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★★★★☆星4つ。

導入としては、とても優れた読みやすい本。入門書としては最適で、かつ明治から大正にかけての日本の歴史を分かりやすくまとめている。


序 章 医学と衛星
第一章 台湾民政長官
第二章 満鉄総裁
第三章 官僚政治と政党政治
第四章 第一次世界大戦
第五章 失われた可能性


<<読んだ理由と本の選び方>>
後藤新平。

全然知らなかった。僕の知識は、穴だらけで明治から昭和初期にかけての近代日本を、深く知りたいと思い始めて幾星霜。いまだ、価値判断ができるほどには、わからない。今回この本を手に取った理由は、単純でSF作家小川一水さんの『復活の地』の主人公セイオ・ランカベリーというジャルーダ植民地総督代理・復興院総裁となる若き官僚のモデルが、後藤新平であったからだ。僕は、好きになった本から『連鎖』して、その背景の知識やモデルといった形で波及して本を読んでいく癖がある。どうせならば好きになったものを味わいつくしたいからだ。愛している作家が好きな作品なんかは、大抵読もうとする。これがけっこうハズレない。とまぁ、陳腐な理由です(笑)。


<<失われた空白の日本近代史>>
そもそも僕は、近代史に興味があり、とりわけ明治から1945年までの大日本帝国及びアジア諸国の近代史が知りたいと思っているなぜなら単純で、受験で近代史は必須なのに、高校の授業でまともにしなかった(笑)ので、フラストレーションがたまったのだ。


日本の近代史は、評価が定まっていない。


だから教育もはっきり行われないし、実施されても冷戦時代の名残でイデオロギー色が強すぎる。また現在の外交・政治的状況が、如実に歴史評価にブレを与えるという独立国家としては誠にめずらしい国なので、実際のところ「ほんとうのところがわからない」し「偏ったものをバランスよく一覧で総覧」できない。メディアリテラシーが徹底されていないので、事実上、イデオロギー合戦の空白地帯というのが、日本近代史の評価軸だ。


このような「わからないもの」というのは、人の知的好奇心を誘います(笑)。



また大学の一般教養で文化人類学のコマがあり、歴史家や文化人類学を目指すならば、まず本読むより身近な人に詳しく話を聞きだせる力がないとダメだ、というのを聞いて、大学生の頃、祖母に聞いてみた。


そしたら、彼女は、中国のことをシナと呼ぶのだが、中国語が喋れる!(知らなかった)、しかも、花嫁修業で北京に何年も住んでいたという!。群馬の田舎育ちなのに、東京に来るより先に北京に行ったらしい。弟は台湾で事業を始め、兄は中国で貿易会社を営んでいたそうだ。へ~。そこで気がついたのは、話を聞いているうちに、


「もしかしてうちのばーちゃんは、俺なんかよりずっと国際人なんじゃないか?」


と思い始めたのだ。

というのは、身近な地図が僕より広いのだ。シナや海南島とか台湾・朝鮮なんかは、彼女にとって横浜港から船で「何日ぐらい」という具体的な距離感覚があり、全然異国の地だという意識がないのだ。親戚もたくさん商売などで住んでいたし、軍人でも官僚でも商売人でもいろんなところに駐在している。台湾にも朝鮮にも帝国大学(台湾帝国大学や京城帝国大学)が存在していてほぼ日本と同様のインフラと教育体制が整っているようなのだ。移民もたくさんあったようだし。こんなこと詳しく突っ込んで聞いてみないと全然分からない(本人たちは空気みたいなもので積極的に喋ったりしない)が、そもそも1945年以前と以後の世界観は、全く異なるもので、近くにいるが親や祖父の世代なんかは、そもそも異国人のようなものなのだ(笑)。


この事実に気づいてから、SFスキの僕は、がぜん近代史に興味が出た。


というのは、おもしろいのだ。

ましてや日本が積極的に世界の歴史に参加していた時代だけに、小さなことがいちいち面白い。しかも、そのことが深く理解されると、自分の所属する業界の100年前のプロジェクトの話が出てきたり、凄い有名な某企業が満州と中国東北部の世界最大の電力発電を創るために設立した国策会社であったり、と「自分の人生や今の世界に深く深く」関連してくることが分かってきたのだ、こうなると、近代への興味は尽きない。




