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栗本 薫, 丹野 忍
クリスタルの再会 (ハヤカワ文庫JA ク1-118 グイン・サーガ118) (ハヤカワ文庫 JA ク 1-118 グイン・サーガ 118)

月刊グインサーガ。


もう、なんつーか、早すぎ(苦笑)。


ついこの前が100巻だったなんて、、、、信じられないっす。


それにしても、リンダ・・・そうきましたか。



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栗本 薫
暁の脱出 (ハヤカワ文庫 JA ク 1-117 グイン・サーガ 117)

やっとクムの話が終わりだよ・・・・やっぱ冗長だよなー(笑)。といいつつ購入。まぁわがペトロニウス家家訓のひとつには、グインサーガを全巻読むことというものがあって(僕が作った(笑))、わが一族に連なるものはみんな読め!と決めている。今のところ妹と読めしか付き合ってくれていないが。まぁいいんだもん。決めたんだから、一度決めたことは、ずっと貫くの。どんなに馬鹿なことでも(笑)。


ちなみに今回の巻は、なぜだかすごく面白かった。いや、やっと長々したクムのタイス編が終わりを迎えたからというのもあるのだろうが、それ以上に、たぶんいま、僕が、塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読んでいるからじゃないのか?って気がする。

塩野 七生
ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) 新潮文庫
塩野 七生
ローマ人の物語〈1〉― ローマは一日にして成らず

というのは、グインサーガの僕がはまったのは、全体の設計が、非常にミクロの次元(ヒロイックファンタジーや恋愛)からミドルなマクロ(政治や国際体制)、さらには宇宙規模のマクロ(SF的な次元を超越する話)まですべてが構造的にリンクしていることだった。


けど、冗長になるにつれてその部分が、構造的には存在するが、うまく物語のダイナミズムと絡められなくなっている。


が、塩野さんの作品は、まさに、史実をマクロから描ききっていて・・・・しかもダイナミックな物語にもなっているという点で、非常類似点を感じるんですよね。昔のグインサーガの最強時代を思い出させるのです。そういうのに触発されて読んだので、構造自体が失われたわけではないので、リテラシーの水準が高いときに読んだので、たぶんぐっと来たのかもしれないです。


あーあのころのレベルに戻ってほしい。。。。といいつつ、もう心から愛しているんで、別に戻らなくても絶対買うけれどもね(笑)。

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栗本 薫

豹頭の仮面―グイン・サーガ(1)

栗本 薫
グインサーガ 100 豹頭王の試練

人間萌え。Something Orangeより
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070813/p1


それで答えが出たわけじゃない!
http://ameblo.jp/petronius/entry-10042148822.html


人間にとって、最も至上の愛は、理解である、と僕は思う。いや普遍的にそう言えるといいたいわけではなくて、僕はそう感じちゃうということだ。そういう意味で、海燕さんのこの記事は、まさに、まさにど真ん中を突いている。・・・理解が至上だ、という僕の価値観については、たしかこれは、りゅーりゅーさんとゆえ愛(笑)ついて語った時に出てきた言葉だったはず。



http://ameblo.jp/petronius/entry-10009684345.html
(ゆえ好きは読むことが義務とりゅーりゅー氏に言わしめた記事です(笑))



でも人間の感覚・・・というか世界感受の仕組みというのは、その膨大な子供時代の記憶をベースにする内的体験から複雑に組みあがっていて、似たような感受をする人というのはきわめて稀だと思うのです。それだけに、これだけ僕のこの記事を書いた意図を120%理解されて・・・それも抽象的な意味だけでなく具体的なイメージまで、100%的中されると、うーむたぶん実存の形式がとても似ているのだなーと感心します。だから、あーわかってるんだろうなーいいたいことの本質が、と思うので、とっても嬉しい気分になります。・・・理解萌え?。


ちなみに・・・こういう実存形式についての話は、たぶん好きな異性との別れ話とか修羅場のときに凄く出る話ですねー。「似すぎているのでつらくて別れる!」「違い過ぎて理解しあえない」とか、意味不明の言葉が飛び交うのです。まー別れ話は、経験上からすると、理由の探索はは無駄で、要は「さめた」のの理屈をつけているだけなんですが(苦笑)。


