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政治家と知性/千の天使がバスケットボールする
http://konstanze466.jugem.jp/?eid=70


樹衣子さんに触発されて、いろいろ書いてしまった。途中は樹衣子さんの記事とはあまり関係ない話にそれてしまったが。。。最近こういうことを書いていなかったし、この前にitoyuさんやエイブさん、いずみのさんとこれからのアジアの安全保障の問題についてオフ会で話していた時に、いろいろ思うところがあったので、メモも込めて書いていみます。この辺は、本当に勉強していないので、直観になってしまうので、いろいろ意見をもらえたら嬉しいです。


>世間一般の国民は、「美しい国」の美しさよりも、マクロな経済、外交問題よりも、政治家の政治資金のでたらめさに対する怒りも含めて、自分の将来の生活基盤の確保の方がより切実だったのではないだろうか。
(中略)
私個人としては、最近最も関心の深い「格差社会」をキーワードに投票してきたのだが。



手あかにまみれたセリフですが、大衆はバカです。僕もそう思う。はっきり言って、日本社会の100年の計を考えるならば、格差社会と小泉改革路線は、正当だし一つの明確な正しさだ(それだけが真実とは言わないが、現実性のある選択肢としてはそれに代わる代案は、いまのところ日本にはないと思うのだが・・・。代案がない場合は、現実性が最優先だ。)。たしかに、その手法や瑣末な問題…また改革をやりきれていない苛烈さの甘さなど、いろいろ問題が残る政権であったのですが、その指し示す志と国家戦略は、明確だったと思っている(感覚的にではあるが)。


一つは、モチヴェーション(動機)のサルベーション(救済)。


宗教政党が与党に深く食い込む日本社会は、宗教のいう形を持たないが、強い結果の平等志向が根源的に根付いた民族であると思う。その事細かな立法の方向性を見るまでもなく、また歴史的に華族制度(貴族による寡頭政治)や大土地所有者制度が根付かなかったことを考えると、日本には階級は成立しない。


しょせんあって「格差」だ。


階層の差は、どこの社会でもある。スタートラインの平等というリベラリズムの本義に照らせば、階層の大きな差は、あった方が良い!。絶対に。なぜならば、階層の大きな差は、「動機」・・・・・負けないぞ、こんちくしょう!という生への肯定を生み出すからだ。過度の無駄な平等は、人の心を腐らす。日本の教育問題の根本は簡単だ。生きる動機がないからだ。生きる動機は、貧富の差などの「差」でしか生まれない。少なくとも、大衆的にマクロで言えば、それは、当然の帰結だ。


そこで問題になるのは、二つ。


階層の差が、階級の差に転じないこと(=固定化されないこと)・・・・言い換えれば、地位の流動性が保証されていること(=資産の量で売官できないということ)と、ボトムラインの最底辺の生活がどのように維持されるか…ということだ。


ちなみに日本のような資産も経済成長もあり、階級がない社会で、プアワーキングの問題を論じるのは無駄だ(はいいすぎか・・・・)。重要なのは、年収200万円以下で、幸せに生きていくだけのセイフティブランケットがあるかどうかに過ぎない。そして、日本社会は、それを作るのはさほど難しくないと僕は思う。


ただ、、、唯一考えなければいけないのは、最低限のレベルの生活の保障は、共産国家の失敗・・・・人々の上昇志向と経済再生産への動機を失わせるということだ。ただ単に保証するだけではだめだ。為政者、統治者としては、国民が安楽にできるように国家システムを設計してはダメだ。国家100年の戦略を考えるならば。



たしかに幸せとは何か?の答えが多様に持てるのが、豊かな成熟国家だ。



しかし、人々をある程度は、経済的不幸に追い詰めていないと、国家としての豊かさや国民全ての幸せを担保する「富み獲得の国際競争力」を失わせるのではないか?。なぜならば、僕らはイノヴェーション(=差異化)を価値とする晩期資本主義社会に生きているからだ。生産性の向上なくして、人類の未来はない。人類の一員としての民族、国家として、ただ単に家にこもって幸せになることは許されないと僕は思う。まぁかといって、あまり馬車馬のように働かせられておかしくなるのもう嫌だが。それは、地球という同じ船に生きる者の義務だ。ましてや、先進国の国々には人るの未来を先導し、そのために自ら刻苦を受ける使命がある。これだけ楽な生活をして富を独占しているのだから。


・・・・要はバランスだろうね。


さて、、、、そういう意味では、日本は財政的にかなり破綻に近付いている。これは未来を食いつぶす行為だ。この為には、今痛みを伴う外科手術はしかたがない。それは、ここ数10年日本人が甘えた結果なのだから。その意味で、「小泉政権のゆがみ・・・」とかい表現をするマスコミは、僕はさっぱり理解できない。経済的には、あれでもぬるいぐらいだ。こういうことは、ストックに余裕があるうちに決断しないと、船自体が一気に沈むのだ。


つーか、弱肉強食の経済戦争の厳しさを、わからんわけ?


いまは、経済で、統治しないで弱い国を植民地化するのが、強い国の目指すべき方向で、世界中が狙い狙われているんだぜ。そういう「現実」に目を背けるのは、僕は理解できない。理想論で、生存はかなわない。現実に打開策のある案を出してほしい。そうでなければ、口先だけではなく、何かの価値にコミットしてNGOでもなんでも組織を作って世界の変革に加担すべきだ。


もし、竹中元大臣がいうような経済成長率3~5%ぐらいの成長を日本が目指さない…つまり、国際的競争力を失った上、人口が衰退する国になることを志向するというのならば、いったいその国家体制にどんな理想やあるべき姿があるのか提示してほしいなぁ。


竹中本大臣が中心に担った小泉政権の国家戦略のもう一つの置きな柱は、持続可能な経済成長を維持するための、日本の無能な金融制度(資金のファイナンスの問題)へのメスだ。大きく言えば、日本の郵貯などの金融資産を、市場圧力にさらされないで浪費される「入口」と「出口」の破棄だ。入口は、郵貯や年金だ。出口は、共産主義と見まがう公務員や外郭団体の多さや賃金の高さの削減だ。安倍首相の公務員の改革もこの政策の継承にすぎない。たしかにこの大きな金融制度改革の哲学として、アングロサクソン的な監視国家や、公正な競争という、ある意味、日本社会に馴染みにくい原理を導入した竹中改革は、いまいち…とは思う。しかしそれは手段・方策の次元の問題。


戦略の課題としては、正しい。非効率な金融資産の「出口」と「入口」を潰し、旧経世会的な土建型ケインズ国家の解体だ。そして、正しい競争が回ることによって日本の50年の国家体制の基盤を安定させる。日本が成長を望む限り、これ以外の選択肢はない。日本の問題は、これほどの金融資産がある富める国であるにもかかわらず、市場にさらされない無能な公務員がたくさんいすぎること(銀行含む)ことなど、保護経済のベールが熱すぎることだ。この非効率な部分に市場原理を導入して、日本の資源投入の配分を、大きく舵を切ること。


そして持続的な成長・・・・保護されているものが甘えるのではなく、戦うものが価値を得ることのできる公正な社会の実現。


そのパワーシフトのさなかで起きる「切り捨てられる弱者」の問題がクローズアップされるのはわかる。しかし、保護されたものがぬくぬくと生きることによって、実は、未来の弱者や未来の挑戦者たちの大事なリソースが、奪われ続けていることに対してなぜ倫理的告発がされないのか?。目の前の苦しんでいる人だけが、弱きものではない。目には見えないが、そんな弱いものが、これからも継続して生まれない社会の実現というものが望まれるのは間違っているんのだろうか?。


しかもはっきりいって、日本の平等は、日本が馬車馬のように経済成長(最低限数パーセント)をしているという、資本主義が回っているという前提があってこそ成り立つ幻想のようにはかないものだ。そのために受験戦争とか競争が必要というのならば、それは必要なんだよ、何をいっても。必要悪という言葉はマイナスのニュアンスだが、大多数の幸せを担保する制度は、悪なのだろうか?。切り捨てはいけない?、ではそれはセイフティブランケットや制度の修正レベルの話にすぎないのではないか?。


