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植芝 理一
謎の彼女X 1 (1)

評価:★★★星3つマイナスα

(僕的主観:★★★☆星3つ半)


作品を一言でいうと、巻末の言葉に集約される。


居眠りしながらよだれ垂らしている女の子ってかわいいとおもいませんか?


まぁ、そんな女の子が主人公のマンガです。


巻末より


僕は、凄い思います(笑)

まぁ、それでたぶんこのマンガは、書評終わり(笑)。


『ディスコミュニケーション』がとてもスキだったので、追い続けている植芝理一さん。

植芝 理一
ディスコミュニケーション (1)

はっきりいいって、『言葉』のレベル・・・・言いたいことは一つだし、全作品を通して(上記の作品も)本質も表現も、ぜんぜん変化がない。だからどの作品を読んでも、受ける印象も喜びも同じ。逆にいうと、それほどワンパターンであるにもかかわらず、読むとなんとなく快楽がある、というのは、そういった物語のドラマツゥルギーではない部分に快楽があるんだろうなぁ。


最近は『デヅカイズデッド』を読んでいるので、そういったマンガのテクニカルな部分が凄く気になる。そこは何よりも、普通に僕がこだわる部分と対極にある部分だから、僕が見えていない部分でもあるので、新しいフロンティアを見つけた気分で、勉強中です。


それはともかく、ずーーーっと読んでいなかったが・・・10年ぐらい?かなぁ、、、この人、マンガ洗練されたなーと思う。それ故に、カオスの迫力が弱くなった気がするが。けれども、物語を進めたり、ドラマツゥルギーの中に品良く自分の好きな技術を埋め込むことに慣れた感じがする。とても商業主義的になった、ともいえる(いいわるいは判断しないけど)。


この人のよさ魅力は、「絵の書き込み」なんですよね。


なんというか、どーでもいい細部に異様にこだわった複雑な書き込みされる大ゴマは、とても魅力的。民俗学やらいろんな図像が引用されるが、たぶん中身はどうでもよく、ひたすら図像自体のおもしろさなんだろうなぁ。


なんというのだろう、その技術と意匠が進歩して、、、背景の空間の書き方が、夢と現実の狭間にいるようななんとも幽玄な印象を与える。


・・・・うーんこの辺は、たぶん絵画的なモノやマンガのテクニカルな部分なので、今の僕では表現しきれないや。ただ、なかなか特異な漫画家である、というのはいえる。



ドラマツゥルギーの部分で言えば、


謎だ とにかく謎だ でも大好きだ!!


という帯でまさにいいあわらせる。この人の作品の本質は、言葉で表わすと一行くらいで終わるのだが、その言葉の持つ抽象性の奥にある闇まで見るような感じで、それでいて軽くてポップでなんというか(笑)。


ようはね、思春期の異性に対する「その存在の不思議さ」というものを、さまざまなフェティッシュなものに仮託して・・・つまり比喩だよね、それを追いかけるという構造を持つんだ。


えっと、作者もあとがきで書いているけれども、たとえば中学とか高校生で彼女(彼氏)がいるって、実はとっても少ない気がするんだよね。いや、僕の印象で統計ではないが・・・・たぶん「いない」人もたくさんいると思うんだけれども、仮に経験がないとすると、異性って、凄く不可思議で、分断された崖の向こうにいるような印象がありません?。男子校とか女子高にいる人が異様に妄想を働かせるみたいなもんだけれども。僕は、いたんだけれども(笑)、でも、手を握るのも怖いくらい(笑)だったんで、ある意味、凄い怖がっていた気がする。その人自身というよりも、異性、というものに対して。ある意味で、「はじめて」なわけだし。


その「スキで追い求める」強い感情と、同時に、全然わからないという謎をまぶしく見るような憧憬の感情が、この人の作品は、常にベースになって物語が進む。


そういう意味では思春期の男の子(もしくは女の子)が、異性をスキになる、というただそれだけの話なんだよね(笑)。


けど、その謎やエッチな気持ちや、さまざまな異性に向ける感情を、この人はなぜか、フェチに還元するんだよね。


そして、今度の作品は、それがよだれ!!!なんよ。


つーか、よだれかよ、すげーなって(笑)。たしかにイイ点ついているし、めがねや足や胸とかいった単純な萌えパーツに走らないそのいさぎよい気持ちは、『あいこら』の井上和郎先生もかなうまい(笑)。

