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評価:★★★★★星5つのマスターピース

(僕的主観:★★★★★星5つ)


ちょうど、紙屋研究所さんのところで『よつばと』の書評 が挙げられていて、かなり捉え方が異なったので、思い浮かんだことを書いてみます。

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>榛野なな恵『Papa told me 』にたいして、関川夏央は、妻を亡くした文筆業の父と娘、という人物配置に次のようなコメントをくわえている。

 「娘は、セックスをしなくても許してくれる妻である。口うるさいが、やわらかな頬をした小さな母である。再婚しないのは娘のためだというのはいいわけで、たんに彼自身の都合のためでもある。もっとも、徹底したエレクトラ・コンプレックスの娘のほうも、今後永遠に恋愛にもセックスにも悩まずに済むから、心安らかに暮らせるという有利さはあるだろうが」(※1)


あずまきよひこ『よつばと!』/紙屋研究所・漫画レビューの畑――自意識の栽培
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yotubato.html

 
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■そもそも表紙を見れば、目指しているものは全然違うと思うのだ!


うーん・・・・これは、受け入れ難い。


いや、紙屋研究所さんの視点、論旨は、正しいとは思うんです。僕もかなり前から、この系統の物語り類型に対して似ている論旨 を展開しているので、いわんとすることはわかります。でもこれは、榛野なな恵さんの『Papa told me』の本質は言い表しているのだが、『よつばと』の本質ではないと思うのです。精確に云うと、よつばとに当てはまるけれども、必要条件であって十分条件 ではないという意味です。


関川 夏央
知識的大衆諸君、これもマンガだ (文春文庫)
斎藤 環
博士の奇妙な思春期

『よつばと』の永遠の日常性を成り立たせるために、「「三十代頭脳労働男女」の欲望の理想化」という設定を選択していることは、まさにその通りだと思います。僕も最近考えていたのですが、男性のオタクが娘がほしい!と考えることとや、仕事に疲れ切って男化した競争社会の女性が癒しを求める欲望などが、結果として、この系列の永遠の日常によって癒される逃避ポイントを見出すというのは、典型的なものだと思います。

すたひろ
おたくの娘さん (第1集)
小川 彌生
きみはペット (1)

が、その設定は使っているのですが、『よつばと』の描こうとしているのは、「それ」ではないと思うんです。ただ設定が同じだからと言って、必ずしも目指しているものが同じとは限らないと思うのです。永遠の日常にも種類があると思うので。


結論を言い切ってしまうと、同じ癒しでも、この作品は


永遠に終わらない夏休み


を描いているんだと思うんですよ。


フリッパーズギターは、まさに僕も連想していたんで(笑)、うぉぉぉっシンクロて思いましたが、「夏休みは終わりだ」といいながら、彼らの全盛期は全編夏休み気分じゃないですか。ちなみに『Three Cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった』は、名作でしたねー。何回か聞いたかわからない青春時代の思い出です。

Flipper's Guitar, 小沢健二
Three Cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった


僕は、紙屋研究所さんとは逆に、この作品全編(いまのところ7巻まで)において性的なものを感じ取れないので、不思議な感覚を得ました。おっしゃるとおり、ヲタクの願望の本質を映し出したような設定・作品世界の構造であるのだから、「性的な視点」が隠されていないとおかしいです。


>お隣にいる三姉妹は「美女」「女子高生」「小学生女子」である。表面からは消して回った性は、この3姉妹に息づいており、そのときどきにむけられる、あずまの彼女たちへの性的なまなざしをみるがいい。何も性的なイヴェントは起こらないけど、作品世界のそこかしこに性的な空気が充満している。


でも、ほんとに?


本当にこの作品で、例えば隣の3姉妹に性的な視線を感じる??


