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菅野 ぱんだ
成海璃子写真集 Natural Pure

http://www.mirabakesso.jp/


クラレのミラバケッソのCMを見ていて、ああーこの子が成海璃子っていうのかと、わかって少し嬉しかった。


前に、『受験の神様』というドラマ(これがなかなかいいのだ!)を時々見ていて、思わず引きずり込まれてずっと見ていたんで、このコ誰だろう?と気になっていたんです。正確に言うと、妻が毎週見ていて、何となく僕も引き込まれて、、、だったので役者の名前なんか、全然気にしなかったんですが・・・・


このドラマの役どころで、


一切笑わない無表情


の家庭教師の役で、、、、結局すべて見ていないが、


過半を見て一度も笑ったシーンがなかった


んで、凄い印象に残っているんですよね。


・・・・・無表情な女の子って、、、好きのようです(笑)。


あっついでにいうと、山口達也さんもめっちゃ好きです。毎週『鉄腕DASH』をHDDで撮りためて見ているほどに(笑)。TOKIO好きなんだよーなんか。山口さんのパパぶりに、いやーなんか胸が温かくなったんですよねー。これ、ちょっとお薦めかも。受験に関しても、、、というか教育ということをよく考えているなーと思った。特にキャンプでの勉強会なんかね。


バップ
受験の神様 DVD-BOX

評価:★★★☆星3つ半

(僕的主観:★★★☆星3つ半)

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エイベックス・エンタテインメント
「ベクシル-2077日本鎖国-」通常版

評価:★★★☆星3つ半

(僕的主観:★★★☆星3つ半)


一言で云うと微妙。だが、まぁ楽しかった。


映像は、この壮大な法螺話のSFに相応しい分だけのエネルギーがあって、確かに見ごたえがあった。


***************

西暦2067年、ロボット技術の国際規制に反対した日本は、ハイテク鎖国を敢行する。
直接の入国は勿論、周辺に張り巡らされた電磁シールドによって、偵察機や衛星からも撮影が不可能となり、以来10年間日本の姿を見た者はいない。
2077年、日本のロボット企業大和重鋼の不穏な動きを察知した米軍特殊部隊SWORDは、日本潜入作戦を決意し、女性兵士ベクシルを送り込む事に成功する。
嘗て東京と呼ばれた街でベクシルが見たものは、城壁に囲まれた広大なスラムと、城壁の外に広がる無限の荒野。
そして、荒野を徘徊する巨大な金属の怪獣だった・・・・

***************


この作品の演出の肝は、鎖国しているハイテク日本という未知の土地に侵入して、物見遊山するということに尽きる。


だから、観客が未知ものを見たという驚き・センスオブワンダーを損なわなければ、演出として成功といえ、逆であれば失敗といえる。


とりわけ、「世界の謎」をテーマにしておきながら、ショボイ映像でがっかりさせられる作品が多い中、この作品の「まだ見ぬものを畏怖しながら見る」緊張感を持続させる演出や、それに相応しい鎖国された日本の映像は、なかなか見ごたえがあった。世界の謎を、壮大な裏切らないビィジュアルイメージで表現することは、非常に難しい。これは、その水準を超えているので、僕的にはなかなか感動した。


借りものなのかオマージュなのか、『DUNE~砂の惑星』のサンドワームのような機械生物との追撃戦は、なんかはなかなかだった。ノラネコさんが、なかなかの拾いものだった、と書いておられるのに僕も同感。「70年代SFの異様な豪快さ」を感じるという部分にもまさに同感。あの頃の一発、世界すべてを創造しちゃおうぜ!みたいな、豪快さ、おもいきりのよさが、好印象。DUNEを連想したのも、そのせいだろう。


ハピネット・ピクチャーズ
デューン/砂の惑星 劇場公開版

ただし、物語のダイナミズムはいまいちにだった。


まず、ノラネコさんと同様に、倒すべきボスキャラが小物で小悪党すぎて、物語上のカタルシスが弱すぎる。


またレオンとマリア、ベクシルの三角関係も、さっぱり物語に絡まない。そもそも主人公の人格ベクシルがさっぱり理解できなかった。男を追いかける馬鹿な女にしか見えないので、感情移入が難しかった。つーか、特殊部隊の軍人にしては、あまりに素人くさい行動で、とてもエリート部隊の軍人には見えなかった。


観客に、鎖国された日本を見せるために導入の視点以上の意味を持ち得なかったのは、脚本と監督にキャラクターを描くのではなく、世界を描く動機の方が強すぎたからであると思う。まぁ目的の主眼は、荒野の日本の映像というのならば、たしかに小さいことかもしれないけれども。

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『遠くの空に消えた』①  行定勲監督  ターゲットはファミリー層!という謎
http://ameblo.jp/petronius/entry-10042978295.html
『遠くの空に消えた』②  行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?1
http://ameblo.jp/petronius/entry-10043036486.html
『遠くの空に消えた』③  行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?2
http://ameblo.jp/petronius/entry-10043040317.html


の続きです。


行定勲監督は、そういった意味で、原作のレベルを損なうことなく映像化することが凄くうまい。これはレベルの低いことか?。いや違います。僕は、相当映画に見慣れているのですが、その僕が飽きずに見れるのですから、相当の力量です。脚本の陳腐さはさておき。メディアミックス・・・・メディア媒体の違いを超えて、作品を再現することは、ものすごく難し いのです。だから、遜色なく、そつなく、映像化でまとめることができるのは、とても力量のあることなのです。そんな監督が他にはほとんど見当たらないということも彼の力量を示しています。セカチューでも、その内容は陳腐でしたが、「まぶしい彼女を見つめる男の子の視線」という中高生の男の子のファンタジー視線を、見事に映像化していて、見事なほどに動物の快楽のボタン…いいかれば人間の感情の部分を喚起する技術に長けていました。これだけの技術力のある作家・監督の「ほんとうに創造したいもの」「ほんとうに伝えたいメッセージ」を見てみたいと思うのは、当然です。ただ、残念ながら往々にしてこの手の監督は、テクニカルな部分の「小手先がうまい作家」に過ぎないのではないか?という疑念もぬぐえませんでした。『世界の中心で、愛をさけぶ』『北の零年』『春の雪』は、凄くうまいそつのない映画だ。なにも心の栄養になるわけではないとわかっていても、なんとなく見たくなるような。しかも損はしないレベルがあるのもわかっている。