うんうん。よだれ、、、かわいーよね。

・・・・・って、みんなどう思うのだろう?(笑)。気持ちよさーに眠りながらヨダレたれている女の子って、ものすっごくかわいいと思うんだけど。




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クラッシュ  クラッシュ

評価:★★★★☆星4つ半

(僕的主観:★★★☆星3つ半)



(記事にはネタバレが含まれるので、見たい人は読まないことをお薦めします)



■物語はどこで評価すべきなのか?


僕にしては、めずらしく客観的評価のほうが、自己評価よりも高い。監督は、『ミリオンダラーベイビー』の脚本を書いたPaul Haggisなのだが、このレベルでアウトプットが出せるのだからもう天才レベルと評価してもいいと思う。素晴らしい脚本で、その物語を通して伝えたい核心も見事ならば、それを表現する技術もまた超ハイレベル。


しかしながら、個人的に、満点が出せない。


それは、この映画を見た人は、たぶん、アメリカに行きたくなくなると思うし、アメリカのことが嫌いになると思うからだ。物語をどこで評価するか?という部分なのだと思うが・・・。



■群像劇というのはとても難しいそれが見事であり・・・・・


この作品は、クリスマス直前の36時間のロサンゼルスに住む20人以上の群像劇です。

ドン・チードル、サンドラ・ブロック、マット・ディロン、ブレンダン・フレイザーなどなど、スタープレイヤーを綺羅星の如く使用しているのだが、それがほとんどスターとしてではなく、たくさんいる人間の一人として表現しているのは、低予算であるにもかかわらず俳優に強い支持を受けたという作品らしい。ハリウッドのスターシステムは、人物をスターとしてフレームアップして集中してアップで映しますが、そうすると、その映画の中で、登場人物が、「その世界のその役の人間」ではなくて、たとえば「トムクルーズとかマリリンモンロー」としてしか見えなくなってしまう。ましてや、スターを作り出そうとするハリウッドにはその傾向が強い。しかし、物語と世界を創る強い意識がある監督は、その圧倒的な個性さえも、その作品の中の世界観に溶け込ませる力量を持っている。たぶん、このポールハギスという人もそういう手法が好きなのだろう。個性ではなく、俳優を、世界の風景として描くこと。つまり、キャラクターそれ自身の魅力やモチベーションではなくて、関係性や世界自身を主人公として、物語を描きたいという傾向。日本では、岩井俊二がそれに当たる、と僕は思っている。これができるには、圧倒的な脚本の質の高さが要求される。


つまり、オムニバス形式というか、小さな場面場面の物語をつなぎ合わせて、大きな巨大な像を浮かびあがらせる手法。というと、『マグノリア』や『ナイトオンザプラネット』思い出す。『シリアナ』『パルプフィクション』なんかも同じ手法だと思う。

 


群像劇というものは、必ずいわれるのはそんなご都合主義はないだろう!という批判だが、それは、見るものにリアリティを与えられるかどうか、という部分で評価されるべきだと思う。たしかに、関東以上の広さがあるロサンゼルスで、これほど各人種層が、偶然に見事に絡むということはありえないかもしれない。だが、僕にはとても強いリアリティを感じた。


リアリティ=確からしさ、というものは、人に「ああ・・・世界って、そうなっているよな・・・」という納得間を与えることであって、ご都合主義でも、悲劇でも、写実主義でも、どんなものでも、いいんだと僕は思う。


ちなみに最後に、ロサンゼルスに雪が降る(まず降ることはない)のだが、その表現自体が、「ありえないこと=奇跡」を強く意識して、監督が作品世界を作り上げてることを感じさせられて、なかなかに感慨を呼ぶ。