馬車馬のように働きアリを続けるこの制度を、設計し維持してきたこの近代200年の日本人は偉いと思うよ。それが正しかったとかの評価ではなく、単純に凄い。なぜなら地球全部見まわしても、そんな国はほとんどないからだし。1930~45までのほんの10数年を除けば、ほぼ戦争がない上に、国土を戦乱で崩壊させたり、内戦で苦しんだ経験もない。こんな凄いのは、資源もない国で、馬鹿みたいに馬車馬のように働いて子供に教育して頑張る国民がいっぱいいたからだ。


日本人の世界のイメージは、勤勉。


単純だ、なにも資源ももたいないアジア土民が、世界すべてともいえる欧米パワーズに対して独立を維持して幸せになるためには、行動様式(=エートス)として、それ以外ないからだ。そして、それをそこに住むほぼすべての人々に、ウソでも信じ込ませて、成長に駆り立てる(=モチヴェートする)仕組みをつくって、それに従った先達に感謝ですよ。つーか、偉いと思う。ある意味、それは個を捨てる行為だからねー。それと比較すると、今の時代はなんと恵まれていることか。こんなに戦略的駒がたくさんある。資産(=資本ね)すらあるんだぜ!。しかも、素晴らしい世界に通じる組織をいくつも持っている。


それ以外の、オルタナティヴ(代替選択肢)を明確なイメージと持って戦略的に提示しなければ、意味ないじゃん。ちなみに民主党と自民党に差がないと僕がよくいうのは、民主党が政権政党になったとしても、結局は、政策を現実的に考えるといまの安倍さんや小泉さんと全く変わらない政策をするってこと。


だって、現実的な代替選択肢がないんだもの。政策で口当たりがいいことを言うのは、所詮資源配分を、都市層にするか、農村にするかという旧自民党の田中・金丸派の政策からの支持基盤のシフトにすぎない。そんなの本質的には意味がない。日本の人口動態の大都市圏へのシフトを考えれば、もうそんなパワーシフトは当たり前。それを見事に動員できた小泉首相が天才だっただけ。基本的に、都市的弱者も農村的弱者も、切り捨てられるのは間違いないの。なぜならば、強い意思のない人々に資源を配分する余裕は、日本にはないのだから。


だから、それへの抵抗と代替案を探すとしたら、福沢諭吉先生と同じことを言おう。


国家に無駄な期待をする暇、愚痴る暇があれば、その時間分勉強(=学問)しろ!。


日本人が・・・・資産が、資源がないこの国が誇りある独立を、またそれを個人が得るためには、ただ一つの方法が、勉強して世界に通じる能力を身につけること、ただそれだけなんだよ。


なーんて(笑)。何もしていない僕がいうと、陳腐なので、福沢先生がいったと思ってください(苦笑)。


なんか、最近の年金問題もなにもかも、とっても僕には内向きの、、、国家の内部での資源配分の争いにしか見えない。本当に必要なのは、未来の新しい価値を、、、、人類にとって価値のある価値を生み出すことのできる国家戦略とは何か?って事なのに。


足元???


生活は確かに足元だ。しかし、足元の大地自体がなくなれば、そんな会話もできないんだと思うよ。これもバランスの問題だとは思うけれども。国家戦略と足元がうまくリンクするマクロ環境を作り出すことが、国家指導者の責務なんだもん。個人的にあまり安倍首相は、好きではないなーというのは、、、政策的には危なげなくなかなか頑張っているとは思うのだが、小泉首相時代のような大きな国家戦略の部分へ切り込む器の大きさを感じないのだ。別にやっていることはそんなに変わらないのだがね(笑)。


ちなみに、そういう「マクロの現実」を認識しないで、小手先のイメージに動かされる大衆と、それしか提示できないマスコミは、それそのまま、われわれ日本人の民度の低さなのだ。宮沢元首相でなくとも、マクロの次元が理解できる人は、日本ではピープル(=民衆)を信じるのは不可能だ。だって、近視眼的に馬鹿で、煽動されやすいんだもの。


>閑話休題。


「政治家に求められるのは、知性ではなくて、決断能力だってことと、責任をとるということ」


と述べられていたのが、この話題は率直におもしろい。政治家に知性は必要なのだろうか。そもそも知性や教養の定義も、この場合、なんとなくあいまいとしている。赤城農相の言動を見ていても、最高峰の大学出身のわりには、?と感じているのだから、知性とは学歴や出身大学だけで計れるものでもない。



あっちなみに、知性とか教養とかには二つある。


一つは、①「歴史的な長いスパンのマクロを透徹できる」視点


そして


もう一つは、②「小手先の事務を捌く能力」


どっちも大事だが、もちろん政治家に重要なのは、後藤新平ではないが、星のごとき夢物語を夢想する①の予言力だ。②は優秀な参謀や高級官僚に求められる能力のこと。ちなみに表現は下げて書いているが、最も実際的に有用なのは、②なんだけどね。国家レベルでこれを運営する事務処理能力はウルトラ凄い能力だよ。



そして、政治家にはもう一つ(いやこちらの方が重要だが)必要なことがある。


それは、「タフネスと嗅覚」だ。 


たとえ、知性がなくとも、タフネスと嗅覚がある人間には、「その時代の雰囲気やあるべき姿」に驀進していくパワーがある。人を導くということは、小賢しい知性だけではできない。知性をひれ伏すような野蛮さと、人を巻き込んで前へ進ませる蛮勇さを人々に感染させる狂気が必要だ。なぜならば、世界を、人を動かすということは、エネルギーがいることだからだ。羊の率いるオオカミの群れば、オオカミが率いる羊の群れに負けるという。ようは指導者が、決断して、、、物事を変化させて、人々の臆病な心に火をつけることができなければ、国が滅びてしまうのだ。


時に間違っていても、前へ進まなければならない時がある。たとえば、戦争が嫌いとか言っても、明治維新後の日本の狂ったような殖産興業と世界への挑戦がなければ、日本は間違いなく植民地だったろうね。どっちが良かったのだろうか?。どっちがいいとはいえないが、、、でも、当時の指導者も国民も、頭を下げるくらいなら泥沼に飛び込んだんだろうね。指導者とはそういうものだと思う。前へ進むとはそういうことだ。わけのわからない闇に一歩を踏み出す行為んなんだ。現実を生きることとは。僕は批判が大嫌い。精確に言うと批判のための批判。今の時点(=未来)から、過去の政策を断罪するのは簡単だ。けど、「その時、その場」で「限られあ丈情報とリソース」で結論を出してきた先達たちに、未来からぬくぬくと批判するのは失礼だ。何もかもそろえるのは不可能だ。そして、もし・・・・そういった暴走的な指導者を抑え込みたいのならば、それは、そういう制度と歴史を、、、国民が長い歴史で生活でつくっていくしかない。その努力をしていない人間の批判は、聞くに堪えない。


指導者は民度に比例するのだ。


それを忘れた批判は、滑稽だ。鏡に映った自分を馬鹿だと笑う行為だから。批判をする人にはいつもこう思う、、、、では「あなた」はいま何をしていますか?ってね。何か行動を起こして、起こし続けて10年以上ぐらい軽く努力してからなんかほざけ、と思う。



>結局ペトロニウスさまのように民度の低い社会に生きる日本人としては「市民的エリート(国家に対抗する存在としての中間共同体の消失という意味)が育たない」ままでいくしかないのか・・・、とぼやきたくなる。