ただ、、、これらのどの作品も、そつがなさ過ぎて、魂に刻まれない。心に深く残らない。ただ単にその時の感情を動かされて楽しかった、と思うだけなのです。それは、やはり本質がない・・・薄い故なのではないか?とも思います。

つまり、いまの消費者の喜び(=お金を出すポイント)には、これもまた二つの種類があると思うのです。

①記号を媒介にしてコミュニケーションの道具とすること


②内的成長の縁として、心に刻まれる教養主義的な体験の次元


単純にいいかえると、「ただ単に楽しいから」と「楽しいだけではなく映画を通してオリジナルの体験を得ること」の二つです。

そして、今の時代は、映画は圧倒的に、①にシフトしています。ハリウッドがそうであったからでもあり、いろいろな経済基盤的な条件があります。しかし、ハリウッドが、新しいオリジナルを生み出すことができずに、たくさんの人を動員するための記号として過去の作品のリメイクに走っていることからも、日本の邦画業界が、凄くバブルの方向へ走っていること、継続的に映画というジャンルが、ただの記号的商品である以上の「なにものか」であるために必要なものが失われているこは、アメリカ(日本の約10年ぐらい先の現象が起きる)を見ればわかります。なにも、そんなたいそうなものでなくてもいいじゃないか!という意見はあります。僕も古典主義的というか教養主義的な「古き映画人ののスノッブさ」・・・ ・映画的体験を称揚してマニアックなマイナー作品ばかり少々する過去の人々は、うざいです。ヲタク世界での、岡田斗司夫などの第一世代ヲタクとか言われる人の最近の発言と同じです。

もう時代が、消費者の感受の形式が違うからです。

②の内的体験を、オリジナルの唯一性として特別視する時代は、ある程度終わりです。しかし、あるジャンルが発展するためには、そういったマイナーからメジャーまでが広範に広く生み出される市場がなければ、市場自体、ジャンル自体が、縮退し てしまいます。それはゆゆしき事態です。
だからこそ、
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>「セカチュー」の大ヒットで、邦画原作物ブームを作り上げた行定勲監督による、久々のオリジナル作品。
一見して夏休みにあわせた児童向けファンタジー映画にみえるが、これは作家の中の童心とアングラ魂が炸裂した賛否両論
必死の異色作で、過去の行定作品と比べても、そのテイストは全く異なる。行定勲ランドとでも名付けたくなる、現実の様
で現実にはあり得ない不思議空間で展開する、奇妙で愉快な人間賛歌である。

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遠くの空に消えた・・・・・評価額1600円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-160.html

だから、あきらかに売れ線路線を蹴って、チャレンジしているこの作品は、行定勲監督の本質だな、と思うわけです。そして、この売れ線路線のマーケティング戦略に対して、自覚的に挑戦しようという意識があるのだな、と僕は深読みしてしまったわけです。
それは、素直にかっこいいな、と思います。

はぁはぁ、、、、長くなってきた。・・・・やっと話がまた元に戻った。そして、ああここで『遠くの空に消えた』で、こうした空間再現系のかつ、岩井俊二作品の中でもさらにマイナー系の作品を思い起こさせる系統の作品を作るということは、この監督の本質がこの変異キーがあると思えるわけです。
********
>行定勲監督は、エミール・クストリッツァの「黒猫・白猫」からこの作品の着想を得て、内容を膨らませていったという
中略
もうこの時点で判る人は判るだろうが、「遠くの空に消えた」はちょっと変な映画である。 空港開発といういかにもありそうな現実的な設定ではあるが、その舞台となる村はまるでジブリアニメあるいはイーハトー
ブような理想化された世界だ。
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遠くの空に消えた・・・・・評価額1600円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-160.html


物語を作る人々には、消費する人も含めて、、、、「この現実ではない違う世界」を志向する傾向が強い。その時のこの監督の本質は、再現方法が、

①ヨーロッパ映画の世界感受の形式(=物語のドラマツゥルギーを薄めた空間系の志向)

②空間に理想化した楽園を投影する

という部分だ。①は、かなり説明したので、次は、②に行ってみたいと思う。

>舞台となる村はまるでジブリアニメあるいはイーハトーブような理想化された世界


岩井俊二監督は、僕は生態系を理解したような神様の残酷な淘汰選別を基本とした残酷さを美しさに感じる作家であると昔書いたことがある。『スワロウテイル』『ピクニック』『UNDO』もそうなのだが、世界の認識が凄く残酷で・・・その残酷さが美しいと彼は感じているようなのですね。たとえば、ストレートなのが、カニバリズムを描いた『ウォーレスの人魚』で、この話は、好きな人を殺してしまうという話だった。その丁寧な生態の描写(もちろんSF)は、殺してしまうことが愛であるということがせつないほど伝わってきました。えっと、富樫さんの傑作マンガ『レベルE』の愛する人を食べてしまう欲求がある異星人を描いた話と似ています。
岩井 俊二
ウォーレスの人魚 (角川文庫)
冨樫 義博
レベルE (Vol.1)
けど、「ジブリアニメあるいはイーハトーブような理想化された世界」とあるように、この馬酔村は、はっきりいって本当の意味で残酷なものが何一つない。猥雑さを演出しているが、世界の背後にある残酷さを直視しなければ、猥雑さは魅力を放たないと僕は思う。だから、『スワロウテイル』の市場シーンが、あれほど魅力的に見えたのであろうし、、、、この行定勲監督の描く楽園が、ハリボテ感が拭えないのだろうともう。
では、ハリボテ感がダメか?。僕は好きではないが、実はそれは違う。
ここが、実は、岩井俊二とまったく違うと思うのだ。あくまで、岩井俊二が、あるキャラクターから見た内的主観のイメージを再現しようとする志向に対して、行定勲監督は、たぶん演劇系の志向をしているのだと思うのだが、空間の再現がハリボテのように、一歩引いたマクロの客観性をキープし続けるのだ。第三者視点。だから、むしろこの作品は、演劇で演出した方がよかったのではないか、と僕は思った。だれ一人として、中心的な一人称の視点を獲得していないように僕には見える。・・・・このへんは演劇論になるので、まぁさておく。まさに、↓下でい云っている意味ですね。だから、これは、映画の中にいる登場人物ではなくて、第三者的神の視点(=監督の視点)で、楽園をマクロ的に俯瞰している、監督の内的世界の物語なのです。
********
>これは言ってみれば、映画というステージに、行定勲が自らの映画的記憶の中で考え付く限りの仕掛けを並べて、遊んでみせたような作品なのだ。
そして遊びの中に意味を見つけるのは、子供の心。

