『最終兵器彼女』 高橋しん著/コンセプチュアルな表現
テーマ:書評 少年マンガ「私を・・・・殺して・・・・・ください」
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追記を入れました1/30
昨日久しぶりに読み返して、ぐっと涙が出た。この作品は、本当にアイディア一発勝負で凄いインパクトを持った作品だった。そして、このシュチュエーションや物語の構造は、たぶん、消費者側だけでなくクリエイターの側にも強いインパクトを与えた画期的な作品であった、と思う。
■人間のモチヴェーションが描けない作家
僕はそもそも、高橋しんさんという作家は、ほとんどキャラクターのモチヴェーションが描けない作家だと思っている。
キャラクターが、あまりに薄く、意見がなさ過ぎて、物語が全然動かないのだ。大ヒット作だった「いいひと」も、最後の最後まで、主人公のモチヴェーションが、何によって駆動しているのかがわからなかった。
こういう主人公の人格が描けない物語は、最低なものが多い。
しかしながら、高橋しんの作品は、これがけっこう面白いのだ。
実は、『いいひと』を読んでいて、これがとても不思議であった。僕のような人格の暗い情念を追及する姿勢が大好きな読者が、なぜに、こんなスカスカな人格で、はいりこめるのだろうか?、と。
そのことが強く印象づけられたのは、最新作『きみのカケラ』だ。これは、途中で週刊サンデーで多分人気がなく打ち切られた?作品なのだが、この1巻は興奮した。
僕には、久々に画期的なファンタジー・・・とりわけ、世界が何者かによって作られたことを告発する終末感覚のファンタジー仕立てで、高橋しんさんは世界設計が良くできている人なので、とても楽しみにしていた。
が、打ち切られた・・・・・・。しかし、それは、よくわかった。世界観・・・・物語の背後に設計されている舞台設定の強大なエネルギーに比較して、人物のモチヴェーションが弱すぎるのだ。
さっき、僕は猫山宮緒さんの『フライングドラゴン』の書評 を書いたが、彼女は、まったく逆で、人間のモチヴェーションが見事に描けるが、舞台設定が弱くて作品が、マスターピースまで到達しない、と批評した。高橋しんさんは、まったく逆なのだ。
人物のモチヴェーションが弱いってどういうことか?
これは、『いいひと』というほぼデヴュー作の作品が典型なのだが、まさに主人公がいい人なんですよ(笑)。浜崎あゆみの歌詞ではないが、
いいひととは、基本的に、『どうでもいい人』なんです(笑)
なぜならば、自分の意見がない、自分から世界の価値をリードしない姿勢からです。価値観をはっきりさせる行為は、ある意味悪なんです。なぜならば、それは、どうしても他の価値を粉砕する絶対性を帯びるからです。何もいわなければ、それは確かに、善です(笑)。
この作品、『いいひと』の主人公は、靴メーカーライテックスの社員として、様々なトラブルを起こしますが、僕には、この主人公が、なぜ、そんなに社会の価値や秩序ヒエラルキーに逆らってまで、強い主張をしたいのかが理解できませんでした。
いや、ビジネスマンの僕から見ても、素晴らしく真摯で、情熱的で、価値のある問いばかりです。メーカーのものづくりに対する姿勢、働くことの意義など、もう素晴らしいんです。テーマは。
しかし、そういう社会の利権や秩序に逆らうのは、ただ単に「いいこと」だけでは、できません。様々な利害関係による強烈な圧迫やプレッシャーをはねのけるには、
なんらかの実存的な目的
がなければ、人は動かないと思うのです。
たとえば、わかりやすいには、復讐とか。親を殺されたとか、実はその大会社のオーナーの隠し子だったとか(実はこの設定あったのではないか・・・とにおわす設定が『いいひと』にはありましたが・・・結局出てきませんでした)。こういう主人公の実存的なドロドロしたものを描かないと、なぜ、その個人が、主人公が、物語をリードし駆動させるほどのエネルギーを持ちえるのでしょうか?。
基本的に、僕はこの高橋しんという人は、
まったく人間に、人間存在自身には興味がない人なのではないか?、と疑っています。