■善と悪との境目が曖昧であること


この作品で、最後の評価を分ける部分は、人種差別主義者であるマット・ディロンと人種差別を忌み嫌うライアン・フィリップの行動だと思う。


この二人の物語の結末が、監督の世界観を表わしていると思う。


人種差別による憎しみの連鎖のはじまりをはじめる警官マッド・ディロン。警官の立場を利用して、黒人TVディレクターのキャメロン(テレンス・ハワード)の妻を辱めます。妻を守れなかった、、、、口答えすらできなかったキャメロンは、その後、精神的に追い詰められます。


その時同行して人種差別を目撃した、同僚の警官ライアン・フィリップは、それが許せずコンビを解消することになります。


つまり、

人種差別を公言するマット・ディロン

それを嫌う正義感のある警官ライアン・フィリップ


という二人の人生のその後が描かれます。ふつう、勧善懲悪であれば、もちろん人種差別をおこなっているやつが地獄に落ちるとか、もしくは回心することで、観客はカタルシスを感じ、善はやはり報われるのだ、と感じるでしょう。


ですが、違います。人種差別をした警官マット・ディロンは、その後、辱めたキャメロンの妻を、命がけで燃えさかる交通事故の中から助け出します。


逆に、正義感のあふれる警官ライアンは、ある間違いから黒人の青年を射殺してしまい、誰も見ていないことをいいことに、その死体を車ごと焼却してしまいます。


・・・・・・・この結末に、僕はなんともやりきれないものを感じました。


たぶん、監督の主張したメッセージとしては、善と悪というのはとても曖昧なもので、人種差別を公言していて、人を平気で辱めているような男でも、いざと言う時に警官としての職務のために辱めていた黒人の女性のために爆発する危険のある燃えさかる車に飛び込む勇気を示してしまうときもあり、逆に、言葉で正義を主張していても、偶然から巻き込まれて殺人を犯してしまうこともある・・・・世界というのは、そういった不条理と偶然の連鎖になりたっている、ということを描きたかったんだと思う。


が、、、、これはだめだ。


なぜならば、それは、確かに「善と悪の境界が曖昧である」というメッセージを非常にリアルに伝えるのだが、あまりに希望がない。


そもそも、小さな諍いが大きな波紋に広がって行き、最初はただの感情のもつれや家族間での小さな諍いだったものが、徐々に大きな事件へつながっていく不気味さだけで、いかに人間が弱くて、偶然と不条理さの連鎖で、様々な事件がおきていってしまうという怖さは、充分に描けているのだ。これだけで、アメリカに行くのは、怖くて無理、という人はたくさんいるであろう程に。


しかし、その不条理と偶然の連鎖の中に、奇跡的に、希望が見出せるのが、ペルシャ人の店主が間違って、幼い女の子を銃で撃ってしまうのだが、ある偶然によって実はその弾は空砲であったというエピソードやアジア人の人身売買を偶然に助けてしまう黒人のギャングのエピソードで、このエピソードは、ともすれば勧善懲悪的で、しかもご都合主義であるとも思うが、ある偶然が、偶然を呼び波紋のように、広がっていく世界の不条理という圧倒的な神の摂理を見せられている観客には、そこで奇跡のような『希望』を、、、実は、その逆のほうが、世界には圧倒的に多いのだという怖さと、同時にカタルシスを得る、という結果になったと思うのだ。


だから、僕は、エピソードをすべて奇跡で終わらせられなかったこの終わり方は、少し残念な気がする。


評価としては、もしかしたら、ここで単純な希望と奇跡に回収しなかったということ「こそ」評価される点かもしれないが、物語としては、もっとご都合主義であるべきだった気がする。


これは何を信じるか?何が正しいと感じるか?という価値観の差でもあるのだろうが。



■人種差別とは、都市に住む孤独によるクラッシュ=衝突が、ねじれた姿


何の関係もなかった登場人物たちが、時間を追うごとにつながっていくのを、神の視点から見下ろすところに、こういった群像劇の醍醐味があるのだが、ではそこで何を伝えたいのか?。


それは、この作品が、都市に住む人々の『孤独』をテーマにしていると思う。これは、アメリカ文学らしいテーマで、アーウィンショーとかジョン・フィッツジェラルドなど・・・・日本での正統な後継者では村上春樹などのテーマの類型だと思うのです。


