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冨樫 義博
HUNTER×HUNTER NO.23 (23)
評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的評価:★★★★★星5つ)

もう評価は定まっている。


天才、富樫義博さんの最新刊。


あまりに連載は、不定期なので、無視して単行本を待っている。ホント、プロとしては失格ものの最低の態度で、そういうのはまず許されないこと(僕個人としても許したくない)なのだが、、、、才能によって、全てが許されててしまう、悪い例だ(笑)。何もいえません、ここまで凄いと。


素晴らしい。このストーリーのレベルの高さでは、何もいえない。


ただ、一読者として、続きを待つのみだ。


・・・・・このセリフ、毎回新刊が出るたびにいっている気がする(笑)。


この作品は、まごうことなき傑作で、僕にとって、ではなくて、万人に評価されるべき最高峰の物語だ。もちろん、文学作品としても超一級品と、選定します。


典雅の決裁者ペトロニウスの名にかけて(笑)、これは素晴らしい。


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■人間とは誰を指すのか?

最近、チリャード・ローティーという米国の哲学者の本を読み散らしている。そこでテーマになっているのは、




人間とは誰を指すのか?



という問いです。



前にも書きましたが、例えば、合衆国憲法草案時に条文の「人間は誰もが幸福を追求する権利がある」といった時に、人間には、黒人は(もちろんアジア人も)入っていませんでした。これは、憲法草案会議で、論争になったので記録にも残っています。彼らにとって、黒人奴隷は家畜なので、人間には入らないだろう?いや、そうもいかないんじゃないか?と、議論になったのです。もちろん。結論は、人間ではない、でした。

当時のアメリカ人にとって、たとえば、日本人は、もちろん人間ではなかったのです。つまり、奴隷にしても、皆殺しにしても、レイプしても、騙しても・・・・・何してもいい、神に愛されていないゴミだったんです。


このことを考える時に、いつもあるエピソードを思い出します。


アメリカの文学者の作品(ローマの作品にもあったなぁ)で、奴隷時代に、貴婦人が裸で着替えをするのですが、当時のアメリカやイギリスでは、貞潔や純潔が重んじられたために、肌を少し見せるだけでも大問題になる倫理道徳が生きていました。だから、着替えをする時に、男性が部屋に入る(そもそも入るのも基本的には許されない)ことなぞありえませんでした。が、その作品では、男性に肌を見せられないと顔を赤らめる貞潔なうら若き女性が、壮年の黒人奴隷がいる前で平気で服を脱ぎ捨てるのです。


・・・・・わかります?。


人間と認識していないので、羞恥心が発動する対象にならないんですよ。僕はこの描写を読んで、いまに至るまで忘れられません。そこまで、根深いのか・・・と。多分本質は、今でも変わらないと思いますよ。公民権運動から、たかだか数十年ですからね。


この差別感覚を、よくよく頭に叩き込まないと、差別意識の本質には、たどり着けません。この感覚で、数百年以上、世界に君臨しているんですから、白人は。我々日本人だとて、アジア人だとと、差別意識なんかまったく捨てられていないのですから、事実数百年、宗主として君臨した白人が、その差別意識を失うはずはないではないですか。本質の、本質としてはね。


別に、僕は、白人の差別意識が悪い、といいたいのではありません。もちろろん、どんな民族にも国家にも、人間にも差別心は根深くあり、口でキレイごとをいって簡単に解決できる問題ではありません。


さて、本質的に、強烈な差別意識を人間は持っています。

が、同時に、人間には、同胞のためには命を投げ打つ自己犠牲が頻繁に見られます。


考えてみたいのは、平気で皆殺しにできる人間と、命を欠けて守ろうとする同胞との線引きはどこか?ということです。


つまり、どこまでを人間=自分の仲間と認識できるのか?という問いです。

リチャード ローティ, Richard Rorty, 小沢 照彦
アメリカ未完のプロジェクト―20世紀アメリカにおける左翼思想

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■「われわれ」の範囲の拡大



これって、世界中の左翼やリベラリストにとって、最も重要な問いだ、とローティーは云っています。
つまりね、リベラリズムの本義って、

交換可能性


なんですよね。つまり、たとえば、僕と君が入れ替わっても、べつにいいよ?ということ。たとえば、アフリカで飢えて死ぬ子供がいたとする。はい、その人と、立場を入れ替わって死んでください、といわれたとします。そこで、イヤだ!と思うならば(普通思うと思ういますが)それは、不公平なんですよ。イヤなこと強制されている人がこの世界にいるわけですから。