いや、そうでしょう(笑)。まぁ中間共同体で、国家に相対する意思のある市民的エリートを作るのならば、一番正しいのは階級を作ること。イギリスではないが、ノブレスオブレージを身にまとう貴族を作るのが、一番正しい手段だ。それを拒否して平等に固執するのならば、どうしても貴族と検察にの先導する社会であることから逃れられない。民度は低いままだ。農村からのエリート主義を支えた旧帝国大学・旧制高校の学歴選抜システムも、大衆化してそのレベルが地に落ちた。50年代以降ね。宮沢元首相が、フルブライト経験の革新官僚の末裔だから、まだそのエートスと気概があったんだろうね。でも、数人のエリートがいてもだめなのだ。気概を持ったエリートが集団で切磋琢磨されないと、だめなんだよ。エリートは独走しやすいから、一人だと馬鹿になるんだ。


>政治家に知性が必要なのか、本当にかなり難しい問題である。逆に以前お話した記憶をたどると”知性”に頼らなくてもよい官僚と政治家、市民の理想的なシステムを構築した構図ができればよいのか。


「知性」は絶対必要だよ。為政者には。


>”知性”に頼らなくてもよい官僚と政治家、市民の理想的なシステム


それには、背後の仕組みを設計するシステムアーキテクチャーという新しいタイプのエリートが存在しなければ成り立たないと思います。そのエリートたちをどう育て、モチベーションと倫理的正しさをどう調達するか?というのが、たぶん今の世界の設計者の最も究極の悩みだと僕は思います。



>いずれしろ、民意は与党を拒否した。今ごろ気づくのが遅くないか、と思っているのだけれど。


うーん、そういう意味では、安倍さんって、やっぱボンボンだなーと思う。というか器が小さい。為政者は、そのへんのことをわかっていないと・・・。とは思うが、実際は、この選挙で自民党を大敗させて、安倍政権という小粒政権をつぶして、次の指導者が危機意識を煽り、衆院選でまた大勝するというのが、自民党のシナリオのような気がするけどねー。少なくとも、小泉さんの後継者争いのときは、そういう話が多かったが・・・。そう思うと、ただ単に民衆は手のひらで踊っているだけだなーとか。。。まーでも、そううまくいかないのが大衆民主主義社会なんだけれどもね。

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評価:★★★☆星3つ半

(僕的主観:★★★☆星3つ半)

『いちご100%』 河下水希著 その選択は正しかったのか?
http://ameblo.jp/petronius/entry-10015943386.html

井汲景太さんという方から、上記の記事についてのウルトラ熱いメールをいただいたので、本人の許可を取って、ブログに転載させていただきました。いやこれだけ精読していただき、反応を相手いただくと、感無量です。いくつかの僕が「ほんとうにいたいこと」をちりばめた部分の引用もあるので、いやーうれしくなってしまいます。読んでもらえているのだなーと感心。ちなみに基本的に「東城派」の方なので、とても気持ちがいいです(笑)。僕的にも。あまり、酷評するとつかさちゃんがかわいそうな気はするけれども、、、、、確かにメタ的にみると僕もひどい話だとは思います(ぼく東城さん派だし・・・)けれども、つかさちゃんとをひとりの人間としてとらえると、まーそういうこともあるわなーとは思うので、あまりにメタ的に否定するのはかわいそうな気はしますが。メタの視点とは、読者がいてその物語の落ちや教訓を引き出すという視点であって、、、、そもそも根拠なく、他人を好きになるのは、人間としては普通の行動でうから。・・・ただまーこのロジックはわかるなーと思います。基本的に、下記の文章は僕としては同感です。

>(1)自分を応援してくれて、はげみになる彼女

ちなみにこの部分を西野に重ねる僕の論は、おかしいというのが、貴兄の意見ですよね?。精確に言うと(というか忘れているので思いだせる限り思い出すと)、この意見は、真中(=男性読者の感情移入ポイント)からみた物語全体の骨格であって、司ちゃん自体がこれに寸分たがわず当たるとは思いません。もともとは、そういう脚本設計があったのだが、途中で逸脱したと考えるべきだと僕は思っています。

なぜならば、この作品は、読者の人気や編集者の意図が、強く物語の流れをゆがめている感じがします(感覚的にそう感じる)。だから、西野のこういう姿は、どちらかというと読者が望んだ姿ではないか、と僕は思います。そして、たぶん作者自身が、西野的な人格に対して、深い知見がなくて、内面が書ききれなかったというのが本当のところでしょう。東城さんの内面の構築に比較すると、あまりに薄すぎるのは、ようはああいうタイプの人間の内面や行動原理が、わからなかったので物語上設計できずに、市場の要求で動かしたという感じです。

>口先だけのセリフ

つかさちゃんの応援について、井汲さんは言います。けれども、はっきりいってこれは考えすぎだと思います。かわいい女の子の存在は、「そこにいるだけで」、男の子にとっては生きる意味になってしまうものだと僕は思います(笑)。だから、ここに背後の「意味」を求めるのは過剰な要求のしすぎだと僕は思います。いやマジな意見ですよ。女の子の存在は、男にとっているだけででいいのです(笑)。もう、そばにいてくれるだけで…いや下手すると、生きていてくれるだけでよかったりましますです。でもまーこれは、貴兄の「ほんとうにいいたいことの」の曲解ですけれどもね。ただ、僕は現実的には、男と女がくっつく90%は、動物的理由で、内面の理解が伴わないと思っているので、まーそんなもんじゃない?とは思ってしまうのです。

>ここで致命的とも言えるのは、真中がなぜ落ち込んでいたのかちゃんと知った上での励ましではなかったという点ですね。

この意見は、正しい。。。。が、個人的には、この意見は、神の視点から見た透徹すぎるきつい意見だと僕は感じます。それは、神の視点(物語の全体的視点)からメタ的に批判すれば、これはまぎれもなく正当な意見です。でも、では、僕はなどは、、、もし自分が高校生の女の子であったとして、そこまでできるだろうか?って感じます。それやー無理ですよ。東城の内的な真摯さが、とてつもないほんものの愛情なんであって、いやーふつーできないよこんなの。しかも、真中という相手の男自身も、「そもそも西野の内面に切り込んでいない」のだから、ここで告発すべきは、つかさんちゃんではなく、真中だと思います。そんなのたいてい男が悪いんです!(笑)。というか喧嘩両成敗ですよね。だから、、、ぼくは、真中にとって本物の関係は、東城でって、そもそもつかさちゃんではないと思うのです。それは、うわべだけの関係だから。

貴兄の西野への評価は、僕は、ほぼ100%正しいと思います。見事な解釈です。ただ、、、上記にも書きましたが、物語としては意味のない批判かもしれませんが、そもそも真中のあのヘタレぶり、中身のなさ、優柔不断こそ本当は告発されてしかるべきな気がするんですよね。永遠のナルシシズム的少年漫画としては、基本を外すのでできなかったのかもしれませんが。だって、つかさちゃんを非難するのならば、それを容認させてしかも選択してしまった真中こそ、最低だもん。

そう考えると、始めに引用したような「(1)と(2)の対立」というテーマでこのマンガの構造を読み解くことは適切ではない、というのが私の見解です。

最終的には、その通りで僕も同意します。本質的な意味では、(1)も(2)も東城さんがすべてになっているからであり、また同時に、東城さんにとっても真中の存在が応援であり、理解者なんですよね。ワンウェイではない。だからこれは、本物に見えるのでしょうね。

>再登場以降の西野って、まさしくその「すげー男にとって都合のいい癒しキャラ」そのものになっていないでしょうか。

この辺は難しい。僕は、それでも全編にわたって、「都合がいいだけ」にまでは感じないんですよね。ここは論拠がないし、理由もないく感覚なんですが・・・・・。なぜだろうなぁ。理論的な枠組みでは、貴兄のおっしゃる通りです。うーん、、、この辺は感覚なんで、何とも言えません。

にもかかわらず、西野は完全な外的要因によって真中が「選んでくれた」おかげで真中を「手中にできた」わけです。これって、西野に対してひどい侮辱じゃありませんか?

