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評価:★★★星3つ+α
(僕的主観:★★★★☆星4つ半

とら兄貴のところで見かけたまま、絵柄がすっごい好み(笑)+タイトルがかっこいい!(このタイトルは秀逸だ!)ので、ずっと気になっていたのだが、なんでも昨年かなり評判がよかったことを知り思わず購入。



この村では、見事に実った麦穂が風に揺られることを狼が走るという
p1

あっ、このはじまり方で、既にノックアウト。さらにもう絵を見た瞬間から、ホロがかわゆーてかわゆーて(笑)、ライトノベルってのは、キャラクターへの感情移入や偏愛が基本的な導入口だから、それ時点で、成功です。いやー僕の中で、物凄いヒットでした。けれど作品の評価をするならば、

>「面白い」という評価は適切でなく、「名作」と呼べるほどに秀逸でもなく、「斬新」と言えるほどの目新しさもない。しかして心の底から「良い」と思える良質なノベル。それが、この作品を飾るにもっとも相応しい言葉だと思います。
ふらふら雑記帳
http://wotawota.exblog.jp/4779933

ふらふら雑記帳さんの評が、適切であると思う。ライトノベルというジャンルの歴史の中では、画期的な作品ではあるとは思うが、小説という大ぐくりのカテゴリーでは、名作とはいえない。・・・とはいえ、この小説は、第12回 電撃小説大賞<銀賞>受賞作 だそうで、さすが評者は見る目があると思う。また昨年度一番評価されたライトノベルであるという評だが、読者も目が肥えてるなーと感心する。ただ、電撃小説対象という賞が、どの位置づけにある賞なのかは、僕はさっぱりわからないが。

■ファンタジーノベルなのに、剣で戦わない、魔法もない、商取引をするだけ(笑)

この作品の独自性は、一言でいうと、主人公が商人である、という点に尽きる。


このあたりは『手当たり次第の本棚』のとら兄貴の評 が、シンプルにいい当てているので、一部引用させていただく。


>思えば、ライトノベルに先立ち、まずはTRPG(テーブルトーク式のロールプレイングゲーム)が、次にネットゲームやゲーム機で行うRPGが、キャラクターの「職業」の幅を広げてきた。ウルティマオンラインなどは、多分、その最右翼だったのだろう。



戦士だ騎士だ僧侶だ魔術師だ……というような、ほんとに定番のキャラだけでなく、商人などがいても良い。

いや、戦士や僧侶だとて、時には商取引やかけひきをする必要があるシチュエーション。シムシティのような生活シミュレーションとまではいかなくとも、舞台が架空の世界であっても、世界観が、広がるというか、「地に足の着いた部分」が出来てきて、プレイヤーも、そういう世界に馴染んできているだろう。


そういう環境があって、こういう小説が生まれたのかもなあ、と思うわけだ。
『手当たり次第の本棚』より引用

http://ameblo.jp/kotora/theme2-10000341433.html




この評が、もっともこの作品のエポックメイキングな点を、表わしていて、ファンタジーの世界が「地に足のついた部分」ができて、プレイヤー(=読者)がその世界に深くなじんでいるが故に、こういう作品ができるのだと思う。日本のファンタジーノベル市場も、非常に成熟してきたんだな、と思います。



■ボーイミーツガール~男の子は女の子を守る




僕がおおって唸ったのは、この作品は、典型的なボーイミーツガールの形式を踏んでいて、そのエピソードの一つで、ホロ(狼の化身の少女)を商人のクラフトが守るときの、その守り方だ。


全然戦わないんだぜ(笑)。魔法も剣もなにも登場しない。


主人公のクラフト・ロレンスが、愛する女の子を守るのは・・・・・その戦い方は、取引と交渉なんだよ!。


その場面(p241近辺)の交渉シーンは、ものすっげぇ感動したよ。


こういう戦い方、こういう女の子の守り方ってのもあるんだな!って。


つーか、まじめな評価とか書いているけど、、、、僕は感涙しているんで、モノすっごい感動したんだよね、、この本。最高の名作というわけではないんだが・・・感動したんだから仕方ないじゃん(笑)。・・・・なんでかっていうと、それは僕自身も、サラリーマンつまりは、商売人なんだよね。やっぱり商売を、、、交渉を生業とするシゴトをしているんで、この主人公クラフトくんの戦い方は、自分に重なる感じがして、胸にジンときたよ。

きたよきたよ!、、、きたよぉおおおおおおおお!!!!(笑)

みたいな。でも、とら兄貴のいうとおり、そもそも戦士だって魔法使いだって、交渉しなければならないときは多いんだ。その部分を、ぐっとクローズアップしたとってのは、それだけで非常に秀逸な視点だ。それに、なんつーか、商売の世界ってのが、ちゃんと描けている。もちろん、もっと裏が厳しい場合もあるだろうけれども、厳しい交渉と取引の中にも、一本筋の通った信用(クレディビリティ)と商取引にかける凄まじくシビアなプライドってのが、ちゃんと描けている。ミローネ商会の支店長マールハイトなんか、もう渋すぎて、最高にいかしてます。そうそう、おれこーいう感じの商人になるのが夢なんだよねー。取引先の商人に、「ああ、この商会を選んでよかった・・・」と心底思わせるような。

商売やビジネスって、血も涙もないつまらない世界に見えるが、、、利益と信用を賭けて、気が狂うほど頭で考え続ける、ものすごくダイナミックでハラハラするものが、その裏に隠れていて、よいビジネスマンや商人ほど、「その裏」を外に悟らせない。そのへんの、商人という職業のエキサイティングさってのが、すごく伝わってくる。それなりの行商人とはいえ、まだまだ若造ってところが、なんか凄くぐっとくる。自分を見ているようで(笑)。