が、この話は、エンドレス(意味はないし結論も無いのでので)で語れる面白い「自分探しテーマ」で、この話を日常的に深くできていると、相手のことがとっても深く理解できるのですね。僕は、理解が大事だと思うので、こういうのは無理や開いてしまいたがるのです。僕は友人によく、「なんでお前にそこまで言われなきゃならないんだ!」とよく言われます。仲がいいほどに(笑)。いやー青い蕾を無理やりいただくのは、たまらんです。ちなみに、この言葉で、成田美奈子さんの『サイファ』の主人公のシヴァとアレクが思いついた人は、友達になれます。


この物事の感じ方が「似ている」とか「違う」・・・という話題は、大体において、心の傷が似ているとか似ていないとかいう話なんですね。つまり、抱えているルサンチマンやコンプレックスなど、その人をその人たらしめている「行動の駆動部分(=動機)」の本質が、似ている人と一緒に生きるべきか、異なる人(異なるものは魅かれあいやすい)と一緒に生きるべきかって話につながるのです。この系統は、恋愛の醍醐味なので、ドロドロやりあうと(笑)、あとで、けっこう楽しめる思い出になります。こういう心の本質部分でケンカしあうと、いやー大人になれますし。相手の異性のことがとても深く理解できます。ちなみに、こういうのに慣れている人は、とてももてます。異性だけではなく、いろんな幅広い人に。理由は単純です。受け止める器が広いからなのと、異常事態とか心への告発や暴きに対して慣れがあるので、パニックになりにくいからです(笑)。


*************


>先述の『グイン・サーガ』には、アルド・ナリスという男が出てきまして、ま、莫迦なんですが(笑)、頭が良いのに莫迦というどうしようもない奴ですね。


*************


この海燕さんの引用しているまさに「その」箇所は、まさしくアルドナリスを念頭に書いた文章で、まさか一発で見抜かれるとは思わなかった。まさに、ピンポイントでそこ。ちょっとビビります。似ている似ているとはいつも思うのですが、、、、本当に読書体験の基本が同じなんだなーって(笑)。


このアルドナリスという人物は、世界をマクロで一歩引いたメタ的にすべて見てしまう人物で、歴史上類を見ないほどの天才であったにもかかわらず、「個人が生きるということはどういうことか?」という実存の部分が死ぬギリギリまで理解できなかった大バカ者です。彼に限らないのですが、栗本薫さんの僕が愛してやまない部分は、その「人間理解(=人間とはどういうものかという彼女の哲学)」の部分なんです。これね、ちゃんと成熟した大人が、本当の意味で高い視点から見ると、出てくる登場人物はバカばっかりなんですよ。だれかが栗本薫の小説のあとがきで、栗本さんの小説に出てくるすべての登場人物は「青春真っ只中なんですね※2という批評を書いていて、その理解は素晴らしい!と思ったことがあります。そうすべての人物が、「若い」のだ。年齢、立場が関係なく、人間にとって最も重要な根源の部分を誰もかれもが赤ん坊のように追い求めている。そういう意味で、栗本薫さんにとって、世界はそういう闘争の場なんだろうと思う。


*************


>この小説、ぼくは小学生か中学生の頃から読んでいるんですけれど、若い頃は作中人物の苦悩をわりと真剣に受け止めていました。ああ何という運命の皮肉、みたいな。



 でも、いま読むとどいつもこいつもどうしようもない奴だと思いますね。そして、そう感じるいまのほうが、この作品を良く理解できていると思う。齢を重ねるとはこういうことなのでしょう。


*************


まさにまさに!。僕もいま読み返すと、そう思う。しかし「若い頃は作中人物の苦悩をわりと真剣に受け止めていました。ああ何という運命の皮肉、みたいな。」というふうに、僕もマジで真剣に受け止めていたんですよ。それは、やっぱり自分が青かったんだなーと思います。ナリスをバカとはいえない。つまりは、「個人が生きるということ」が全然分かっていないで足掻いていたんですから。・・・・でも、裏返すと、人間というものはそういうものなんだなーとも思うのです。たとえ達観して、バカだなーと思えても、相変わらず行動自体は、何も変わらないのです。