実は、本質は、都市文明の中での孤独であって、人種差別ではないと思うのだ。そもそも、クラッシュ(=衝突)とは、この作品を見ていれば、実は、孤独であるが故に、信じあうことができないが故の小さな諍いの指している。


そもそも人種差別があるわけではなくて、夫婦間のうまく行かないコミュニケーションや、日常の小さな不満が、あるきっかけで爆発し、それが人種差別というありがちの型に「ねじれて」変換されているだけなのだ。


そもそもは、本音を語れない都市生活での孤独に原因があるのだが、見かけ上、人種対立の「形」をとって大きな事件として発展していってしまっている。


「ここ」が描けている、、、、劇中で、単に人種差別の理論や口上が叫ばれても、もっともらしいわりには、陳腐な印象を与えないのは、結局は、肌の色が問題なのではなくて、お互いに信じられないで孤独でぎすぎすしている日常の生活自体が本質的な原因であることがわかるからだ。


都市文明の孤独・・・・とは、ナルシシズムの地獄とほぼイコールのテーマだと僕は思っている。19世紀末から20世紀にかけて、先進国と呼ばれる都市文明の発達した地域では、農村の共同体から引き離され、給与労働者として『個人』として、大地と共同体から引き離されて暮らしている。


このテーマの同工異曲が、僕が世界の滅びた後の世界での共同性と読んでいるテーマだ。宮崎駿が、このテーマが好きで、『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』と非常にこのテーマを深く追っている。『AKIRA』『北斗の拳』などもそのイメージの大きな結論の一つだと思う。


書評:7SEEDS/世界が滅びた後、どう生きるか?

http://ameblo.jp/petronius/entry-10001799579.html


まぁとにかく、実は、サブカルチャーであろうが文学であろうが、大きなテーマというのは、ほぼ同じ都市文明の元で暮らしているのだから、ほぼお同じということなのだと思う。



■ゾーニングという考え方


ちなみに、アメリカに住んだことがある人ならば、このある町には白人ばかりであるとか、黒人ばかりであるとか、暗黙に住む層が区分けされていて、その区画の中では非常にオープンだが、人種や階級が違う人間がそこに入り込むといように目立つというのは、経験があると思う。


僕は、留学時代に、自転車いろいろ走り回ったときに、なぜか住宅街がブロックグとに区切られている事に気づいた。空から観察すると、その区画の分けられ方は、非常に見事にできている。必ずしも日本のように四角ではなく、さまざまな曲線形に作られているためにわかりにくいが、観察するとめちゃめちゃ分断線が存在することがわかる。


もともとゾーニングは、都市計画なのか、テレビのいかがわしい番組を子供に見せないための手法であったか忘れたが、自由の国アメリカというように呼ばれているが、実は、都市空間が、人種や階級によって見事なくらいに分断されている分断国家であることも分かってくる。


この作品は、不断はあまりに空気のように意識しないが、自分たちの小さなクラッシュが、このような構造的な空間に触発されて、大きな波紋になっていく様は、この監督見事です!と叫びたくなりました。


とにかく、なるほど、見事な完成度を誇る作品だと思う。主張するところもアメリカの伝統的な文学テーマと合致しているし、それを映像という俯瞰ショットでの群像劇にする脚本もまた見事。


が、上記で書いたように、結論と見終わった感触の悪さが、どうしても満点をつけられない、苦しい作品であった。


映画が人を苦しめるだけでいいのか?というのは、難しい問題だ。かといって、人を告発しない勧善懲悪がいいのか、といわれればそれも悩むところではあるが。




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a Paul Haggis(1953-)映画監督、脚本家。


1953年3月10日、カナダ/オンタリオ州ロンドン生まれ。

「ミリオンダラー・ベイビー」(2004)でアカデミー賞脚色賞?にノミネート、翌年「クラッシュ」(2004)でアカデミー賞脚本賞?を受賞、アカデミー賞監督賞にもノミネートされた。同作はアカデミー賞作品賞を受賞。

■主な監督作品
クラッシュ(2004)
■主な脚本作品
帰ってきたむく犬?(1987)
クラッシュ(2004)
ミリオンダラー・ベイビー(2004)
父親たちの星条旗(2006)

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河下 水希
いちご100% 19 (19)