ああ…痛い。。。これは、そうだその通りだ。あまり僕も見たくなかったかもしれないが、再登場後の扱いは、明らかにナルシシズムの幻想だ。

petronius さんがそうやって西野にも高評価を与えようとするのは、「東西どちらにも偏らず、なるべくいい所を見てやりたい、拾ってやりたい」という「誠実さ」の現れだと思います。

うう・・・・痛い(笑)。優柔不断で、結論を出さない性格を指摘されてしまった(笑)。いやーこの指摘は、、、はっきり否定しろ、というのは、納得しました。まぁもともと東城さんが以外は、ウソに見えた!と記事で書いているわけですから、本当は一刀両断すべきだったのかもしれませんね。うーむ、、、、基本的に反論できません。感情論で、もう少し西野に優しくても…と思うが、それはたしかに不誠実ですねぇ。あまりにひどいんだもん。。。

閑話休題


ちなみにこの作品は、正直そこまでのレベルでは・・・とは思うのだけれども、とても熱く熱く感情移入している方が多いですね。そういう意味では、リアルタイムに追えば、そういった感情移入をとても強く感じさせてくれる作品だったのでしょう。物事には出会いがあります。また読み方もあります。どんなタイミングいで、どう出会うかは、人それぞれ。その作品の抽象的な価値や脚本の骨組み解析だけで、ある人の中に生まれた「感動」や心の刺激については、語ることができません。僕が継続的にハマって追っているネギまだとて、そこまでの名作かといわれると、やはりNoです。しかし、それがすなわち、その作品との「出会い」や深く愛した時間の否定にはならないはずだと思います。何事にも時があるのです。

ちなみに、全文引用しますが、とてもまえがきやあとがきの丁寧な文章は、非常にうれしいです。いやーこれほど書くとは、思い入れがあるんだなーと、うれしくなっちゃいます。ちなみに強調や文字の色はすべて管理人の独断と偏見です。

僕は何かに対して深く思い入れる行為は、とても好きです。ちょっとつかさちゃんに厳しく過ぎるなーと(感情論)思うのですが、それもこの世界が、とても好きだからななんですよね。そういう「思い入れ」の過剰なコミットは、僕も同じ人種なので、とても気持ち良く読ませていただきました。また、僕のブログのような印象とは違い、ちゃんと論拠の引用とすっきりした論理構築は、いや読み応え有りました。読み込んでいるあーと感心です。作者もこれだけ深くコミットされれば感無量でしょうね。ちなみに物語のテクスト分析としては、とっても詳細で丁寧で、いやーいいシゴトだなーと感心しました。

ちなみに、もしどなたか、つかさちゃん派のご意見があれば、ぜひプリーズです(笑)。


以下全文引用です***********************


はじめまして。petronius さんが「いちご100%」について書かれた


http://ameblo.jp/petronius/entry-10015943386.html


にちょっとした感慨を受けましたので、思ったことを徒然なるままに書いてみようと思います。なお、当方は大の東城派であり、西野さんは基本的にどうでもいい(笑)、というスタンスの人間なので、そういう観点からの文章となっております。あらかじめご了解ください。


また、しばらく前より、拙サイト


■ いちご100%

[1]

petronius さんの仰る


> 僕は読んでいて、西野つかさちゃんの内面が、よくわからなかった。少なくとも、東城と真中のような魂の部分での共有がないので、彼女が真中を好きになる理由が一貫してわからなかった。動機がわからないのだ。


というのは私もまったく同感で、このマンガが読者を裏切った部分の中でも、一番タチの悪い最低最悪のポイントだと思っています。「なぜ、西野は『そんなにも』真中が好きなのか?」がさっぱりわかりないんですよね。おかげで、西野には「背負った物語」というものがまったくありません。


東城から真中を奪っていくなら、それにふさわしい物語上の資格(どうしても真中じゃなきゃダメ、という、東城に匹敵する切実な理由)を、耳を揃えて出せ、というのがまず何よりも不満な点です。こちらとしては、散々「おあずけ」を喰らった挙句、結局「ツケ」を踏み倒されたわけですから、そういう借金取りのような心情になります。


これが、もし西野が当初からメインヒロインだったなら、そんなことは言いませんなぜ「そんなにも」好きなのかさっぱりわからなくても、「とにかくどうしようもなく好きなんだ」で押し切ったって全然構わないです。ラムがあたるのどこが「そんなにも」好きなのか、なんてことや、音無響子が五代裕作をなぜ「そんなにも」好きなのか、なんてことはどーーーでもよいわけで。


だけどサブヒロインの立場から本命ヒロインの座に就くというのに、その資格もなしにメインヒロインを差し置いて涙を呑ませるというのは、読者として腹に据えかねます。最後西野とくっついて終わるんだったら、途中で離れることに何の意味もなくて、いちばん初期の段階で「勘違いで告白してOKもらいました、そのままつき合ってめでたしめでたし」で終われば済んじゃうわけですから、東城はさんざん待たされた挙句バカを見ただけで、こんなにふざけた話はない。


そしてこのマンガをより一層タチの悪い話にしているのが、「西野の側から、一旦は振った」という事情です。この手の、「男にとって余りに都合のよすぎるハーレムもの」というのは「だってこの娘たちはこの男が好きで『自主的に』尽くしてるんだよ」ということを「理由もなくモテモテ」ということの言い訳にするのが定番です。そんなのは、真面目に考えればもちろんウソなんですが、一応「作中の事情としてはウソじゃない」という一点で強引に押し切って免罪符にするわけです。だけど、西野については途中でその免罪符は破棄されてるんですよね。


最初の別れのときは、「真中が自分より東城の方が好き、という事態に、西野は耐えられなかった」という事情で、「西野の方から真中を振る」という展開になっています。「それでも、好き」という気持ちだけではもう西野の側がやって行けなくなった、という流れです。「耐えられなかった」のは西野の側で、「西野が」イニシアチブをとってあの別れに至っています。


そうやって「自分から主体的に真中と縁を切った」以上、「それでも、好き」などというのは、作中の事情としてさえあからさまなウソであって、もはや上述の欺瞞に満ちた言い訳さえ通用しなくなっています。


ここでは、西野の側に未練があるような描写にはなっていません。西野は真中に吹っ切れて、もうクヨクヨしないで前向きに生きていく、という決意がはっきりと描かれています(また、バレンタインデーの後再会したときも、ホワイトデーのお返しのリクエストを尋ねる真中に「あたしがあげたってことも気付かなかったら気付かないままでいいやって思ってた」と、真中との経験を糧にして、一回り大きくなった姿として描かれており、別に真中への想いが再燃したわけではない、という態度でした)。


このように「余りにもひどい扱いに傷つき、自分から愛想を尽かした。もう未練も残さず吹っ切った」以上、再び西野が真中争奪戦に加わるなら、物語上「なぜ、『改めて』真中が『そんなにも』好きになったのか?」という強固な理由は*絶対に*必要不可欠です。だけど、なかったんですよね。それは。おかげで、西野が真中に執着する理由としては、「引き延ばしのためのあからさまな『話の都合』以上のものは最後までないままバックレられてしまった」という形になっているわけで、ちょっと信じられないくらいデタラメな作りのマンガです。


再登場以降の西野の真中への態度って、「手に入らないおもちゃを欲しがる子供」みたいなもんなんですよね。「なぜ、『あんなにも』ひどい目にあった相手を、『わざわざ好き好んで』追っかけるのか?」が全然わからないから、いくら一生懸命でも、読者としてはそういう風に思っちゃう。


ちなみに、


> 心がその人の前で裸になれたり、小さな勇気をもらえたり、なぜかわからないけどドキドキしたり、一緒にいるだけで癒されたり・・・・

と仰る部分については、東城についてはよく描けていたと思います。

だけど、西野は直接的内面描写が非常に少なく(

http://ikumi.que.jp/ichigo/nishino.html#personality に書きました)、それっぽい場面があるにはあったものの、「なんかドキドキしてるらしいけど、どうして真中なんかにそんな想いを感じるんだろう?」という所がさっぱりで、極めて嘘臭い描写にしかなっていません。 http://ikumi.que.jp/ichigo/  よりリンクしております。もし不本意な記述などありましたら遠慮なく仰ってください。以下の論も、基本的にはそこでコメントしたことを詳述したものとなっています。 