■孤独には二種類がある~孤独に共感する時

それと、この作品は、ちょっと大人な作品だなーと思ったのは、その孤独の描き方。この主人公の商人クラフト・ロレンスくんと、狼神の化身であるホロには、共通の孤独を抱えていて、その孤独を埋め合わせるために、お互い共感が生まれているんだよね。


その感じが、淡々とした描写の中にも、ぐっと来た。


ちなみに、全編ほとんど恋愛チョイ寸前みたいな感じで、けっして一歩踏み出さない、深く信頼した友達のような関係性が持続する部分も、本質的に、相手を愛する気持ちよりも、相手の孤独に共感している部分が大きいからなんだと思う。この辺の節度は、ぐっときてよかったなぁ。


えっとね、ネタバレだけど、この狼のホロって神さまは、数百年前に故郷から出てきて、ある村に居つく。その村の青年が、この村の麦を豊作にしてほしいという願いをかなえるために。そして、幾百年。農業が近代化される寸前の中世欧州のような世界が舞台なので、実は、これって神さま殺しが起きている時代なんですよね。これまで森を、畑を守ってくれた神を敬う気持ちが薄れ、自分たちの自力で豊かさを獲得しようと神前との調和を忘れ、自然と支配しようとした時代。だから、数百年その村のために尽くしてきたホロに村人は、もう必要ないと思っているんです。それって悲しいですよね、数百年尽くした相手に、裏切られ、忘れ去られていくこと・・・。


そんな時、孤独に耐えられなくなり、ホロは、故郷に帰りたくなるんです。


そして、主人公のクラフトは、やっとひとり立ちして7年目の25歳の独立の行商人。20近い村を交易で回る人生は、そのほとんどの時間を、たった一人で荷を運ぶ輸送の時間。行商人は、その孤独に耐えなければならない。彼もまた故郷を捨て、だれにも・・・・商人は、移動ばかりして定住しないので、ずっと自分を覚えてくれる深い友人も家族もできません。さすらうことがシゴトだからなんです。


僕は、このクラフトくんに凄く感情移入しました。


というのは、この主人公の描写は、がむしゃらにシゴトをして、周りが見えなくなるほど努力してやっと一人立ちの商人になって、そしてまた一人前になるために、がむしゃらにここまでやってきた。そして、行商人としては、なかなかひとかどレベルになってきて、、、、そして、時間的心理的余裕ができたときにふと、寂しさを・・・孤独を覚えるんです。これって、、、、すごく思い当たる。社会へ出て、何とかシゴトへなれてきた数年後、の感覚です。前に、咲香里さんという漫画家の『春よ、来い』の最終巻のシーンにえらく感動したと書いたのですが、その時の再現。


咲 香里
春よ、来い 11 (11)

この主人公も、社会へ出てなんとかやっていけるようになったときに、ふっと感じる孤独を埋めるように沙恵が現れるんですよね。p122~124らへん。このへんの孤独って、上手く描けていると、凄いはまるようで・・・なんでかなーと思っていたんですが。なんとなくわかった気がしました。この小説を読んでて。


えっとね、孤独ってのは、二種類あって。たとえば、大学生とか、まだ社会に自分の存在価値や立場を見出していない人が感じる孤独と、社会で何とか自分の立場を作って、役割を全うしているときに感じる孤独って、別種類なんだなーと思うのです。


大学生の時とか、「なにものでもない自分」に寂しさや孤独を感じるのは、当たり前です。その孤独の核心部分は、社会から承認されていないことですよね。社会的な存在として価値がないわけですから。ただ、それは外部から見ると、というか第三者の冷静な目で見ると、物凄くキツクはあるが、自業自得です。だって、自分の「分際」を受け入れて、社会的責任を受け入れていないわけですから。それはガマンするべきものです。


けれども、たとえば社会に出て頑張っているサラリーマンとか、子育てを頑張っている主婦とか・・・・何でもいいのですが、社会で何らかの役割を全うしている人は、自分の「役割=他人から必要とされる機能」は十全に果たしているわけですよね。社会で必要とされる「役割の機能」ってのは、凄く難しいもので・・・・たとえば、新入社員が一人前になるまでの数年間のがむしゃらの時期って、わき目もふれないほど大変なはずです。けど、、、歯を食いしばって、頑張って、そして期待される役割を十分に果たせるようになっても、誰も誉めてはくれません。あたりまですよね。役割は、機械でいえば機能。機能は、発揮されて当たり前。ましてや、ペイ(=お金)をもらっているんだから、どれほどの苦労をしても、それは誉められるものではありません。


なぜなら、そんなことはやって当たり前のことですから。


必要とされる役割を、誰に誉められることもなく、完璧以上にこなすものを、大人といいます。


求められる役割を、社会でお金がもらえるほどにできるようになるまでには、血の出るような苦悩と刻苦があるものです。しかも、その苦労に、心理的な見返りはありません。それが、大人というもの、社会人というものです。僕は会社が楽しくないとか、精神的に苦痛とか言うのを聞くと、馬鹿じゃないかと思います。金もらっていることが楽しいわけがないんです。そんな甘いものに、金が出るものか!。・・・・それでも楽しいといえるならば、その過酷な責務を引き受けてあまりあるほどの努力と才能で、その役割以上の能力を発揮できているという、努力もさることながら運も大きい要素のためです。


えっとね、、、、、社会から認められるためには、、、、自分をすりつぶして、自分の甘えや自己を強く抑えて、役割の機能と化さなければなりません。才能を発揮できるとか、楽しいシゴトとかは、そのツーステップくらい先にあるもので、95%の凡人にはそんなものすぐ手に入りません。