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遠くの空に消えた・・・・・評価額1600円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-160.html


そして、えっとね、行定勲さんの思い描く空間の楽園というのが、この作品の馬酔村であるとすれば、あまりに、キレイすぎるの、僕的に云うと。だって、誰一人、裏切られていないでしょう?。岩井俊二さんのように『スワロウテイル』ですべての夢が崩壊して、主人公と思われるメインの登場人物が死んじゃったりはしないんですし、リリシュシュのように底が抜けて主人公を刺殺しちゃったり、発狂したりしないんです(苦笑)。

楽園が理想化された田園の風景(たぶんS30~40年代に生まれた世代の風景)


************** 


月夜、星空、果てしなくだだっぴろい麦畑、神秘的な森、そして「馬酔村(まよいむら)」にある学校や家屋やBAR「花園」・・・セットやロケーションが子供心満載でどこか懐かしい

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シャーロットの涙さんより
http://blog.goo.ne.jp/charlotte26/e/e40e77ef17a2f61e636ff36e1d49d4d2


この方の印象が、この理想化された田園での懐かしい雰囲気の気持ち良さをとてもよく伝えいていました。素直にみるとこう見えるのだと思います。僕にも、こう感じたのです。ですから張りぼても張りぼてとして演出方法として確立されているのだと思う。


しかし、ここに、残酷さや時間の概念が挿入されないのです。このへんに岩井さん好きの僕としては、だから行定勲さんは、世界認識が甘いんだ・・・とは思うが、、このへんは趣味の問題なので、どっちがメジャー受けするかはわからない。これはこれで素晴らしいものだし。そこで、俯瞰した映像が続いて、一人称的な視点が挿入されないというのは、たぶん行定勲さんが描きたかったのは、この空間そのものであって、ここの人間ではなかったのかなーとか思いました。初見なので、印象ですがね。そして、それが、あまりにノスタルジックであまあまであると思う。僕は、この辺に大衆におもねるキレイゴト感があって、嫌いなのだが、、、しかし、それを人々が愛するものであることも否定できない。確かにその安心感は魅力的だ。
岩井俊二の残酷さは、子供の視点を、リアルに子供の視点だけで大人が再構成して見せた部分だ。

行定勲の楽園は、子供の視点を、大人からノスタルジックに過去を振り返り理想化した子供の視点であると言い換えられよう。


というのは、僕はこの物語のメインのお話である、信じること」に関するドラマツゥルギーがさっぱりわからなかった。最後に、奇跡が起きた!といいます。えっ!!あれ、、何が奇跡なの?って僕は、?????が連続しました。まぁ見てくれれば、ドラマツゥルギーの盛り上がりや、説明という視点で、あまりに多様な解釈を許してしまうのであそこは多義的に「観客に解釈を委ねて考えさせる」という方法論を採用したのだな、と思う。
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>特にヒハルの後半の描き方は、薄すぎてあまり印象に残らない。「信じる」という、この作品の核を体現するキャラクターだけに、彼女の描写が不足している事で、子供たちのエピソード全体が弱くなってしまっている。多分、明確な物語の幹はあえて作らなかったのだと思うが、個人的には子供たちのエピソードをもうちょっと中心においた方が、より観やすくて魅力の伝わりやすい作品になったと思う。

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遠くの空に消えた・・・・・評価額1600円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-160.html


物語の整合性という観点からは、この意見は痛いほどわかる。ヒハルの存在が意味不明だもの。ただし、この世界自体を監督の内的世界の再現で描きたかったというそもそもの本質からすれば、逆に、キャラクターに深みを持たせる・・・楠木亮介役の神木降之介くんや、『SAYURI』の大後寿々花ちゃんなどの、スーパー級の記号としてエネルギーを持つ役者を採用したのは、むしろダメだった気がする。

役者の才能や存在感が増してはいけない演出だからだ。だから、これほどの才能がありながら、この二人の存在感は薄い。ちなみに生で神木隆之介くんを見たのですが、凄い美少年で、、、はーこんな少年もいるんだなーと感心。ありゃーすごいね。個人的には、『SAYURI』から少し大人になった大後寿々花ちゃんよりも、むしろ神木君の方に惚れそうだった(笑)・・・・ショタ??。 だが、、、映画の審美眼として云えば、ダントツに素晴らしい演技をしたのは、 ささの友間くんだった。 ほぼ彼の存在感に支えられた映画であるといっても過言ではない。

ド田舎の風景に、神木くんのようなスマートな都会の雰囲気は似合わないのだ。 ささのくんは、いやー演技なのか、地なのかは、微妙だったけれども、この映画のではキーだったなー・・・・と僕は思ったのだが、それは、この空間に溶け込む自然さ、ナチュラルさが、そもそも存在としてもっている役者だっただからだろう。選択に一番悩んだのは彼だったというのは、正しい。前半は眠たげだったが、彼の父親が登場し、ささの友間くんの家族のやり取りが全面的に出てきた途端に映画が締まり 、世界が輝きだしたような印象を受けたのもそのためだろう。

ちなみに、僕が脚本家であれば、このヒハルの「信じること」をズタズタに裏切って終わり、か、もしくは裏切られて、、最後の最後に、奇跡を起こすかという彼女の「信じること」を中心にドラマツゥルギーを盛り上げて、聖なる存在となる彼女が、現実を取り戻し現実で生きていく勇気を得られる手助けをする存在として、ささのくんと神木君という二人の少年を配置する形をとったろう。この脚本を見れば、現実から逃げている(=UFOを信じるということはようはそういうこと)ヒハルの壊れた心に、どうやって聖なる体験を体感させて、失われた心を取り戻すか…という点で、奇跡というガジェッド
が置かれるはずだ。