僕は、それはまったく感じないなー。


いろいろな人にぜひ聞いてみたい。


もしかしたら、物語の本筋と関係なしに、ふうかかわいいよーとか、性的な視点を持つことはあるかもしれない。けれど、、、、本からストレートに読み取れるかなぁ?。この作品で、そう読むのは少し読み方がアクロバティツクな気がする。


それは、やはり我々が誘導されている視点が、よつばが見た周りの世界という部分に固定化されている※1と僕は考えるので、よつばの父親の視点に感情移入することは、作品の流れ上ありえないと思うのですよ。


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※1

我々が感情移入している先が、よつばであって、よつばでない状態がある。よつば自身が体験している視界の映像を、神の視点から眺めているような状態で固定されている感じだと思うんですよ。小説でいうと、神の視点(三人称)と主人公の視点である一人称の中間に位地する感じなのだが、これが何?といわれると、うーん・・・へなへなとなる。


□『よつばと』 あずまきよひこ著 マンガの表現力の到達点の一つ
http://ameblo.jp/petronius/entry-10049280825.html

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もちろん、そういうふうに無理やり読むことは可能です。マンガは、多視点が存在するので、どのように読み抱えるのもそれほど難しいことではあません。小説と違って、基本的には、神の視点で空間を切り取らざるを得ないのですから、構造上は。それ故に、同人誌が生まれることになったわけでしょう?。だから自分に実際に娘がいたりすれば、父親の視点に偏って感情移入することはあり得るとは思います。が、少なくともそれはこの物語の本質における主要な視点ではないと思うのです。


たとえば、榛野なな恵さんの『Papa told me』や高野真之さんの『BLOOD ALONE』は、まさにおっしゃる通りのロジックで読み解けるし、「それ」こそが物語の本筋であると思う。


http://ameblo.jp/petronius/entry-10039069316.html


『Papa told me』の主人公の知世に対する視線は、亡き妻への視線とまさに重なっている演出が何度も繰り返されている。また知世のほうも、父親に対して、あきらかにそんなの小学生レベルじゃねーよという複雑な愛情を抱いている。これが、ヲタクの男と、仕事に疲れた女の、日常から逃げたい気持ちの集約点であるというのは、まさにいいわけがしようがない。『BLOOD ALONE』であっても、同じだ。これは亡き妻ではなく愛した姉への視線だしね。もうこの表紙を見れば、、、、わかるでしょう(笑)。



『Papa told me』は、的場知世(まとばちせ)と小説家の父親的場信吉の関係性こそがこの物語の主題であって、SEXの介在しない父娘の相思相愛の関係性が、まるで時間が止まったかのような楽園の癒しのイメージを与える代わりに、物語の時間が進まなくなってしまっている。実際、連載が中断して筆が進まないのは当然だ。ここからどこへも持っていけないからだ。『BLOOD ALONE』のミサキが吸血鬼であるという設定も、このテーマには「止まってしまった永遠の時間」という烙印が必ず押されてしまうからなのだと思う。現実的には有難い関係性だからだ。


何を言いたいのかといえば、これらの2作品の特徴は、SEXが介在しないだけで、明らかに男女の恋愛関係にある閉じた関係性にあるということだ。そこで、いくら仕掛けに性的なものを排除する仕掛けやガジェットを設置しようと、それが明らかに相思相愛の男女関係であることは、否定できない。

榛野 なな恵
Papa told me―完全版 (1)


これらの作品は、愛情の関係性こそが物語の本質であるから、紙屋研究所さんの意見は、まさに妥当といえると思う。


でも、翻って考えてみると、


『よつばと』には、そういった閉じた男女の恋愛関係は、父と娘間には、完全にない(と僕は思える)。

なぜならば、よつばは、娘というよりも子供であり、もっというと正直言って動物の域をでない(笑)。だって、知世やみさきに比べると圧倒的に自意識が薄いのだ。これほど自意識が薄いと、男女関係などの複雑な感情の交換は不可能だ。


ここで読者が外部の視点から見るときに、読者の焦点が合っているものは、


『Papa told me』は、娘の知世と父親の信吉


『BLOOD ALONE』は、ミサキとクロエ


だと思う。それ以外は、風景に過ぎない。



けれども、『よつばと』は、


よつばと世界そのもの(=よつばが見た世界)


