テーマ:

2006年も皆様ありがとうございました。


①ブログを通して出会った人々へ


 こんな書き散らしのブログに訪れてくださって、さらにはコメントなんかくれちゃったりする人には、本当に感謝です。今年は、ブログの年だったなーと思います。とりわけ、このブログやmixiを通して、プライベートの友人が、しかも自分が普通に手が届く範囲を超えた知り合いができたのも、なかなか収穫だった。この機能がなければ、たぶん出会わなかった人と出会う、というのは、凄いことだと思う。社会人になると、なかなか自分の趣味や内面の世界を共有する友人というのはできにくいものだし、世代や自分が所属する空間を越えてとなると、なおさら難しい。もともとはただ自分の中のモヤモヤしたものを吐き出したり、読みの技術やレベルの向上のためのメモみたいなものだったのだが、まさか、それを通して深い友人ができようとも思わなかったし、様々な出会いがあるなんて夢想だにしなかった。なんか出会い系みたいで、怖くて最初はオフ会もいけませんでしたし(笑)。


 これも、何とはなしに、04年の5月のGWにこのブログ『物語三昧』をはじめて、、、書き続けていたせいなんだなぁ、、、と感慨深いです。もう、1年と8ヶ月くらい書いているわけだ・・・よく飽きないなーと思います。そんな時間があるわけでもないのに何とかやりくりして、結構な頻度で書いているし。言いたいことを書き散らしているストレス解消なんだけど。誤字脱字が多いし説明不足なんで、恥ずかしいのだが・・・・・。 でも、これ以上の長さをアマゾンのレビューを書いていても、一向に人間関係は広まらなかったので、ブログやSNSという機能がいかに革命的か、ということがわかります。

 先日にオフ会で会った人で、僕のブログを見てFate/StayNightをやったとおっしゃっていて、その人は凄い忙しい人なんで、とてもゲームする時間はないようなんだが、僕のブログで高評価ならば!って思ったらしく・・・・いつも参考にしてくれているみたいで、見ず知らずの人が、そうやって、影響を受けて、何かしらのものが伝わっていると思うと、凄い嬉しいなー、と思う。 もともと、僕はクリエイターとかモノを生み出す仕事をしているわけではないので、自分の作り出したものが人に広がるのは、とても不思議で、そしてうれしいです。そんな体験をしようとは思いもよらなかった。凄い嬉しいです。

なにごともやり続ける、というのは、何がしかの力を生むものなんだなーと思う。


でも、、、こういうものって、お金では買えないものなんだよね。体験だから。



パソコン 20万。



インターネット代 6000円/月



ブログにかける時間・・・たくさん(笑)




そこで出会った人々と体験・・・・プライスレス。

みたいな(笑)。ちょっとリズム悪いけど。




②2006年の振り返り~ただ一度しかない出会いのときを


>本棚の整理同様、web上においても自分の所有物や、観た・読んだものをきちんとリストアップしないではいられないのがオタク。感想文はまだよいとしても、主観入りまくりの☆や点数をつけて後々検索しやすいようにしたりするのが特徴。またそれにはランク付けという意味合いもあり、とかくオタクはこのランク付けが大好き。年末には必ずその年のベスト10など挙げて総括したり、実は一年間も我慢できないので上半期ベスト10などもしていたりします。さらに行き過ぎと、とにかく作品名がずらっと画面に並んでいるのが心地よいがため、ただ所有しているだけの本をデータベース化したり、今日買った本や気になっている本を感想もなしでひたすら律儀にblogに載せたりします。

孫引用ですが、海燕さんのところより

http://d.hatena.ne.jp/kaien/



 そういう意味では、僕は、全く整理していないし、整理する動機付けも薄いので、ヲタクではないのかなぁ(笑)。読書は体験なので、順位がつけにくいです。所有欲は薄いです。なぜならば、体験は所有できないから。僕は常に体験・・・・インプロヴィゼーション、ただそのときだけ、もう戻らないもの、ってのを大切にしていきたいと思います。(って、ただ単位整理が苦手なだけじゃー(笑))。まっ、この辺は、整理できないよーそうだねーと言った翌日ぐらいに、凄いちゃんと整理したリストを載せた有閑マダムさんに無言で、責められているようで、苦しかったのですが(笑)。


「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、……愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」。
(伝道の書三章一~九節/聖書)



 僕はこの聖書の言葉が死ぬほど好きなんですが、キリスト教があまり好きではない僕が何故にこれが好きか、、、ネタばらしをすると・・・・海燕さんは、わかるかもしれませんが、僕の最も尊敬する人では常に5本の指に入る(笑)、名探偵の伊集院大介氏(by栗本薫)の名セリフだからなんです。この人、大好きなんですよねーーー超そんけーしている。僕の人生の教訓は、たいてい漫画や小説から来ています(苦笑)。

 

僕の理想ですね、この人。見えないものを見えるようにし、常に事実よりも真理を・・・ほんものを深く愛し、そして、穏やかに微笑んでいる。



まっ、程遠いですが(笑)。



話がまたまたずれましたが、ようはね、読書体験も、読書を通して人と共同幻想を結ぶ体験も、すべては、一度しか・・・「ただのいましかない」、もう戻ることも再現することもできない、永遠の今なんですよね。そういうものを、ブログやオフ会や、様々なものを通して、たくさんの人と共有できる、そういうことに素直に喜びを覚えます。


 りゅーりゅーさんとゆえゆえの可愛さに熱く語ったり、樹衣子さんとアフリカ問題に憂いたり、とらさん、いちみさん、つなさんらと小説にはまったり、いずみのさんとはしくんと漫画の読み方や少年マンガのあるべき姿に悩んだり、海燕さんと物語の見方が同じだったことに感動したり、探検はらはらさんの同人誌に落涙したり、yutaくんとフランスの暴動について語ったり、楊さんと三十路同盟を結成したり、名もなき読者さんのコメントからはじまったチャオ編への語りが広がったり、時には書き手やクリエイター本人からメールが来たり、響太さんに進められた舞台で感動したり、、、、挙げたらきりがないほど、たくさんのシーンや感情が思い浮かびます。


