ
これは、村上春樹的です。
- 村上 春樹
- 羊をめぐる冒険
- 村上 春樹
- 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
つまりね、悪=敵=自分以外のモノというものを描くのは不可能(=難しい)だから、まずは「自分」を描こう、理解しよう・・・・そこから始らなければそのもそも人間が描けないというのが、70年代以降の文学の流れであった気がします。
「自分」の内面を解体していくことで、善VS悪という概念を解体していくことで、物語的なダイナミズム(=葛藤)を作り出して、その解決にカタルシスを持ってくるという手法です。90年代的なポストモダンの風潮ともとてもリンクしていて、この手法は、非常に隆盛を極めました。
シンプルに言うと、ナルシシズムに閉じている世界で、「閉じ込められている環境」からの「脱出劇」になるんですね。
ちなみに、この手法は、まだまだ健在で、、、たったいま評価を書いている『Fate/hollow ataraxia』なんかは、このナルシシズムの世界からの脱出の完成形の一つで、ギリギリ内面の埋没しないで物語として成立している。この原型は、押井守監督の『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』ですね。
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確かに内面の豊饒さを発見したという意味では、80年代以降の文学の成果ですが、それは世界というマクロとかかわりのない、いわゆるナルシシズムの世界の追求なんですよね。究極的には。エヴァのテレビシリーズの最後の「何もない真っ白な世界」というアニメとセリフは、今でも最高に文学的で、よく覚えています。ようは、映画でいえば『アンダルシアの犬』『オープンユアアイズ』『ヴァニラスカイ』『トゥルーマンショー』的な、メタレベルでの視聴者への攻撃という手法で、主人公(=それに感情移入している読者・視聴者)の内面や自我の解体を志向したんですよ。
- アイ・ヴィー・シー
- アンダルシアの犬
- ポニーキャニオン
- オープン・ユア・アイズ
- CICビクター・ビデオ
- バニラ・スカイ
- パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
- トゥルーマン・ショー
けど、、、、自分の内面の話って、難しくてつまらないんですよね~。最終的には。もう、次の世代は、内面に入っていくというのは、古い気がするんですよねー。この手法が、新しさを感じたのは、90年代前半がギリギリ最後だと思う。
たとえば、では、世界をそう捉えてしまう自分の自我や実存が、そのあり方が間違っていた(=自分自身が悪だった!)という気づきは、容易に責任転嫁として、次の問題を志向します。
誰が悪くて、自分の内面や実存は狂ったのか?
そんなの親や教育に決まっているだろう!という、責任転嫁になる。現実的には事実ではあると思うが、そんな意味のない責任転嫁をすることは、独立した成熟した大人のやることではない。そういった親や過去からの負の連鎖を断ち切ることこそが、成熟した大人というものなのだ。負の連鎖は自分の意志と力で止めるのが、大人なんだ。誰かのせいにしても意味がない。親のせいにすれば、その親の親のせいで…と無限ループになるからだ。この手の内面への志向は、結局は自我の弱さ…親の問題などのアダルトチルドレン的な、悪を自分以外の何かに押し付けて逃げる姿勢になってしまう。 前に庵野秀明監督の『式日』を酷評したが(映画の出来はいいんだけれど)それは、もう親のせいとかのセラピストが毎日唱えているお題目はあまりに広まりすぎて、「だから?」って気がしてしまい。では、その次はどうするの?と思ってしまうのだ。

悪とは何か?、敵とは何か?というドラマツゥルギーの類型を考える時に、人間以外のケースは二つの選択肢があって
①自分自身の内面
②人間ではない生き物
になるんですよね。②は上記で書かれていた「非人類との殲滅戦」になるんです。①だと、いまのところ一番きれいな形がサブカルチャーでは、『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』で一番汚い形が『新世紀エヴァンゲリオン』ですかね、
ちなみに、②の方面を追及すると、まさにそこで出てくるのが、では、人間ではないもの…というが、そもそも「人間というのはんだ?」人間という線引きはどこで決まるのか?という問いです。これは、下記で書きました。
- 冨樫 義博
- ハンター×ハンター (No.23)
ちなみに異生物との最終戦争・・・・この非人類との殲滅戦争のテーマで、、、この話を、最終的にまで推し進めたのが、オースンスコットカートの歴史に残る傑作『エンダーのゲーム』と『死者の代弁者』ですね。『デビルマン』などもその系統ですかね。
- 塚本 淳二, オースン・スコット・カード
- 死者の代弁者〈下〉
そしてそれらが、究極の結論としてたどり着いたものは、内面ある限り、実は同じ人間であった!という結論です。
そして、ラスボス問題・・・・・何を悪とするか?何を敵とするか?という問題が、無限ループに入るわけです(笑)。
これを、エンターテイメントで物語に料理するというのは、はっきりいって、信じられない天才が必要なので、物語の類型としては、この先を考えるか回帰が必要なのかもしれない。。。。
この先は、まだまとめきれていないので、続くです。
※1:他者が描けていない
これよく使われる陳腐な言葉なのだが、実は意味がいまだ僕ははっきりとはわからない。定義も難しい。よく、小説なんかの批評で、「女が描けていない」という論評があると、あれと同じで、意味内容が全然理解できない。これを書くとなんか難しいことをいった気になる魔法の言葉。この言葉がある時には、書き手が、逃げたと認識しよう(笑)。