そして、がむしゃらにがんばって、なんとか、それができるようになったときに、ふと思うんです。僕は、役割以上の・・・・役割の背後にある「自分自身」を誰かに認めてもらって、誰かから愛されて、必要とされているだろうか?と。


この時の孤独は、社会に足場のない学生とかとは、質が違うものです。それは、たくさんの人に囲まれて、たくさんの人から必要とされているにもかかわらず、強烈に覆ってくる孤独です。社会の機能としての役割をちゃんとした形で、全うしている人は、 社会人として尊敬され、とても周りから必要とされています。それはとても難しいことだから。けれども、その人自身が必要とされているわけではなくて、その人の機能が必要とされていることでもあります。

社会へ出て、がむしゃらに頑張っていると、、、ふと孤独を覚えること。それは、会社に入って、数年目の僕が体験したことでもありました。休日出勤した翌日の日曜日の昼11時ごろに疲れて起きだして、、、ぼーっとしてビデオを見ていると、もう夜です。次の日からは、駆け回り、たくさんの人と会い、そのころは合コンしまくりで・・・・そんでもって、だいたいにおいて、エネルギー溢れて急上昇している時というのは、はっきりいって人を凄くひきつけます。自分にそんな余裕がないときに、情けなるほどもてるもんです(笑)。けれどね、そうして女の子と遊んでも、後輩に尊敬されても、取引先に信頼されても、、、、、それは、僕自身ではなくて、そうやって駆け上がって上昇している強気で常に安定して機能を果たせる「役割の機能」が好きなんであって、弱気な僕、そのままの僕が好きなわけではないだなーと思ってしまうのです。


今の余裕がある僕ならば、そういう強気な自分も、また本当の自分の一つである、と自信を持っていえますが、そういうがむしゃらな時って、全くそうは思えないんですよね。


さて、この役割としては何とか認められているが、自分自身の「個」をちゃんと見てもらえて承認してもらえているか?というのは、役割が必要とされるほど、切実で深いものとなるんです。そして、それって・・・・がんばっているぶんだけ、健気でいじらしいですよね?(笑)。


やっとこの本の主人公に戻ります。やっとひとり立ちして余裕が出てきた、ずっと一人で旅をし続ける故郷を捨てた駆け出し行商人のクラフトくんと、そして、、、、神として・・・・麦を豊かにする神という機能としてずっと尊敬されては来たものの、、、個として誰にも扱ってもらえなかったホロ・・・・この二人が、そのお互いの孤独を、すっと理解できるのも、、、、よくわかるでしょう?。


むしろ、恋というよりは、孤独への共感。


そこに僕はぐっと来た。


そして、、、、こういう社会でちゃんと責任を果たしている人間は、外側から、、、小説を外部から眺めている観客の視点からすると、健気ですよね。だって、誰にも誉められないのに頑張っているんだもん。当たり前のこととはいえ、そういうのって、ちゃんと地に足がついて頑張っている人にしかできない、難しいことです。そんな彼らに、ちょっと孤独を埋めてくれるご褒美を・・・伴侶を見つけ出すことって、きっと神様がいたら絶対ご褒美にくれますよ。。。。


全編読んでいて、そんな気分でした(笑)。


・・・うー長くなった。


これから、二巻に突入です!。


支倉 凍砂
狼と香辛料〈2〉
支倉 凍砂
狼と香辛料〈3〉


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本田 透, アニメ会
二次元へいきまっしょい!

評価:★★星2つ

(僕的主観:★★☆星2つ半


■個人的には、初の献本(笑)になるのかな?


知り合いの編集者さんに頂いた本。偶然だったけれども、個人的には初の献本か(笑)ということになるのかな。ブログでもそうなんだけど、「あなたはこれについてどうおもいますか?」と名指しで、礼儀正しく質問されるのは、とても嬉しい。あくまで礼儀正しくだけれども。というのは、やはり何かについての意見や思いの共有をしたくて書いている部分があり、こういう批評的な文章を書くこと自体が、「僕の意見を見て!」って自己顕示欲の現れであるわけなんで、だからあなたの意見は面白いとか、参考になるといわれるのは、喜びですよね。


■ヲタク本は、誰を購買ターゲットとしておくか?


この本を読んで、・・・・・感想で一番気になったのは二つです。購買層は、誰がターゲットだったんだろう?というということと、これ、売れたんだろうか?ってことです。



本田透xアニメ会 「二次元へいきまっしょい! にじいき」 発売記念サイン会
http://www.akibablog.net/archives/2006/05/post_551.html



本田透さんのHPしろはたを読むと『素人の男の子がオタクの女の子を好きになったばっかりにアキバ系オタクライフのいろはを修行させられる羽目になるという漫画+小説がメイン』となっています。


これは、好きになった女の子がヲタクだったために、どんどんヲタク修行をしていって、その子に相応しい男になる(笑)という成長物語なんだが、その過程でコラムによるヲタク文化の紹介が入る紹介本になっている。でも、小説の読者と、紹介コラムを読む(=その作法を知らない)人って、異なるんですよね。


もともと、僕はヲタクのコセンプト本とかは、ほとんど読まないし興味がない。それに表紙から僕の興味とはかなりかけ離れているので、かなりどーでもいい気持ちで読んだのですが、中身は、はっきりいっておもしろかったです。なかなか良質で、びっくり。さすが本田透。ヲタク世界のビルデゥングスロマン(=成長物語)という感じで、、、、、けど、おしいんだよ!!。売り方がまずい。ライトノベルにしたほうが、売れたかもしれない・・・・・とか思ったんです。