 その1ページ1ページが、まるで小説のようです(くさすぎ?)(笑)。でも、社会人になって、これほどプライヴェートが、拡大したのは初めてです。社会人になり、交際範囲や移動範囲は凄まじく拡大しました。それこそ日本を問わずアジア中出張があったわけだし、、、、。学生時代は、イラン商人や中国人やどっかの企業の社長とかとがっちり朝まで飲むなんて、想像もしていなかったですよ。けれども、そのかわりに、プライヴェートは限定された大切な人々・・・・妻や親族、親友など、いわゆる社会学でいう心の許せる親密圏は、少ない時間を有効に濃くというのが、生活のスタイルとなり、、、、なかなか自分の所属する環境や年齢から来る必要性を共有する、特定の人間以外とは話があわなくなっていきます。この頃は忙しいので、同じ状況の人としか話が会わないことが多いのです。社会人は忙しすぎるので、なかなか時間は割けないし、平気で次に会えるときまで友人とですら1年や半年ぐらい過ぎ去ってしまいがちです。親密であればあるほど、別に今でなくてもいいや、と思ってしまいがちですから。

 そういう意味では、たくさんの体験をもたらしてくれて、そして一人で閉じがちであった読書体験や映画鑑賞体験を、たくさんの人と共有体験できたことは、このブログに感謝です。2006年を振り返って、とても幸福な出来事だったと思います。みなさん、ほんとうにどうもありがとう、お疲れ様です自分(笑)。って、別に辞めるわけじゃないんですがね。なんか感傷的ですね。年越しは、妹のところや実家に泊まりに行くので、一瞬だけ、行方不明です。では!!。




■追記~読書人の仲間を持つこと


 この前会った人に、小説はあまりに時間がなくて、なかなか読む気合が起きない。なぜならば、駄作だったときに落胆が大きいし、時間を無駄にした感が強くて、とてもではないが手が出せない。、という話があった。ましてやゲームなんてなおさら遠ざかる、と。けれども、読みたくないわけでもやりたくないわけでもないんですよね。うんうんわかるわかる。だからこそ、やはり根本的な趣味が共有できていたり、相互の趣味が分かっている人のオススメって重要なんですよね。読書人の共同体みたいな。僕も、小説は実はなかなか自分が特殊に追っている人以外は、読むきが起きない。それは、上記と同じ理由。僕の読書体験は、ほとんどが、通勤の行き帰りの約2時間のみで読み終われるものをベースにしている。漫画とライトノベルとかが多いのはそのあたりが理由。その時間で、会社でのプレッシャーを忘れて切り替えるために読んでいるので。それを超えて読むのは、つなさんとかとらさん、いちみさんに薦められたり借りたり、よほどいいと思わない限り、手が出ないもんなー。そういう意味で、ここを通して、また来年もいいものに出会えるような情報交換もできるうれしいです。いずみのさんにも、たくさんマンガ借りているし(笑)。個人的には、もう少し小説やアメリカ関係の話を書きたいところだが・・・パワーがないっす。


AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:
  

評価:★★★★★星5つ

(僕的主観:★★★★★星5つ)


絵柄から云って、こういうリアリズムに近い・・・劇画タッチといおうか、萌えのカケラもないものは、きっと売れないだろうと、最初に一巻を見たときに思いました。僕はマンガに癒しを求めている傾向が強いので、女の子がかわいくないだけで、かなり減点です(笑)。けど、という感覚「にもかかわらず」すっげーエネルギーを感じてしまったんですね、これは・・・すごいかもって。


そこからはや、13巻目。


もう名作になるだろう、といってもいいかもしれない。この作品は、近未来の宇宙開発を描いていて、それも現代からほんの数十年先ぐらいのイメージの時間設定がなされている。それが故に、科学技術や政治体制などにかなり気を使っていると思うのだが、きっと、こういうものは気を使えば気を使うほど、本職の人からはいろいろなツッコミが入ると思う。たしかに、政治体制で中国と米国との冷戦が・・・というのは、話としてはわからないでもないが、、、うーんそうなるか?っていろいろな突っ込みもしたくなる(笑)。 一応そこらへんの専門家の立場としては。けど、この作品を、名作たら占めている部分は、そういうガジェッド的な部分ではない、と思う。作中で、ロストマンと吾郎がなんどもしゃべっているが、この作品の核は、


日常に埋没できず、極地を目指しててしまう人間の性(さが)


という人間存在の大きな動機・ドラマツゥルギーを作品の軸として常に見失わないで、一貫して描き続けているからなんだと思います。つまり、宇宙開発も、ロケットの打ち上げも、戦争も、なにもかもが、『それ自体』を描きたいのではなくて、そういった極地・極限状態でないと息が詰まってしまうという人間のどうしようもない性のようなものを、追求しているんですね。そう考えるとこの作品は、見事なくらいにシンプルな構成になっていることが、わかるはずです。その膨大で複雑な設計や背景の世界観の緻密さは、「これ」を表現するためのすべて装飾であるといえるのです。もちろん、物語の『どこ』を好きに思うかは人それぞれですが、少なくともこの作品関して装飾は本質ではない、と思う。だからこそ、エンターテイメントのとして、13巻も継続していていっこうに飽きないのだと思う。


■ネギま160時間目「世界が平和でありますように」 革命家は思想に殉じるべき
http://ameblo.jp/petronius/entry-10022483996.html

昨日、ここで『魔法先生ネギま!』を書いている赤松健さんの作家性について、作家主義とマーケティング(商業)意識が同居しているという意見を書いたのですが、僕の中にはエンターテイメント(物語)というものは、「売れる」=「たくさんの人に支持されて」「感情的カタルシスがあるもの」という定義をしているようです。

ある文学好きな友人に、ネギまって何が面白いのかさっぱりわからない、といわれたが、上記の定義を逆にすると、例えば僕は文学というものの定義に、「売れない」=「少ない人にしか支持されなくて」「感情的カタルシスよりも、むしろあるドラマトゥルギーやキャラクターをどこまでオリジナルに、深く描写しきれたか」が、重要な評価のポイントとなる、と思っています。

そう考えうると、『魔法先生ネギま!』などは文学的評価としては、二流の駄作と評価されるのは、その通りだと思います。高踏派的な文学的視点からすると、商業主義におもねって、オリジナルな深堀を妥協しているからです。