[2]
一方、テーマ分析のメインに据えていらっしゃる


> この作品の根本のテーマは、
>
> (1)自分を応援してくれて、はげみになる彼女
>
> (2)自分と同じ志を共有できる人
>
> どっちが、恋人として相応しいか?という問いが背後にあるような気がします。


という読み解き方は、私としては大いに疑問です。


petronius さん自身も「それぞれの立場が微妙に入れ替わるので、必ずしもすっ
きり理論的に割り切れません」と仰っていますが、まず西野が真中を応援し、励
みになってくれたかというとそういう要素は乏しいです。


・西野は観覧車の中で「あたしも淳平くんの夢応援するね」と言うのですが、それは具体的行動にほとんど結びついておらず、口先だけのセリフになっています。主として自分の願望に従って行動することが多く、真中を支える・応援すると言えるのは、次項を除くと高3の海デートと、学園祭直前に弁当持って泉坂まで来た所くらいしか思い当たりません。


・最もその要素が濃い場面は真中の再交際受諾直前ですが、一般論に即して述べた励ましが、たまたま勘違いで必要以上に落ち込んでいた真中のハートに、当てずっぽう気味に都合いい申し出としてヒットしたに過ぎません。ここで致命的とも言えるのは、真中がなぜ落ち込んでいたのかちゃんと知った上での励ましではなかったという点ですね。結局真中の映画を見ることなく高3学園祭から逃げ出したことに象徴的に表れているように、西野は最後まで東城へのコンプレックスが克服できず、それに心が囚われてしまうと、「真中への応援」よりも優先されてしまうキャラです。


・そして、ベッドインの後は、私が

http://ikumi.que.jp/ichigo/nishino.html#passive_attitide_toward_manaka

で述べているように、「応援」どころかむしろ「突き放す」ないし「興味が薄い」描写がついて回ります。


このように、「真中を支える」ことは、西野というキャラにとっては2の次、3の次の要素でしかありません。「甘えていいよ」のときに真中に刹那の感情の昂ぶりをもたらしたことを以て「応援し、励みになった」とは言い難いです。少なくとも「物語のダイナミズムの大きな部分は、ここにある」と仰るほどまでに、西野のポジションを(1)に置くまでの必然性は、私には感じられません。


さらにそれだけに留まらず、「応援した、励みになった」ということにかけては、むしろそちらの役目さえ東城の方が手厚く担っているという話になっています。代表的なものを挙げると、


・ 高2で東城が文芸誌で受賞して、真中が謂れのない妬みに囚われたときに励
まし・慰めの言葉を掛けたこと


・ 角倉に否定された真中に(はっきり振られた後まで献身的に)協力し、前向
きな批評で励まし、支えたこと


http://ikumi.que.jp/ichigo/toujou.html#she_is_the_one_who_really_supports_him_and_his_dream
にて詳述)


がありますが、いずれも、真中が落ち込んでる事情をちゃんと知った上でのことで、真中に本当に必要なものを的確に与えているのが東城です。


このように、(1)の役割さえ東城の方が質/量ともに大きく、おまけに西野は(2)の要素は事実上ゼロ、ということを考えると、「西野が主として(1)で、東城が主として(2)」という対比のさせ方には無理があるのではないでしょうか。その他の要素も含めて、終盤では西野の描写は割とおざなりで、東城の方に圧倒的に描写が割かれています(詳しく述べると長くなるので省略しますが)。そう考えると、始めに引用したような「(1)と(2)の対立」というテーマでこのマンガの構造を読み解くことは適切ではない、というのが私の見解です。


[3]

コメント部で


> この作者が女性でなくて、女性を男性的視点のモノとして書いていたら、たぶんつかさちゃんって、すげー男にとって都合のいい癒しキャラになったと思う。


と仰っていましたが、再登場以降の西野って、まさしくその「すげー男にとって都合のいい癒しキャラ」そのものになっていないでしょうか。


[1]で述べたように、真中は「本当に好きなのは東城なのに、そのことを西野にはっきりと言いもしないまま西野を彼女ということにしていた」という「ものすごいひどい仕打ち」を西野に続け、その報いとして振られました。そのような「西野という1個の人格そのものを蔑ろに扱うような不誠実極まりない振るまい」をしたにも関わらず、それにふさわしいだけの真摯な償いもしないまま、「なぜか」再び西野に興味を持たれ、「理由もなく」ぞっこんになった西野にひたすら尽くされます。


この再登場以降の西野は、男の側から踏み込まなくても、向こうから勝手に迫ってきてくれる(店の裏に呼び出して抱きついてくるとか、夜の保健室でベッドインする気満々、とか、真中のベッドで無防備に眠り込む、とか、2人きりの旅先で夜中に布団にもぐり込んでくるとか)、ものすごくあざといキャラになっています。実際、見て回ったところ、そういう部分こそがファンには非常に強く支持されているようですが。

なので、


> つかさちゃんが本気で好きなら、彼女という他者を深く理解しないと、ようは彼女という空洞の記号を、自己の欲望のためにパーツで使っている「だけ」になります。


という指摘には、非常に共感しました。そして実際、男にとっては、相手の気持ちを伺う必要がない、非常にありがたい相手として扱われています。相手を人格的に認めた「エネルギーを使う付き合い」をする必要もなく、どんなにひどい扱いをしようとも、「拒絶されるリスク」をまったく負わなくて済むなんて!西野って、もともとこういうキャラじゃありませんでした。初デートのエレベーターの中では「雰囲気に流されないで」と真中にしっかり釘を刺し、高1の誕生日にも「今はこれが淳平くんに望んでいい精一杯だから」と握手以上の肉体的接触を求めない、節度のあるキャラだったのです。


それが、再登場以降は上述のような「人格というものが備わってなくて、読者の即物的欲求に奉仕するために必要な機能以外を与えられていない、操り人形めいたキャラ」になってしまっているわけです。再登場以前の西野で特に秀逸なところは、敢えて別の高校に進学しようとする所です。このときの西野は「真中の気持ちが自分ではなく東城にある」ことを察しながらも、それを面と向かって責めたりせず、それでも前向きに真中との仲を育もうとしているキャラで、とても魅力的です(「何でそんなにも真中が好きなのかわからない」ことは相変わらずですが)。この「敢えて距離を置くことで、関係を再構築しよう」という所は「男が何もしなくても、向こうから勝手に迫って来てくれる」ようなタイプとは一線を画していて、男の願望に安直に迎合したキャラにはすまい、という、作者側の意図がはっきり感じられます。ある意味、再登場以前と再登場以降の西野は、別人と言っていいでしょう。


[4]
終盤の西野には、それまでと違って、はっきりとした欠点が際だって多く見られます。例えば「自分は何もしないのに、至れり尽くせりのお膳立てに恵まれたおかげておいしい結果だけを得た(特に、東城が勇気を振りしぼって行動した「本気告白」や「雪の日の別れ」が、ことごとく西野・真中のカップルの重大な問題点を「偶然にも」解決するダシに使われている辺り)」がそうです。詳しくは



に書きました(お恥ずかしいことに、怒りに任せて書き殴ったので、かなり見苦しい文章となっております。あらかじめご容赦を乞います)が、ここではそのうち「どうせ東城には敵わない」で思考停止して、諦め切っていたという点をクローズアップします。