>中には、この世界の無意味さに気づくことのない動物のような馬鹿どももたくさんいる。けれど、気づかなくたって、気づいている自分とどこが違うのだろう?。気づいたって、しょせん、馬鹿のように物語を捏造しなければ、意味なんて作り出せないのだとすれば・・・・・。構造的には、気づいたものが偉いというわけではない。だって別に変わらないんだも人間存在の在り方としては(笑)。

『ハネムーンサラダ』 二宮ひかる著 それで答えが出たわけじゃない!
http://ameblo.jp/petronius/entry-10042148822.html

僕がこう書いているのも、その点なんですね。いまの僕は、一歩高い視点から落ち着いてグインサーガの、イシュトバーンの「王になりたい!」という叫びも、ナリスの「世界の謎を解き明かしたい!」というあの野望も、それぞれの登場人物たちの切ない魂の欲求を、愛しく、少し苦笑しながら穏やかに見るとことができます。…ああ・・・大人になったんだなー自分とか思います。けれどももう一度繰り返すと、たとえ「それ」が理解できた(=高みから見れても)としても、相変わらずやることはあまり変わらないんですね。だって、個人が生きるということは、自分の本質の部分を、追い求めることでしかあり得ないから※1。


唯一変わったのは、「やわらかい屈折と断念」がある部分。


つまりね、、、、そう「世界の王になりたい!」といっても、なれない自分がいるわけ。それがどんなに「魂の本質の望み」だとしても、そもそも人間には才能や分際というものがあるわけです。「できないものはできない」(笑)。若者は、王になれなければ死を!みたいな極端な二元論に陥りやすいのですが、人間は二番煎じでも、ちょっとくらいダメでもいいではないですか(笑)。

そもそも、、、そういう追及の仕方自体も間違っている。本当に大切なものを、勘違いして間違えて求めてしまっているんですね。だから、イシュトバーンは、ついにゴーラの王まで上り詰めながら、自分がどんどん野望に近づきながら、どんどん心がボロボロになっていく。(この辺は長ったらしいけどーうまいなーと思う)。

時が経てばいいことがある・・・とは言い切れないけれども、時が立つと、いろいろなものの見方が相対化されて生きるのが楽になる場合は多いですよ。それは、求めるべきものの本質が、勘違いなしで分かるようになるからだろうと思う。青い鳥は、外にはいないで、家にいるのだ。


ちなみに僕の一番好きなことは、


人間万事塞翁が馬


まー人間なるようにしかならないし、「いま」最悪に思えることも、「あと」ではなんか少しいいい思い出になったりするじゃないですか。時間がたてば記憶は風化しますし、いつまでも同じところにはいません。


いまの僕には、「いやー死ぬほど頑張ったけど、ダメでした!(てへ♪)」みたいな実は泣くに泣けないのだが、しゃーねーなーというあきらめとか、「いやー求めるものはあるけれど、やる気が起きないダメ人間なんで、思わず年とってしまってもうどうにもなりません」(笑)みたいな、「断念の記憶」やあきらめがあります。


それは、とっても屈折しているのですが、そういうものを織り込んでおくと、物事へのコミットの仕方が二重化するんですよね。やるからには、全力で、狂おしくコミットメント(=自我没入)しなければならないのだけれども、それもちょっとメタな視点で見ると、「意味ないこと」であったり、「たいしたことないこと」であもるわけです。この辺のバランスが難しい。成熟するってのは難しいのです。わかるかなー?。物事って、意味がなく価値も無いんだけれども、あえてやってみたりするんだけれども、やっぱり意味がなくて、、、けれどもそのことも含めてそんな風にあがく自分も、その他の人々も愛おしかったりして・・・。いったんすべてを相対化すると、世界に「在る」そのものだけで充実を感じられるようになり・・・・・うーん説明が難しくなった。