また『ムーライトマイル』は、その劇画タッチとシリアスな描写ゆえに、過去のアシモフなどの科学的、合理的な背景を緻密に積み重ねた意味でのSF的な評価で、ダメだしをくらったりするかもしれない。けどね、そうじゃないんだ。エンターテイメント(物語)は、文学よりも懐が深くて、集合論で考えると物語のほうが大きな枠なんだよね。つまりは、物語とは、人々から支持されカタルシスがありつつも、その中に文学的な奥深さを内包できるんです。だから、そのバランスを取りながら、同時代の読み手にカタルシスを与えつつ、同時代のたくさんの人が持つ集合的無意識を写し取ることによって普遍性に至るという到達の仕方をするんだと思う。つまりは、日本のマンガが世界を席巻する力を生み出したのは、いまだから結論出せるけど、やはり週刊連載という独得の時代反映のマーケティングシステムを津きり出したから、と思うんだよね。というのは、たとえば、この『ムーンライトマイル』のような難しい話は、エンターテイメントとして書くのは、すごく難しいんだよね。だって、専門的なモノが知りたければ専門書を読めばいいし、楽しいものカタルシスが読みたければエロ本でもいいわけじゃないですか。わざわざ、内容的テーマ的なモノを、非常にハイレベルなものに引き上げながら、読者層を理解度の低い層に設定するという行為は、そもそもたとえばヨーロッパやアメリカなどの西欧世界にはないものです。ハイカルチャーとロウカルチャーが見事に二極分化している教養主義的な世界ですからね。根本は。


つまり、これは間違いなく、日本の『源氏物語』からつながる物語の作法や、歌舞伎や義太夫落語などの江戸時代からつながる大衆文化の伝統・・・・・人々が、ほっと一息つけるもの・・・にもかかわらず、その中身をレベル低いものではなく、より自我を高みに引き上げてくれるものを内包するという形式が、広くあまねく文化として定着しているが故に発生した現象なのかもなーと思います。




■恵まれた日本人と自衛隊



『MOONLIGHTMILE』太田垣康男著  恵まれた日本人
http://ameblo.jp/petronius/entry-10002472336.html


さてムーンライトマイルに戻りましょう。上記の記事で、ここに描かれる近未来での日本人像というものの典型というテーマを書きました。戦後50年も平和に堕している日本は、世界の弱肉強食からいうと笑えるくらい甘えた意識を持っています。これは、外国で暮らしたり商売したりすると非常に良く分かって、すぐに海外至上主義かナショナリストに分化してしまいやすい日本人の自意識のあり方を見ると、よくわかります。宗教的な普遍性がない日本社会では、絶対性というものが心理の基礎にないので、常に環境によって自意識が揺らいでしまいまうのです。

アラン・ブルーム, 菅野 盾樹, Allan Bloom
アメリカン・マインドの終焉―文化と教育の危機


でもね、、、、それは確かに気が弱い甘えた自意識かもしれません。けれども、よく考えてみてください、、、その意識の根本は、「殺しあう前に話し合おうよ」とか「どんな理由があっても逃げであっても人を殺すことがこわくてできない」とか、とっても人類の理想的なこと純粋に信じているわけですよね。これって、ある種の大馬鹿者で、同時にある種の眩しい理想なんです。


馬鹿者、というのは、国際社会は均衡から成り立っていて、そのパワーゲームの均衡という現実に対して、目を背けてしまったり、理解できないで右往左往する可能性が高いのです。とりわけ国家レベルの判断が稚拙になりやすい。これをされると、日本は世界第二の経済大国であるが故に、その他の国々が非常に困ります。ゲームを理解していないトランプの相手とポーカーをするようなものだからです。


でも、こと個人に目を向けると、実は、日本人の戦後ずっと平和で殺し合いのない世界で暮らしてきた人が持つ常識感覚は、とても重要なものなんですね。競争よりも調和を、殺しあうことよりも楽しむことを、強い自意識よりも適度なヘタレを(笑)、、、などなど。たぶんもし殺し合いを平気な国の人々と友人になったら、相手は隔靴掻痒してイライラすること請け合いな純粋さです(笑)。ある意味、馬鹿なんじゃーねーの?って思われることうけあいです。


幸村 誠
プラネテス (1)

この作品でも、中東のエネルギー宇宙開発から見放された民族の一人が、テロリストになるんですが、その彼はハチマキ(日本人)に


「日本人にはわからないさ」


と語りかけています。語りかけるところが、わかってほしいということなんだな、と(笑)。


ちなみに、上記で、ずっと殺しあうことを拒否した平和な国日本は、それが故に、平和が故に起きる病理というものが突出している国でもあります。村上春樹や吉本ばななが世界的に評価されたりするのも、ようは、極端な現実(殺し合いのパワーゲーム)がない空間にいても、世界で最も極端な宗教テロリズムが発生したり、自殺率が極度にのびたり、結局は資本主義文明の最も勝者の空間であっても、こういう風に人間は苦しむんだっていうこれからの地球の大きな課題を表明しているからなんですね。

村上 春樹
アンダーグラウンド
吉本 ばなな
キッチン

うう・・・・また話がズレた(笑)。



えっと戻すと、、上記の記事で、マレーシア人のルーシートの話です。


>月面に基地を建設するネクサス計画の候補生として、それに見った援助を出すことができる日本人が当然、筆頭候補に挙がります。耕介とルーシーは、訓練の帰り道に強盗で出くわし、ルーシーは耕介を守るために犯人を射殺します。


全米でこの勇気ある行動に賞賛の嵐が吹き荒れ、耕介を差し置いてアジア人枠一名の筆頭候補に躍り出ます。


しかし「たとえどんな理由があっても」人を殺すことを容認することのできない耕介は、そのことに悩みぬきます。

http://ameblo.jp/petronius/entry-10002472336.html


この二人は、結局のところ結ばれませんでした。


そして、年月が流れて、、、今回のロケット打ち上げで日本はテロリストに妨害されるのですが、そこでこの種子島の国産宇宙ロケットプロジェクトの広報を担当している自衛官の女の子は、最後の最後で、テロリストを射殺します。


「なんだか・・・・


あの雨の日からとても落ち着かない気分なんです・・・・


テロリストとはいえ、自分の手で人の命を奪ったわけだし・・・


戦うことを覚悟して自衛隊に入って訓練をしてきたのに・・・なんだか・・・・」


中略


「あんたは・・・・最高の自衛隊員さ!!



その事はわしらの仲間がみんなしっている!!」


この女性は、その後耕介と恋仲になる予感で、物語は進んでいきます。いやーこれだけ長い尺を経て、このテーマにちゃんと決着をつけているところに、なかなかやるな!ってニヤってしました。ルーシーは、市民の射殺でした。今度の話は、大事なものを守るための射殺でした。その差が本当に「差」か?問ういうのは難しい問題ですが、ね。


どちらにせよ、耕介も大人になったもんだ、と思いました(笑)。

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:

今週、最初の見開きページで、ネギとの魔法勝負に負けたチャオが落下していくシーンを見た瞬間フラッシュバックのように頭をよぎったのは、ああ・・・


チャオの命をとるか、世界を守るかの二者択一した結果


チャオが、地面に叩きつけられて無惨に死に、自分の思想の殉じるんだな!!!


