『ハチミツとクローバー』羽海野チカ著 ディスコミュニケーションに満たされた世界
テーマ:書評 少女マンガ
評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)
実は、ハチクロは1年位前に1巻を読んで、挫折した。
シゴトで忙しかったためだと思う。「現実的で、結果のみを求める思考」が最優先されているときには、少女マンガは読めないものなのだ。
意味が全然分からなかったのだ。
それは、スクールランブルもそうだった。
数年にわたり、「わっかんねーなーー」とうんうん、唸っていた。ハチクロも、何度か1巻をトライしたが、そのために挫折していた。
が、、、、
その深い霧と闇が、先週ぐらいに一気に晴れた。
いずみのさんの「スクラン考」 を読んだためだ。またこれだ!(笑)。最近、代位ヒットだったんだってばー。
いままで、
「どのように分析すればいいのか?」
「どのような姿勢で読むのか?」
がさっぱりわからなかったのだが、それがスるっと理解できた。
こういう感覚があるから、本や素晴らしい概念との出会いはやめられない。
既に、スクールランブルを全巻読み直し、ハチクロも全巻購入して先ほど読了。それに、『花の名前』にもどっぷり。
- 斎藤 けん
- 花の名前
なるほど、これら類型は、こう読み解くのか!と、感心しきり。
こういうのを、汎用性が効く概念、というのだろうねぇ。
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■登場人物が多いと関係性が把握できない
でも、なぜいままでわからなかったのだろうか?
そのへんを、考えてみる。
少女マンガは、そもそも「多様な人間関係の複雑さ」を前提としている。
女性・・・というか少女の世界から見ると、
両思いになること(なったと思い込むこと)
結婚(とは限らないが)男性に出会うことで世界が変わり開かれること
(白馬の王子様!)
が、大前提の原理で世界が構成されている。
すると、
①どんな人と自分が、どういう関係が結ばれるか?ということや、
②そもそも関係性って、どういうこと?
(・・・・たいていの答えは、内面の理解(互いが互いをどう位置づけているか)に求められる)
ということが、とっても重要になる。
意味分かりますか?
いや、これは僕の勝手な見解で、フェミニズムの人とかに怒られるかもしれないが、、、そもそも女性にとっての選択肢、とりわけ少女にとっての選択肢が、「選ばれること」たいていは、男性にだが、、、が世界の全てになってしまうのは、構造上しかたがないことだ。
あくまでそれがいいことだとはいわないですが、現在においては少なくともまだまだ事実な部分は否定できまい?。
そのへんはまず置いておいて、
すると、大事なのは、
①誰と?
②どのように?
になります。70年代以降の少女マンガは、この
①の誰とっていうと、、、、
実は誰とでもありじゃないか??
と、対象が無限に拡大していく過程でした。
つまりですね、まずは男性であれば、それが、父親でも、義父でも、兄でも、弟でも、教師でも、遊び人でも、クリエイターでも、、、とにかく何でもいいんですよね?考えてみれば。
こう書くとヘンですが、考えてみてください。
明治以来の良妻賢母教育の常識では、結婚相手は、家同士、家柄が相応しく、経済力があるものという前提があって、それはもちろんのこと、少女・・・女性自体に選択肢の自由はありませんでした。(まぁ実は男性もだけどね)。つまり、「だれでもありだよね!」というのは、女性の選択肢の拡大に伴って、発生したんです。そう考えると、わかりやすいでしょう?。自由恋愛の観念の拡大だと考えればいいのです。
そして、もちろん、これが拡大すれば、相手が同じ同性の女性であっても、異性物(笑)であっても、なんでもいいわけですが、、、、(笑)
実際のところ、愛や恋という非常に抽象的で純粋な次元で考えると、そもそも結ばれることがありえない、
不可能性の壁
が、大きいほど、実は、その恋愛のドラマツゥルギーは盛り上がります。ロミオとジュリエット効果ですね。
そして、②のどのようにというのは、①の様々な複雑なシュチュエーションにあたって、
それは、たぶん親には許してもらえない不良とか教師からはじまり
義父とか同性とかよりタブーが大きいほうへ進んだ場合
そういった非常に複雑な関係性の中で、
どのように考えるのか?、実際にどう選べばいいのか?