まっとにかく結構時間がたつと、生きるのが少し楽になったりしますということ。


※1及び※2)
これを考えていて、ハイデガーとかの馴致頽廃という概念(確かこの言葉だっけ?)がよくわかるようになりました。まぁ理解とか用語に誤りがあるかもしれないのは、割り引いて僕の理解と考えてください。つまりね、ハイデガーのいいたいことは、「人間とはその本質である死すべき存在であるという事実から目をす向けて生きている」という部分で、この死すべき存在という本質から、目をす向けるよう自分を飼いならして騙すこと(=自己を家畜化すること)を馴致とか、頽廃というのは、本質と関係のない部分で戯れて生きているということです。つまり現代文明の人間存在は、馴致や退廃に覆われていて、本質から目をそむけて生きている。


・・・・ちなみに、栗本薫さんの小説の登場人物の人間は、みな偏執狂的に魂の本質を追い求めますが、そういう頽廃と馴致をぶっ飛ばすことを求めるが故に、それはヒロイックファンタジーなのであり、物語なのだと思います。もちろんナリスのように凄く方向が間違っていたりするのも、同じことです。間違えるものなんですよ、人間は。とりわけ若者はね。だから、登場人物が青春真っ只中なんですね。ちなみに、3巻のまえがきの「英雄が英雄たり得た時代」が舞台であるという文章は、このことを意識してこのグインサーガの世界を設計しているのだなーと僕は思います。


■「グインなんかにのめりこむ人間は何かしら人格的問題を抱えている」

*************


 夢枕獏さんが「『あしたのジョー』の次の回を読むためだけに生きていた頃がある」と書いていたけれど、同じようなものですね。

 ま、本を読みすぎる人間なんてものは、往々にしてそんなものですよね。ましてグインなんかにのめりこむ人間は何かしら人格的問題を抱えている*1。

 いや、もちろん、ただのおもしろい大河娯楽小説として読んでいるひともいるだろうけれども、あれ、ほんとはそういうものじゃないですからね。


*************


これは、同感ですねー(笑)。精確に云うと、栗本薫さんの人間理解の根本である「マクロの世界観を概観・理解した上で」「ミクロの世界での実存を強烈追い求める姿勢」というのは、人格的に極端なタイプの人間類型だと僕は思うのです。たとえば、ハルマゲドンとか信じやすいタイプ(笑)。基本的に実存が不安定な上で全体性を求めるような人格が、まともなはずがない!!(言いきった)と思います。しかし僕は、自分で言うのもなんだが、早熟で頭が良かった(笑)ので、宗教とか超常現象とかにはまらなかった。そのせいで、逆に、生きることが無味乾燥になってしまった。むしろ宗教とかの描きだす宇宙観や全体性(=トータリティー)という紛いもので我慢できる人は羨ましいですよ・・・・。生きることに疑問を持たずに自己を馴致できるんだから。誤解を生みそうなんで書いておくと、なにも宗教が嘘をついているというのではありません。宗教が追い求めているのは、この無味乾燥で意味のない世界に意味を追求することで、その営み自体は非常に価値があり意味があるとは思います。


が、実存主義者の基本的前提は、それを自分自身が獲得しない限り本物じゃない!」と思ってしまう、性格の悪い傲慢ヤローなのです。わかりやすく言いかえれば、「人から教えてもらう」のは「信用できない」のです。だから、他人が信じているものは、ほぼ100%嘘だと疑ってかかるのです。信じるのがへたな人々なんですね。こういう人は、とにかくありったけの本を読むことになります(笑)。コリン・ウイルソンも言っていますよ。読書は、実存追及のはじまりの一つだって。世界のすべてを疑うのならば、まずは世界のすべての意見や情報を集めなければなりません。ちなみに、僕もその傾向が強くて、「文字で書いてあること」が体感できるまで信用しないというのが、中学時代からの自分の信念でした。