って思いました。ふつーそう思いますよね?みなさん。



みなさんは、どう思いました?。

2


そんでもって、の選択を、空中で腕を掴んだネギにさせる、、、というエグくて救いようのない話だと思いましたよ。いや、自分の選択で、チャオが・・・それも子孫できっと孫とかなんだよ・・・・・そのことに死ぬほど後悔してトラウマになるんだな・・・ネギ君、、、と一瞬でまじでフラッシュバックして、泣きそうになりましたよ。けど、今後、そういうトラウマを背負うネギを見るのも、救いようがなくて好きかも・・・とか思ったりして(苦笑)。

■革命家は、人々のリーダーは、思想に殉じるべき・・・というか殉じるしかないんだ


だって、この流れで、チャオほどの革命家なら、物語の展開として、それ以外の可能性はありえませんよ。そう思いますよね?。

だって、これまでの流れを思い出して考えてみてください。


■158時間目 『誰もが未来を背負っている!』 正しさを否定することは少年マンガの禁じ手


■157時間目 『正義は何処に!?』 キャラクターを愛するということ

■153時間目 綾瀬夕映の答えの予想~世界の理を曲げること


個人と世界とどっちが大事かといったら、世界のほうが大事、というのが大まかな流れだったでしょう?。チャオを倫理的に退けるには、彼女個人の欲望を、それがどんなに道義的に正しくとも認められないから、そこでネギ君は戦っているわけでしょう?。 悩みつつも。
3

この後、絶対に、彼女を見捨てないと、強制認識魔法の発動を止められない、という展開が待っていると信じましたよ。一瞬。

その結果、あの、なんともヘタレなチャオの笑顔・・・(笑)。

友人からメールで、

革命家はあそこで死ぬべきだろう!思想に殉じて!!。生き残ってんじゃねーよ!!!

と怒って来ましたが、、、(笑)。同感です。

というのは、普通に読み込めば、世界を力で押さえ込むだけの資力(そもそもロボットの開発には、どっかから盗んできても数百億ではくだらない金がいる気がするし、なによりも世界をコントロールする金を用意したといっているんだから一体どれくらいの額だ!)を稼ぐのに、いったいどれだけの組織的バックボーンがいるのだろうか?。世界に革命を起こすようなこれだけの事業だ、仮に彼女が未来から来たとして、未来にも、現在にも膨大な数の協力者がいて、、、、その人たちの人生と夢と血と汗と涙の結晶が、あそこでチャオが立って戦っていることを裏付けているんはずなんです。そうとしか、想定できない、普通のロジカルな頭があれば(笑)。

それに、この超編で・・・・僕が、読み込んできた超鈴音というキャラクターは、まさに死して自分の事業に殉じる覚悟がないような、甘い人間ではない。ないはずだって思う。だって、彼女をあそこに立たせた、助けてくれた、、、彼女のリーダーシップに殉じてきたたくさんの人たちに彼女は一体、どうやってわびて、どうやって責任をとるつもりなんだろう。たくさんの人の上に立つ大きな思想の指導者は、言葉に責任を持たなければならない。馬鹿だと思っていても、たとえば西郷隆盛は、田原坂で、最後の最後は、自分を支持してくれた人に殉じた。特攻や自殺を推奨するわけではないが、やはり公の上に立つリーダーには、そういった覚悟をがもめられるんじゃねーの?。彼女の覚悟は、普通に読み取れば、そうなるとおもうよ。

■超鈴音というドラマツゥルギーをここでもってきた意味


でも、考えてみると、ネギまという物語は、まだ序盤なんですよね。序盤だ、と考えると、ここでチャオのような究極の決断を迫る問いでドラマを盛り上げる行為は、少し早すぎたのかもしれない、と終わってみると思わないでもない。

加えて、名もなき読者さんや僕やいずみのさんが予測していたような論理的にチャオを一旦論破するというのは、実際にはまったくなされていません。夕映や千雨がその部分を代弁こそしていますので、枠組み自体は確かにそうなっていますが。そういう意味では、僕のような文学的読み込みをする層からすると、非常に、論理的決着がついていない、といえる。また、結局は、なに?力で、暴力で勝ったほうが、強いやつが勝ち?ってこと?という展開にも見えてします。この文脈で言うと、そうとうフラストレーションが溜まったり、そもそも陳腐だ、と切り捨てる人もいるだろう、と思う。

けど、それをもう少しひっくり返して、高い視点から読み直してみよう。

そもそも、前に、まほら武道会でのエヴァンジェリンと刹那の試合で、刹那の過去は、もっとエグ厳しい表現がなされるはずだったところ、それではダメだということで抑えた表現になったというエピソードがありました。

ここね、実は、僕は今回のチャオへの失望と全く同じ感情を抱いたんですよ。あの流れからすると、桜咲刹那というキャラクターの過去は、凄まじく厳しいモノでなければならないんです。どう考えてもそうでしょう?。それこそ、『バスタード』のアーシェス・ネイみたいなもんですから。悲惨なことを鬼畜的に考えると、もう止まらないくらいヤバいっすよ(笑)。そしてキャラクターのドラマツゥルギーを考えた時に、せっちゃんのお嬢さまを思う気持ち(=これは彼女の救済なんです)は、自分が守ってもらえなかった・・汚れてしまってボロボロな分だけ、純白の彼女のお嬢さまを守るという代償行為であるわけだから、刹那の過去をエグくすればするほど、彼女の純真さやせつなさは、際立つはずなんです。普通の文学的な描写では、そうすると思います。

けど・・・・それにストップかけているんですよね。

ということは、そういった物語の基本的ドラマツゥルギーをギリギリのところで止める力学が働いている、と考えるわけなんですよ、僕としては。

ぶちゃけていうと、こりゃーね、

①週刊マガジンの週刊連載であること、②想定読者がたぶん中高生であること、というマーケットメカニズムが働いているな、と思うんです。

とりわけ、赤松健という作家は、そうした志向がとっても強い感じがします。そもそも、僕のような読み込み方が、読み込んでしまえるようなセリフや論理展開を書いていること自体が、実は少年漫画の週刊連載としては、ちょっと行き過ぎ(笑)ともいえないでしょうか。だって、萌えとパンチラしかわからない読者といっては語弊がありますが、そもそも週刊連載でそこまで文学的に複雑にするべきではないし、もともとが萌えをベースに人をひきつける作風であるならば、「そこまで」描く必要は、実はないんです。