<<植民地経営のプロフェショナル>>
さて、後藤新平。

彼を一言で表わすならば、植民地経営と大規模都市開発のプロフェッショナルだ。明治黎明期の内務官僚にして植民地官僚としてウルトラ級の才能を発揮したテクノクラート。近代文明のエヴァンジェリストといえよう。アメリカの当時最高の碩学チャールズ・A・ビアードが、後藤新平を絶賛していることからもそれは、歴史的に定まった評価だと思う。

個別に追えば、

①内務省
②台湾民政長官
③満鉄総裁・鉄道院総裁
④関東大震災の時の東京市長にして内務大臣


が、大きな業績だ。


<<台湾民政長官として腕を振るう植民地テクノクラート>>
なんといっても、台湾民政長官時代、児玉源太郎が参謀総長として日露戦争に付きっ切りだったことと、彼への信頼の厚さから、事実上の台湾総督としての8年間が、彼の業績とコアの全てを表わしている。


たった8年の任期中に、本国東京よりも見事な都市計画と謳われた台北の大都市と港湾設備などの大インフラ整備を実施し、それだけでなく飴と鞭を見事に使い分けゲリラの抵抗を数年で一掃し(しかも軍事力の行使は最小限)、そして銀行制度や教育制度を次々に導入したことにある。またその導入に当たって、当時の清国と台湾現地の人々の習慣や風習・目に見えない法律などを京都帝大と協力し科学的で大規模で徹底的な調査を実施し、見事な植民地経営を行った。



全く同時期に、アメリカ合衆国がフィリピンを植民地化している。


が、ただ単に収奪し貧民と特権階級に分化する最悪の階級社会を作り出し、100年経ってもいまだ全く自立できない従属経済であるのに比較し、台湾が終戦直前にはすべての投資を回収し莫大な利益をあげはじめ、しかもインフラ設備と高い教育水準、とりわけ文明化・資本主義のエートス(思考様式)が浸透したおかげで、独立後世界最先進国の一つとも言える高い経済力を誇る素晴らしい国家になった。フィリピンと比べると、欧米との植民地支配と日本の植民地経営の差が如実に分かる結果だ。


そもそも、植民地に本国以上に投資するなどという馬鹿げた発想をしたのは、だれだったのだろうか?。これは大きな疑問だ。


単に、階級を作り支配層と非支配層に分けて、支配層だけ支配するという構造を作れば、今の南米やアフリカ、中東などのヨーロッパ・アメリカの従属経済と成り下がる実質上の奴隷国家として、存分に収奪することができたというのに、という疑問は昔からあった。京城帝国大学や台湾帝国大学の設置は、なんと本国の名古屋・大阪帝大よりも先なのだ。なぜ、本国よりも優先させたのだろうか?。あのナショナリズムの時代に、他民族のために恩恵を施すなんてことはちょっと考えられない。不思議だ。




経済学の常識で、資本主義が発達するには、大きく二つのものが必要だ。


①資本主義の倫理・エートス(思考様式)②資本蓄積だ。


事実上の台湾総督、植民地官僚、後藤新平の見事な業績は、化外の民として清国本国からも疫病の流行る非・文明国として事実上打ち捨てられていた台湾を、ほんの数年間で近代国家・資本主義国家として必要な全てのものをそろえてしまっている点だ。資金もリソースも、それほど多くない日本が超弱小国家の時代にだ。しかも、ゲリラへの鎮圧もほぼ2年ほどで終わっている。大規模な民衆の抵抗があれば、ゲリラはそんな風に消えたりはしない。


なぜ?


どうやって?