もし、不公平だと思うならば、それを正さなければならない、と考えるのがリベラリズムの初歩です。


ところがね、とっても難しいのですが、そもそもたいていの人は、意識、、無意識に、自分の身のまわり、やっと拡大しても同じ民族や国民以外は、「同じ人間だと思っていないんです」

そもそも同じ人間でないならば、、、、、別に、そいつが死のうが不公平だろうが、どうでもいいでしょう?。僕ら日本人やアメリカ人が、世界に対して鈍感なのも、逆云えば、他の世界の人を『同じ人間だ』ととらえる想像力が欠如しているからです。



実際には、同じ国の中でも、この人間の定義は、かなり狭いもんなんです。


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この「だれを、どこまでを人間としてとらえるのか?」というローティーの思考実験は、そもそもは英米系の思想家から来ていて、


たぶん元祖は、アダム・スミスの道徳感情論によける「共感能力」に由来します。


アダムスミスが、マーケットを自由に任せると、実は平気で騙しあいや殺し合いが起きるのだけれども、共感能力を持った人間同士がゲームに参加するのであれば、これは回避でき、神の見えざる手が働きオプティマルアロケーション(最適配分)が達成され、みんなが幸せになる適性資源配分が行われる、と説きました。


この共感能力を持ったもの同士、がすなわち、お互いを人間だと感じている、ということです。

アダム スミス, Adam Smith, 水田 洋
道徳感情論〈上〉


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まとめると、人間の定義というのは、限りなく狭い。基本的には、面識圏や血族を超えることはありません。仮に上手く国家(血族共同体を超える正しさを樹立した地域)を成立させて、国民化洗脳作業を100年くらい続けると、一応、国民とか同じ民族とかいうフィクションでも同胞感覚を少し持てるようになります。が、それもモザイク状で、基本的に、凄く狭い。


言い換えれば、「どこまでを人間とするか?」という線引きは、恣意性・・・・適当なのです。


それがなぜ、そのような線として引かれているかは、事実性の積み上げ(=歴史の偶然)であって、なんら根拠がありません。



では、次に来る問いはわかりますよね。


リベラリズムは、不公平を許しません。不公平をなくす社会的力を作り出すには、そもそも「相手を人間だ」と認識しなければ、生まれません。


だから、この「われわれ=人間」という共感できる対象を、少しでも広げることが、リベラリズムの本義になるのです。ローティーの議論の骨子って、多分、こうなんじゃないかなぁ???、、、と思うのですが、、、、僕は、まじでただ読みかじりのなんちゃって君なので、間違っている!とかイジメないでくださいね(笑)。

ようは、僕はこの論理的流れは、よくわかります。


人間だと思わないから、人間だと思わせよう。けれど、どうやって???


社会改良を望む人々の根本命題です。


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■人間として認識されるための具体的な方法は?


これはね、歴史偶然が多くて、よくわからないのです。


一番ポピュラーで定式化・理論化されているのは、アメリカが一番いい例ですが、戦争に参加することです。祖国防衛のため・・・・共同体の防衛のために、戦士として命を書けた人間『のみ』が真の市民権を、法律的にも、道義的にも得ることができます。


これは、ギリシャのポリスで発明されたルールですが、実際には、人類史の常識ですねー。徴兵を経ない人間は、人間として認めないのが人類社会数千年の常識です。


それ以外は???