でも、「そこまで」書いてしまうんですよ(笑)。だって、キャラクターがそこまで深彫りされているし、ぜったい、脚本としてそういったエグい話が好きと僕は感じる。じゃなきゃ、そもそも世界と個人のどっちが大事?なんていう説話を作りませんよ。だから萌えとパンチラに隠されたそこはかとない古典主義的な近代文学的な物語の王道の感じを感じますよ。けど、先ほども書きましたが、たぶん僕のような物語を、深く読み込んで、現実レベルまで深彫りするような近代文学的な読み込みをする層というのは、読者の中で数パーセントでしょう。そのハートにヒットすることは、確かに質を保証するのでしょうが・・・読者の過半はついてこれません。それに、物語としてのカタルシスがあるかどうかも難しいです。近代文学は、その難解さとリアリズムへの接近によって、ご都合主義的ハッピーエンドという人々が最も望む原初の力を枯渇させたのですから。そういう意味では、「そこまで」物語を深彫りしながらも、ぐいっと、元に引き戻すように、どこかで読んでいる人への視点を失わない。そういう意味では、作家主義的であるくせに、マーケティング意識をこの作家には感じます。そのあたりに不思議な抑制の効いたプロフェッショナルな意識を垣間見て、リーマンで仕事に疲れた僕の心にヒットします(笑)。


さて、結論。


物語作家赤松健さんのおもしろさ、というのは、ご都合主義的な物語のダイナミズムと想定読者の視線を常に忘れないバランス主義で、バランスを引き戻しまくることを「しなければならないほど」暴走する(笑)ような骨太の深い物語とのいったりきたりをしています。


そのダイナミックナ揺れ幅が、いまのところ僕には、逆に飽きさせない面白さを感じさせます。というのは、チャオ編も刹那の話も、あれはあれで物語のドラマツゥルギーの限界点までいっているので、これをそのまま素直に展開してしまうと、読者が、エネルギーが臨界点を突破して、物語に「終わった」感が出てしまうのです。


でも、まだ序盤よ?これ(笑)。


そういう意味で、今回の決断には、なかなかの英断を感じます。まだまだ続くって感じがしていいもん(笑)。いやーこういうのは、連載で深読みしていないと、ここまで考えないだろうーから、やはり連載の深読みって楽しいなー(笑)


a


■追記~日常VS非日常/世界VS個人という枠組みから


ж非常に面白かったので、kanaさんのコメントを引用させていただきました。(ダメならばコメントで連絡願います。消しますので。)


■無題

はじめましてこんにちは。kanaと申します。感想に感想を少々。
チャオが個人的に死を覚悟していたかはともかくとして、結果的に死ななかった、ネギがチャオを助けたというのは漫画的にも論理的にも正解でしょう。
冒頭で『個人と世界とどっちが大事かといったら、世界のほうが大事、というのが大まかな流れだったでしょう?』とありますが、これはまったくの逆だと思います。
作中で何度も示されていた通り、超の行為は結果として『より多くの人たちを救う可能性がある』すなわち世界にとってプラスとなりうるものなわけであり、つまり決して『個人vs世界』の二項対立の構図に落としこめるものではありません。だからこそ実際に世界とかかわって人々を救ってきたタカミチは逡巡し、龍宮は賛同したのですから。
しかしタイムマシンを使って歴史を変えるという行為自体が悪なのではないか、それは結局のところ恣意的に助ける人を選ぶだけの行為ではないかという夕映の指摘に対しても『でも自分たちもタイムマシンを使って自分たちのために戻ってきているではないか』とネギに論破されてしまいます。そして最終的にたどり着いた結論は『チャオの論理を否定せず、それでもなお自分たちの日常のために戦う』すなわち日常を守るために悪を成すという覚悟なわけです。
だからこそネギは、日常(=生徒)であるチャオを見捨ててはならない。日常を守るという動機の元チャオと戦ったのだから、生徒(=日常)の死はいかなる論理を超えて防がなくてはならない。今回の結論はネギの動機の確認と、同時に未熟さを提示するものとして妥当な落とし所だったと思います。
つまるところチャオ編は世界と個人の対立ではなく、非日常と日常の対立と止揚がテーマだったのではないかと。あるいはチャオ編に限ったことではなくネギま自体のテーマなのかもしれませんが。日常(=ラブコメ)と非日常(=バトル)の繰り返しの果て、クラスメイトの多くが非日常に携わるようになり、日常と非日常の境目があいまいになっていく。そして日常=生徒でありながら非日常の論理によって日常を破壊しようとするチャオの登場。最後の最後で、日常に固執する千雨がバトルを締めたのもこれらの展開と無関係ではないと思います。

以上、以上に長文になってしまい申し訳ありません。kanaでした。

kana (2007-01-02 00:26:07)


■追記。

ちょっとだけ追記を。
ネギがチャオを助けたというのはつまり、日常の破壊者であるチャオをそれでもなお『自分の生徒(=守るべき日常)』であると考えているいうことを端的に示したわけです。最終的に他のクラスメイトたちによって受け止められた(=日常に受け入れられた)というのは、非日常のために日常を捨てたチャオの、精神的な『敗北』を意味するのかもしれません。

kana (2007-01-02 00:34:21)


■Kanaさんへ

コメント長文ありがとうございます。


>つまるところチャオ編は世界と個人の対立ではなく、非日常と日常の対立と止揚がテーマだったのではないかと。


ああ・・・・これは、鋭いコメントですね。なるほどです。そういうふうに解釈することが、この結果からは一番妥当でしょうね。


僕自身も書いておきながら、世界VS個人と日常VS非日常という分解の仕方の「違い」に鈍感でしたね。貴兄の意見には、なるほど納得です。そちらのほうが、ネギまという作品フィールドの解釈としては、なるほどです。