いや、なぜライトノベルにしたほうが、という感想になるかというと、この本の帯びや置いてある場所、題名を考えると、本屋における販売の場所が・・・つまりマーケティングが、非ヲタクの人に、ヲタクの世界にいらっしゃいという初心者導入本になるはずです。『二次元へいきまっしょい!』というのは、二次元を愛する種族になりましょうという呼びかけですからね。帯びに「一般人の方がこれ1冊でオタ世界がわかる」とあるんですよ。あれ、ミスだと思います。


・・・・内容が小説なんですよ。それに絵がついている。とすれば、ライトノベルですよね。だから、売る為のコンセプトと中身が、あまりにずれているのが、非常に違和感となって読後感じました。とりわけ、個人的にはライトノベル(=小説)としての出来がなかなかにいいだけに、売り方とのミスマッチ(=売り方は、手に取る動機とイコールですから)が凄い大きな違和感になってしまいます。


評価としては、まずマーケッティング戦略(=①誰を購買ターゲット層とするか?、②その購買層にいかに手にとってもらうか?)が、ミスリーディングしている。


だから位置づけが、難しい作品だなぁ、、、と思いました。中身自体は、非常に練られているし、かなりも面白いと思うのですが、対象読者が、どうしても想定できなかったんで、そう思ったんですよ。ある意味、おしい、、、と。 本田透のライトノベルです!として売ったほうが、絶対に売れたと思う。それならば固定ファンもいるしそこそこの売上があったと思うのだが。たぶん、売れなかったと断言できる。


そもそも、マンガ批評などヲタクを分析したものは、儲からない・売れないといいます。新書系やなんというか、ヲタクの世界を解説しましょうとかいうものには、需要がないようなんですよね。だから、こういうヲタク関係の書物で売れるのは、コンセプトに特化したものが多い。写真集やイラスト集などの大型本で、キャラクターを前面に押し出したものや、『メカビ』とか『現代文化視覚研究会』とか雑誌形式がベターだと思います。これは、編集者さん自身もおっしゃっていましたね。それならば、購買層も想定できますしね。

メカビVol.02
ゲームラボ特別編集 現代視覚文化研究
ツンデレ大全 完全保存版—僕たちの大好きなツンデレキャラが大集合!!
本田 透
電波男
本田 透, とんぷう
キラ×キラ 僕と先輩とへんないきもの
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田中宇の国際ニュース解説 2007年1月23日 http://tanakanews.com/ から引用

http://tanakanews.com/070123korea.htm



★北朝鮮問題の解決が近い

6カ国協議の最終目標は、2005年9月の前々回の会合で「北京宣言」として発表されている。それは「北朝鮮が核開発をやめたら、アメリカと日本は北朝鮮への敵視をやめ、北との国交を正常化する」ということである。北が核開発をやめたら、アメリカは北との国交を正常化するという宣言は、ベルリン協議の直前にヒル国務次官補が行った演説でも改めて表明され、アメリカの公式な約束であり続けている。
http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601101&sid=a6NEOcShPZM0

 ここで問題になるのは「北朝鮮が核開発をやめる」とは、具体的に何を指すか、ということだ。2003年のイラク侵攻前、アメリカはイラクに対し、大量破壊兵器の「完全な、検証可能な、不可逆的な破棄」(Complete, Verifiable,Irreversible Dismantlement、略してCVID)を求めた。

引用




*****************




■情報を解釈するということ


佐藤優氏のスパイ小説(←ではないが・・・)と24を見ていて、情報分析官の重要性を知って、スパイの機能の眺め方や国際的な情報の内容について、知見が深まったと書いたが、これもそう。

こういう情報も、ただ単に05年の9月に「北京宣言」があっただけではなく、イラク宣戦に対してアメリカは、CVIDという対応しようのない要求を突きつけて、戦争に突入したという情報の詳細を理解して、それで他の情報を分析することができれば、物事の判断の精度が相当違ってくる。これ自体は、ようはオプション(=選択可能性)なので、これをもってアメリカは北朝鮮と戦争をするつもりはないとは単純にいえないが、それでも


大量破壊兵器の

完全な、検証可能な、不可逆的な破棄
(Complete, Verifiable,Irreversible Dismantlement、略してCVID)


これは文章で書かれれば、そうかと思うが、、、その中身が、対応不可能な要求をつきつけて相手を追い詰めるアメリカの戦争突入時の作法ということの現代的形態と理解してみると、相当異なった印象を持つ。なぜならば、北朝鮮の外交交渉担当が、もっとも最初にアメリカとの交渉で決めなければいけないのは、このCVIDの定義について、ということになる、この定義の要求度合いで、アメリカの交渉の硬化姿勢から軟化姿勢までの姿勢を識別できるからだ。こういう仮説を持っていると、世界のニュースは面白かろう。当たる当たらないは、あるだろうがね。





*****************




▼北朝鮮問題と多極主義

 前回の記事の末尾で紹介したように、先日フィリピンで開かれたアジア諸国のASEAN+3(中韓日)のサミット会議では、北朝鮮に核廃棄は求めるが、同時に北が経済発展できるよう国際貿易振興策も行い、北を追い詰めず、時間をかけて問題を解決していく方向性が検討された。今後、アメリカが北朝鮮に対する強硬策を緩和するとしたら、その後の北朝鮮問題は、中国と韓国が先導して「アジアのことは、アジア人がアジア式に解決する」という流れの一つになる。
http://tanakanews.com/070118UN.htm