の関係性に焦点が合っているように見える。


けっして、メインは、よつはと父親でも、父親と三姉妹でもない。


だから性的な視点など発生するとは思えないのだ。


ましてや、「よつばの視点から見た世界を、神の視点として外から眺める」というこの作品の構造で考えると、よつはが、大人であれば当たりまえであるものを、体験の一回性で、ドキドキしながら「初めて出会うもの」として感動する・驚く情緒「こそ」がこの作品の肝であると僕は考えるので、その日常の驚きという名のセンスオブワンダーなどに比べると、この世界ではセクシャルなものはむしろ忌避の対象というか・・・・忌避だと意識的すぎる言葉だな・・・そもそもそういうものを見る世界観ではないので、連想がむしろ起きにくいと思うのだ。


だって、そもそもよつば自体も、あまりに小さな子で、内面もないし、萌え(感情移入という意味で)でもないし・・・・そもそも内面の自意識を抱えていないでしょうこのキャラクターは。そこで、セクシャルなものが、介在する余地は、物凄く少ないと僕は思うのですが。



■永遠に続く夏休みに逃避するというエンターテイメントの類型


この作品を、もしどこがおもしろいの?という質問を受けたら、


子供の頃の夏休みに、田舎に遊びに行く時に楽しかった思い出はありませんか?


仮に行った経験がなくとも、「夏休み」というノスタルジーを思い浮かべることはできませんか?


って答えます。

ソニー・コンピュータエンタテインメント
ぼくのなつやすみ PlayStation the Best
ソニー・コンピュータエンタテインメント
ぼくのなつやすみ2 海の冒険篇

基本的には、このゲームと発想の原点や面白さのポイントは同一のものと僕は考えています。もっと原初的にいうと、夏には夏至とか、死者が帰ってくるとされる感覚の特異点が、どうも人類の共同体には現れるようで、文化人類学的にいうとそれが「祭り」の原初になっています。そういった、日常の転換ポイントを、時間の感覚の中からではなくて、意識的に作り出したのが(=つまり商品にしてパッケージにした行為)、これらの「永遠に続く夏休み」というヒーリングエンターテイメントである、と僕は考えています。このへんのわかりやすい説明は、中沢新一さんの『サンタクロースの秘密』がいいです。薄いしね。


ちなみに、これは大学時代かなりに調べたりしたことがあるのですが、永遠の夏休みや、それを包含する「永遠の日常」の物語り類型は、祭りやテーマパークなどのの演出に非常に有効な効果を上げるということが、わかっています。で、ちなみに、ディズニーランドやディズニーリゾート、ディズニーワールドなどはこの記憶と永遠の日常めぐる心象風景を、徹底的に研究して作られた空間演出方法です。

能登路 雅子
ディズニーランドという聖地 (岩波新書)
中川 理
偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション
クロード レヴィ=ストロース, 中沢 新一, Claude L´evi‐Strauss
サンタクロースの秘密 (serica books)
中沢 新一
精霊の王
折口 信夫
死者の書・身毒丸 (中公文庫)

基本的には、『よつばと』も忙しない灰色の退屈な日常からの脱出である点では、『Papa told me』『BLOOD ALONE』の求めている逃避の欲望と同じではありますが、それを、SEXを介在しない安心できる娘や少女に求めることと、子供の視点から見た一回性の体験に求めるかでは、かなり違うものだと思うのですよ。


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■半主観的映像が解説されているのは

クリチャン・メッツ『映画記号学の諸問題』か、『映画理論集成 新装版』収録のジャン・ミトリの論考ですね。

『映画学から映像学へ』は読んでなかったり。



しかしよつばとって、みんな味わっているであろ感動、というものにイマイチ共感できないんですよね(以前も言いましたけど)。



一度、よつばとがすげえ好きっていう人に、「ここのここがこう感動した!」っていうのを逐一挙げてみてほしかったりします(笑)。

いずみの 2007-10-06 00:12:16

岩本 憲児, 波多野 哲朗
映画理論集成 新装版

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僕は、すげぇ好きというほど中毒ではないので答えるには違うかもしれませんが、いずみのさんへの回答を兼ねると、これらの「永遠に終わらない夏休み」という退屈な日常からの脱出モチーフは、経験的に、日常でシゴトなどで逃げられなくやりたくないことに時間が拘束される人々ほど強く希求するようです。