論理的には、kanaさんのほうが妥当な解釈ですね。。。。ただ、、、さらに感覚的で、主観的な「思い込み」で見ると、そういった細かい論理性よりも、とにかく革命家は、死んだほうがいい(笑)という思い込みが僕にはあるのかもしれません。文脈無視で(笑)。もしくは、ハッピーエンドよりもより厳しい結末・悲劇のほうが、物語・・・というか、文学として「いい!」という思い込みが僕にはあるのかもしれませんね。だから、文脈から、なるべく厳しい方向を、誤読しようとする癖があるのかもしれません。

ただ、世界VS個人ではなくて、日常VS非日常と読み替えるべきだ、という意見は、なるほどですね。


■追記~物語として

ちょっとこのコメントや自分の記事を読んでいて、思ったのですが、そもそも、こんなふうに「深読みしなければならない」ということ自体が、やはりエンターテイメントとしては敗北なのかな?という気もしないでもありません。自分で書いておきながら書くのもなんですが(笑)。

つーか、たしかに物語として、そういうことよりも、チャオ死ななくてよかったね、とか、千雨のセリフおいしーよね(笑)、と楽しむべきなのかもしれないなーと、、、、思いつつも。難しいこところですが・・・。

でも酔拳みたいなものですね。なんというか、凄い拳法の使い手なのか、ただの酔っ払いなのか、どっちかよくわからん・・・けど・・・わからないから、すごく見えるってやつ。

ネギまの楽しみって、こういうギリギリのラインなのかもしれないなーとか思ったり、思わなかったり。

ペトロニウス@管理人♪ (2007-01-02 01:03:06)


■追記②~千雨のセリフ

あーいま考えていて、千雨のセリフとの整合性を無視していたのですが、、、なるほどなー、日常VS非日常というか、、、、なんというか、


「私は私の現実を守る!!」


という部分は、たぶん、


『世界VS個人という捉え方』


と、


『日常VS非日常という捉え方』


で、この場合は、ネギ君にとっての日常・・・つまり学園パートの部分を守ること、kanaさんがおっしゃるとおりに、「生徒としてのチャオ」という視点を貫くことに正統性をもたらす発想なんですよね。


たぶん、、、最終的に、とりあえず、「そこ」でおとしどころを持ってきたシメのために、あのセリフがあるわけなのかもしれない。


なるほど・・・実は、千雨のセリフが、ゆえの発想と微妙にずれていることを、かなり前から気になっていて、、、、えっと、、、何時間目だったかな・・・その差をどこかで分析しようとおもっていたんですが、この差だったのかもしれないな。


とにかく難しいことよりも、「自分の現実」を守ること最優先という千雨のセリフは、論理的だけど杓子定規なゆえよりも、『現実』的な感じがしていたんですが・・・なるほど、、、ふむ、そういうことなのかもしれない。おおっ、また深読みできた来たぞ・・・単行本で読み直す楽しみが出てきました(笑)。


ペトロニウス@管理人♪ (2007-01-02 01:11:02)



◇これまでの記事

考察


■158時間目 『誰もが未来を背負っている!』 正しさを否定することは少年マンガの禁じ手

■157時間目 『正義は何処に!?』 キャラクターを愛するということ

■153時間目 綾瀬夕映の答えの予想~世界の理を曲げること

■11月16日は、綾瀬夕映の誕生日!おめでとう!!

ネギまにみる連載派の楽しみ方~連想が広がりテキストが多重の解釈を生むこと

■綾瀬夕映と長谷川千雨の共通点について

■142時間目「潜入!突撃!ネギ救助隊!!」/二元論の選択

■物語を楽しむのに必要な教養~ネギまをもっと楽しむには?
■138時間目 読めない展開こそが、週刊連載の醍醐味!

■119時間目『フィナーレdeてんやわんや』
■118時間目『すべての想いを両の拳に!』

■少年の成長物語(ビルドゥングスロマン)としてのネギま@114時間目

■65~66時間目:『僕だけのスーパーマン』『雪の日の真実』①・②

 ①http://ameblo.jp/petronius/entry-10001918480.html

 ②http://ameblo.jp/petronius/entry-10001918889.html

■単行本派と連載派/マンガの産業としてのありかた

■編集部の方針:「バトル推奨」となったネギま!!万歳!!!

■98時間目『立つんだ!ネギ!!』/勝つための理由・格闘の考え方について

■永遠の日常についての考察/『魔法先生ネギま!MAGISTER NEGI MAGI』
■戦闘における距離の問題


感想

■負の感情
■11巻感想

■118時間目『すべての想いを両の拳に!』

■107時間目『いじめっコ大将、エヴァ』

■104時間目『ネギとの約束』

■刹那と明日菜

■101時間目『体力バカのホントの力』

■96時間目『勇気が勝機』

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:
評価:★★星2つ
(僕的主観:★★☆星2半)


■最終巻の物語の終わらせ方~それで本当に杏は救われたのだろうか?


8巻が最終巻。



ネタバレなんで読んでない人は読まないでね。



残念ながら、この結末は納得いかない。なかなか王道的な少女マンガで、良作であっただけに残念。まぁそれは好き嫌いかもしれないが・・・終始逃げていただけで、逃げが救済になったというのは、たぶん間違っていた、と思う。初恋の人に結ばれるには、7巻の佐倉くんの登場で、杏が追い込まれて、自殺未遂をするという母親と同じルートをたどらなければ、たしかにもう一度ヨリが戻ることはなかっただろう。でも、それは、ただ単に、12歳の頃の約束であるように、「本当のこと」から目をそむけて逃げただけなんじゃないだろうか?。それに大悟という少年が巻き込まれただけ。


その課題が解決しなかった恋愛は、不毛だ、と思ってしまうな。


もちろん、この手の心の闇を解決できる人は、そうはいない。だから、こういった結末・・・・ようは、安定していて何も考えない生活に逃げ込むというのか、もしくは本当に自殺してしまうというのしか、現実世界でありえないだろう、とは思う。


けど、物語の世界で、そういうのは、救いがない気がする。


少女マンガの「恋」という原理を基にした世界観では、たぶん救済はうまく描けない(にくい)のだろう。


この物語の結末は、初恋の人と結ばれました。めでたしめでたし。


けど、その初恋は、自分の弱さと闇に付き合ってね、という不毛な関係。そういうのは、わからなくもないが不毛だ。人間は、解決を目指すべきだ、と思うのだ。




■強気であること、弱さを敵視することは男性原理の最たるもの



ちなみに、超強気のエリート商社マン佐倉君が一瞬登場したのが7巻。僕はこいつ嫌いじゃないんだよなー。けど、、、うーん、、、このエリート商社マン・・・・発言が自分の本音とだぶる。