 私の以前からの洞察は、ブッシュ政権は2003年に6カ国協議の枠組みを作って中国に無理矢理に先導させた時点で、すでに「アジアのことはアジアに任せたい」と考えており、そのために北朝鮮の問題を米朝2国間協議ではなく6カ国協議で解決しようとしたのではないか、ということである。これはブッシュ政権が「単独覇権主義」のふりをした「隠れ多極主義」であることの一つの表れであると考える。
http://tanakanews.com/g1031asia.htm


(強調は、管理人)

中略


私の分析が正しく、しかもアメリカで多極化の黒幕であるチェイニー副大統領がCIA機密漏洩スキャンダルなどで辞任しない限り、北朝鮮問題は今後1-2カ月間、つまり2月から3月にかけて解決していく。それと並行してアメリカはイランと戦争を始めて中東大戦争になり、アメリカは北朝鮮どころではなくなり、東アジアの問題は、中国を中心としたアジア内部で解決されていく傾向を強める。

 日本は、その大転換の中で、事前の準備もろくにしないまま、従来の対米従属一辺倒の国是をやめて、別の国家方針を持たざるを得なくなる。




******************




■仮説を持って世界を眺め、解釈を武器に現実へ


僕は、この田中宇さんという人のこの記事が凄い好きでいつも貪るように読んでいるけれども、別に、彼の意見が正しいと思っているわけではないんですよ。そうではなく、世界戦略という大きな仮説(僕的な言い方でいうと物語)をちゃんと意識して、断片的なニュースや情報を解釈するという知的な姿勢が凄く見えるからなんです。だから、記事が凄く面白い。日本のニュース番組がクソつまらないのと比べると、凄い差だと思う。こういう大きな仮説を持って(その正しさは別にどうでもいいとおもう)物事を解釈していくことは、重要なメソッドで、これがないと、世界は無味乾燥な情報の断片の集まりと化してしまう。


こういう仮説を持てば、ギャンブルのように、次の一手がどう転ぶかという知的興奮を味わいながら、世界を眺めるようになる。そして自分なりの解釈で世界を眺めるようになると、その解釈でわかった原理を、現実に試したくなる。そうして、自分自身が大きな物語のプレイヤーになって行くものなんだ、と僕は思います。

   
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■子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070121/1169414343

■3億円あっても楽しくなれない理由は、子供が知っている
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060809/1155111327
分裂勘違い君劇場さんより


凄いビジネスパーソンの意見に偏っている気がしないでもないが、ここでいってることは、社会学者の開祖の一人、エミール・デュルケム『自殺論』で書かれていることと同じ。

デュルケーム, 宮島 喬
自殺論

この人は、社会を分析するのに、自殺に注目してみた。


人は、どういう理由で、自殺するのか?


大きくは二つの理由がある。


①いきなり貧乏になったり、社会的な自分の関係をすべて破壊された場合


つまり、いきなり破産したりした場合ですね。これはよくわかります。


けれど、2番目の理由が凄く面白い。


②いきなり大金持ちになったりした場合


なんですよ。


えっ?って思うでしょう。


えっとね、ここで①を抽象的に分解してみるとですね、


①は、人間の持つ「実現可能性」という力を奪われたという場合なんですね。つまり、金があるとか、権力があるとか、そういった社会の中で「なにかを実現する力」を、いきなり奪われると無力感で人は生きる気力を失ってしまうんです。


これは、実感的によくわかりますよね?


けど、じゃーいきなり金持ちになる!というのは、社会での「実現可能性(=何でもやれる)」が増えるわけだから、うれしいじゃないか?って思うでしょう?。


ところが、ほとんどの確率で身の丈を超えたお金を獲得した人が、廃人になったり、いっきにお金をなくしてしまったり、はてには自殺してしまう傾向が強いのが調べてわかったんですね。


これはね、つまり「自分の等身大の能力を超える実現可能性」がいきなり与えられてしまうと、人間にはそれをコントロールすることができなくなって、逆に、あまりの大きな実現可能性の束の前で身がすくんでしまって無力感にさいなまれてしまうんですよ。


つまり、お金があっても、力があっても、それを『使いこなすだけの能力』がないと、人間にとっては不幸なのですね。



人間の幸せとは、自分の等身大の能力の届く範囲(=それがその人にとっての世界のすべて)で、存分に、自分の能力を発揮して、人に承認されることなんですよね。


だから、幸せはお金では買えないし、僥倖の宝くじでは、獲得できない。もちろん、等身大の範囲内のお金ならば、そりゃーあったほうがいいですが。


つまり、「幸せはお金で買えない」けれども、いいかえるとお金を稼ぎ出す力があると、「そのこと自体」は幸せそのものなんですよ。お金=結果ではなく、それを獲るための手段があることが幸せなんですね。


結局、世界を楽しむ力は、自分の等身大で手が届く範囲を、どうやって広げることができるか?にかかっているんです。


それって、いろいろな意味ではありますが、勉強なんですよね。


勉強とは、この世界を把握しコントロールしたり理解する技術の基礎的な束ですから。それに、それを大規模な形で使用するとすれば、ほとんどの自己実現は、大きなプロジェクトとかになっているので、たくさんの人とコミュニケートして、説得、交渉、承認する、される必要性があります。そのためには、やっぱり基礎的な教養や言語が重要になるんですよね。プロジェクトって、難しいいいかたですが、別にビジネスでなくても、なんでも同じですよね。