評価:★★★☆星3つ半

(僕的主観:★★★☆星3つ半)


かなりのネタバレになってしまうので、読む気がある人は読まないでください。



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物語には必ず終わりがあるはずなのだが、なんだろう、あるタイプの物語には、終わったあとに深い感慨を呼び起こす力があって、たぶん何らかの「もう続きがない」という喪失感なんだと思うのだが、そういう悲しさがある。 最後の最後の巻まで、「そういう」感じを受けるとは思わなかったし(物語の整合性が破綻している気がするんだよね)、最終巻がそれまでの路線を大きく逸脱しているわけでもないのだが、すごい、、、なんというか胸にぽっかり穴が開いた感じ。

たぶん、好きだったんだなぁ、この「いちご100%」という作品(笑)。


たかすぃさん 、ありがとう。あなたのブログを見なければ読むことはなかったと思います。こういう出会いがあるので、ブログはとてもうれしい。 ジャンプ連載時は、数秒で却下した覚えがあるので(笑)。あまりにありがちな、男に都合がいい設定なので、読む気が起こらなかったんです。



■その選択肢は正しかったんだろうか?


itigo
ちなみに、最後の最後でつかさちゃんを選んだのは、実はいろいろ思うところがあった。 まだ若い真中が、彼女を選ぶのは分かる気がする。物語としても、彼女で完結するのは、たしかに相応しい気がしていた。 一気に読んだ話の流れから言えば、この結論は、共感できる。青春もののラブストーリーとしては、西野しかないと感じる。僕は圧倒的に、東城さんの方が好み(めがねで、ドンくさくて、超頭がいい(笑))なのだが、それでも、あの青春時代の中で見ると、彼が彼女を選ぶには、苦渋の選択だが分かる気がする。
itigo

・・・・・かわいいなぁ(笑)。


ちなみにこの作品の根本のテーマは、


①自分を応援してくれて、はげみになる彼女


②自分と同じ志を共有できる人


どっちが、恋人として相応しいか?という問いが背後にあるような気がします。必ずしもこの計算式どおりに物語りは結論づけられていませんし、①=西野つかさで②=東城綾と僕は考えているんですが、それぞれの立場が微妙に入れ替わるので、必ずしもすっきり理論的に割り切れません。物語のダイナミズムの大きな部分は、ここにあると僕は思って読みました。


たとえば、西野つかさとパティシエの師匠の関係もその類型です。もちろん、脚本家の東城綾と映画監督の真中の関係もです。尊敬でき、夢を、シゴトを、共有できるという一体感というのは、何者にも変えがたい魂の絆を感じさせます。


このテーマは、僕は、恋愛を描くこと気には、絶対に譲ることのできない大きな基礎だと思っています。というのは、たぶん、結婚して共働きをしたことがある人ならば、このへんの話は、男女ともに非常に悩むことだからです。やっぱりね、シゴトをしている女性は、とてもシゴトで苦しむ男性を理解してくれるし、共感ができるというのは、とても愛を感じるんです。たとえば、男性同士でも、シゴトや戦友との絆のほうが、日常の家族の絆よりもはるかに価値が高いと感じる人が多いのも、そういった文学のテーマがあるのも、戦友・・・・何かの社会的な価値に命をかけて体験を共有したことによる「絆」は、ある意味、下手な恋愛よりも次元の高い愛だからなんです。けれど、外での、シゴトでの、戦いには、不断の努力が強いられる非日常の世界です。だから、その極限の努力と成長が強いられる世界から、癒されること、自分が心砕けたときに励ましてくれる存在というのも、また同じくらいに重要なのです。これは、男性的な視点に見えますが、今の男性優位の社会だからそう見えるだけで、社会で働く人間であれば男女問わず、必ず現れてくる現象だと思うのです。仕事で、社会に評価されたい!、、、けど、いつも仕事や社会的価値だけでなく、プライベートの部分で励ましてくれたり支えてくれる人がほしい・・・・、、、というのは、男女関係ないでしょう?。だから、、、、、、我々が、社会に出て働かなければ生きていけない都市文明社会の住人である限り、この社会的価値と個人的価値のぶつかる部分は、誰しもが持つ悩みなのです。それがもっとも先鋭的に出るのが、恋愛という部分です。学生の、社会的責任が伴わない世界では、純粋に「好きか嫌いか?」という恋愛の初歩的次元だけで物事が語れます。が、社会に出れば、「好きか嫌いか?」だけではない、強烈なストレスと時間的拘束が個人に襲いかかります。そして、年齢を重ねれば、「僕が、私が生まれてきた価値とは何か?この社会に何か価値を貢献できるか?」という実存の意識も強くなります。


