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2011-02-07 13:37:32

ビートルズ!

Theme: 音楽


プチ・フェアリが綴る ’60s~ エッセイ集  1962年10月5日、「ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー」でデヴューした、言わずと知れた「世界一のバンド」The Beatles。
日本でのデヴューは’64年3月の「抱きしめたい/こいつ」である。
ご多聞に漏れず、私もビートルズから多大な影響を受けて生きてきた。
なので、このトピックについては簡単に語ることができない。
今回は「その壱」という感じで、個人的な出会いについて書いてみたい。

プチ・フェアリが綴る ’60s~ エッセイ集  私がビートルズの存在を初めて意識したのは’65年、ちょうど映画「Help!」が封切られた頃だった。
それまでも、いろいろなメディア(はっきりしないが、不二家のルック・チョコレートのCMに出ていた記憶がある)で彼らの話題は入ってきていたし、ラジオで彼らの曲を耳にする機会も多かった。

それに、大人たちが「雑音だ」とか「男のくせに髪を長くして……」などと言っていたので、その存在は充分知っていた。
が、’65年当時は私もまだ小学校中学年。
ビートルズと言われても「ふーん」てな感じで……。
ジョン、ポール、ジョージ、リンゴという名前は知っていても、顔が結びつかない状態。
で、唯一わかっていたのが、特異な風貌のリンゴだった。
そのリンゴのことも、「あのおかっぱ頭、気持ち悪いな~」なんて思っていた。


 で、なぜ急にビートルズが身近になったのかというと、それは友だちの(当時高校生だった)お姉さんが熱狂的にハマッていたから。
その頃いちばん仲のよかったO君の家に遊びにいく度(ほぼ毎日)に、お姉さんにいわば無理やり聴かされたのがビートルズだったのだ。
しかし彼女のお陰で私は、ビートルズの初期の曲をあらかた覚えてしまった。
子供心に「抱きしめたい」にはシビレたし、「イェスタデイ」というきれいなメロディの曲の存在もいち早く知っていた。
ちなみに彼女はポール・マッカートニーに入れ込んでいて、ポールのお嫁さんになるにはどうすればいいのかを、真剣に考えていた。


 そしてその翌’66年、彼らは日本にやって来た。
7月に日本テレビでその公演の模様が放映されたので必死で見たのだが、印象に残っているのは来日の大騒動ばかりで、公演内容が今ひとつぼやけている。
もう3つ、4つ年上だったら、もっと鮮明に覚えていたのではないかと思うと残念だ。
何しろ当時の私にとってみれば、あのビートルズでさえ、若大将や怪獣映画や漫画、それにグループサウンズ、プロレス中継やプラモデルなどと同じレベルの興味の対象にすぎなかったわけだから。
しかし、リアル・タイムを生きているということは、こういうものなのではないだろうか、と思う。

プチ・フェアリが綴る ’60s~ エッセイ集  やがて中学生になり、私は改めてビートルズのレコードと向き合うことになる。
私はある私立中学に入り、学校の寮で暮らすことになった。
生活のすべてが学校の敷地内なので、当然娯楽などというものはない。
寮にあった施設といえば、卓球場と娯楽室のみ。
娯楽室といっても、畳が敷いてあってそこにおんぼろのステレオが置いてあるだけだった。
そこでの寮生たちのささやかな楽しみが、このステレオで持ち寄ったドーナツ盤を聴いたり、ギターを弾いて歌ったりすることくらいだったのだ。
ここではよく洋楽のレコードを聴いた。
サイモン&ガーファンクル、ビーチ・ボーイズ、モンキーズ、ママス&パパス、タートルズ、スコット・マッケンジー、アソシエーション、1910フルーツ・ガム・カンパニー、ビージーズ、カウシルズ、カスケーズ、メリー・ホプキン、ヴァニラ・ファッジ、ショッキング・ブルー、ゼーガーとエバンス、……そしてリヴァプール・サウンズ。
この時期は正にポップ・ソングの黄金期で、お気に入りのアーティストには枚挙のいとまがない。


 そしてこの頃、私に、それまで意識の底にあったビートルズへの憧れや記憶が一気に押し寄せてきたのである。

KUMAMO
2009.6.23発表

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管理人のKAITOです。
昨日より開始いたしました当ブログは懐かしい昭和のエッセイ集です。


昨日のエッセイ「プロローグ 一丁目の朝日」はその名のとおり序章として当時の生活や街並みのご紹介をさせていただきました。
本日からいよいよ本編となるわけですがトップバッターはやはり20世紀最高のグループ、ビートルズしかありませんね。