実は思いつかない(笑)

たとえば、国民化の作業のために、徹底してフィクションを洗脳するというのもありますね。
とにかく、はっきりしていない事実性の積み上げなんで、よくわからんのです。


リチャードローティーという人は、だから、大事なのは


「感情教育」


だといっています。ようは、少しでも『人間=われわれ』のラインを広げる教育です。頭ではなく、心と体が理解できるレベルで。



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■仲間以外は、ゴミ同然


・・・・・・・・・・・・・あまりに前置きが長すぎて、ハンター批評じゃねーな(笑)。


けど、ハンターハンターの素晴らしさを語るには・・・・・・いや、富樫さんの作品の本質を語るには、これを説明しないと、だめなんですよ~(笑)。


上記の「われわれ=人間」の定義を少しでも広げることが、世界にとって根本命題で、かつそれは難しい。というのを、前提として読んでください。



前回のハンターの書評で、僕は、


主人公ゴンのボマーノブナガ(幻影旅団)に対する問いかけに注目しました。


ボマーたちは、2年間一緒にグリードアイランドを攻略しようとしてきた仲間を(当初の予定とはいえ)100人単位で冷酷に皆殺しにしました。この辺は、富樫さんの残酷さは容赦がない。ほとんど倫理規制飛び越えている描写ばかり。


凄いですよね、笑いながら、平気で2年一緒の飯を食った人々を皆殺しにできるんですよ。

・・・・・・ところが、です。

このボマー(3人組)があることで追い詰められて、


リスキーダイスというグリードアイランドの世界(死んだら本当に死んじゃうリアルなRPG)でのアイテムで、凄い幸運が訪れるけど、何十回に一回に、その不運がすべて自分に来て死んじゃうかもしれないサイコロがあるんですが、、、



これを仲間のうち二人が、どうしても振らなきゃいけない状況になるんです。・・・・そのとき、リーダー格のゲンスルーは、だまってサイコロを理由もなく振るんです。

*********

ゲンスルー「ダイスよこせ」


ボマー二人「!? おい 何するんだゲン!?」


ゲンスルー「これは いつも言っているだろ ヤバイ橋を渡る時は3人一緒だ」




*********


冨樫 義博
ハンター×ハンター (No.18)

それは、この3人の仲間のためならば、いつでも命を賭ける、という無言の信頼です。




・・・・・なんて男らしいんだ!!、ゲンスルーって、僕はうなりましたよ。カッコいいもん。


でも、ここで読者は悩むんですよ・・・・・・
これほどの男義、これほどの深い信頼を他人に預けられる本物の男が、、、、人間が、、、なぜ、その他の人々をまるでゴミのように捨てるように平気で皆殺しにできるのだろう。


わかりますか?



ゲンスルーにとっては、残りの友人二人のみが人間として認識されていて、その他の人々は「人間」として認識されていないんですよ。


それも、凄まじく見事に、分裂して。


普通はもう少し曖昧なんですが、幻影旅団もそうですが、完璧に分裂したモノが同居しています。


この仲間のために命を賭けられるや優しさ・信頼と同時に、人間と認識しない相手に対しては、虫けら同然に殺戮できるのが、人間というものの凄みなんです。


通常の物語は、善と悪を、そこまで同居させたり超えてしまった人格は描きません。



理由は単純で、読者が理解できなくなるからです。






それと、殺人とか他の人間の行為を妨げるとか言う行為・・・・ようは悪といわれる行為を、『悪いこと』として否定的にしかとらえられない、甘い、現実が理解できていない、子供じみた人間が多いからです。


本来は、行為に、善悪の基準はありません。


単純にいえば、正義のために為す、悪というのもあるわけです。このへの物事の価値の両義性を、自らの主体的な意思で、価値判断できうる「知性」とは、いわゆる知的アリストクラートであり、たいていの消費者は、この層には入っていません。