この部分は、一般論で語れることではなく、その個人の夢がどれだけ強いエネルギーを持つかとか、どちらがサポート側に回るか?とか、個別の議論で話が進むことなのです。だから、恋愛ものの、社会人までの射程距離を持った作品は、このあたりに踏み込んでいきます。そうすると、ドロドロして、厳しくなるのですが(笑)。




■なぜ東城じゃあなかったのだろうか?


さて、では、話を元に戻しましょう。なぜ東城でなかったのか?といえば、あの弟を彼氏と勘違いした時の話が引き金なんだよね。
itigo

このときの勢いがなければ、西野に傾くことはなかったかもしれないと思うんだよね。


僕は読んでいて、西野つかさちゃんの内面が、よくわからなかった。少なくとも、東城と真中のような魂の部分での共有がないので、彼女が真中を好きになる理由が一貫してわからなかった。動機がわからないのだ。

中学生や高校生の恋としては、それでもわからなくはない。

が・・・・・つかさちゃんと真中のつながりからすると、やっぱりあるVISIONや夢を完全に共有している真中と東城のつながりは濃いと思うんだよね。 つまり最初で書いた、①と②でいえば、西野とのつながりは、①が近いんだよね。

②の志や夢を共有するというのは、19巻の最後のシーンが典型的。真中は世界中を回って、東城の作った小説の世界観に相応しい場所を探していて、何十年かかっても東城の小説を映画化する、といって、それに東城も答えている。


・・・・・このつながりって、魂のつながりといえなくないですか?。

itigo
そうするとね、、、、次に思ったのは、いままでのいちご100%の世界観は、子供(=学生の純粋な世界)の世界観なんだよ。というか、いいところでも青年までの青春をベースにしたジャンプ年齢層の世界観。

でも、彼らが人間だと仮定すると、その「次」があるんだよね。前に柴門ふみさんの『あすなろ白書』の最終話で、主人公が結婚するんだけれども・・・それはそれで、物語としては完璧な終わり方なんだが、コミックではなくて、連載の方だったと思うのだが、、、主人公の掛井くんの愛していた人の娘が、彼が教えている大学に入学してきて・・・たぶん間違いなく不倫するんだろうと思うのだが、その予兆がかかれておわっていて、、、たしかコミックスではカットされたいたが・・・実は、作者は、この物語の『あと』も書きたいとおもっている・・・というインタヴューを読んで、(僕の妄想かも、、、確かそんなの読んだ覚えがある)

よくできたキャラクターのドラマツゥルギーというのは、

たいていは、その雑誌媒体の対象年齢層に合わせたエンドを書くのだが、そのキャラがもっと年齢を重ねると、絶対そのドラマツゥルギーは再燃すると思うんだよね。ましてや、ガキの論理は、しょせんガキなので、少年誌青年誌レベルの恋愛は、それが、20代後半や30台を超えてると、確実に大きな山がやってきて、それを越えられるか微妙な終わりか足していることも多い。たしか少女マンガの矢沢あいさんの『ご近所物語』の書評で、で同じことを書いた気がするが・・・。



真中らには、社会人となって、これから不毛な日常と、夢との戦いが待っている。

たぶん、つかさちゃんと真中は結婚するよね、、、、そうすると、東城の小説の映画かに人生をかけた真中は・・・・悪いけど、ぜったい不倫するね、東城と。120%賭けてもいい(←かけるなよそんなもん(笑))。 少なくとも、最後のエンドシーンでは、つかさちゃんの職業や背景が描かれていないし、これからの20代後半から大人に見向けての人生を真中とどう共有するかが、はっきりいって「お嫁さん」ぐらいのイメージしか情報量がない。