東城にとって克服しなければならなかった命題が「好きだと言うこと」だった
ことは明らかですが、西野にとって克服しなければならなかったのは


で、その克服は結局最後まで果たされませんでした。学園祭の前後から一貫してそうでしたが、とうとう最後に至っても、あの雪の日、真中宅前で表れた東城に、西野は尻尾を巻いて逃げることしかできず、その後のカラオケボックスでも、詳しい話を聞きもしないうちから「覚悟はできてたんだ」と、あっさりと真中を手放そうとする始末です。にもかかわらず、西野は完全な外的要因によって真中が「選んでくれた」おかげで真中を「手中にできた」わけです。これって、西野に対してひどい侮辱じゃありませんか?


petronius さんが別作品について


vvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvv



あのね、よく勝気は寂しさの裏返し、という王道パターンがあるけど、僕は好きではないです。というのは、「勝気で頑張って前向きに努力する姿」ってのは、やっている人は、実は好きでやっているので、他人に依存したくないし、その努力にプライドを持っているんです。だからその姿勢が本気であればあるほどに、頑張る自分が好きで、頑張る自分を他者(=男)に甘えることによって逃げ出したいなんて全然思っていないんです。凡百の少女マンガは、ここが描けない。全部、天才のすごい男性が、助けてくれたり、シンデレラのように、「ここではないどこか」に連れて行ってくれるのを期待していて、それで全部OKなんです。


でも、そうじゃないでしょう!。ちゃんとした女の子(もしくは男の子)ならば、自分を成長させたい、とも思っているんです。助けてもらうことは、かっこ悪いし、許せないはずなんです。この自分自身で自立して成長していこうという強い意志と、恋というものの両立に悩む部分が、かわいいんです!。男(つまり異性ね)に、何とかしてもらおうなんてヤツは、一生かかっても幸せになれねーよ!。


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
と仰っていることに私はすごく共感するんですが、この後半の段落で仰っていることは、そのまますべて終盤の西野が受けるにふさわしいセリフだと思います。西野は「克服すべきこと」を自分ではとうとう克服せず、他力本願で結果だけ得ただけに過ぎず、こんなの「おミソ扱い」以外の何物でもありません(一方、前半の段落で仰っていることは、[3]で触れた「別の高校を選択した西野」にはピッタリ当てはまっていると思います。だから、そのときの西野は好きになれます。繰り返しになりますが)。


しかも、その真中の選択というのも、東城に対する誤解があった最中、 落ち込んでる自分に優しく手を差し伸べてくれたからって「手近なところで手を打っておこう。相手はいいって言ってくれてるんだし、こんなおいしい話はない」という打算が、少なくとも無意識のうちには働いたとしか思えない状況で成されたものが、最終的にほとんど消去法同然に残ったに過ぎないわけで。西野は、自分を自分として認めてもらって、選んでもらえたわけではない。http://ameblo.jp/petronius/entry-10036858991.html より 戦わずして「真中の中の東城」に負けてしまう自分自身です。終盤での西野は、いつでも東城の存在を言い訳にして、戦わない理由を作って勝手に落ち込んでいるだけでした。http://ikumi.que.jp/ichigo/nishino.html#nishino_laststage


そして真中を「獲得」するための西野自身の努力があったかと言うと、そんなものは懸垂返し以降は全く姿を消し、そればかりか[2]で触れた通りむしろ「突き放す」ないし「興味が薄い」という有様です。


この結末は西野が持っていた優れた点がことごとく台無しにされて、「西野と真中がくっつくこと」を熱望する読者のために、西野が真中を「あてがわれた」だけに過ぎません。まるで、家畜が繁殖のためにつがわされるかのように。


[5]
[3][4]を踏まえて再び[2]に言及しますが、いろいろな事情で再登場前と比べて見る影もなくなってしまった「再登場後の西野」を、東城と対比させられるかのごとく過大評価するのは、再登場前の西野に対する侮辱と言えるのではないでしょうか。petronius さんがそうやって西野にも高評価を与えようとするのは、「東西どちらにも偏らず、なるべくいい所を見てやりたい、拾ってやりたい」という「誠実さ」の現れだと思います。そういう優しさをお持ちであることそのものは非常に素晴らしいと私は思います。しかしその優しさは、ここでは結果として西野に対する「おべっか」になってしまっている面がないでしょうか。


再登場後の西野には、以前と比べて遥かに見すぼらしくなってしまった姿を直視して、その姿にふさわしい評価を与えてやることこそが、西野に対する本当の誠実さなんじゃないかとも思うのです。


そういうわけで、このマンガについては、もっとはっきりと否定されてもいいんじゃないでしょうか。

http://ameblo.jp/petronius/entry-10035103931.html

で仰るような「あるべきすがた」から言えば、本来どういう結末がふさわしかったか、は明らかすぎるほどに明らかだったわけですし。



[6]
余談です。


> ひっじょーに男に都合がいい、よくある学園ものなんですが、「永遠の時間」的な男の論理で完結する感じがほとんどしない不思議な作品


これについては、連載が大体実時間と一致して並行して時間が進んでいたことが理由のひとつだったんだと思います。高3の合宿の話から突然進行が遅くなって、実時間と完全に乖離してしまうのですが、それまでははっきりと意識的に「連載内時間」と「実時間」が一致するように連載が進んでいました。

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評価:★★★★☆4つ半

(僕的主観:★★★★★5つ


"THE RECORD OF FALLEN VAMPIRE"(堕ちた吸血鬼の記録)

あらすじ
遠い昔、夜の国の至高のヴァンパイア王は、余りの強さから人間だけでなく同族からも恐れられた。
そしてついには愛する女王を人質にとられ、王は処刑されることとなる。しかし、それに狂乱した女王は自分でも知りえなかった秘めた魔力を暴走させ世界を崩壊の危機へと追い込んでしまう。人々はかろうじて女王を世界のどこかに封印するが、王はそれに怒り、自ら夜の国を滅ぼしてしまう。女王を助け出すために、王は封印をめぐって同族や人間たちと果てのない戦いを続けていく。最後のヴァンパイア王「ローズレッド・ストラウス」は、守るべき国も民も捨てて封印を探す放浪を、千年以上も続けている・・・。ただ、愛する女王「アーデルハイト」を取り戻すために。



カルマさんにすすめられたのですが、3巻くらいまで読んで、ちょっと打ち捨てていました。いや、気にはなる展開だったのだが、そこまでが陳腐で、しかも絵柄がカルマさんいわく「漫画的にデフォルメされた可愛らしい絵柄」であんまり好きになれなかったんですよねー。あーいかにもガンガンとかそこらっぽいなー、とかとか。しかし、、、、カルマさんのお勧めということもあって、そこはがんばって読み続けたのですが・・・というか、スミマセン4巻からはマンガ喫茶でした・・・が、大失敗でした。これは、一冊い一冊吟味して読みたい体験だった。


いやーーーこの脚本は、見事だった。





ただ、ここで断っておくが、ガンガンという媒体もそうだし、絵柄もそうなのだが、正直それほどリテラシーの高くない萌がある程度あれば売れる狭いマーケットを対象とした作品であるがゆえに、なかなかその対象マーケットの人間以外が手に取ることは少ないであろうと思う本です。けれど、結局は、質なんだよなーというのが、僕の感覚です。いやこれは骨太で素晴らしいよ。僕のブログは、、、、というか僕のスタンスは、海燕さんと同じく、すべての物語を平等に扱う・・・というかそういう言い方が合うのかわからないんだが、といかく、それがエロゲーであれ古典文学であれ、どんなジャンルであろうと、「ほんもの」かどうかを、その意匠(=表面の上澄み)を飛び越えて本質を感受したいと思っているので、こういう作品に出会えると、俺ってなかなかいい審美眼をしているな、、、また一つ見つけたぜ(笑)みたいな、ニヤリという気分になります。


そして、このブログを読んでくださっている方々は、僕のそういうスタイルを知っていると思うので、もし機会があれば、まずはマンキツで・・・そうですね3時間以上はいるとおもうが、、、がんばって6巻ぐらいまで読んでみてください。僕の言っていることが正しいかどうかわかると思います。まーマンガを読みなれていない人にいきなりお勧めはしませんが、マンガをそれなりに読みなれているのならば、これは読んで損はありません。