だから、マスマーケットを相手にするときは、低レベルの物語の構造・ドラマツゥルギーならば、善悪に分けたほうが、わかるいやすく、圧倒的に売れ、支持されやすいのです。


もちろん、真のホンモノは、それでも、そういった制約を飛び越えて、マスに愛されるという幸運ある場合もあるかもしれないですが、難しいですねー(笑)。



だから、普通の善悪二元論 にしかキャラクターや世界観を書き分けられない凡百の物語作家は、ここまで意識的に、善と悪を同じキャラクターの中に同時平行的には存在させることができません。
http://ameblo.jp/petronius/entry-10007083166.html



この少年ジャンプの友情・努力・勝利というようなシステムで、スーパーマスマーケットを相手にしていながら、しかもエンターテイメントで、ここまでこの善と悪を、同一人格の中に、高いレベルで同居させてしまう富樫さんという人は、天才としかいいようがない、と僕は思います。
物語作家としてだけではなく、それを編集に認めさせてしまう立場の構築の政治力も含めて。
ちなみに、こういう政治力ゼロで自滅したのが、バスタードの萩原一至さんですね(笑)。


・・・・・・・しかも、歴史的傑作『デビルマン』のように、一瞬ずばっと絶頂に至るのではなく、ゴンやキルアの日常の中に、平然と、継続して、この善悪の彼岸の感覚が、普通の登場人物たちの中に同居し続けるのです。凄いですよ。
逆にいうとこのイメージを、支持する子供がいるというのも、日本の社会がとても成熟しているのか、子供が相当ニヒリズムに陥っているのか、かなり微妙な気はしますが。・・・まぁ、日本のマンガ市場の消費者が、いかに成熟しているか、という証左でもあると思います。
(このへんの、なんでこういう物語が生まれてきたのかの背景も今後の考えているので記事にあげたいとおもいます。

ちなみに、18巻「邂逅」p104のゴレイヌとの会話も、このテーマを、富樫さんが非常に深く受け止めていることを感じさせます。

その他、幻影旅団の団長のセリフや、流星街の伏線も、この辺りの深みをプンプン感じます。


この同じ人間のなかに、「仲間」「仲間でない人」という区別が強烈にあり




「仲間でない人」に対してどこまでも冷酷になれるという人間の本質

を、何度も何度も反復して富樫さんは描いています。『幽遊白書』から全作品に刻印されているテーマです。

そして、この『冷酷になれる』というのは、言葉で書くとこれだけですが、富樫さんの描写は凄まじいほどで徹底しています。ありとあらゆる残虐行為を、大前提としており、『幽遊白書』では、その全世界の罪を許されず世界を滅ぼそうとした大悪党が出てきましたが・・・・・彼は、あまりに純粋で本気の善であったが『ために』、人類を滅ぼそうと、人類の罪を寄る瀬ないと決意します。

・・・・・・わかります?

これって、キリスト教の原罪のことなんですよ。

いや、別に仏教でも同じことをいっているので、専売特許とはいいませんが、人類いはその存在自体に『罪』がセット・プログラムされている・・・・・だから、神に滅ぼされるだけの理由がある、というハルマゲドン的な発想ですね。