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■世界の残酷さを余りに見事に描ききった
さて、最終兵器彼女に戻ります。
高橋しんという作家は、人間が描けません。だから、あれほど面白い設定をつくった『きみのカケラ』がどうしてもいま一歩なのです。
が、、、同じくやっぱりまったく人間が描けていないにもかかわらず、この『最終兵器彼女』はその欠点と、一気に飛び越えています。
なぜだろう?って思ってました。
やはり、僕はこのキャラたちには、まったく感情移入できません。あまりに小市民だし、実存的な魂の本質まで遡らないキャラクター造形には、僕は興味がない。
けど、凄いインパクトなんです。
ましてや、僕は、世界の設計が好きな人なので、個人と同時に全体・・・・・つまり、政治経済や文化的背景をもキチット説明してほしく、そういう世界観の設計や説明のない作品は、強烈に軽蔑していまうくせがあるのにもかかわらず、
このまったく戦争の理由も背景も説明しない作品に、強烈に感情を揺さぶられました。
実は、これらはすべて作者の設計なのだと思うのです。
つまり、描く価値もないほどの小市民で、無力で、無価値な主人公を設定し、
その主人公達と世界を結びつける、政治経済のニュースや背景説明を一切遮断し、
戦争という悲劇を、いっさいの背景説明なしに、暴力だけで描ききる。
その暴力と小市民の名もなきキャラがストレートに結びついた時に、凄まじいリアル感がくるのです。あざとくうはありますが。。。
まぁ、絵柄の好みもあるし、極端な世界なので、好き嫌いはあるでしょうが、このリアル観は相当広範囲に共有されたと思います。アニメ化や実写化やその他の盛り上がりから見て、間違いない。
時代にも合っていたのだとも思います。いまの時代は、世界のあまりの複雑さ、情報量の多さに苦しくなった消費者が、選択をやめ、信じるものを失った時代です。信じるものを失うと、人は、理性よりも、肉体感覚に回帰します。この等身大の感覚を信じるという傾向と、暴力と個人的な体験を中間媒体ナシにストレートに結びつけるという手法は、見事でした。
ビデオメーカー最終兵器彼女 Vol.5
ちなみに、高橋しんさんが人間をこバカにしていると思うのは、『君のカケラ』も『最終兵器彼女』も、すべての作品で連載で人気が落ちてくると、異様に女の子の裸のシーンが増えます。それもあざとく、ロリコンж1)。作者の趣味もあると思うのですが、僕はこれが結構むかつく。
ネギまなどの、そもそも裸のシーンが作法になっている作品ならいざ知らず、もともとそういう志向がない作品で、「これをだしときゃ読者の食いつきがいいぜー」みたいな、、、、態度は、なんかなめている。そして、そうするとたいてい人気が長持ちする(笑)というのも、なんだかなー(笑)。
けどね、これだけハートフルな作品が多い中で、小さなテクニックの部分が、とても人をバカにしている。
・・・・・・・・・・ああっ、これって確信犯なんだ。
と、最近思うようになりました。
『最終兵器彼女』は、コンセプトだけで成立している・・・・・抽象的な概念と舞台設定の構造だけで、マスターピースとなりえている作品です。
つまり、高橋しんさんというのは、
コンセプチャルアート的な抽象の次元での目的や舞台設定の方にこそ興味がある人
で、
世界の再現には一切興味がない人
なんだ、ということです。
極論ですが、これが僕の高橋しん論ですね。
■追記-------------------------------------
・・・えっと、昨日のアメブロで見れる訪問者数が、4000人ちかく・・・。僕のブログは、常時200人ほどの常連さんで成り立っていると認識していたので、たまげました(笑)。なんで??。なんでなんだ??。どこかニュースサイトにでも、掲載されたのかな?。もし知っている人が、いたら教えてください!。
あと、初めてのコメントをしてくださった方々が、実に、いいツッコミを入れていただいたので、その部分いついて追記します。
■女性の肉体的表現と性についての取り扱い
ж1)ロリ的な裸は、ヲタの人気取りか?