「おれは弱さは許さない・・・」



本音は、僕もそう思う。ぐちぐちいっていても仕方ないからね・・・。まぁー人間としてはひどいとは思うが、デキル男性の基本的な価値観は、これなんだよね。こういう男性は、家庭で愛されていなかったケースが多いんだよねー。でも、男性原理の社会は、「強いものがすべて」。勝ったやつが、勝ちの弱肉強食。


「嫌われてもいいので、会社ではシゴトがデキルやつが一番偉いの」


真理です(笑)。正確にいうと、会社ではシゴトができて、出世(=権力の獲得)したやつが偉いのであって、出世できないで飛ばされるやつはダメだけどね。


麒麟館グラフティーに出てきた建築家を思い出した。

吉村 明美
麒麟館グラフィティー (1)

こういう男性にめぐり合ったのも、不運だよなぁ。まぁ、吉村明美さんほど、このテーマをえぐっていないので、登場理由としては、杏ちゃんを不安定のどん底へ落として物語を結末に持っていくため『だけ』に存在したキャラクターなんだけれどもね。



■最初からこの結末を志向していたとしたら、僕はこの作者が好きではないなぁ



しかし、物語をうまく終わらせるには、これしかないだろうなぁ。伏線がないんだもん。それに、たぶん作者自身が、飛躍というものが理解できていないのだろうなぁ。


「母親に自殺」を見つめるべきといったのは、前に記事を書いた自分だし。



でもまー僕的には、「これ」で彼女の見据えた闇と対決できたとは思えないなー。


この手の闇は、永遠に続くからなぁ。


大悟では、たぶん永遠に理解できないだろうし。むしろ、彼女を救うことができるのは、藤くんだと思ったが、この作者は、初恋を成就させたかったんだろうなぁ。個人的には、納得のいかない終わり方でした。物語としては、初恋が成就したわけだけれども、、、、ね。


大きな闇は、恋愛や結婚、そして子供では多分、簡単にはくつがえせない。


少女マンガと言うカテゴリーの内面を理解し、恋をベースにするドラマというのは、この辺が限界なのかもしれない。


なぜだかそう思った。


だから、純愛の少女マンガは、こういう闇を描くのは厳しいなぁ。


解決ができないんだもん。



■日常の関係性からの飛躍を描き、劇的に心の浄化が起きること


僕が、SFとかそういうものがすきなのも、最後ラストとシーンが、普通の日常ではありえないような出来事がおきないかぎり、人が抱えている闇を浄化することができないのではないか?って思っているのかもしれない。たとえば、僕が、生きてて楽しいと思うようになったのは、大学時代、カリフォルニアで飛行機の操縦をしているときに、トラブルで死ぬ思いをしたときだし(笑)。とにかく、日常では考えられないような、大きな環境の変化や、強烈な体験がない限り、なかなか人間の刷り込まれたトラウマというのは、書き変えることができない。


たしかに人の感情は、まるで因果が逆転するように、大きく変化する。


けどそれは、既存の人間関係や恋愛では、ほとんど発生しない。なぜならば、幼少期のトラウマ(たとえば母親の自殺など)のものは、子供はそのままトレースして反復してしまうからだ。だから同じ関係性をすぐ構築してしまいやすい。無意識に。親の祟りは七代続くのだ。だからこそ、「家」の呪縛というのが、近代日本文学のテーマになったわけだし。・・・・その関係性を引きずったままでは、感情の浄化やトラウマの書き換えは、僕は発生しないと思っている。それは、物語でも現実でもね。だから、カナダに留学した椎香ちゃんは、いい選択をしたのだ。これは、樹なつみさんの『パッションパレード』と同じですねぇ。自分を取り巻く環境を劇的に変えるには、外国に行くというのは手なんだ。しかも、アメリカ、というのが特にいい(笑)。まぁ、どこへ逃げても自分の本質は突いてまわるのだけれどもね。

つまりね、より大きな何かに強烈に出くわさない限り、感情のカタルシスは、発生しないのだ、と僕は思う。まぁいぅてみれば、神秘体験とか宗教体験みたいなもんだけど・・・・そういう言い方はあまり好きではないが、、、、誤解を生みそうだし・・・・・。少なくとも、幼少期に刻み付けられたトラウマというものは、どんな小さなものでも、ほぼ回復したりすることは、通常では不可能なのだ。コンピューターでも、そうでしょう?根本的なハードウェアーに欠陥がある場合は、ソフトを入れ替えてもダメなんだよ。ハードウェアー丸ごと変えるような劇的な体験がなければ。


例えば、少女マンガで、こうした闇のカタルシスを見据えて、ぐわっとそこからの飛躍と心の浄化を描けるのは、津田雅美さんだと思う。幼少時の虐待や悲劇で、心に闇を宿してしまった人が、そこから救われる部分を描くという意味では、やはり昨今では、『彼氏彼女の事情』ですね。少し壮大なオペラ的なご都合主義がありますが、それがまたいい。ちゃんと感情のカタルシス(=浄化)が感じ取れれば、そんなものは陳腐な批判だ。

『彼氏彼女の事情』津田雅美/繰り返すものからの脱却
http://ameblo.jp/petronius/entry-10002092598.html

津田 雅美
彼氏彼女の事情 (1)

逆に、そういった劇的なモノなしに、悲しみを浄化して抱きしめる空気が描けるのが、羅川真理茂さんだと思う。どちらも、僕にとって、「悲しみ」や幼少期などに抱えた取り返しのつかないトラウマに対して、一つの対抗手段を物語として表現している。

『しゃにむにGO』23巻 羅川真里茂著/悲しみの受け入れ方
http://ameblo.jp/petronius/entry-10013996319.html

 

けれども、せっかく10間近くの長丁場であるにもかかわらず、「それ」が描けなかったこの作品は、僕は、あまりいい気持ちで読み終わらせることができなかった。だって、杏をそこまで追い詰めた闇がちゃんと感情の部分で整理がつかなければ、もう一度どこかで起きる!(ヘタをすると子供の世代にね)ということを示唆してしまうように僕は見えるからだ。それは、救いがない。せめて物語の世界では、ご都合主義の嘘でも、それを克服する瞬間が見たいんだよ、僕は。それに、そういう救済のない恋愛は、結局は、ナルシシズムの対幻想に逃げ込んでいるだけで、、、なにも現実に新しいものを生み出さないし、そうで泣ければボロボロになって二人で自殺しか見えない。僕はあまりに救いを感じなかったので、いまブルーです。10巻の大悟の歳をとった先生の姿も、僕はなんか見ていて苦しくなってしまった。


芦原 妃名子
砂時計 (9)


■ちょっと備考~佐倉君の話が僕は実は凄い好きだった

9巻の佐倉くんというエリート商社マンの話がいいなぁ。。


こういう男性大好き(笑)。


会社にいるとうざいけど。



「つーか、休むの嫌い・・・休んだら、立ち上がれなくなりそうな気がする。」


・・・・うう、この発言わかりすぎる。


行き急ぐなよ、佐倉。


「冷徹?