興味が尽きない。



なぜならば、近代主義をヨーロッパにもたらされたアジア以外の全ての地域は、いまだグローバルな従属経済から抜けられず、本当の意味で資本主義経済の参加者とはなっていないからだ。だが、既にアジアはとりわけ中国、韓国、台湾は、グローバル競争を自力で勝ち残れ、新しい価値を自ら創造できるだけのスーパープレーヤーとなっている。なぜか?。アジアとて、インドを中心に数百年間もヨーロッパの植民地として収奪され続け、奴隷国家としてしか存立できなかったというのに。たった100年で何故?。まぁ中国がそなるならばまだわかる。文明の錬度の高さや資本蓄積の多さからいっても。だが、日本を除けば東アジアで明らかに最も進んで民主主義と経済力を備えるの国家は、台湾だと思う。もしくは韓国だ。もう一度、問いたい。なぜだろうか?。サトウキビが取れるだけの、貧困で疫病が流行り、特に見るべき資源もなかった台湾が。もちろん、同じ疑問は、ちょんまげなんか結っている辺境オブ辺境の日本列島に資本主義のエートスが生まれたというのは、もっと深い疑問だが。


ここに、当然に植民地として収奪される奴隷国家が、資本主義のプレイヤーとして従属経済から抜け出すヒントがあるというのは、いうまでもないと思う。もう一度、再評価され徹底的に研究されるべき人物なのではないだろうか。


②に続く

郷 仙太郎
小説 後藤新平―行革と都市政策の先駆者
星 亮一
後藤新平伝―未来を見つめて生きた明治人
鶴見 祐輔, 一海 知義
正伝後藤新平―決定版 (1)
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小林 よしのり
新ゴーマニズム宣言〈1〉

<<現実とのリンク>>

ゴーマニズム宣言は、扶桑社のSPAという雑誌でブレイクした作品。


この作者自身が主人公となって、リアルワールドと物語を、結合させてしまうという手法は、軽いエッセイ形式のものでは、これまでもありこれからもあるだろう。

例えば、この手法が得意な扶桑社は、同じSPAで『だめんずうぉーかー』を生み出した。その他坂本未明なども同じスタイルで連載している。SAPのような形態の雑誌に、非常に合ったスタイルなのだろう。


<ゴー宣はやはり特別な作品>
だが、やはりその①リアル感の凄まじさ、②物語の構築能力、③世間のバッシングあらゆる攻撃に揺らがない強い個人意識という傑出した才能が、同時に存在しているという意味で、ゴー宣の小林よしのりは、得意な存在だと思う。いまだに、「ああいった特異な機能」を維持しつづけるという意味で、特殊なスタイルを構築しているといえる。類似の漫画が、同様の言論的機能を持ち得ないことからも、それがいえる。


①リアル感の凄まじさ
まず、この漫画の主人公と現実の作者の同一化、というのは、だめんずなどの軽めのエッセイは、使い古された手法です。いまだと、週間少年マガジンの西本英雄さんのもうしまこと『もうしませんから激闘編』やよしながふみさんの『愛がなくても喰っていけます。』なども同じスタイルです。


僕は初期のゴー宣の読者だが、オウム事件の頃、一人気を吐いていた(笑)小林よしのりさんが、オウムにつけ狙われてVXガスで殺されかけた時の臨場感は、今でも忘れられない。あれは、超面白かった。厚生省の時もそうだ。そのリアル感が消えた戦争論以降は、僕はリアルタイムで読まなくなった。


なぜ、リアル感が消失したのか?


一番の理由は、ゴー宣がリアルからよりいっそう言論界という抽象的領域に踏み込む度合いを強めらからで、それならば、他の本を読むのと等機能なので、もともと本をたくさん読む僕のような人物にとっては、それほどのオリジナリティを感じなくなったしまったんだと思う。ならば、リアルで読むのではなく、単行本でワンセットで十分だからだ。


では、抽象度合いを深めたということは、いったいどういうことか?



<歴史の再評価と作者の成長>
ゴー宣が、目の前の現象ではなく、抽象度合いを深め、歴史の再評価に向かったのは、実は当然の帰結だ。


最初期の作品を見ると、非常に小さな日常に対する価値判断を、傲慢な小林よしのりという漫画の主人公が、裁定するという形式で、一話完結になっている。


もともとが、個人意識が強く、絶対的な主体的判断を旨とする人物だったからだろうが、そうした小市民の視点で、さまざまな現象にこれは『正しい』『間違っている』と判断する作品であった。