そして、その少女ヒハルを好きになった少年二人が、彼女の過酷な体験を共有することによって、現実に成長するというビルドゥングスロマンしかありえない。ちなみにもちろん、観客は、すべて神木君に感情移入する形式で

そうした方が明らかに売れる。神木君の役者としての存在感は、生で見て凄かったもの。あの映画で、ほとんど存在感ゼロにとれる行定勲さんも、凄いなーと思うよ(笑)。いや、基本的には、この路線だよ脚本は。こういうふうに解釈する観客も少しはいると思うよ。しかし、そういった印象をわざわざ与えないように、ヒハルの存在感を失わせるような描き方をしているようにしか僕は思えない(笑)。
意識無意識は別に、やはり、監督は、「この楽園世界」自体を主語に、世界を描きたかったのでは?って思う。その箱庭感を出すためには、キャラクターの存在感LESSや、物語のドラマツゥルギーがバラバラで、解釈不能な不整合性の方が、むしろ一本!と思うよ。僕的には。・・・・実際、この不整合な意味不明の感覚が、観客に「不思議なたゆたうような映画体験」を与えていることも事実だと思う。それが狙いだとすれば、、、、なかなかやるな、行定勲さん。
ただ、僕は、楽園のイメージに、時間感覚が挿入されない無時間的なものは好きではないし、キャラクターの存在感・主観時間の成長がない空間系の作品は嫌いで、しかも、楽園に生きることの残酷さが反映されないノスタルジックな空間も、また同様に好きではない。・・・そうか、僕は、行定勲監督が、嫌いだったのか!!!!・・・いま分析しててわかった(笑)。見事なのだが、僕の好みではないんだな。
ちなみに、、、、うーんこの作り手の意図がもう少しメガトン級でわかりやすく作れていれば(僕程度の映画体験にはよく伝わらないのだ頭を使わないと・・・・)、客観評価★4つ半くらいだったかもしれない。いやもっとか・・・・。

そういう意味では、やはり・・・・才能のある監督なのかも。・・・・僕は、結局、楽園に時間概念を挿入できず、世界のリアルさも反映できないナルシシズムの逃げと結論づけて、行定勲監督を、才能の薄いテクニカルな人と結論づけようとしていたのですが、、、、考えてみると、この「箱庭感覚」を意図して形成しているとすると・・・もしかしたらすごい才能なのかもしれない。。。。その辺は、この作品では結論できない。この作品自体は、頭を使わないと、その面白さが、趣味の壁を超えて伝わらない程度の作品だ。オリジナルの作品を、もういくつか創って成長しないと、「この果てに何があるのか?」はわからないなー。そこまで、彼の評価は据え置きです。

■結論~製作者サイドの意図と行定勲監督の本質
まとめると、
行定勲という人の作家性の本質は、
①人の感情を揺さぶる動物的快楽の操作に長けたテクニカル思考の職業作家

②しかしその本質は、箱庭感覚のノスタルジィ空間を作りこむ、空間の再現志向を持つ作家

③まだ無時間感覚の空間世界の再現の才能を、最高レベルまで昇華しきっていない

というところかな。

まだ①と②をうまく組み合わせることに慣れていない感じか、もしくはそういう組み合わせ自体が嫌いなのかもしれないが・・・。ただ、②の部分は、とても現代にマッチしている。②を基本にすると、売れないヨーロッパ映画のスノッブな趣味人にしか受けないマイナー傾向になるが、これをメジャー志向に変える方法論を見つけ出せれば、大化けするかもしれない・・・・とかとか(難しいが)。まぁ、まだ③で評価の途上にある作家ですね。これ以上深化がなければ、やはりただの一観客としては、もう二度と見ない作家としかラベルを張れない。
しかし、ここでこういうチャレンジ・・・・こういうマイナーヨーロッパ映画系を、メジャー戦略のプロモーション戦略で広範な人々に動員しようとする気概は、まだまだ成長していやるぜって彼と彼の周りの気概を示していると思う。②の部分は、そうとう高踏的で難解な体験ですが、チープに記号を消費する体験から比べるとはるかに映画的記憶を刺激する内的に深い体験です。これを、メジャー戦略で、CMガンガン打って、頭でものを考えられない主婦層やファミリー層を狙って売り込むというのは、いやー挑戦です。

この意図がどこまで一般に広まるか?

もしくは、

広がらずとしても、次に同じチャレンジを許容される基盤としての動員(=売上)を獲得できるか?

というのは、記号を媒介とするメディアミックス手法の権化でありオリジナルである行定勲というブランド、日本映画界に叩きつけたある種の挑戦だと僕は思うので、凄く興味があります。これが成功するかどうかで、オリジナル脚本や、多少は難解なエンタメでは受けにくい作風への広がりが資本側に許容される流れができるからです。
というのが、僕の今回の感想でした。

・・・・長かったです(笑)。

※1:非常売りにくい内容
※2:動物的快楽のボタン
下の、アージュと韓国ドラマの記事の話です。
※3:ヨーロッパ映画的なもの
※4:岩井俊二の作風
もう説明したからいならないですよね(笑)。

■関連記事
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『遠くの空に消えた』①  行定勲監督  ターゲットはファミリー層!という謎
http://ameblo.jp/petronius/entry-10042978295.html

『遠くの空に消えた』②  行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?1
http://ameblo.jp/petronius/entry-10043036486.html

『遠くの空に消えた』③  行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?2
http://ameblo.jp/petronius/entry-10043040317.html


①の続きです。



■行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?~楽園を地上に現出させるための技術的手法

さて、結論を背景の説明なしに先走ったので、少し作品の詳細分析に入りたいと思います。

遠くの空に消えた:公式サイト
http://to-ku.gyao.jp/
いちおう見たことがあるかあらすじを読んでいるという前提で論を進めます。まずね、僕は全編眠かった・・・です(笑)。一言でいうと、フランス映画みたい。 好きな人は好きだが、ドラマツゥルギーの盛り上がりに欠けるんです。僕はこの手の作品が苦手。
基本的に物語・映画を感受する姿勢には。大きく二つある、と僕は考えています。

