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Sun, October 22, 2006

『しゃにむにGO』 24巻 羅川真里茂著 テニスマンガの最高峰

テーマ:書評 少女マンガ

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羅川 真里茂
しゃにむにGO 24 (24)  

評価:★★★★★星5つ 連載途中だが、傑作といって差し支えないと思う。

(僕的主観:★★★★★星5つ


■テニス漫画の最高峰は?

帯びに『テニス漫画の最高峰』とあったが、それは僕も同感。もちろん、人気という意味では、許斐 剛さんの『テニスの王子様』や山本鈴美香さんの『エースをねらえ』とかがある。これもまた伝説的な作品といえるのだが、これらの話が、スポ根モノやジャンプシステムの踏襲といった、そもそもテニスでなくとも良かったんでは?という疑問が拭えないのの比較して、テニスというメンタルスポーツの側面を、これでもかってえぐっているしゃにむにGOは、やはり最高峰といっても僕は差し支えないと思う。僕自身が、学生時代に硬式テニスの部活にはまり、4大大会を食い入るように深夜見ていたころの思い出からも、テニスっていうスポーツのメンタルな側面が見事に描けている、と思う。
   
これは、内面描写を得意とする少女マンガの叙述形式 と、メンタルの強さ弱さでで局面がひっくり返るテニスというスポーツがうまくマッチし結果だと思う。


■松岡修造選手の観客を巻き込む熱気~周りの人間全てを同一化する気概

何度も繰り返すのですが、テニスモノのマンガを読んでいて、大ファンだった松岡修造 選手のあの観客全体を巻き込む熱気を、同じようにビリビリ感じた漫画はこの作品だけです。その後の彼はちょっと、おぼっちゃん特有のバカぶり(笑)で、恥ずかしくて見ていられないところもあるが、ただあの1995年の62年ぶりのウィンブルドンでのベスト8など、心から大ファンであった時期があるだけに、どうも憎めない。あの熱気が、まだ子供のように無邪気に彼を見ていると背後に見えるからだ。どちらかというと、スポ根的なイメージがあった、運動というものに、メンタルトレーニングという概念を取り入れたトレーニングをしているという話を聞いたのも彼の記事を読んでいる時だったと思う。
松岡 修造
「本気」の言葉―思い通りにいかない時こそ!
けれども、それ以来テニスはほとんど見なくなった。多分彼の引退ぐらいからだと思う。それは、あのような観客を巻き込む技術に長けた記憶に残るプレイヤーが少ないことと、やはり、日本人プレイヤーで国際的に活躍する人が皆無だったからだと思う。
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スポーツの応援というのも、ある意味、同一化・・・・アイデンティフィケーションが重要で、稚拙なナショナリズムの萌芽であるのだと思うが、主体が自分に近ければ近いほど、強いシンパシーを生むんだと思う。だから、やっぱり日本代表があるサッカーには適わないんですよね。

またテニスは、日本では環境があまり整っていないので、どうしても相当の金持ちでなければならないし(そもそもちゃんとしたコートが少ない)、松岡修造さんのように慶応義塾高校から偏差値にしてどれくらい差があるかわからないテニスの名門柳川高校へ転向する(笑)というような、異様な思い込みと人生を賭ける気概がなければ、ATPのツアーなどという超ヘビーな国際大会を転戦するテニスの過酷なプロの世界には、出て行けないのだと思います。この辺の国際大会を転戦するATPツアーのプロの凄まじい苦労話をしっていると、ナディア・オコナーの孤独の苦悩や、佐世古駿の苦しみには異様なシンパシーを感じてしまします。
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ちょっと話しはずれたんですが、そんな土壇場のプレイがメンタルの力でひっくり返るのがビリビリ伝わるテニスというメンタルスポーツの本質の感動が、僕は、このしゃにむにGOの出井延久くんのプレーの描写で、甦ってきたんでびっくりしたんです。だから、最高峰、といっても過言ではない、と思うのです。『スラムダンク』が、バスケットボールというものおもしろさを日本中の若者に知らしめたようにね。まぁ『花とゆめ』という白泉社系の少女漫画というカテゴリーでは、なかなかそこまで広範囲にブレイクしないかもしれないですが、素晴らしい漫画だと思います。