という考え方をシュミレートする効果と役割があったのだと思います。
だから、少女マンガは自由恋愛やそういった誰とでもカップリングがありえてしまう不透明で複雑な人間関係のなかで、どういう風に考えるか?というモデリング機能
つまりは、
教育・洗脳のためのフィードバック装置・メディア
だったんですね。もちろん、今でも。
この議論は、恋愛の発生、大衆への伝播を、17~18世紀の古典的恋愛小説に求める議論で、アカデミックな世界では超有名な学説のモノマネです(笑)。
さて、、、、それがきわまった00年代の現代。
かなり物語や正統派の復権がある昨今でも、既に、物語世界での関係性は、
一言でいえないほど複雑な人間関係に満たされます。
しかも、少女マンガは、それを権力やお金などの指揮命令系統の関係性とまったく異なる、いつどう変化するかわからない異様な流動性の中での関係性なので、
関係性が固定されている世界にいる人には、まったく理解できないのです。
えっと、つまりですね、、、、
たとえば、女の子にしてみれば、
世界が変わる可能性は、無限です。だって、どこの誰と恋愛して、結婚するかという可能性は、無限なんだから。
だから、常に、誰=Xと、どのような=yという変数が、無限大で満たされている世界を生きているわけです。
しかし、たとえば企業に勤める男性サラリーマンを考えて見ましょう。
彼は、XとYの変数は、凄まじく硬直して固定しています。
だってわかるでしょう?(笑)。
社則に書いてるぐらいですよ(笑)。そこには、指揮命令系統という金と権力に連なるシステムが構築されていて、その役割の世界(=肩書きと機能)をたいていの社会人は生きているのです。
これは、社会人である限り、男性も女性も同じです。
こういうリジッドで人間関係が定義されている世界では、そもそもたとえば、僕がいきなり上司の部長と、同性愛に目覚める!(笑)とか、社長がいきなり僕に恋をする!!!とか(笑)そんなことは、可能性としてはありえません(つーか限りなく低い・・・・はず・・・・ないとはいえないのが、現代の怖いところだが)。
そういう非流動性の世界で長く感受性を摩滅している人は、
関係性が無限大の世界
というのは、まったく理解の外なのです。
なんとなくわかります???
なんで、オヤジたちが、あんなに感性摩滅しているかというと、関係性の可能性が閉じた世界に生きているからなんです。
そして、それはなぜか?と問えば、
関係性が流動的になる社会では、常に、不安と関係の永続性が信じられない・・・・・つまりは、契約が結べない、資本主義が成り立たない世界だからなんです。
つまり、資本主義があるところに、組織論と、役割に関する機能論は必須です。
そうした変数(=関係性)を固定化して、定義づけるところを、契約、と呼ぶのですから。
つまりね、、、、同じ時空を生きていても、
少女的な感性
と
オヤジ的な感性
は、まったく異なる原理で世界を眺めているのです。
勘違いしないでほしいですが、この少女的なるものオヤジ的なるものという言葉で、ジェンダーは区別していません。50歳のみすぼらしいオヤジが少女的でも充分ありうるし(けっこう大金持ちにはいるもんです)、女性であってもオヤジ的原理どっぷりの人もいますから。
だから、最初の問いに戻るのですが、僕はシゴトに気合が入っていて、忙しいときには、物事を目的合理性と固定された人間関係で観がちになるので、少女マンガの不特定多数との、流動性の高い不安に満ちた関係性というものが、まず理解できにくくなった、というわけです。
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■全員片思いというディスコミュニケーション
えっと、さらに考察は、内面の理解についてすすみたいのですが・・・・肩凝りなので、また別途です(笑)。
ちなみに、僕は、真山君が、ちょー好き(笑)。なんか、若かりし日の自分を思い出させる。
さらにちなみでいうと、この舞台ってムサビこと武蔵野美術大学だと思うんだけれども、、、、子どもの頃ね、そこの近くに住んでいて、美大生の友人とかが多かったので、あの雰囲気は、凄く懐かしかったです。





1 ■少女漫画の少女性
連投失礼します。
確かに少女漫画は、関係性が全てですよね~。で、少女の世界というのは、またその量的なこと、重さをかけることが無く、物事が全て並列であるような気がします。「大人」(もしくは「オヤジ」なのかな)であれば、それぞれの物事に、重さをかけて、重要度を測るけれど、少女の世界では全てが並列というか、平等であるような・・・。
肩こり、大丈夫ですかー。「僕がいきなり~」の部分で、ヘンな煽りが浮かんできて困りました。笑 「クールだが熱い彼!そんな彼に惹かれた上司である僕は・・・」みたいな。笑<あれ、あんまり煽ってないですか?