実は、この部分の評価を書こうかどううか、迷ったのです。多分反発来るだろうし、少し説明不足だったので、誤解を生むかな?と思ったので。そしたら、下記のコメントで、かなり見事なツボをついたコメントが、「むぎちゃ」さんという方からあり、これは追記せねば、と思いました。とても素晴らしいコメントだったので、引用させてください。(←あっ、迷惑ならば、ご連絡願います。消しますので。)
実は、上記では書かなかったのだが、高橋しんという人が書く女性の裸が「日本人の体型に合った」リアルに近い造形をしているのは、たぶん有名な話だと思います。
これは、
ヲタク的表現万歳でなければ、
西洋人的そんな等身いやしねーよ的ボディ
が中心の日本の裸に関する造形の世界で、とても革命的なことだと思います。というのは、極めて暴力的極端に括ってしまえば
ヲタクマンガはは、ようはマザーコンプレックスの反映ですし、
広告や女性誌などに溢れる西洋人的な等身のボディは、西洋コンプレックスの反映で、
どちらも現実の日本人の胴長短足(笑)の現実を、無視した『理想の造形』なんですね。それに対して、より造形的にリアルに近い方向へ、表現をシフトした高橋しんさんは、なかなかのものなのです。
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そして、
性的表現は「彼女が最終兵器なってしまったカップルの物語」としては当然直面する問題
という、むぎちゃさんの指摘は、まさにその通り。この作品の最大の魅力を、僕は、戦争というマクロの暴力と等身大の感覚を、中間媒体ナシでストレートに結びつけたことにある、と主張しました。等身大というのは、肉感の部分で、そのものストレートでいえばセックスのことです。だから、むぎちゃさんの指摘どおり、この作品の最大の魅力が、性的表現となるのは、まさにその通りなのです。
だから、ふゆみ先輩とテツ二尉が登場するのです。
引き裂かれて会えない主人公のちせとシュウちゃんの二人に対して、会えないときの代償として、そして、二人が喪失しているぬくもりをより強く際立たせる設計として。ふゆみ先輩とテツ二尉のカップル自体もまったく同じ機能をしています。戦争という暴力の悲劇が、お互いのぬくもりを感じられないことで表現されているのです。
さて、サイカノ(というんだねーはじめて知った)こと『最終兵器彼女』では、この肉体とSEX表現は、重要な本質論であって、しかも、それをちせのようにとても造形的に日本人に近く描いているのは、僕は、とても素晴らしいと思います。もちろん、これをヲタクの人気取り、とはいえません。
これを前提として、しかし、僕が上記で主張したのは、とくに「星のカケラ」についてなんです。あの作品には、風呂場や裸が出てくる論理的必然性が存在しません。
もちろん、高橋しんさんが、というよりは週刊誌のサンデーで落ちる人気を食い止めるために編集が強制した可能性も十分にあります(笑)。あきらかに人気が下がるのとシンクロしていたように、一読者の僕は感じました。
もともとコンセプチャルな舞台瀬設計を重視したい人だけに、その表現を、その文脈で『出す』意味について認識がないとは思えません。まぁ、商業誌ですから、当然にそれもアリだと思います。
が、そもそも巨乳が嫌いで、あえていうなら貧乳(笑)派の僕が、非常に不愉快に感じたのは、そういった文脈がなしに唐突に裸が出てくるからなんです。もともと造形がリアルなだけに、凄く嫌悪感を持ってしまいました。これは、裸というよりは、そもそも文脈に敏感なセカイ設計を重視する高橋しんという人が、あまりにわざとらしい挿入は、個人的に良くないぜ!って、思ったので、書きました。
つまりね、高橋しんほどの人が、軽々しく文脈抜きに、裸やエロを使用しないでほしいと思うのです。彼の作品の傾向からして、そういう文脈抜きのものは、目に余る。いいひともサイカノも、裸のシーンには、多少あざとさがないとは言わないが、本質的文脈がありましたらね。
ちなみに、僕が星のカケラで裸が気になったのは、他のブログで、ちせの裸ばかりのシーンに物凄い憤りを感じた人がたくさんいて、その記事を見ていたから、というのもあります。まぁ、万人に評価される表現というのはないものなのでしょうねぇ。
あっ、ちなみに、酷評しているようですが、★5つのマスターピースだと、僕は思っています。このサイカノという作品は、見事だもん。
・・・・・ちなみに、サイカノは、SEX表現が本質なんですよねー。そうすると、実写で、それが表現できるのかなぁ?。。。
- 高橋 しん
- 最終兵器彼女 (7)












>■ロリ的表現っていいますが
あのような体型の大人の女性は沢山存在しますよ。
むしろ他のマンガに出てくるようなナイスバディーの方が少ないのではないでしょうか?
それなのに、幼児体型=ロリコン=どうせヲタの人気取りだろ、みたいな単純な考えこそどうかと思いますが。
人間の根源的な欲求として、異性の裸への憧れ、みたいなものは当然あると思いますし、それで人気に拍車がかかるのももちろんですが、性的表現は「彼女が最終兵器なってしまったカップルの物語」としては当然直面する問題ですから、話の後半のメインとして出てきて当然ではないかと思いますが。
それを「ヲタの人気取り」というのはあまりな言い分だと思います。