1:その「別の世界の空間」を楽しむものと

2:その「別の世界の物語(=時間)」を楽しむもの

ちょっと僕的な用語なので、説明します。ようは、「時間」を楽しむ場合と「空間」を楽しむ場合があるといっているのです。 精確な定義ではないので、ざっくばらんに感じてほしいのですが、空間系的な物語とは、たとえばフランス映画を中心とし たヨーロッパ映画です。その雰囲気や時間を楽しむものなので、キャラクターに感情移入したり、物語の脚本の筋のダイナミズムやオチは一切考慮しません。だから「ヨーロッパ映画的なもの」を楽しむときには、これらのものが好きなちょっとスノッブな人々は、その雰囲気を趣味的に偏愛しています。だから筋も脚本も(本当はあるのですが)気にしません。だって、その「空間」が好きなだけだから。その「空間」に触れていさえすれば、意味がわからなくてもいいのです。

逆に時間系というのは、つまり脚本のドラマツゥルギーそのものです。またそれぞれのキャラクターや主人公の内的主観と観客の一致状態を示します。内的主観とは、ハイデカーを引用するのも気が引けますが、ようはその人の心の中で起きる「体験」の次元は、その人の中の時間の主観的な流れにあるといいたいのです。物語とは、そこに存在するキャラクターのミクロの主観体験が、束になってなくこの力学・ダイナミズムを作り上げた「場」(=マクロ)であるというのが僕の解釈です。

ちょっと難しげになりましたが、僕のブログの他の記事を読んでいる人はわかるでしょうが、、、非常にわかりやすい例でいえば少年漫画など成長物語(=ビルドゥングスロマン:旅を通した内的成長)のことです。ビルドゥングス・・・・内的成長というのは、その人が様々な体験を重ねることで、主観の中で大きな変化が発生する(=世界解
釈の転換)ということです。心の中の体験の連なりを、時間と呼んでいるのです。これは、明確に、オチやわかりやすい結末がないと、おかしいですよね?。少年漫画は、週刊少年ジャンプ形式の友情・勝利・努力という有名なマーケティング戦略に示されるように、勝った負けたというような、わかりやすい形での基準が示されそれを「クリアしたこと」をもって、カタルシスを発生させています。これが日本の少年の心を支えた絶大なマーケットを形成してきたことは、疑うこと無き事実です。まぁ、そういう感じです。だから、これは明確な軸と結論と意味がないと、駄作になります。
ちなみに、感想でこの手の空間系の作品は、意見が対立します。それは、空間系が好きな人と、時間系が好きな人とでは、感受の形式が違うので、まったく相互理解が不能になるからです。

また空間系の作品に、オチがない!とか、ドラマツゥルギーのダイナミズムが弱い!という批判は、一見もっともらしいのですが構造的にみるとナンセンスです。が、こういう批判はよくあります。この手の対立は、永遠に続くようで、既に映画の原初のルネ・クレールやリュミエールの時代からの対立でもあると僕は思っている。ちなみにもちろん、リュミエール兄弟が、時間系ですね。ただ鉄道をとるだけの映像に、あのような時間の継起を感じさせてしまうのは、時間の流れ自体が彼らの世界感受の重要な焦点ポイントであったことを示すのでしょう。さらにちなみに、空間系とは、逆に云うと僕がよく作品分析で使う概念である「永遠の日常という無時間感覚 」とほぼ同議の意味になります。
本論がずれた(笑)。のですが、この話をしないと以後の分析が意味不明になるので。

さて、僕はこの作品を最初の30分くらいで、筋を分析するのをあきらめました。それは、この作品が、空間志向系の作品であるということがわかったからです。そういう作品は、筋を追っても、製作者サイドのいいたいことの本質は見えてこない。そのためには、その空間に溶け込めるかどうか?が勝負になります。
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>大後寿々花の『リリィ・シュシュ』になるか!?
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APRIL FOOLS/感想/遠くの空に消えた(試写)
http://essayary.exblog.jp/5769935


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>スワロウテイルが好きだった

僕の大好きな邦画の一つに岩井監督の「スワロウテイル」があるんですが、

予告編のCoccoの「甘い香り」と綺麗な映像を見ていると、

「スワロウテイル」のYen Town BandことCharaの曲を思い出した。

行定監督が「スワロウテイル」の助監督を経て、

「GO」や「世界の中心で、愛を叫ぶ」で監督として有名になったことを知り、

納得と思った。
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「スワロウテイル」とCharaを思い出す「遠くの空に消えた」とCocco
http://ameblo.jp/hatarakanai/entry-10040481033.html
世田谷のProducerさん

どちらも絶賛しているブロガーの方ですが、僕もこの作品を見ながら強く思い浮かべたのが、岩井俊二監督です。とりわけ『スワロウテイル』『リリィ・シュシュのすべて』です。まさに、リリィを強く思い浮かべました。ちなみに、狂ったくらい僕は岩井俊二監督が大大好きで、ほぼ全作品を僕は見ています(…大ファンです♪・・・悔しいが最初期のテレビシリーズだけはみれていないが・・・・)。それは、この2作品が、とっても強烈に空間系を志向した作品であるからです。岩井俊二自体も、僕は空間系の代表のような作風※4だと認識しています。
ポニーキャニオン
スワロウテイル
ビクターエンタテインメント
リリイ・シュシュのすべて 通常版

とりわけ、『スワロウテイル』のあのエキゾチックな異国風の通路や埋め立て地のど真ん中にある居酒屋?とかが印象的で、またリリィシュシュは、北関東の美しい田園風景が・・・青い稲穂のイメージが鮮烈でした。僕は岩井俊二さんの空間設計の仕方とその撮りが凄く印象的で、偏愛している。自分は、映像のプロではないので詳しいことはわからないのですが 、非常に特殊な画像処理や撮り方をしているのは、受ける印象からいって間違いがない。たとえば、『四月物語』『花とアリス』桜のシーン。この人は桜と幼稚園児の組み合わせでよく画面を撮るが、これが信じられないくらいキレイなの。
ビデオメーカー
四月物語
アミューズソフトエンタテインメント
花とアリス 通常版