読み終わっていま振り返ると、やはりキャラクターとか表現力が、もう少し最初から大きく、、、かつ世界の描写をもっと細かく書けたらもっと素晴らしくなったとは思う。(つーかこれこそアニメにすればいいのに)けれど、、、いやーとにかく面白かった。読みがいがあったんだもん。これは全冊を一気に読んだ方がいいと思う。びっくりするよ。本当は連載で、ちびちび読んでいたら、途中から衝撃を受けたと思うよ。最初の最初からこの脚本を設計していたというのは、さすが本職が推理作家だけあるなーと思う。


ちなみに、なぜこれほどアニメが乱発して作られているのに、この作品がアニメ化されていないのか理解に苦しむ。絵柄もいい。これを、おもいっきり萌え萌えのキャラクターかわいい作風に仕上げれば、それなりの視聴率が稼げたうえで、しかも内容はウルトラ硬派なんだから。相当のクオリティの作品ができると思うのに。業界の人も見る目ないなー。どうせ、とれる視聴率なんか、それなりに決まっているのだから、あるい程度、マーケットの消費層を超える内容をぶつけるのは、考えないと・・・。とかとか。


ちなみに映画を例にあげると、黒沢明監督の『羅生門』とか、洋画だとメグライアンの出ていた『戦火の勇気』などの作品と同じ構造なんです。一つの事実が、いろんな角度からん見ると、まったく異なる真実が浮かび上がっていく手法です。


パイオニアLDC
羅生門 デラックス版
20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント
戦火の勇気

>遠い昔、夜の国の至高のヴァンパイア王は、余りの強さから人間だけでなく同族からも恐れられた。そしてついには愛する女王を人質にとられ、王は処刑されることとなる。しかし、それに狂乱した女王は自分でも知りえなかった秘めた魔力を暴走させ世界を崩壊の危機へと追い込んでしまう。人々はかろうじて女王を世界のどこかに封印するが、王はそれに怒り、自ら夜の国を滅ぼしてしまう。


『ヴァンパイア十字界』 作:城平 京 画:木村 有里
http://ameblo.jp/petronius/entry-10039068589.html  


これ、あらすじなんですが・・・・・これが、千年前に起きたことで、関係者はほとんど死んで伝説となってしまっているんですが、、、この事実は、確かに事実でここに書かれた通りなんです。けれども、その事実の意味が、どんどん変わっていくのはエキサイティングです。


しかも、、、、最後の最後に、ヴァンパイア王「ローズレッド・ストラウス」が、



これは政策だ・・・・・



と呟くとき。


その指導者としての器の大きさ、マクロを読み切った発想、そしてそれが故に引き受けなければならなかった激烈な孤独というものに戦慄が走りました。そう・・・・すべてのマクロの責任を引き受けた現実的な政策は、これしかあるまい。


・・・・これは、まぎぃさんのラスボス問題・・・・ラスボスがいなくなった世界で、ラスボスとは誰か?という問いと、僕の善悪二元論・・・・人間をある種の統合を得るためには、外部に敵を持たなければならないという本能や法則の次元をどう覆すか…という問いへの、一つの物凄く骨太の解答だ。





考えてみれば、あまりに当たり前なのだが・・・・これは凄い。脚本としては傑作だと思う。これを自覚的に設計した、ヴァンパイア王「ローズレッド・ストラウス」は、マジですごいよ。というか・・・・正直あまりにマゾ。そこまで自分を切りきざまくてもよかろう…と思う。なぜならば、これは全体のために、あらゆる全ての個としての権利(それも自分自身ののみの!)を切り刻んだ物語。


公の人間に、個の権利なし!を地でいく発想だ。


・・・・・うーむ、、、、いろいろ書きたいことがあるのだが、、、まぁ続きは気が向いたら書くとして、、、一言


レディ・ブリジッド・・・・かわいすぎるっ!!!!やばいぞ!!!。


はぁはぁ。



>多分読者の好きなキャラは圧倒的にブリジット多数です(笑)
あの・・全ての誤解が解けた後のストラウスへの態度の変わりっぷりは、可愛すぎますよね。
まさにツンデレです。千年の時を超えたツンデレ(笑)
でも逆に、きっと千年前の2人はああだったんだなって思って、切なくもなったり。



カルマさんのコメントですが・・・・いやーやべっすよ。


人類との共同戦線での最高会議で、涙を流してしまった自分を戒めるように、ナイフで手を突き刺すシーンは、戦慄が走りますよ。かわいくて(笑)。


僕は、バスタードのアーシェスネイとダークシュナイダーの関係を思い出しました。


たぶん近いうちに完璧ネタバレ記事を書くと思うので、その時までに読んでおいてください。


以上。


************************


■ありがとうございます♪

ちゃんと読んでくださいまして、嬉しいです!

4巻というと、ようやく物語が異質な方向に動き始めたあたりですね。
1巻読むだけでは面白くないので、漫画向きではない構成なんですが。


>コマ割が少し下手
十字界の作画を担当しているのは(当時)新人の方なので、正直言って下手ですね。
ガンガンはいきなり新人に連載をさせて、育てることが多いです。
だから1巻と最終巻で絵柄が全く変わっているのがザラという(笑)

カルマ 2007-07-10 00:00:27


■カルマさんへ

やっやばい・・・・さっきマンキツで読み終わったけれども、、、すげーこれいいじゃねぇかぁ!!!。いやー絵柄があまりにすきくないので、しかも・・・なんつかーいかにもガンガンとかその程度の子作りファンタジー絵柄だなーとか、すみません、馬鹿にしてました。7巻あたりから、、凄かったです。いやーカルマさん。これは凄いですよ!。レディ・ブリジッドにべたぼれです。死にそう(興奮!!)やべーって、あの子、かわいすぎで死にそう。。。。。いやー確かにこれは傑作だ!。世の中にはまだまだ埋もれているんだなー。あんなになめてた絵柄も良くなっていくし、、、これだけの脚本を持つと、それすらもよく見えてくるし…いや凄かった。責任と覚悟を最高度に追求したら、そしてそれを応え得る能力があった・・・こうなのかもな・・・。感動しちゃった。

ペトロニウス@管理人 2007-07-14 22:37:06


■僕も感激です!!

多くの文学や物語に触れてきているであろうペトロニウスさんに、まさか「傑作」とまで言っていただけるとは思いませんでした・・・!!

>なんつかーいかにもガンガンとかその程度の子作りファンタジー絵柄だなーとか、すみません、馬鹿にしてました
いや、特に前半の絵の下手さに関してはもう、弁護の余地はないです(苦笑)
ただ・・後半ある程度上手くなってからですが、こういう漫画的にデフォルメされた可愛らしい絵柄
であることで、キャラ的に感情移入できる部分もあるように感じるんですよ。ライトノベルにおける挿絵的な役割というか。

>7巻あたりから、、凄かったです
7巻ですか。周りの、さほど深い読みをしない友人には「とりあえず3巻まで読め」という薦め方をし
てます。この作品、後半になればなるほど良くなるんですよねぇ。

7巻は、王として、死刑を甘んじて受けるストラウスの台詞にまずやられまして・・
そして、千年ものあいだ、国を、血族を守るために、その守る対象である血族と戦い・・・あぁ、書
いてて泣けてきた(爆)

ちなみに、設定好きの僕は、「パンスペルミア説」で大興奮しました(笑)

カルマ 2007-07-15 03:09:09


■長くなったので2つにします(爆)

>レディ・ブリジッドにべたぼれです
多分読者の好きなキャラは圧倒的にブリジット多数です(笑)
あの・・全ての誤解が解けた後のストラウスへの態度の変わりっぷりは、可愛すぎますよね。
まさにツンデレです。千年の時を超えたツンデレ(笑)
でも逆に、きっと千年前の2人はああだったんだなって思って、切なくもなったり。