いってみれば、エッセイなんですよね。


ところが、価値判断を続けていく(=連載が継続する)に従って、作者の美意識を非常に侵害する現象が世の中にあふれており、どうも、なにか根本的に「この世界そのもの」が間違っているのではないかという疑問が膨れ上がっていく。


とりわけ薬害エイズの運動に参加しているうちに、そもそも『問題の解決』が目的ではなくて、自分のひ弱な自我を認めることができない弱虫が、自らの存在を正当化するために、運動に寄生しているという極めて日本的な問題にぶち当たり、あまりのパブリック意識のなさに、小林さんは絶望する。


この絶望は、彼が左の旗手として登場した時も、右に舵を切ったと評されてからも、深く共通している。そもそも、彼が問うている問題は、個人が独立自尊で生きなければならないという問題で、夏目漱石や福沢諭吉が深く悩んだ個人の自立と国家の自立の関係であって、右も左もないのだ。彼が、ギャクマンガという一作だヒットが出ると、大抵の作者が自殺するか失踪する(笑)という激烈な競争社会で、熾烈に生き抜いた経験からきているので、彼の発想は徹底的にマーケット至上主義の倫理を持っている。


これは、エリーティズムの失敗と僕が前回書いた話と重なる。また、これまで近代文学からアニメエヴァゲリオンや『恋愛中毒』などの書評でテーマにしてきた、自意識の問題と同一のものだ。いいかえれば、日本近代文学100年の歴史的テーマに連なる日本人の自意識の弱さ、内的核心の弱さの問題に、小林さんはぶちあったことになる。



まず素直に、ただのエッセイ漫画やギャク漫画としてスタートした作品を、ここまで深め、現実に深く向き合いつつも、エンターテイメントと商業主義を失わなかった小林よしのり氏の天才に敬服する。いまさらだけどね(笑)。


さて、この問題・・・・・そもそもなぜ、そんなパブリック意識(少し違うがエリート意識やノブレスオブレージと言い換えてもいい)が消失してしまったのかだろうか?。なんで、そんなひ弱な自意識が生まれてしまったのであろうか?。過去の日本には、ひ弱でないパブリック意識があった時代があったのであろうか?等々の疑問が生まれます。


そこで、そもそも歴史はどうだったのか?、という歴史の再評価に進むのは、たぶん知識人のあり方としては、まったくもって一般的だったといいえます。


たいていの学者や評論家同じ成長のパターンを示します。まずは、自分のオリジナルの価値判断を示した後、その再評価として、全体の思想史歴史の位置付けの中で「どこ」に位置付けられるかを考えます。


だが、そうすることによって、小林よしのりという漫画のキャラクターが、現実のさまざまな現象に価値判断を下し、その落差をギャクにしたりするエッセイ漫画的な機能が、消失することになる。


つまらなくなった、と僕が思ったのは、その点だと思う。


また、ある程度メジャーになった言論では、その言論に寄生する連中が出てきて、さも「自分の意見のように」「寄らば大樹の陰」で、叫ぶフォロワーが出てくる。そういう「自分の頭では何も考えない追従者」がでてくると、気持ち悪くなるので、僕は大体興味を失ってしまう。


とはいえ、一知識人として、小林よしのりはとても興味深い。


知識人とのしての小林よしのりは、続くです。

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容疑者室井慎次 THE JUGEMENTDAY


室井①


踊る大捜査線のサイドムービー。

★★★★星4つ。


<<真理的側面を重視した重厚な人間ドラマ>>

本日初日、新宿!(映画の舞台も新宿)に妻と見に行く。

見終わった直後の感想を一言でいうと、派手なエンターテイメントを志向した『交渉人真下正義』に対して、心理的な側面を追った重厚な人間ドラマであったと思う。これまで脚本であった君塚良一さんが、監督をしていることからも、描きたかった本質が真下~とは異なるといえる。もちろん、同じ踊る~の大きな世界観に包含されるが、こういう世界観の幅の広さは、亀山千広らROBOTら製作集団のレベルの高さと深さを実感する。ただ、エンターテイメントとしてのカタルシスと派手さが少ない分、どれだけ売れるかは微妙な感じがする。妻が、とてもおもしろかったけど、頭を使ったと云っていたのが印象的。