たぶん、パステル調のような靄のような効果を画像にかけていて(凄くわかりずらい)いると思う。また微妙に、コマを遅くしたり、不思議な感覚を持たせる。また、その画面での感情や効果が監督の意図通りになるように、相当、桜の木や桜の 花びらの量などを計算していると思われる。

『花とアリス』岩井俊二監督 日本人に生まれてよかったと思うほど桜がきれい
http://ameblo.jp/petronius/entry-10001520014.html


『ウォーレスの人魚』岩井俊二著 異なる世界を立ち上げてしまうその力量
http://ameblo.jp/petronius/entry-10000706202.html


『四月物語』岩井俊二監督/松たか子主演 物語が始まる「前」までの物語
http://petronius.ameblo.jp/petronius/entry-10001789864.html




いいかえるとね、、、、、岩井俊二さんは、①「自分のイメージする空間を作り上げて」、しかも②「その空間がどう見えて、どういう体験を感受するか」までをコントロールしようとしているんですね。物語(脚本・時間系のドラマツゥルギー)そのものよりも、人間の主観や記憶に関するイメージをコントロールすることを志向している作家なのだと思います。そしてその効果は絶大。僕のように時間系の物語を偏愛する人に、ここまで空間系の物語をコミットさせてしまうのだから。『スワロウテイル』は、異国の街を丸ごと作り上げるという意味で相当に予算がかかったと思われるが、あれは一度でいいから岩井監督がやってみたかったことの一つであったのだと思う。

さて、延々と別の話をしたのは、連想した理由を説明するためです。

こういった空間系の志向のある監督には、「自分のイメージ通りの空間を再現してみたい」という欲求があるのです。


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>「セカチュー」の大ヒットで、邦画原作物ブームを作り上げた行定勲監督による、久々のオリジナル作品。 一見して夏休みにあわせた児童向けファンタジー映画にみえるが、これは作家の中の童心とアングラ魂が炸裂した賛否両論必死の異色作で、過去の行定作品と比べても、そのテイストは全く異なる。行定勲ランドとでも名付けたくなる、現実の様 で現実にはあり得ない不思議空間で展開する、奇妙で愉快な人間賛歌である。

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遠くの空に消えた・・・・・評価額1600円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-160.html


ラネコさんが、こう書いている。原作付きで売れるメジャー路線を走っていた行定監督が、あえてマーケティング的には外れたオリジナルの脚本をやる意味を考えれば、「自分がやりたいことをやる」という意味をもつしかあり得ない。なぜな らば、これだけ売れていれば、かなり発言権も増しているはずだからだ。だから、ここで出てくるオリジナル脚本には、作 家の志向性や本質がすべて詰まっていると考えられるのだ。


ちなみに正直に云うと、行定勲監督は好きではない。



『世界の中心で愛をさけぶ』行定勲監督/片山恭一著
http://ameblo.jp/petronius/entry-10002367991.html


ここでは物凄く評価が低かった。僕の見た作品は、『世界の中心で、愛をさけぶ』、『北の零年』、『春の雪』だが、どれもはっきりいっておもしろくなかった。
東宝
世界の中心で、愛をさけぶ スペシャル・エディション
東映
北の零年 通常版
東宝
春の雪
ただ、行定勲という監督には、最終的にダメだな、という烙印を押せないでいた。それは、どの作品も「おもしろかったから」だ。??うん??矛盾するじゃないの?と思うでしょう。精確に云うと、エンターテイメントとして消費するという意味では、僕的にいえば「動物の快楽のボタンを押す」という意味では、凄く面白いのだ。だから、映画館で見てもビデオを借りても、失望するということは全くない。これは、商品という目で見ると、凄く監督の力量が高いことを示している。

わかります?。売る(=一般人を動員する)のが非常にたやすいのです。


ちなみに、セカチューやそもそもの配役がメジャー級であるなどの、原作の記号が話題手であればあるほど、、、というか流通しやすさがあるほどよくて、三島由紀夫などのメジャーではあるが、硬いものは、失敗しやすいと僕は思う。


また話がずれますが、メディアミックスの議論を僕はライトノベルの話で何度もしていますが、昨今のメディアミックスって僕はほとんど意味がわからないのです。この記事を読む層は、ヲタク系ではないので、本当は、リリーフランキーとかの『東京タワ──オカンとボクと、時々、オトン』とかがいいのだが、僕が親近感があるということで、好きなマンガの『魔法先生ネギま!』を題材にしましょう。この作品は、原作の漫画を軸に、今までに二回!(これは珍しい)のアニメ化に、数々のゲーム作品に、今度は更にドラマ化!までされるらしい。僕は、凄くこの作品を愛しているので、一回目のアニメは、ちょっとだけ見ました。けど、基本的には、原作のマガジンで連載しているオリジナル以外は、その裏舞台も含めて僕には全く興味がない。手に取ることもなければ、見ることもありません。
リリー・フランキー
東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
赤松 健
魔法先生ネギま! (13)

でも不思議です。
というのは、ちょっとだけ見ても、アニメもゲームも多分ドラマすらも、原作の素晴らしさの記号的コピーにすぎなくて、オリジナルの素晴らしさに一切及ばないのです。メディアミックス・・・・あるオリジナルのテクストを、他の媒体で売るという行為で、原作を超えるという例はほぼありません。だから、本当に好きな人は、原作だけ見ていればいいはずなのです。小説を、映画にするという行為は、わかります。文字の世界のものを、現実のリアルで置き換えてみたい!という映像化の欲望はわかります。が、、、昨今は、マンガ→アニメ→ドラマとか、リリーフランキーの場合は、小説→映画→ドラマとか、劣化コピーのようにいろんなメディアに飛び火します。はては、CDドラマとか。がばいのばあちゃんとか、売れた小説の映像化やヲタク系の世界である劣化コピーの大群は何を示すのか?。
たぶん、オリジナルのテクストを深く読み込んで、その世界に深く潜り自我を投影するというような、旧来の教養主義的な理解の仕方や感受の仕方がすたれてきており・・・・このへんは長いので、結論を言いますと、ある種の売れた記号(=原作)を媒介に、市場の流通量を増やすことだけを志向されていて、その流通量の一時的増大における「祭りへの参加感覚」を、消費者は購入しているのだろうと思うのです