それでは、東城と真中とのつながりに勝てないよ。

どう思います?みなさん??。

itigo


・・・・・そう思うけどどう?と、妻に聞いたら、


「私は東城さんファンなんで、東城さんが選ばれなかっただけで、凹んでもう考えたくない」


だそうだ(笑)。これ、連載中は、どっち派か?ってもめたろうなー(笑)。

ちなみに全編とおして、七瀬あゆむさんの『君だけを見つめている』とも似た構造を持っているけれども・・・あっちは青年しだから、もう少し踏み込んでいたけれども・・・

七瀬 あゆむ
君だけをみつめてる 7 (7)

■真中の才能がよくわからない


映画監督を目指す少年・青年というキャラクターだが、、、少なくとも男性の僕からみて、真中淳平が、なんであそこまでモテモテ(笑)なのかが、どうもわからなかった。 だから、どうしても、ウソクサイ物語に見えてしまうんだよなぁ。周りの女性が、彼にひかれても、「それはしかたがないなー」と思わせるには、・・・・特に、男性に思わせるには、僕は、やはり才能の片鱗が描けなければダメだと思う。男の価値は、シゴトの能力だぜ!(笑)(←これは僕のロマンだなぁ)


とにかく、彼が好かれる特別な理由が、どうにもわからないのだ。ただ、、、かといって、他の萌え系の、とにかくなんでも主人公が世界の中心という「お約束」というわけでもない気がするのだ。そのわりには・・・・なんというか、女の子の視点が、けっしてモノ的ではない。 僕は知らないのだが、やはり作者は、女性なのではないかな?、、、わからないのだが。どうなんだろうか?。 (あとから調べたらやっぱり女性だった)

えっと話を戻すと、『君だけをみつめている』の主人行は、明らかに映像才能が読んでいて伝わってきたが、真中の才能は、読んでいて非常うに伝わりにくかった。

だから、なぜ、彼を回りの女の子が好きになるかの理由がイマイチわからなかった。

・・・・ただ、、、、それでも、非常に納得性のある感覚を得るということは、たぶん、僕は男なので、男の価値は、才能だ!シゴトができることだ!!という部分で見ているんだと思うのですが、たぶん女性から見ると、『それだけではない』と思うんですね。

心がその人の前で裸になれたり、小さな勇気をもらえたり、なぜかわからないけどドキドキしたり、一緒にいるだけで癒されたり・・・・

でも、こういう微妙な関係性って、男性では、まずかけないんですよね。この作品は、ひっじょーに男に都合がいい、よくある学園ものなんですが、「永遠の時間」的な男の論理で完結する感じがほとんどしない不思議な作品なんで、たぶん女性が書いているのではないかなぁ、と思う。

ある意味、少女マンガだったのかもしれない。

とはいえ、あまりにもお約束のHシーンが多すぎるのは、作者が好きなんだろうし、たぶん、非常に編集や読者の欲求に答えまくる性格なんだろうと思う。


とはいえ、、ずーっと成長がマインドセットされていて(萌え的永遠の時間では成長はしないので、夢オチ奇面組になりやすい)真中や東城さん、つかさちゃんの問いや心の揺れ動きが、ちゃんと成長しているんだよねぇ。

それは、やっぱ、いいね。

この作品の恋愛の選択の基準は、

①落ち込んだときや弱った時に、元気付けてくれる人




②夢を共有できる人


ですか?という区別なんだと思うけれども、、、、普通の恋愛や愛情は、99.9%①なんだよね。ようは、一緒にいて成長できて、癒されて、、、という部分。 けど、ほとんど物語の中にしかなくて、まるでガラスの仮面の尾崎一様と月影先生のような関係だけれども、魂のソウルメイトになってしまう人っていると思うんですが、そういうのって、絶対そっちの方が、価値があると思うんだよなー。まぁあまりに激しい関係なので、恋愛として成就するかというのは、確かに微妙なところではあると思う。

でも、人間はそういうものを求めていい来ていると思う。だから、シゴトに人生を賭ける人がいるのは、シゴトを通した共有というのは、やっぱりソウルメイトに近いものなんだからなんだよね。これが、男性同士とかなら、上手い距離があるのだが・・・彫刻家のカミーユクローデルとロダンなんかの関係のように、それが男女になると、厳しいんだよねぇ。