また、この日常からの退避は、刺激を求めるのですが、それがセクシャルな刺激ではなくて、こうしたなノスタルジーや子供時代の体験の新鮮さに求める人は、かなりの確率で、性的なものに飽きているか、もしくはそうとう枯れてきているナイスミドル(笑)な年齢の人が多いようです。刺激の強烈さという意味では、セクシャルなものの方が、短期的にはノスタルジーを上回りますので。


もちろん「永遠に終わらない夏休み」というのは、ある種の逃避先の楽園イメージなので、それが、受験に疲れている中学生や小学生でも、十分に志向の対象になります。日常に退屈していて、性的なもの以外で充足しようと考えると出てくるモチーフですから。「夏休み的なもの」から疎外されている人ならば、誰でもいいわけですから。


えっと、この「永遠に終わらない夏休み」を希求するには、第一条件として、自分の目的意識のないところの雑務に毎日追われている人々でないと、あまり感動しません。


第二条件として、これが「よつはのこどもの視点+まわり」への感情移入を伴うので、失われた子供時代への追体験と、同時に子供にそういった体験を与えてやりたいと思う大人の視点が混ざっているので、自分の子供時代に愛されていなかったと思う不遇感と、だからこそ、その分他者を愛してあげたいという幾分大人な視点が入り混じるのです。


だから、シゴトに疲れているけれども仕事から逃げられない責任を持つ子供を持った20後半から30代後半くらいの男性が一番ぐっとくるかもしれません。


そういう意味では、そもそもこの本を読んで、メチャメチャ感動する層ではないんですよ、いずみのさんは。僕もですがね。だいたい「いいなーほんわかするなー」という意見は、第一条件の意見で、それ以上の強い感動を感じる人は、第二条件に当てはまるのではないかな、と思います。



■時間感覚の差異による体験の一回性に関する演出の区分け

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□よつばとは

面白さの説明が困難ですね確かに。面白さの根源が、一回性や意味の再発見であるのはおそらくそうなんでしょうけど、例えばハチクロのように一回性のかけがえのなさを強調するような演出があると、どうもそうゆう気はしないですしね。



まったく主観的によつばとを読んで思うのは、こうゆう体験があるのであれば、世の中の父親というのが娘に萌え狂う気持ちが良く分かるなーという事でしょうかw。



GiGi 2007-10-06 10:59:22
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羽海野 チカさんの「ハチクロのように一回性のかけがえのなさ」も、確かにモチーフは同じです。が、「よつばと」が、「永遠に終わらない夏休み」の日常の反復性を演出の力点に置いているものと、季節の移り変わりなどの「時間の経過が前提」になって回想している視点のハチクロでは視点の置きどころがまるで違います。もっと正確に言うと時間に対する意識が違います。

ハチクロは、竹本君や成長した後の登場人物たちが「青春という名の過去を振り返る」というノスタルジー&モノローグの視点で、すべての物語が構成されているように僕は思うのです。明示的ではないですが、すべての客観視点の作者突っ込み以外の、登場人物の思いは、「現在から過去を懐かしんでいる俯瞰した視点」に見えます。


10巻の最後のセリフで


「あの奇跡のような日々は いつまでも甘い痛みとともに



胸の中の遠い場所でずっと なつかしくまわりつづけるんだ・・・・」

chapter64


とありますが、これは成長した未来の竹本君が、過去の青春時代を懐かしむというノスタルジーな回想の空気を感じさせませんか?。僕には少なくともそいうふうに読める。つまりこの作品は時間から見ると「未来の時点」から、過去という名の「現在」を振り返るという構造になっています。だから、時間は過ぎ去ってしまって「終わってしまったもの」という寂寥感が、全編を覆うのです。これは青春ものによくあるスタイルの時間感覚です。この、もう戻らないものという意味で、「かけがえのない大切なもの」の演出をするのです。これは、既に失われてしまっているという未来からの視点だからなのです。より喪失感が強く出る演出なのですね。