ビジネス書でも哲学書でも、「その言葉が血となり肉となり「ああわかった!」という深い納得感を持たないものは、クズだ」というようなフレーズを僕はよく書くはずですが、これは僕の信念なのです。実存主義者は、自分の体感しか信用しないし…ともすれば自分の体感さえも疑います。サンデクジュペリや坂井三郎の伝記に感動したら、自分で飛行機を操縦してその感覚を再現できるまで信じない!とかいうまで徹底しています。だからもちろんライセンス持っています。ほんとは軍人になろうとかまで思った。・・・業が深い。


話がそれた。閑話休題。


えっとねー栗本薫のグインサーガには、物語の構造的にも、主人公の実存形式にも、これらの実存主義バリバリの追及が強烈になされていく仕掛けが、マクロでもミクロでも両方しかけられていています。なんか長くなりすぎて説明するのがめんどくさくなったのですが、たとえば、グインが空から落ちて?きて、この世界・・・・中原の世界は、そもそもグイン自身の生まれた国ではなことはもうわかっています。たぶん、超絶の科学力を支配した一族の、何らかの宇宙の調停者的な役割を担っていたということは、なんとなくわかっています。アルドナリスが追い求めた世界の謎は、ただ単に学問上の真理ではなくて、まさにこの部分でしたよね。


前に僕は、実存主義者はこの世界が誰かに(=神に?)創られたのではないか?、自分の所属するこの宇宙は間違った悪の世界なのではないか?といういわゆるキリスト教グノーシス派に代表される世界を善と悪に分けてハルマゲドンを志向して追及していく思考形式がある、、、と書いたことがあります。


『西の善き魔女Ⅵ 闇の左手』萩原規子著/世界を疑う感覚①
http://ameblo.jp/petronius/entry-10006712520.html
『西の善き魔女Ⅵ 闇の左手』萩原規子著/世界を疑う感覚②
http://ameblo.jp/petronius/entry-10006718232.html


この皮膚感覚をベースにした素晴らしい小説はたくさんありますし、そもそもファンタジー(=抜け出すこと)という言葉は、いまの世界から違う世界へ脱出するという意味合いが込められた人間の原初の欲望です。この欲望にSFは形を与えていきます。その古典SF群のオマージュというか、基本構造をグインサーガは保有しています。栗本薫さんが、二次制作の神様といわれる所以は、そういった過去の偉大なものの本質を彼女なりにガンガンぶち込んでいるからです。


グインって凄く難しい人格のドラマツゥルギーの持ち主で、いま自分自身が存在している「この世界」は自分が所属していない場所かもしれないというアイデンティティーの危機を常に保持しています。彼は帰る方法も、自分の正体も分かりません。顔が豹なので、まず間違いなくこの世界の人間でないことも分かります(笑)。そして彼が主人公である限り、このグインサーガの中原世界自体が、そもそも主人公にとってのふるさとでないどうでもいい場所である、という可能性は高いのです。アルドナリスのような超絶の天才は、「この世界が唯一の世界でないかも知れない」という存在の意味のなさ、唯一性のなさに気づいて執拗にそこを追い求めます。世界の危機を叫んだ1920年代の近代ヨーロッパ哲学を思わせる悩みです。


ここのSF的背景は世界観の基幹部分ではありますが、全編をヒロイックファンタジー三国志が行われているグインサーガにとっては蛇足に近いような非常に少ない割合の部分です。物語のほとんどは、中原の戦争と攻防、、、その世界にいる人々の喜怒哀楽や恋愛です・・・・が、それら人間の営み自体が意味のないものであるかもしれないという存在の危機を、グインが存在するだけで常に世界は所有してしまい、、、当然にそれを読んでいる読者も共有するのです。そんな自分の固有の世界でない世界で、「あなた(=主人公)は、いったい何をよすがに、生きるということを全うしますか?」というかなり厳しい問題設定が常に抱えられているのです。だけど、そんな世界の危機的な構造の中で、「あまりに人間的な」とも言えるほど人間的な大河ドラマの世界が繰り広げられます。しかも、ナリスやリンダ、グインなどは明確な自意識で自分の生きる実存、存在論の次元で世界に悩み続けながらです。