おっと、終末的黙示録にまでいくのは、少し話が飛躍しました。

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■タコが叫ぶ・・・・仲間は裏切れねぇ


えっとね、富樫さんのテーマの根本には、幽遊白書の最後のテーマがくすぶっていて、これって、人類の原罪を認めるかどうか?ということなんです。

この平気で他者に、冷酷な仕打ちをできる人間という存在を、、、、この世界に存在させることは、本当にいいことなのか?という問いです。

答えは、NOです。

それほど、人類が行ってきた、人間の、いま行っている行為は、腐っている。

別に、虐殺、テロ、拷問・・・・・・ちょっとニュース見ただけで、神様が世界を滅ぼすのに十分不足ない罪にみちています。表に出ていないものを考えれば・・・・。

そういった、腐った人類・・・・という大前提の中で、

それでも日常は、世界は続いていきます。

この23巻では、

タコとキルアの話、

カメレオンとゴンの会話、

キメラアントの王の人間一人の可能性への価値の気づきの話

は、その前提の中で、何を作者は伝えたいと考えているのでしょうか?。

それは、デビルマンの

「シレーヌ・・・血まみれでもお前は美しい」







という「あの」テーマです。

それは、どんな異形でも、怪物でも、内面がある限り、それは、「人間なるもの」なのだ、という宣言なのです。

キルアの相手のキメラアントのタコもどき・・・・・・これまで、ただ殺すだけの相手であったバイオハザードの排除すべき異物が、脅された時に、

仲間は裏切れねぇ、

と、自ら死のうとします。その高潔さにうたれてキルアは、彼を殺せませんでした。

出会い方が違えば、友達(ダチ)になれたかもしれない・・・、と。

怪物ですよ?、、、それもいま殺しあっていた、化け物。。。

けど、その思いにうたれて、タコもどきは、仲間を裏切って、キルアを助け出そうとします。

これはね、、、、、結局、どんな化け物であろうが、理解できない殺戮行為をするような怪物、妖怪、異形の思考であろうが、、、、状況、出会い、さまざまな経緯によっては、理解しあえる、下手すれば愛し合える、というメッセージなのです。

異性人・・・・富樫さんの作品には、まったく理解できない思考をする異性人がよく出てきていて、その『理解しあえなさの壁』が、かなりデカイ。

たとえば、『レベルE』では、愛する女の子を、食べてしまう(交尾のため)という性癖を持つ異性人の少年が、自分の好きな子を食べてしまい気が狂うという話がありました。




冨樫 義博
レベルE (Vol.1)



ただ地球に長く住んでいるその少年は、その非人道的な行為と自らの衝動で、悩みぬいていました。

・・・・・・・こうした、まず通常の常識では、理解しあえないような壁を設けておき、それでも、それを、その異質さを乗り越えようとする意思が、常に、富樫さんの作品にはあります。

ゴンが主人公でありながら、あんがい、善悪に無頓着なダイヤの原石と周りから評されるのは、そういった『異質としか言いようのないもの』を全身全霊で理解し、それが現在の法律や常識や、周りの人間をきづつけることであっても、認めてしまいかねない、純粋さを持つというキャラクターの人格描写の余地を残すためです。

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■SFに託された認識の拡大

さて、、、、僕は、アメリカの映画産業が、教育装置の役割を果たしている、と常々主張してきたのですが、、、、、ようはね、

ローティーのいう感情教育

で、最高に素晴らしい教育システムは、物語であり、最高のエンターテイメントなんだ!って思っているのですよ。もともと大衆性のある小説メディアや映画は、大衆への内面化作業に凄く利したというのは、学説としてはかなり有力ですからね。

考えてみてください、SFやマンガや映画で、

理解できないような異性人や怪物

デビルマンの怪物の愛に涙し、

キメラアントのタコの男気に惚れこみ、

人間を数万人が虐殺する殺人アリの王が一人の人間の価値を知る心の過程に

どっぷり感情移入すること、この腐った、仲間と認識したモノ以外は平気で殺しあえる人類という生物が、

もしかしたら、それを超えて、相手を理解できるかもしれない・・・・・

いやすべきだと、、、

と物語にはまるとき、その時、それを読み、感情移入している読者は、

堅牢な自我の狭量な『われわれ』からほんの少し抜け出し、

殺人アリの王やシレーヌや、タコもどきの怪物の心に感情移入し、「自分もそうありえたかもしれない」他の存在への想像力を学ぶのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これこそが、偉大な真の物語であり、徹底的な異質を排除する、殺しまくる人類の本質の中で、、、、

それでも、他者の心を理解しよう愛そうと、他者への想像力を要求する物語。

このような物語をして、偉大と、僕は評します。

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■感情移入という物語の機能に対する疑問符





これ、後からコメントで「読め!」ということで、読んだのですが、非常に重要な問いかけですね。感情移入をするときとしない時の差がある。

その差はどこから来るのか?という問いです。

これは、次のテーマで宿題にしたいと思います。ご紹介ありがとうございました。

感情が摩滅していれば・・・・なんの役にも立たないのだろなぁ。

■『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!  この人を見よ!

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225






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