さて、心理的な側面というのは、ブログ等にも書かれているが、この作品は、


寡黙がゆえに法律に翻弄される男


を描いています。喋りすぎて事件に巻き込まれる真下とは、逆ですね(笑)。もっと説明すればなんとかなるはずなのだが、美学と性格がそれを許さない室井慎次は、法律に追い詰められます。その中での室井慎次という男の内面を、えぐっていくことがこの映画の本質です。



<<正義の味方をやってのける男たち>>

さて、この映画は、法律が、何も悪くない清廉潔白な室井を追い詰めていきます。法律は、両義的なモノです。劇中で灰島弁護士(八嶋智人)が主張するように、「立場によって解釈が変わる」のです。この法律の不気味な怖さを理解していないと、この脚本の真の意味が分かりにくいだろう。たとえば、マンガ『カバチタレ』アメリカの訴訟合戦(マイケル・ジャクソン事件やOJシンプソン事件)や、などを知っていると少しは分かるかもしれない。


だから、より多く解釈をしゃべりまくったものが勝ちやすい。


もちろん、大金を積み上げて、腕のよい(=ウソがうまい)大量の弁護団を組織した方が強い。裁判による裁定というのは、往々にして、どれだけお金をかけて「もっともらしい真実を構成したか」で決まりやすい。裁判の場が、言葉と論理で持って事実を再構成するという特質を持つ以上、どうしても技術的により精密な論理を(うそでも)積み上げた方が勝つという技術論が生まれるのは、仕方がないことだ。

そして、この脚本の特質は、というか踊る大捜査線の世界観全てに共通するのは、つくられた真実とか、強大な現実に対して「しかたがない」という気持ちを全て飛び越えて、


正義の味方


をやってしまう人々を描いています。このオリジナルは、製作集団ヘッドギア、とりわけ押井守監督によって創られた機動警察パトレイバーの世界観を引き継いでいます。有名な話ですね。製作陣もはっきり明言しています。


えっと、つまりですね、警察組織自体は、まったく正義ではありません。


近代組織の一つで、権力を扱う獰猛な組織の一つに過ぎません。理想は、もちろん司法権力が女神に真理をつかさどることを誓うように、警察権力も真理に仕えるべきとされます。しかし、「そうではない」という現実が、これでもか、これでもか、と踊る~では描かれます。青島刑事もワクさんもしょせん小市民で毎日の経費が通るかどうかに悩み、ノンキャリアのスリーアミーゴス所長達は出世ばかりを気にして、キャリア組みのエリートの新城や室井は、政治的取引や高級官僚・政治家の圧力とパワーバランスで何もできません。


しかし、そんなどうしようもない腐った現実と日常に麻痺している世界の中で、それでも「ただ真実だけを追い求める」「正しいことを、正義を貫こうとする」姿が描かれています。


実は、こういう正義は、凄く危ない。


往々にして、強烈な理想(たとえば共産主義やインターナショナリズム)が、大量虐殺や全体主義を生み出すように、正義というものは、パワーのバランスからはずれた存在で、それだけが暴走すると、「そもそも本当に正しいことは何か?がよく分からない現実」に対して、神が人に罰を下すような極端な志向に走りやすいのです。しかも、誰も止められない。


だから、それならば多少グレーでも、多少悪(悪でない人間はいない)でも現実の権力を認めてその権力のパワーバランスで、世界を統治しようと考え出したのが、欧米法とりわけイギリスとフランスで発達した三権分立などの思想です。


でも、そうすると権力同士で「政治取引」ばかりが生まれ、往々にしてそれ「ばかり」になってしまいがちです。


だが、けっして「真実」や「正義」が、ないわけではないのです。


それは、たぶん、絶対的なモノがあるわけではなくて、現場に時々ひょこっと現れるものなのでしょう。


そして、室井慎次や青島たちは、「それ」を無視できず、正義を貫こうとします。


なんら政治的権力がバックにない世界で、「これ」を貫くのは勇気が必要です。なぜならば、まず人生を崩壊させられる可能性が高いからです。考えてみれば、室井や青島が、独身で家庭をもてないのも、わかるような気がします。こういした小市民で、政治的権力を背後に持たない個人が、それでも正義を貫こうとすれば、人生をかけないとできっこありません。