けど、よつばとは、よつばの「いま現在のリアルタイム」を描いているんです。時間の経過が「ある」と考えるものと「ない(かもしれない)」物語空間の差はかなり大きなイメージの差です。


ちなみに、世のお父さんがみんな娘に萌え狂っているのかは、僕にはわかりません(笑)。しかしながら、たぶん上記で考えた視点で分けると、



1)安心できる萌え対象としての娘(を見ている男性としての視点)


2)一回性の体験をしている子供の視点(を守りたい大人の視点)


3)自分の一回性を追体験させてくれる投影装置としての子供の視点



との3つくらいに分解できて、どれによっているかで、指し示す意味がかなり変わると思います。オタクの欲望といわれるのは、1)が過分に偏っている世界なのでしょう。



■感情移入における対象との距離の問題


**************
□萌え?

私はハヤテのごとく!に出てくるキャラ達にも感情移入は出来ません。ネギまもそうです。



でも、キャラが何でこういう行動をとるのかについては共感し、理解できます。こういったマンガのキャラがとる行動はとてもけなげだったり、純真であどけないものだと感じます。


これって萌え?



萌えオタ 2007-10-06 09:26:52
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畑 健二郎
ハヤテのごとく! 11 (11) (少年サンデーコミックス)
赤松 健
魔法先生ネギま! (7)


これは、このマンガというよりは、感情移入の距離感の問題であって、ある種の技術論であって、作品の視点誘導の力云々ではないのではないでしょうか。僕も、ネギまは群像劇スタイルをとって演出していること、はやてはメタフィクションの視点が常に存在して物語を動かしていく作品であるという構造上からも、実は、あまり感情移入しやすい作品ではないと思っています。


ただ、そうはいってもキャラクターを記号化してそれにファンをつけるという意味では、非常に現代的な作品で、これをシンプルに萌えてキャラに感情移入する人と、もう少し引いてメタ的に楽しむかは、その人の性格や癖によるところが大きい気がします。だから、萌えオタさんの質問に対しては、それは萌えだと思いますが、萌えの定義がないところでは、何とも言えません。ただ感情移入には、種類があるという提起にとどめます。


そもそも他者を理解するときには、



1)同じ視点に同一化して追体験する




2)神の視点から見て、他者(=キャラクター)の置かれている外部環境から導き出される構造を理解する



という二つの手法があります。


非常にぶっちゃけて言えば、1)は主観的に感じることで、2)は客観的に「そうだろう」と類推することです。


これを距離で考えると、



1)は、距離がゼロです(自己と他者の距離)



2)は、他者を高い視点から俯瞰的に眺め見降ろしている視点です(距離が離れている)



このどちらが好きなタイプかは、その人の個人的な好みによります。意識的にマンガや映画は視線誘導を、1)にもっていくか、2)に持っていくかで、その作品のコマ割りや吹き出しが、同一化現象を起こすよう誘導されているのか、誰からから誰かを見た印象(誰に同一化させるか?)なのか、客観的な神の視点なのか、ということがわかる場合もありますが、よほど技巧的な演出をしないと、1)か2)かは読者の恣意に任されてしまうところがあるようです。


また先ほども指摘しましたが、マンガが小説のような一人称になれないのは、内面のみを描くことが困難だからです。必ず外部から見ているシーンのショットのシークエンスでしか、物語世界の現実を切り取ることはできないので、必然的にそこに出てくるキャラクターの誰の視点を選択することも、たとえ作者に演出したり誘導する意志が全く皆無であっても可能です。そうでなければ、BLの同人誌は、過半が成り立たんかったでしょう。


ちなみにどっちの視点が優先権を持つかは、その演出力の過多によります。


いいたいのは、萌えオタさんは、客観的の外から俯瞰的に見るのが癖なのではないですか?という疑問です。これは性格なんですよね。


なんか、長くなりすぎたので、ここでしめます。


いいたかったのは、よつばとに、性的な視線が多いとは思えないなーと思うことです。ないとはいわないけれども。


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