■其の144 必要な人 ~母の呪縛に縛られた佐世古駿の解放の物語  


この作品の影の主人公と僕は位置づけている佐世古駿の物語が、僕は実は一番好き。光である井出くんとその裏側である留宇衣の二人の葛藤と切磋琢磨を追った王道的成長のドラマツゥルギーも素晴らしいが、僕は、駿くんのほうが、凄い好きなんだよねー。


前に、津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』 で、繰り返すものというテーマで、記事を書きました。それは、少女マンガには、「家」や「血」に縛られてがんじがらめになっている少年というモチーフがよく出てきます。これは、貴種流離譚という物語の類型  なのですが、日本の文学なんかでよく見られるテーマなんですが、血によって縛られているものからの恐怖や解放を描く・・・・つまり、金持ちのお坊ちゃんお嬢ちゃんたちの私小説系統に連なるものだと重うんです。日本社会は、「イエ」による縛りが大きいですからね。伝統的に。白泉社系は、対象年齢が高いせいか、そういったちょっとブンガクちっくな背景を持つ作品が多いですね。


まぁ、すっごいお金持ちの美少年(笑)という設定は一般受けしますし、なによりも、内面を深く探っていく傾向がある少女マンガの叙述形式が、血という過去に縛られた恐怖と苦しみを持つ少年の「内面を理解する」=二人の恋が成就する、という定型に修練していったことは、ある意味、納得なことだと思います。多分書いている人の描きたいことの本質のスタート地点は、文学などを読んでいた少女だった、という気がします。


話が少し大枠になりましたが、ようは、駿くんってのは、ストレートに「これ」に該当するんですよね。ひっじょーに暗い家庭環境で育った彼は、その悪夢を振り払うように精一杯生きています。けれど、ジュニアから天才的なテニスの腕前で日本に君臨し、世界に出て行こうとする彼の才能は、それを素直に表にぶちまけることをできなくさせ、その苦しみを内向して内向して韜晦するのが日常になってしまっています。


テニスの才能的には、彼は間違いなく選ばれた天才。そして、それを凄まじい努力で維持し、メンタルをコントロールする広い視野も持っている。はっきりいって井出くんや留宇衣なんか目じゃない。けれど、追われるもの、最初から頂点に君臨するってのは、すごく大変なんです。いってみれば、テニスのエリートなんですが、エリート(=選ばれたもの)ってのは、すごく孤独なんです。それは、甘えが許されないから。頂点に立ち、選ばれたものには、常に言い訳は許されません。その孤独の中で、本質的な心の苦しみを抱えた彼の苦しさは、見ていてせつなくなる。僕は、仕方ない思いつつも、ひなこちゃんひどいぜ、それはって思ってしまいます。


「本当に必要な人だけがそばにいてくれれば それでいいんです」(駿)


「傍にいる? そばに置こうとしているじゃなくて?」



この会話なんか、厳しいなぁ(笑)。この一言だけで、駿が、追い込まれているところが分かってしまう。彼の心の闇は深い。24巻にまでなりながら、まだ片鱗しかそこがでていないのだから、まだまだ続くってことなんだろうなぁ(笑)。

駿は、いいよ、本と男としてカッコイイよ。こういうヤツが幸せにならないのは、おかしい!!。
ちょっと、そう思った。


■関連記事

『しゃにむにGO』 23巻 羅川真里茂著/悲しみの受け入れ方
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『しゃにむにGO』 羅川真理茂著/メンタルスポーツとしてのテニス
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『花の名前』 斉藤けん著  正統派少女マンガは、内面の理解を求める
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『彼氏彼女の事情』津田雅美/繰り返すものからの脱却
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系図で見る現代史(松岡修造)

http://www.k3.dion.ne.jp/~a-246ra/keizukingendai4.htm



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