だからメディアミックとは、単純に、メディアでの露出量を、多チャンネル長時間にわたって、多くする!ことに尽きるのです。まり世間に流通している量とアクセスできる媒体が多ければ多いほど、祭りのような飽和感が発生し、その記号のう空虚な流通を元に「周りの人間と話ができる」ということが重要なのです。ヲタクが狭いサークルをつくって、その閉じた島宇宙の中で、らきすたでもネギまを語ることと、リリーフランキーや原作付きの映画の話をしたがる層は、層こそ違うのですが、資金回収が可能なある規模のマス層のセグメントの大きさに対して、市場が対応するいまや80年代以降の角川商法をベースとする普遍的な手法であるのだと思う。

ここは重要な視点で、そもそも現代の消費者は、内容を無視したバカなのではなくて、そもそも「内容は何でもいいけれども、周りの人間と話ができる共通感覚を得られる記号」があればいいのです。物語のテクストが重要なのではなくて、それが記号として世間に流通している量がある一定を超えればいいのです。その臨界点を超えることと、そのスタートを保証す る、原作・オリジナルテクストの話題性と求心力があればいいのです。
だから、小説でもマンガでも、ある一定のコアなファン層を獲得したそれなりのレベルのある脚本があれば、それを、遜色ないレベルで映像化できる監督の力量があれば、それで十分なのです。

話が元に戻った(笑)。

次へ続きます。

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遠くの空に
評価:★★★星3つ

(僕的主観:★★★★星4つ

『遠くの空に消えた』①  行定勲監督  ターゲットはファミリー層!という謎
http://ameblo.jp/petronius/entry-10042978295.html
『遠くの空に消えた』②  行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?1
http://ameblo.jp/petronius/entry-10043036486.html
『遠くの空に消えた』③  行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?2
http://ameblo.jp/petronius/entry-10043040317.html


 日頃とても好きで熟読させていただいている『ノラネコの呑んで観るシネマ』 の管理人さんであるノラネコさんにお誘いいただき、「遠くの空に消えた」の完成披露試写会に行ってきました。最近は映画も見に行っていないし、そもそも試写会に行った経験がほとんどないので、素晴らしい休日の時間を堪能させていただき、この場で御礼申し上げます。最近は忙しくて、映画離れしたいた上に、邦画をバカにする傾向があるので、とてもいい機会になりました。特にノラネコさんらのお話は、とても興味深かったです。やはり、映画や小説など「受け身のメディア」は、ただ消費するだけではなく、それをたくさんの人と解釈しあったり話し合うことが一番面白いですね。ちなみに関係者席だったので、芸能人がたくさんいました。亀田兄弟とか清水圭とか(笑)。 なんか、プチセレブ感覚というか、関係者の特権~♪みたいな感じで、ドキドキしました。自分のシゴトでプロモーションなどでブース出すときにも感じるのですが、こういう関係者以外は入れないところに入れるってのは、何だか気分いいですね。


■総合の評価

評価:★★★星3つ


まず初見の感想からいうと、とてもマイナーな傾向(=ヨーロッパ映画的なわかりにくさ)を持った映画だなと思いました。これを、大宣伝してメジャーである行定勲監督で撮る必要性が、僕には理解できなかった。また、せっかくマイナーな映画の良さを、なるべくわかりやすくしようというエンターテイメント方向(=行ってみればハリウッド的な動物の快楽ボタンの連打)へ引っ張っていることもわかり、そのせいで中途半端な印象を受けました。もともと原作付きを観客動員数が多く取れるメジャーな監督なわけだから、チャレンジするのならば、徹底的にどちらかにシフトすべきであったというふうに思ってしまった。僕の中で、客観評価★3つの評価は、「見ても見なくてもどちらでもいいが、見たら見たでそれほど悪くないと思いますよ」という等級です。映画としては普通の出来。だから、映画ファンが、ただ見るだけというのならば、うーむそれほどおススメできないという感じ。ただ、個人的には、ノラネコさんらとの会話もあり、多くの「気づき」があったとてもエポックメイキングな作品ではあると感じたので、主観では★4つです。

それは、この作品の背後にある作り手の意図の部分・・・・とりわけそれを体現しているマーケティング・プロモーション戦略が、とても野心的に感じた部分です。たぶん作り手側は、とても大きな野心が下敷きにあったのだと思う。これは別途詳細します。それともう一つは、僕の中で評価の定まらなかった行定勲監督の本質の部分とその才能が、ほぼ僕の中で評価しきれたことです。それでは、僕のこの映画を見て感じた感想・分析を、追ってみましょう。普段は時間的な余裕がないので、ここまで詳細にはよほどインパクトがないと書かないですが、これはご招待していただいたこともあり、その分はシゴト気分でしてみようと思います(笑)。

■「子供力」というプロモーション戦略~ターゲットはファミリー層!

******************

>試写会会場では赤いTシャツを着たたくさんの子供たちが案内係などをしていました。上映前の舞台挨拶によれば、本作は 「子供力」がテーマだということです。ということもあり、この試写会でも子供たちの力を借りて取り仕切ったということでした。それでは「子供力」とは何なのでしょう?