自己中?




何が悪い!




俺の人生だ!!」


そうだ!それでいけ!(笑)


主人公が一度でも佐倉を好きになったのは、「後ろを振り返らない人だから」というフレーズがあった。


うん、僕もそう思う。


こいつは、まだ心が腐っているレベルの低い軍人君だったが、おしい!この手の男がナルシシズムの世界から脱出すると、とんでもない幸せを女性にもたらすんだと僕は思うんだよ。まぁ失敗すると、そのまえにDVでボコボコにされるかもしれないが(泣)。


ただ、彼もたぶん家庭的には不遇で、苦しんだ子供時代を背負っていて、それを変えるために、未来だけを見て走っている男なんだ。だから、杏も惚れたわけだし。その手段こそ、自分の思い込みにとらわれているから他人を許容できないのだが、しかし、やはり人生は、過去ではなく前を向いて戦うべきだ!って思う。


そういう男にあこがれる。


欠点と長所は表裏一体なのだ。


芦原 妃名子
砂時計 10 (10)

いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:

1      
芦原 妃名子
砂時計 (1)
『僕等がいる』で、少女マンガブームが僕の心の中に到来。来年ドラマ化というので、これも読んでみる。全巻を読み終わって、いま改めて一巻を読み返すと、これは回想と追憶という設定で、物語を語っているのですね。だから、杏の結末は、最初から決まっていたんだ。完成された作品ではある、と思う。・・・・・こういう結末は、僕は好きではなかったなぁ。ちなみに、妻は、全然面白くなかったとすっかり記憶からデリートでしたが、、、それもわかる。僕的には、あまり救いがある終わり方ではなかった、と思う。それに、10巻の外伝的なのも、厳しい話だったし。

こういう純愛系の作品は、インプリンティング(刷り込み)のように、初恋の人が忘れられないというパターンが多い。こういうのは、僕は病的になるので、よくないなぁ、と思うのだが・・・。けど実際、こういう女性って多いよね。忘れられない幻影を追うのは、つらいと思うのだが。・・・・僕の小学校の恩師が、そういう人だった。結婚直前に、婚約者を亡くして、、、、ずっと独身という人だった。とても優しい先生で、今でも覚えているが・・・そんなふうに思い出だけで生きていけるものか、、といつも不思議に思っていた。けど、そういう女性って、案外多いんだよね。僕は、一緒にいる時間がすべて、と思うので、あまり過去に幻想は抱かないけどなぁ。


みなさんは、そういう忘れられない恋ってあるんでしょうか?

僕は思い出はあるけれども、うーん、そういうふうにある種の自分の中の心の幻想にとらわれるということはないなぁ。すっかり忘れてしまう(笑)。だから、初恋の人を思い続けるって意識が、もう全然意味不明。僕の少女マンガブームに火をつけた、小畑友紀さんの『僕等がいた』↓こちらも同じでしたね。

小畑 友紀
僕等がいた 1 (1)

うーむ、一つの思いを貫くその気持ちは、美しいのだが、あまり過去にとらわれる生き方もそれはそれでしんどい気がするのだが。思い込みが激しいと、自分の思い=ナルシシズムの回転から抜け出せなくなるからね。

2

芦原 妃名子
砂時計 (2)


■あらすじ

主人公の植草杏(うえくさあん)は、12歳の冬に両親の離婚を機に母親 美和子の実家・島根に越してきた。田舎独特の雰囲気をなれなれしくプライバシーが無いと感じた杏。だが、近所に住む北村大悟(きたむらだいご)と知り合い、徐々にその田舎の雰囲気に慣れていく。

しかし、彼女を支える母親が仕事中に倒れてしまい、 自分が「がんばって」と言ったことで母親を追い込んでしまったと責任を感じた杏は、仕事を探す。

大悟とともにお手伝いに行った、村の地主「月島家」で、同い年の月島藤(つきしまふじ)、妹の椎香(しいか)と出会う。 団体行動が苦手な藤だったが、そんな藤をグイグイを引っ張っていく杏に、藤は次第に惹かれていく。 4人はいつしか行動を共にするようになり、杏は嫌で嫌でたまらなかったこの村に居場所を見つける。

一方、杏の母 美和子は、生きることに疲れ、ある日ふらっと家を出たまま帰らぬ人となってしまった。 杏は葬式の席で、島根に来る途中に仁摩サンドミュージアムで美和子に買ってもらった砂時計を、美和子の遺影に投げつけ壊してしまう。 そんな杏に大悟は、壊れた砂時計と同じものを杏に渡し、ずっと一緒にいることを約束した。 また、杏も大悟とずっと一緒にいられるよう願う。

しかし、それからの杏は、周囲が徐々に新たな幸せを見つけ出していく一方、独り、母 美和子の影を追い続け、中々普通の幸せに辿り着くことのない数奇な人生を歩んでいくことになる……。

http://zenkandokuha.com/?pid=2398243


2~3巻を読んでいる限り、主人公の杏には、暗い影がないんだよね。それがなー。ああいう結末になるとはなー。




3

芦原 妃名子
砂時計 (3)




4

芦原 妃名子
砂時計 (4)



鈍感・・・と来たもんだ。


妹ポジションの子が、女の子に変わる瞬間だ(笑)。


いやーこの月島椎香かわいい。


これは、たぶん愛されて育ったからなんだよね。結局は。


9巻で、エゴイストのようだった月島兄妹の母親の若い頃が出てくるけど・・・杏の母親ととても対照的。でも、やはり自分で、どこか割り切り、大切なものを見据えて軸を持てる覚悟のある人間の子供は、どんな条件で育とうと強い。


なんか、親の世代の負の連鎖をそのまま素直に反映しました、という結末は嫌いだなぁ。そこをどう克服するかが、人生じゃん。

いいね!した人  |  リブログ(0)

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。