そう教養が重要なのは、(その定義はさておき)、それがあると、世界を楽しめるからなんですよね。


まぁそういう意味で、僕は、教養主義の信奉者ですね。


とりあえず、物語も背景や、様々なことを知っていればいるほど深く読み込んで、楽しめるのだと思うのですよ。人生、一度しかないので、楽しんで生きたいですよね。ただ、今の多様性のある時代では、教養の中身に関しては、様々なパターンがあるため、一概にこれこそが教養の本道という言い方ができないところが難しいところ。金を稼げる知識が、必ずしも、人生の正しさにつながるとは限らないからね。まぁ、まったくなくてプアワーキングに陥るのもしんどいけれども。


あっ、勉強自体は苦痛ではないか?という意見もあり、それは正しいけれども、より高級な楽しさを知ろうとすると、努力が必要なのは当然。世界は競争で満ちているんだから、簡単ではないですよね。「だからこそ」のおもしろさでもあるわけだし。

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昨年、渋谷Bunkamuraシアターコクーンで、『タンゴ・冬の終わりに』を見に行く。友人である響太さんの人生の中でも、5本の指?だっけにはいると力説されたため、立ち見になってしまったが、見に行く。記事は昨年・・・・もう既に06年の年末のことだが、記事を掲載し忘れていたので。ちなみにきっかけは、アメリカンダンスアイドルでアルゼンチンタンゴの課題があって、同じ音楽が流れた途端、凄まじいイメージの嵐が自分の体内に浮かんだため。この舞台は、傑作だったんだな、と思った。イメージが身体の中を渦巻いて蓄積しているのだから。


■『タンゴ・冬の終わりに』作:清水邦夫 演出:蜷川幸雄@Bunkamuraシアターコクーン渋谷

http://ameblo.jp/petronius/entry-10020109558.html



■mmpolの日記より
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20061116


>清水邦夫・作、蜷川幸雄・演出。22年前1984年の初演は衝撃的だった。台本も演出もいい。蜷川は清水と組むと良さが発揮できる。本当に群衆の動かし方がすばらしい。今回、主役の清村盛を演じた堤真一は好演していたが若すぎる。台本の設定も40歳代ではなかったか。口跡もとても良いとは言いかねた。清村のかつての恋人水尾を演じた常磐貴子は良かった。終わってからチラシを見て彼女が常磐貴子だと知った。見る前に名前だけでも知っていたのはこの子だけだった。清村の妻を演じた秋山菜津子も若すぎる。どうしても初演の平幹二朗(清村)や松本典子(妻)と比べてしまう。
引用:mmpolの日記より

作 清水邦夫
演 出 蜷川幸雄
出 演 堤真一 常盤貴子 秋山菜津子


■身体の記憶に残る舞台~狂気は空間を伝わって人の心に感染していく

見る価値はある、凄い舞台だった。とりわけ、見ている間も、終わったあとも常にイメージされた感覚は、マターナルなものへの体内回帰のイメージで、大野一雄さんの舞台が終始、思い出された。

一言で云うと、

・論理的にはさっぱりわからないが(笑)

・美しく神秘的なカタルシスのある舞台だった。

だからこの作品は、論理的に訴えるのではなく、イメージと感性で捉えるべきもに感じた。

僕は前情報ゼロでこの作品を見たが、見ている最中に強烈に思ったのは、これが、

・60~70年代の左翼的な感性を感じた・・・

その中身を具体的に云うと、

・体内回帰願望だ・・・・

学生時代に、舞踏の舞台を大学に呼ぶというプロジェクトがあって、暗黒舞踏家の大野一雄さんとその息子さん慶太さんを招待するのを(僕の仲のよかった教授が大ファンだったのだ・・・経済学部の教授なのに、なぜか演劇マニアと言うヘンな人だった)手伝ったのだが、その時の

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E9%BB%92%E8%88%9E%E8%B8%8F

http://www.kazuoohno-exhibition.com/

論理的ではない、物語空間や演劇演出というものが、初めて理解できた気がしたのだが、その時の感動を思い出した。それと同じ雰囲気、空間密度、演出の志向性を感じた。 アニメやマンガ、小説には、そもそも二次元の媒体なので、この空間の密度を変化させるということが、演出できない。前に、少年漫画とは、主人公の狂気を仲間に読者に感染させるという非論理的行為があるものが、傑作であると論じたことがあります。


■少年漫画の王道とは?①~スケール勝ちとは時間軸の因果が逆転することをまわりに感染させること
http://ameblo.jp/petronius/entry-10019433285.html


ここで少年漫画を対象としていますが、僕は、それは演劇でも本当のリアルの人間関係でも、この感情の感染というものが、重要な分析ポイントであるといつも思っています。


というのは、物語って、破綻しているじゃないですか?。必ずしも論理的ではない。そして、それは僕らの人生でもそうです。リアルな人間関係や、シゴトのプロジェクト・・・とりわけ恋愛や夫婦関係、親友との関係などがそうですが、すっごく論理的じゃないですよね(笑)。僕は昔、どうしてこう人間関係や物事って、わけのからない方向へ進むんだろうって、いつも思っていました。


たとえば、すっごい好きな子に、これでもかって、思いを伝えても、ぜんぜん好きになってもらえなかったり、、、逆にどーでもいいやーとバカにしていたら逆に好かれてしまったり・・・・。シゴトでもそうです、、、シゴトをするときには・・・・・僕は子供の頃から頭の回転が速くて(笑)、すぐ物事の終わりが見えてしまう批判者精神の持ち主だったので、すぐに「物事ができない理由」というのを、思いついてイヤな気分になって、なにごとにも手を出さない非協力的なところがありました。いるでしょう?そういう人。弁は立つし、頭はいいのだけれども、できない理由ばかり並べるイヤなヤツ(笑)。