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はらやんの映画徒然草/映画や本について、徒然なるままに
http://harayan.air-nifty.com/blog/2007/08/post_41ac.html
ここには、映像がないのですが、試写会は、東京国際フォーラムのBホールの会場で行われました。入口から、テーマが子供力ということで、小さな少年少女たちが赤い映画のTシャツを着て、案内してくれたりもぎりをしてくれていました。いやー僕は普段ほとんど40代がメインの都会の超高層ビルのフロアでこもって仕事をする人なので、なんか微笑ましかったし、かわいい少年少女は嫌いじゃありません。けれど・・・・

はらやんさんが、おっしゃるとおり、

>冒頭に、「蜂は飛べるような構造をしていない。それならば何故飛べるのか。それは飛ぼうと思ったからだ」という言葉があります。飛ぼうと思う力こそが「子供力」なのでしょう。

というこの作品のテーマであろうセリフが何度かセリフやナレーションで繰り返されることから、この作品の世間へのアピールとして、子供力を世に問うという形にしたのでしょう。言い換えれば、ストレートに、これはファミリー層のお母さんに向けたメッセージであるとほぼ言えるでしょう。子供に子供力は問わないからです。問うのは、大人に問うはずです。僕のブログの読者は、僕がどう感じるかわかるんじゃないかなぁ?(苦笑)。僕は、もう最初から、お金儲けのために子供を動員するこの雰囲気に吐き気がするほどいやな印象を受けました(笑)。だって、ここの集められた子供って・・・自発的なはずないし、劇団の子役とか・・わからないけれども、少なくとも、何らかの動員をあって集められて大人の都合で連れられてきているわけでしょう?。そうでなくとも、「子供を芸能人にしたいわ!ママ」は、「受験でいい会社に入って出世しろと半狂乱になる教育ママ」と同じ、子供を自分の充足の代替物にするイメージを喚起して、僕はダメだなぁ。いやもちろんそれは偏見だし、うがった見方すぎるのですが・・・・。とにかく、いやーこういうファミリー層に頑張って媚びましたという宣伝は、あざとすぎて、理由のいかんは問わず僕には、嫌悪感を感じました。ファミリー層という幻想が、嫌いなんだろうなー僕は。生理的に受けつけないのでうす。自分が家庭を持っていても、ダメ。僕には、いい部分よりも、悪い部分を喚起してしまう。まぁ、そんな捻くれた見方をする人は、基本的に少数なので、これは批判には当たりませんが(苦笑)。
むしろ脚本のヨーロッパ的な難解なオリジナルストーリーでいろいろ複雑な映画体験を感じさせたかったのだろうなーと感じるなかなか高踏的な印象とは、まるで真逆に、あざというプロモーション戦略に僕は不思議さを感じました。そもそも、僕はこの作品が子供力とか、信じるとか、そんな「どこにでも流通しそうな安易な言葉」を語りたいわけではないのではないか?っていうもうちょっと複雑な屈折を感じたので、このセールスプロモーションのあまりに安易な記号媒介によるターゲット集中戦略には、不思議な違和感を覚えました。

ただ、これだけの製作費で行定勲監督というブランドでお金を出させているからには、その回収のために相当の動員が必要で、そのためにこの難解で「非常売りにくい内容」※1)の作品を、メジャー戦略に乗せるには、田舎で子供が主人公という部分から、ファミリー層のお母さんたちにターゲットを合わせたプロモーション(販促活動)をするというのは、宣伝部の苦心の策であったのだと思います。

僕は、このあざとい売り戦略が、どれくらい軌道に乗るか?、もしくはこの作品がどれくらい話題になるか?には、とても興味を覚えます。それは、このやり方が、日本映画のこれからに与える影響は大きいと思うからなのです。あとで、この物語の構造を分析してみますが、この作品のそもそもの製作者たちの意図からすると、売れないと負けです。しかし、そもそも売れない(にくい)ものをつくっているという制約があります。これは難しい。「売れる」という線引きがどのあたりにあるのかは、映画の業界人ではない僕にはわかりませんが、少なくとも製作者サイドや興行主など資本を出す側には、明確な線引きがあるはずで、それを超えなければ、この勝負は負けです。勝負は勝たなければなりません。僕はその意気や良し!と思うので、ぜひ製作者サイドの熱い志が達成されてほしいと願います。
ちなみに、この映画的体験を思い起こさせるゆったりとたゆたう空間を現出させる『遠い空に消えた』の作風は、ヨーロッパ映画を彷彿とさせる、ある意味慣れていない人には非常に緩慢な作風で、ハリウッド的な動物の快楽ボタン※2)に慣れた昨今の一般のエンターテイメントを消費する層(映画ファン以外の層)を動員することはほぼ不可能です。理由は単純。意味がわからないから。昨今の消費者は、非常にバカです。いやいい方が悪いな・・・・非常に受動的快楽の提供に慣れています。だから、物語の筋にがない、感情を喚起させない、、、、言い換えれば、受け身ではなくて、自分自らがその体験を解釈しなければいけない内的必然性を喚起するのが難しい。

売れる・・・・少数の「ヨーロッパ映画的なもの」※3)を好む層以外を動員するためには、そんな内的な必然性を望んではいけません。それはバカというよりは、観客がそれをお金を出してまで要求しない時代だからです。また、映画という機能ににそもそもそういうものを求めていないのでしょう。しかしながら、この作品には、結末が、物語の筋が、構造が、脚本が、明確に言いたいこと指し示していません。いくらでも解釈は可能です。が、これという本命はどれもない。あとで、いくつかの解釈可能な説を描いてみますが、それにしてはあまりに脚本が下手すぎる。下手でなければ、これは意図しているな、と思うのです。つまりは、この体験を元に、観客に、この映画体験は何だったのか?と考えてほしいのでしょう。

そういった意図と動員をかけられ可能性があるパーツを考えると、セグメントは、ファミリー層以外あり得ない。そこに行定勲ブランドで大量の広告を投入・・・・たぶん今の時代では、テレビのCMの集中投下が効果的でしょう。スタジオ・ジブリの鈴木プロデューサーのように、講談社全社全面広告のように「祭り」を喚起できれば申し分がない。今の消費者は、映画などのエンターテイメント体験に、中身は求めていない。ただ単に、「話題」になるものでありさえすればいいのだ。僕はそれなりにいい評価をした(背景を考慮して)が、しかし今の時代にとってただのゴミとしか言いようのない駄作の『ゲド戦記』なんか、あんなに売れてしまう時代です。だからとにかく動員できたら勝ちです。さて、それができるか?です。広告にどれくらいのお金が投入されているか、優秀な宣伝マンがいるか?という部分が不透明ですが・・・・。

『ゲド戦記』 宮崎吾郎監督 演出の基礎能力不足とセンスオブワンダーのなさ
http://ameblo.jp/petronius/entry-10015338663.html
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
ゲド戦記 特別収録版
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