>これだけの脚本を持つと
原作者は、元々ミステリ作家なんですね。
だから非常に複雑な構成や「真実」の導き方とかが上手いです。
また、アニメ化もした「スパイラル~推理の絆~」という漫画の原作を手掛けていました。そちらで随分と有名になりましたが、
作品としての完成度では圧倒的に「十字界」が上だと思います。
しかし・・・これだけ面白いのに、アニメ化とかの噂は一切聞かないんですよ。多分ガンガンで巻頭カラーや表紙も飾ったことがないまま、完結したように思います。是非、星人フィオなどの描ききれなかった部分を補完し、またこの作品を広く知ってもらう意味でもアニメ化して欲しいですねー。(同感・・・管理人

あぁ、なんか関係ないことまでいろいろと書いてしまいました(爆)
ありがとうございました!
感想記事を楽しみにしています♪

カルマ 2007-07-15 03:09:55


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二宮 ひかる

おもいで―二宮ひかる短編集 (ヤングキングコミックス)


評価:★★☆2つ半

(僕的主観:★★★3つ


思えば高校生のころ、会田網雄の「伝説」という詩に出会って以来、アタマの中で勝手なイメージを膨らませてしまい、こーゆうものを追いかける習性が付いたように思います。

あの詩の持つ魅力に、追いつけるはずもないのに。

きっと、そのうちまた、追いかけたくなってしまうんだろうな...。

『おもいで』あとがきより


伝説    会田綱雄
http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_02/poem_hyo.php?p=1


http://d.hatena.ne.jp/Lettusonly/20070708/p2#20070708f1
ある二宮ひかるファンの日記


http://f-sakura.com/archives/200707/21_0306.php
二宮ひかる「おもいで 二宮ひかる短編集」/げんそーのさくらさんより

ああ、確かにいい詩だねー。ただ、これで姉弟とか兄妹の近親相姦ものになるのがなぜかは???なんだけれども(笑)。いやーイメージ的にはわかりますが。でもこの人の作品は、文学の香りがするね。その一歩手前だけれども、、なにか…なにかあるんだよね。そこが好き。ただもう一歩脱皮できない何かがある気がするのですが・・・・。そこが僕も何かがいまだ・・・わからない。しかし、脱皮すること自体がいいことなのかもわからないし。


でもこの詩を見ると、あーなるほど、二宮さんの恋愛観の本質がわかった気がする。カニバリズムなんだ。もっと泥臭く原始的。本質的な感じ。そういうのが、恋だと思っているのね。あの感じって、ここから来てるんだー。


話は変わって、少し見ないなーと思っていたら、3年ぶりぐらいになるんですね。僕はアワーズ系とか見ないので、しりませんでした。この人って、恋愛のエンターテイメントで売っているんだけれども、、、実は文学の薫り高く、、、まるでカミュとかカフカくらいに、背後の人間関係を動物的に考え抜いている気がする。頭でというよりは身体で。だから・・・・この人作品つくるのに、体力と精神力削る妥当なーと思います。しかもあまり同じことが繰り返せない体質のようですし、、、、これがいいのかわるいのか、、編集に妥協する・・というか、市場や会社の要求を素直に聞いてしまうような、うぶな感じがしちゃうんだよねー。『犬姫様』とか、、、いろいろな作品を見ていると。もっと自分の本質を骨太に据えて追及してもいい気がするのだが・・・そうするとこの危うい雰囲気が描けなるんかもしれないなー。難しいよ。ナイーブの主人公の女性を思い出してしまうのだよ僕は。なんか、生きるのがしんどそうに思えますよ、僕は。大好きなので、もっとどこかへ抜けてほしいと切実に思います。


『ナイーヴ』二宮ひかる
http://ameblo.jp/petronius/entry-10002136791.html


『ハネムーンサラダ』 二宮ひかる著 うーん、好きだなぁ
http://petronius.ameblo.jp/petronius/entry-10040944278.html

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おがき ちか
エビアンワンダー 1 (1)

そういえば、前回ある人に教えてもらって、おがきちかさんのブックレットを読んだ。これは、ランドリ9巻と、エビアンリアクト2巻の発売記念に出たものだそうだ。これは希少価値がある。なにしろ数ページではあるが、完結後のエビアンのその後が少し書かれているのだ。ファンには垂涎的だ。

なんというのだろう、、、、たいていこの手の小作品は、あまり意味のないものが多くて、そのまま捨て去りそうなものが多いのだが・・・情報が凄く圧縮しているおがきちかさんだけに、、、、うーんすげぇいい。なにしろ、この作品読んだ後耐えられなくて全巻読み直してしまったほどだ。ちなみに、その後だけではないな、フレデリカとフェイ・イの出会いも書かれている。この人はワンシーンが対になっていることが多く、、、この出会いの変態な(笑)シーンも、リアクト最終巻の最後の最後のシーンと対比してみよう・・・・感動で僕は落涙しちゃいます。


物語で、何が一番素晴らしいかといえば、、、、、それは、心に感動が生まれることだ、と思う。僕はメタにいろいろ背景の分析をするけれども、それは・・・・人間なるものの動機がいったい「なぜそのようになったのか?」ということをより深く知りたいがためだけのことであって、背景自体・・・外部要因やマクロ環境などの客観変数自体に興味があるわけではない。


ただいつも思うのだ、、、、この素晴らしいフレデリカへの強いフェイの愛情はどこから来るのか?、、、、彼女の生きたいという決断が、、、なぜ妖魔の心まで喜ばせるほどのことなのか?、、、フェイが、、、もしかしたらフレデリカは生きたいと望まないのではないかと苦しむのはなぜか???それは、、、深く深く愛する者たちを囲む世界の構造を理解し感得し分析していないと、「わかった」ということにはならないではないか?って思うのだ。わからないやつには、現実は変えられなし、愛する人も自分も救えない。


それは現実世界も同じだ。


愛って何だ?


それは、「その人がその人たる本質」を愛すること・・・そして、「自分が自分たること」の本質を愛されること、、、なのではないか。


そしてその次に来る、真の愛は、その本質同士が、矛盾なく「この世界」「この現実」で、花を開き豊かさを感得して生きることができるような仕組みを、二人の努力で作り出すことなのではないだろうか。この世界の果実を二人でもぎ取ることではないだろうか?。


しかい現実は難しい。現実は苦しみに満ちている壁ばかり。それを、戦って壊し、自分の本質と相手の本質にとって、都合のいいもっとフィットとしたやさしい世界に変えることが、、、それが人生ってものだと僕は思う。時には、お互いの本質が、相手を傷つけ壊すことも十分にある。というかそいう場合の方がしばしばだ。


でも、、、、、本当に守りたいものを守る・・・・本当に愛し合うためには、、この世界で生き抜くという行為は、やっぱりもっともっと深く相手の本質を、、、その本質を作り出した外部環境を理解しなければならないと思うのだ。


だって、それが現実だから。それが社会であり、世界だから。


世界は残酷だ。その存在自体は、僕らの心とは別物。世界が僕らを助けてくれることはあり得ない。


そう思って、、、、、省略が好きなおがきちかさんは、説明なしにかなり圧縮して世界を描いているが(あいかわらず天然だな~)、これを理解すると、、、その深さ、その思いの透徹した強さが・・・胸に迫る。


素晴らしい物語だ。


というか・・・・フェイを膝枕するフレデリカの不思議そうなおだやかな表情が、、、たまらないです。かわいすぎる(笑)。
つーか、、、、、フェイは、、、これからさき落としがいがあるだろうなーフレデリカ。100%を超える運命の相手だけど、ツン(デレはない)を口説き落とすのは、いやー楽しいと思うよ。大変だとは思うけれども(苦笑)。はやく、やっちゃえ!!!って考えるのは、、、僕、性急に考えすぎですか?さくもさん??(笑)。

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