けれどね、、、これでもかって「その物事」が「できない理由」を並べ立てても、そこに参加する人間の意気込みや雰囲気で、一気に逆転してしまうことが多々ありました。今でもそうです。僕は、頭で考えているだけでは、人生は絶対にわからない。すべては体験して、実践してみないと、本当にどうかはわからないって今では思います。


そして、自分が論理的な道筋で、不可能なコトに全力で挑戦するとき・・・・・ようは①テクニカルな方法論と②情熱(モチヴェーション)が合わさった時には、かなりの確率で人間にできないことはないって思うようになりました(まぁ無理なものは無理ですが(笑))。とりわけ、数年レベルで、この不可能なことを思い続ける意志の力が持続する(持続するというのは24時間持続し続ける相当しんどいヤツです(笑))と、信じられないようなことを人間はできます。ナポレオンヒルとか、あんまりああいう自己実現系の話は、僕は結局できない人の足掻きだと思うので、あまり好きではないですが、自己実現が意志の力によるというのは、事実だと思います。


えっとね、何がいいたいのっていうと、けっこう気合で人生変わりますよ(笑)ってこと。ただ、一時的な気合ではダメです。非常に長期間にわたって、休みなく気合が高い状態を維持するには、やはり心の奥底から湧き上がる動機(=モチヴェーション)がないと、人間の気持ちは、行動に転化して習慣化しません。人事系の重要な概念で、コンピテンシーというものがありますが、これは動機と行動(=習慣化)が一致している状況をさすもので、頭で思っているだけでは意味がないという意味でもあります。だから、自己実現系の本やナポレオンヒルや脳内革命などが、ほとんど意味がないのは、本などの受身メディアから人の心が影響を受ける率というのがいかに小さいかということなんですよね。しょせん、人間の心は、ナルシシズムの檻の中にあり、そこに届くメッセージというものは、非常に少ない。受け取る側によほどの準備がない限り、外からの情報では、人はほとんど動かないんです。そんな簡単に動くようでは困りもしますからね。


だから、逆にいうと、人の心にメッセージが伝わってしまうということは、凄いことなんですよね。そして、もっとも人の心や行動を縛り変化させるには、実は、祭りなどの聖なる儀式がいいということは、古代の民俗学などの研究で既に分かっています。それは、カタルシスなどの特殊な心理効果を、全身で浴びるからなんですね。頭ではなくて、身体丸ごとを、空間を変容させた特殊な状況にほうりこむことが、もっとも人を支配し洗脳するのに効率的です。ファシズムが、マスゲームやオリンピックなどの大きな祝祭空間をつくるのが好きなのもこの理由です。


そういう人類史における祭りとか生贄などの聖なる儀式の類型の一つが、演劇なんですよね。といわけ、アングラ系の暗黒舞踏やこうした聖なる空間を演出するものには、僕は演劇の脚本の筋の論理性などではなく、どのように空間を特殊なもので満たすことができて、そこに参加する人々の心や身体感覚を変容できるか?ってのが、勝負になるんですよ。


この作品は、「それ」が凄く良くできていた。僕が過去に見た演劇(は少ないが)中でもダントツに、身体の記憶に残る舞台だった。

■幻想に取り込まれた男の狂気と現実の狭間で


これは、、、たぶん、演劇を見慣れている人が見ると、凄まじい衝撃を受ける作品かもしれない。あれほど芝居を見ている響太さんが、五本の指に入るというのは分かる気がした。というのは、むしろ典型的な演劇というよりは・・・・舞踏のような空間の密度の再現を志向したものに感じました。 だから、脚本は少し考えたりしないとわかりづらくても、あの圧倒的な人数のスローモーションや狂気の桜、、、アルゼンチンタンゴの音楽の創り出す、不思議な空間密度が、身体に刷り込まれてしまうのです。

基本構成は、

①幻想に取り込まれた男の狂気

②現実

①と②が、交互にリンクして、わけのわからない空間を現出し始めるる、という手法。

この手法によって、観客を通常の『現実認識からズレた』空間に取り込んでいくということが、目的の舞台。

全編が、古い映画館という、幻想を映し出す空間の中のみで話が進むことも、これが、体内回帰的な自己幻想空間への希求を非常にストレートに象徴している。 だから、この舞台で筋や理由や、なぜセイが狂気に取り込まれたのか?などの論理的解釈や演劇的ドラマツゥルギーを追うことには(できないことはないが)意味はない。 そうではなくて、その取り込まれたズレた空間密度の中に観客が『取り込まれていくこと』そのものに価値がある、意味があるという舞台だと思う。 だからこそ、その体内回帰が崩壊する時に、映画館の壁が壊れて桜が舞い降りるというラストの演出は、現実への回帰という意味で、象徴的でした。 そこに、密度を上げた空間をぶち壊す、というカタルシスもありますしね。

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■主人公はもっと老年の俳優を

ただ、、、、もし、これが、ある種の閉じ込められた魂の空間の内部の幻想を描き出そう取るするならば・・・


間違いなく、主役の堤新一が、若すぎるように感じた。


いや、彼が若いというのは、、、致命的に、まだ未来の希望を肉体そのものを感じさせてしまうので、演出として致命的であった気がする。 今日行ってはじめて、常盤貴子が出ているのを知ったのだが(笑)、、、だからキャストとか前情報は本当にゼロだったんだってば(笑)、もっと自分の幻想空間に取り込まれて狂気になった男と、白い若い女性の対比を鮮やかにするためには、堤新一役のセイ(漢字はわからない)がもっと老成している人間であったほうが、よかったのでは、と思う。