その場合、なんでか異様に不倫が多いし(苦笑)。


なんか、いろいろ考えました。


あれじゃーなー東城は、一生真中しか愛せないよなぁ。。。ましてや、真中が映像の世界で成功すればするほど、彼女にとって、シゴトとしても接点が増えて、よくないよなぁ。しかも、売れっ子の小説家という組織に属さないシゴトをしている限り、いくらでも不倫に走れる条件がそろっている点、一度思い込んだら生涯変えないくらいの一途な性格とか・・・そろっているんだよねぇ(笑)。

青年版いちご・・・・もうイチゴではないかもしれないが(笑)とか妄想が膨らみました。


ただそうすると、やっぱり東城さんもつかさちゃんのどっちにとっても不幸なんだよね。この場合は、将来的に結婚するのは、真中と東城であるべきだと思うんだよねぇ。恋愛の成就としては、真中&つかさちゃんでもいいんだけど。


だって、つかさちゃんは、真中がいなければ、絶対次にいい人を見つけられる可能性が明らかにデカイ。けれども、東城さんは、無理でしょう?・・・そのへんは、未来を見据えると、とても悪い選択だった気がする。



だから結論としては、少年誌の恋愛としては、あれで正しかったと思うのですが、その後が、実は見たい気がする。①か②というテーマの追求も、もっとしてほしかった。


・・・・けど単に、それは、あの青春時代に美しさをもっと見たい、もっと読みたいと思っているだけかもしれないんだけれどもね。

itigo

これが、一番正しい意見(笑)。


ちなみに、一番すきなのは、ゆいちゃんだった気がする。


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評価:★★★☆星3つ半

(僕的主観:★★★星3つ)


かなり衝撃のラストだった。

いやストーリーとしては、予測がついていたので、たぶんその辺だろうと思っていたが、ようは父と子の宿命の悲劇を描きたかった、ということなんだと思う。


が、、、しかし銀鈴があのような最期を遂げるとは、衝撃であった。アメリカのファンで、この最後に関して、あまりに男性キャラが豪傑でかっこいいのに比して、銀鈴のこのひどい扱いように対して監督はゲイではないか、という話がもちあがったというが、それは非常に納得(笑)。


にしても、えらく女性に対して、厳しい結末のつけ方であった気がする。





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アミューズソフトエンタテインメント
ジャイアントロボ THE ANIMATION ~地球が静止する日~ GR-1〈プレミアム・リマスター・エディション〉

噂はかねがね聞いていたが、余裕がなくて見れていなかった作品をDVDでレンタル。


■背景の世界観は、やはり満州?


横山光輝さんの世界観をよく忠実に再現している。本論とは関係ないのだが、シズマドライブによるエネルギー革命が発生し、たぶんアジアは大発展しているのだろう。世界を守るための国際治安機構の巨大基地が北京にあったり、最初のテロリストがアタッシュケースを奪う場所が近代化した大都市南京であったり、近代化が進んだ中国のイメージは、やはり日本から見るとどうしても満州的なイメージなんだなぁ、と思う。手塚治虫さんとか、この世代の描く近代化というのは、間違いなく戦時中の満州や後藤新平的なイメージがあって、そこがスタート地点に作られているのだ、というのが凄くわかる。


パシナ式

南満州鉄道パシナ形蒸気機関車981号 昭和11年(1936年)


出てくる近代的鉄道やエアカーの造形も、間違いなく満州鉄道のパシナ式をイメージしているのが、わかる。ドイツ第三帝国の様式やダダイズムのように、実は、近代デザインの根本はこの時代に生まれた、、、しかもファシズムや全体主義的な濃厚な雰囲気とともにスタートしているんだよね。



■大きな物語が残っている


こういう横山光輝さんのような今の現代マンガから手塚治虫ら創世記の世代の作品を読むと、荒削りながら「大きな物語」を語ろうとする意欲が見えて、凄い時代の差を感じる。この作品が、本来の横山光輝原作であるかどうかは知らないのだが・・・・非常になんと言うか昭和初期とかそんな時代から見た未来というイメージを感じる。


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