>栗本薫さんの人間理解の根本である「マクロの世界観を概観・理解した上で」「ミクロの世界での実存を強烈追い求める姿勢」

とさっきいったのは、ようはねー、、、ちゃんと世界の構造の危うさと実存の本質をちゃんと理解し包含した上で物語世界が構築されているんですね。しかし、、、そこに存在するすさまじい数のキャラクターたち一人一人が、たいていは、その本質的な部分とはずれたところで間違った方向で全力でぶつかっていっているんですね。でも、それが人間なるものなんです。この複雑怪奇な危機を孕んだ現代という構造をちゃんと小説世界に再現している。しかもヒロイックファンタジーの面白さ、娯楽としての部分を失わず。そういう意味では、30巻ぐらいまでのこの小説のレベルにはすさまじいものがあったと僕も思います。



>たしかに、このこの作品のとくに初期は普通の娯楽小説としてもよく出来ているので、そういう読者を惹きつけた。でも、本当は暗いひとのための暗い小説です。

 小説技術的にはあきらかにいまより初期の20~30巻あたりのほうが良く出来ているし、最近はいろいろと破綻も見えてきているので、そういう意味では作品の頂点を過ぎたとは思う。

 でも、ぼくはかならずしもおもしろい大衆娯楽冒険小説を読みたくて読んでいるわけじゃないですからね。そういうことは二次的な問題です。ここらへん、わかるひとにはわかる話なんですけど。

うんうん。わかります。ものすごく、ごっつわかります。ふとおもったのが、やはりこのグインサーガシリーズの究極のドラマツゥルギーは、アルドナリスの人生だったんじゃないか?って思う気がします。彼が、充実した人生というものを知ること、生きていることの価値を知ることが、もっとも面白いテーマだった気がします。何しろの世界のテーマすべてが集約して現れていた上に、栗本薫さんの理想の人間像(その病んだ部分も含めて)の究極を表現した人だからね。

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■無題

初めまして。
この記事を読んで唐突に思い出したのは栗本薫の「魔界水滸伝」に出てくる「タナトス生命体」です。クトゥルーまで感情移入の対象になった本作での究極の害意であり他者。グインは脱落したので比較できませんが、魔界が中断してグインが続いてるのは「敵」の差なのかもなあなんて思ったり。まあ、単純に「新魔界~」が売れなかっただけかもしれませんが。それはさておきホロウの記事を楽しみにしております。


ちなみにパラレルワールドのもの・・・・物語世界の重複の非常に典型的なパターンで、この作品とグインサーガは明らかにつながっているんだよね。まだ決定的なことは書かれていないけれども、グインの故郷と正体はさ・・・・、、、いや、それは、死ぬまでに書いてくれると、うれしーなー栗本薫さん。最近体調悪いとかグインのあとがきに書いてあったので、とにかく完結させてほしいっすよ。。。もうこれくらい長く読み続けていると、、、もう自分の半身というか、人生そのものみたいなもんだからなー(苦笑)。


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栗本 薫
闘王―グイン・サーガ 112


>剣を取っては中原最強、軍を率いれば大軍師、政治を行えば超名君、と、あらゆる意味でほぼ完璧な人間である。


 しかし、そのグインをもってしても救えなかった人物も存在する。ほかならぬその妻、シルヴィアである。


中略


世界の命運を賭してたたかう英雄が、ただひとりの少女すら救えないというこの矛盾。

 この小説では、このようにあらゆる人物のあらゆる価値観が相対化されるようにできている。


中略


シルヴィアの存在はグインのかかとに刺さった棘だといえるだろう。個人のわがままより全体の利益を選ぶグインの生きざまはむろん正しい。しかし、その正しさはひとりの少女の心をずたずたにひき裂いていく。


 そしてシルヴィアの存在はグインの「正しさ」の欺瞞を攻撃しつづけるのである。


SomethingOrage 海燕さんより
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070215/p1






すばらしい書評だ。


グインサーガという悠久の物語の本質を、見事にコンパクトに説明し尽くしている。なんというか・・・・これ以上書くことがない。非常に感動したんで、これ以上文章がかけない。ちょっと悔しい。まさに、まさに、そうだ。いやーーー海燕さんの栗本薫理解は、まじですばらしい、といつもうなります。

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