ちなみに、感動するぐらい、堤新一&常盤貴子は、セリフがヘタだった(笑)。演劇がよくわからない僕でも、それはわかる。・・・・それに比較して、プロの演劇俳優は上手かった。。。。段田さんとかマジ上手かった。が、「それにもかかわらず」この二人には、確かに華があった、、、それで演出が100%成功しているとは云いがたいが、さすがだな、とは思った。とりわけ、常盤の存在感は、僕はなかなかだったと思う。それゆえに、主人公の若さが少し軽かった。


かなり閑話休題。



■舞台の帰りはラーメン

立ち見だったので、腰が死ぬほど痛くなった。帰りにどうしても博多天神ラーメンが食べたい、と妻が云うので、、、妻はいつも渋谷に来るとここに食べに来る、、、食べた。 そういえば、僕が妻と生まれて初めてデートしたのが、Bunkamuraの下の美術館で、たしか印象派の展覧会で、そのあとにアフタヌーンティーで軽く食べたのを覚えている。懐かしいなぁ。やっぱり、平日の夜のデートは、なんとなく楽しい。お互い、スーツ姿とか会社用の外行の姿なんで、なんとなく不思議な感じがした。 いつもと違う雰囲気は、ちょっと、気持ちがウキウキする。 ちなみに、コメディ好きの妻は、さっぱりわからない(笑)といっていたが、、、、めずらしくニコニコしていたので、楽しかったんだと思うので、僕も嬉しい。 こういう暗い話は、絶対嫌いと思ったんだが・・・。 いや、、、僕は見に行く価値があった。これは、凄い作品だ。 やっぱり、インプロビゼーションのある生の舞台は、いい。


****************


■あらすじ&概説


http://info.pia.co.jp/et/promo/play/tango_fuyu.jsp  


「タンゴ・冬の終わりに」は役者を廃業し、日本海近くの映画館で隠遁生活を送る狂気にとりつかれた清村盛と、かつての役者仲間の再会を中心に描かれる追憶の物語。

1984年に初演。2年後の86年に再演。1991年にはイギリスのエディンバラのキングス・シアターで上演後、ロンドンのウエストエンドのピカデリー劇場で約2ヶ月に渡って上演された。このイギリスでの上演は、演出家をはじめとするスタッフは日本人、キャストはイギリス人という組み合わせで上演。当時としては画期的な公演で、絶賛を浴びた。主役はオーディションで選ばれたアラン・リックマン。最近では、映画「ハリーポッター」のスネイプ先生役でおなじみのイギリスを代表する演技派俳優だ。

このイギリスの再演から15年、日本での再演から数えると20年──そして、今年の11月、待望の上演が決定した。注目のキャストは、主役の清村盛役に堤真一、妻ぎん役に秋山菜津子。昔の役者仲間であり、恋人であった名和水尾役に常盤貴子、その夫の連役に段田安則ら、名役者たちが揃い踏みだ。

蜷川幸雄が満を持して贈る幻の名作、どうぞ、お見逃しなく!!


§あらすじ§
日本海に面した町の古びた映画館が舞台。──清村盛は有名な俳優だったが、3年前に突然引退して、妻ぎんとともに生まれ故郷の弟が経営している映画館でひっそりと暮らしている。
そこへ、昔の俳優仲間であった名和水尾と彼女の夫、連がやってくる。かつて盛と水尾は激しい恋に燃えていた。
訪れた水尾が見たのは、すっかり狂気にとりつかれてしまった男の姿だった…。

■[評]タンゴ・冬の終わりに(Bunkamura)/学生紛争の最後衝撃を再現
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20061108et05.htm


撮影・谷古宇正彦 まず冒頭で息をのんだ。映画館の客席を模したセットには若者が87人。銀幕を見つめて表情豊かに笑い、ため息をつく。だが、屋外で銃声や爆発音が高まると、一人、一人がストップモーションで逃げていく。

 おそらくは1970年代の学生紛争の終えんを象徴的に描いたのだろう。青春が終わり、希望がついえた瞬間の衝撃のすさまじさが想像出来た。清水邦夫の脚本を蜷川幸雄が演出した84年初演の舞台の再演だ。

 有名俳優だった盛(せい)(堤真一=写真左)は突然引退して心を病み、妻のぎん(秋山菜津子)と弟の重夫(高橋洋)が営む日本海沿いの古い映画館で暮らしていた。そこに盛からの手紙で呼び出された元恋人で女優の水尾(常盤貴子=同右)が現れ、夫の連(段田安則)が追って来た。

 盛は俳優時代の記憶を失ったが、常に何かの役を演じるように振る舞い、幻の孔雀(くじゃく)探しに没頭する。ぎんは夫を救うためには手段を選ばない。一方、水尾は盛との恋が真実だったかを確かめようと狂気に沈み、連は焦燥感を募らせる。

 蜷川は若き日の衝撃や空虚をよみがえらせるために辛抱強く演出したに違いない。その成果が冒頭の熱狂、秋山の背中ににじむ悲しみ、常盤の声を震わせながらの懇願など登場人物が様々な激しさをみなぎらせる場面に結実した。

 清水の台本に込められた詩情は、盛の回想に現れるブランコ、舞台を横切る祭文を歌う男たちなど、様々な美しい場面や、冷ややかに響く「カノン」やサティの名曲と共に心にしみた。

 堤と段田は昨年の「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」に続く清水・蜷川作品への出演だ。堤は丁寧に感情を紡ぎ、狂気に陥る前の盛の苦悩を浮き上がらせた。段田はさすがにうまい。明るい振る舞いの節々に危うさを潜ませ、ラストの悲劇を暗示した。(祐成秀樹)

 ――29日まで、渋谷・シアターコクーン。

(2006年11月8日 読売新聞)


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