「みんな 室井さん、あんたが怖いんだ」


という新城のセリフは、組織に正義を持ち込む男への、組織全体のホンネです。



<<「現場」と「政治」というフィールドの違い>>

映画で一番、興味深く感じた部分がある。それは、検事総長に、警察庁長官官房審議補佐官警視正の新城賢太郎が会いに行くシーン。常識的に考えれば、たかが官房審議官補佐クラスの官僚が、検事総長に会えるチャネルを持っているわけがない。ところが、


「父がいつもお世話になっております。」


というセリフ。これは、高い次元の階層・階級に存在する閥族や閨閥のネットワークがあり、必ずしも肩書きだけは、評価できない権力があるということを示している。この映画は、「それ」を描くことが主眼ではないので、この映画でその存在は、突出していない。


ただ、こういう表の肩書きに寄らない権力のネットワークはどこにでもあります。いい、悪いの問題ではなく、人類社会ある限り絶対にあるものなのです。典型的なのが、高級官僚の世界には、東大法学部の学閥が厳然と存在します。昔ほどではないにしても、今もって、その影響力は否定できません。何かに困った時に、隣の省庁の大学の友人に声をかけるのは、考えてみればあたりまですからね。談合もこの延長線上の発想です。


ここに踊る~が、現場の正義を貫くためには、政治的な上層部と戦わなければならないという素朴な市民主義の視点から、真の正義を貫くには、政治上層部とただ「戦う」ことは不可能だ、というところまで到達しかけていると感じたのです。


なぜならば、近代国家の最重要一組織である警察権力、司法権力などと真っ向から戦える存在は存在しないからです。必ず負けます。


だから、そこにはパワーバランスによる「政治的取引」しかないのです。しかし、政治的取引は、汚れます。それは、妥協だからです。


つまり、現場にある『個々の現象・事件』には、真実がある。しかし、その真実を貫こうとすれば、敗北は必至なのです。そうした汚い現実世界のパワーポリテクスの矛盾の中で、「それでも」汚れながら、正義を少しでも貫こうとする姿勢こそ、


現実を生きる本物の人間


なんだと、僕は思います。そこ、に至りつつあるのを感じました。


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<<現場という視点と政治という視点>>
少し話がずれましたが、ここ数年、僕は「現場」という視点に酔ってきました。


それは、警察官を描いた『踊る大捜査線』や消防士の現場を描いた『め組の大吾』、海上保安庁を描いた『海猿』や医療の領域を扱った『医龍』、それに小川一水の『回転翼の天使』『復活の大地』『第六大陸』などなどがパッと上がる。自分自身が、巨大組織の企画部門に属し、上から計画を現場に押し付けるプロジェクトを担当していたこともあり、そして現場に戻りたいと希望するようになっていたこともあり、このテーマは、凄く重要な思索の糧だったんです。


<<ちょっと抽象的議論/ここは読み流してください>>

そもそも、大学時代からのテーマであった、そもそも「経済的な理論」が何故現実の市場現象では通用せず、個別のルールが存在してしまうのか、という命題にもつながりました。経済学では、古典理論から制度派経済学へ進みましたが、結局は、同じロジックです。


理論を現実に当てはめようとする時に、無理が生じる。だが、理論自体は、いいかえれば、正しいことや目的自体は、実現されてしかるべきだ。


その時には、現実を理論のように構成し直す必要性があるが、これを性急かつ徹底的に行うと、基本的には全体主義とファシズムに陥り、社会を崩壊に導きます。


だから、現実の諸パワーにバランス(三権分立ね)を形成させる制度をつくり上げ、制度自体が崩壊しないようなルール(法律)を制定して、その枠組みの中で、ある意味強烈な戦争ともいえる権力争いと競争を導入し、マーケットバランスを形成させる。


・・・・・・えっと、抽象的になりすぎました、、、、(笑)


<<現場と政治>>

えっとですね、ずっと上記でも話していた話なのですが、これまでは素朴に小市民の立場から青島刑事が、上層部の汚さを告発するという視点以上の視点を持ちえませんでした。ようは、政治取引は、汚いという素朴な視点です。


がしかし、政治取引や権力間の裏取引のよるパワーバランスは、本当の意味での正義(=国家のシステムを存立させ、ユーゴスラビアやボスニアのような政治的戦争や殺し合いを生み出さないためにあること)のために存在しているのであって、より上位の意味での正義であり真実なんです。


だが、人間の営みに「より上位も下位もない!」とすみれさんは叫びます。「事件に、大きいも小さいもない」です。この時に、より上位の正義と下位の正義(別にどちらが重要だという価値判断は含みません)が、相争う現象が生まれるわけです。


そして、これは個々のケースで、個別に悩んで悩んで、真実を貫く姿勢をしなければ、すぐに強いものが勝ってしまいます。でも、正義の味方は、その個別にケースの正義を追求するものなんです。これができることこそ、真の警察官であり、おまわりさんなんです。矛盾を否定するのではなく、矛盾の中で自分ができるベストを尽くすことです。


僕が、この踊る~スキなのは、青島君の潜水艦事件や前回のお台場のレインボーブリッジ封鎖のような官僚の省庁間のバランスオブパワーという国家権力の政治的取引の世界にまで、真摯に踏み込んでいる点です。


ただ単に、上は悪い!という素朴でバカな市民的立場を取ることも可能でしたでしょう。しかし、室井管理官と青島刑事の関係は、そんなレベルの低いものではないのです。そもそも警察機構という権力の塊でありながら、市民を守るという全く相反する存立目的を抱えた組織がテーマになっていることからも、脚本がそれを志向しているのは分かります。


今回の作品にも最後には、公安(パブリックセキュリティ)が出てきました。


もし次回があるならば、「これ」を真正面から描けば、踊る大捜査線の真の本質が描けると思います。といいつつも、既に機動警察パトレイバーの映画版でかなりの部分が描かれていますが。

odru-muroi①05.8 ororu-muroi②05.8

ちなみに、意味が分からない(ネタバレなのでいえない)とは思いますが、映画を見る前に上記の日記を見ていると、泣けます。

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West Wing: Complete Seasons 1 & 2 (2pc) (Dig)

やっと見始めた。

見たいみたいとは思っていたのだが。


しかし、凄く米国的。


これで日本の視聴者は意味が分かるのだろうか?。


第一話からして、なぜ宗教右翼との対立があのように描かれるかは、キリスト教右翼や原理主義がWASPの牙城であって、政府高官や官僚スタッフにはユダヤ人が多いということを前提として分かっていないと、全然分かるまい。ましてや、一番最初に、キリスト教右翼の団体を切り捨てるのは、あきらかにブッシュ大統領への皮肉が描かれている。


これは、読解を要する作品だ。


ゆったりみるつもり。


最近、米国と韓国のドラマが熱い。


チャングムの誓いと、24とLOSTそれに、これ。


時間がいくらあっても足りませんぜ。

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しけたみがの, 手塚 一佳
鋼鉄の少女たち (1)

う~ん、星一つ?くらい。

いや、でもそれなりにおもしろかった。が、ライトノベルをさらに思いっきり軽くして、オタク色を強くした感じですね。いや、絵柄は雑だけど好きですし、読みやすかったけど。でも、買うほどじゃないないかもなぁ。親友が友達から凄い面白といわれて買ったら、つまらなかった(笑)といってくれた本です。


でも、原作を分けているだけに、設定は深そうなので、まぁ読めるかな・・・という感じ。実は、戦争の背景や戦争の悲惨さを演出シーンは、けっこう容赦がない。容赦がない割に、子供じみて見えるのは、演出の拙さと、掲載誌が『エース桃組』だっけか?そういった軽めのファンタジーというような層を対象にしているからだろうなぁ。


戦車は、居住空間が狭いために、小さな子供のような体型でないと入りにくい。ましてや、科学技術が発達していなかった時代では、エンジンや砲塔に空間をとらえ操縦席は小さかった。そこで、そこに入れる年齢の低い少女たちを集めて戦車部隊を編成した、というのが、ストーリー。


総力戦の末期的戦争のなかで、けなげに戦う乙女たち・・・というのは、いかにもな作品だ。次の巻は・・・買わないかも。満喫だな。





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