ビートルズは存在が巨大すぎて1本のエッセイではおさまりきれません。
で、今日はKUMAMOが執筆担当させていただき「出会い」編です。


当時子供だった私はビートルズ=長髪=不良と言われていたのを鵜呑みにして、なるべくかかわらないようにして避けていました。
はじめてちゃんと聴いたのが大学生の時で、新品のコンポーネント・ステレオの大きなスピーカーから流れる素晴らしいサウンドの洪水に1ラウンド早々で秒殺K.O.されてしまいました。
私の中で最初にビートルズ旋風を巻き起こした曲は英国と同様「プリーズ・プリーズ・ミー」でした。
こんなカッコイイと思った曲は他にありませんでした。


で、今日、紹介したい動画がこれです。
プリーズ・プリーズ・ミー ポール・マッカートニー (Youtube動画)

たぶん2005年の全米ライブ''The Space Within Us''だと思います。
本来、ジョンの曲ですし、年を召されて全盛期の高音域も出ないのですが、なぜか私はこれを聴いていると初めてこの曲に出会って感動した頃のことを思い出してしまうのです。
カメラがひんぱんに観客席を映すんですが、聴衆が一人一人輝いているんですよね。
子供から大人まで幅広い年齢層の全員が心から楽しんでいるんです。
みんなの幸せそうな笑顔に、つい私も引き込まれてあの頃を思い出したのでしょう。


ビートルズ・エッセイは今後も多数登場しますので、皆様のご来場をお待ちしております。

当ブログはシュガ・プラム・フェアリ というサイトの中の「懐かしエッセイ」を集約したものです。
執筆者は私とKUMAMO、ABBYの3名がおりましてそれぞれの気のむくままに綴ってます。
(プロフィール欄をご覧くださいませ)


☆ブログ・タイトルの「プチ・フェアリ」の意味ですが、親サイトをはじめ関連サイト名にすべて「フェアリ(妖精)」が含まれており、その中から派生した個人サイトということで「プチ(小さい)・フェアリ」と命名いたしました。



P.S. ↓動画はたぶんこれだと思います

ライヴ・イン・ザ・US 2005~ザ・スペース・ウィズイン・アス~ [DVD]/ポール・マッカートニー
¥4,900
Amazon.co.jp

2011-02-06 11:38:49

プロローグ 一丁目の朝日

Theme: ブログ

 有名なマンガ[映画]のパロディ…… というわけではないが、1960年といえば昭和でいうと35年。
当時私が住んでいたのが○○町「一丁目」。
お向いさんの名前が「朝日さん」だったので、ちょっとニュアンスを拝借して、このエッセイのプロローグ・タイトルとしてみた。

 ……ということで、これから'60年代以降の昭和をテーマにした気ままなエッセイを綴っていきたいと思う。
しかし如何せん、’60年というと私はまだ幼稚園に入った頃。
さすがに記憶はおぼろげだ。それでも、'60年代前半のことなら覚えている。


懐かしメモリアル~プチ・フェアリが綴るエッセイ集~ 映画「Always三丁目の夕日」で描かれていた情景は、ほとんど自分が目にしてきたものである。確かに今と比べると貧しく、物のない時代だった。

我が家には父のスクーターしかなく、自動車は小学生になってからやってきた。


 あの映画の舞台は’59年の東京だったが、私が住んでいたのは東京ではなかったので若干様子は違う。
しかし大同小異で、当時舗装道路なんてものは幹線道路だけで、ほとんどの道は砂利道。
そこには木製の柱に裸電球に笠を付けた外灯が、点々と設置されていた。

プチ・フェアリが綴る ’60s~ エッセイ集 各家の前には、木製やコンクリート製の外枠で扉と蓋の付いたゴミ箱が置いてあった。
このゴミ箱、今考えてみると蓋付きなので、カラスに荒らされることがなくてよかったような気もする(実際には衛生面で問題があったようだが……)。

 

 立ち並ぶ家々も、ほとんどが木造。
今のように外壁にモルタル塗りなどはあまりなく、焦げ茶色の板がむき出しの家だ。
窓や出入り口の鍵はねじ込み式で、薄いガラスがはめられていたが、それだけでは物騒なので、外側には木戸が付いていた。
アルミサッシが一般 家庭に普及したのは’65年頃からだから、それまでは空き巣に入ろうと思えば簡単だったことだろう。

トイレは当然汲み取り式。
今じゃキャンプ場だって水洗だというのに……。
お勝手の流しは石でできていて、水道の蛇口をひねると、お湯じゃなく水が出る。
冬場は厳しかった。
ガス台も、黒い鋳物のような金属でできたごついものだった。
もちろん自動点火なんかなく、マッチが大活躍だった。
ほかの家庭用品も、その頃は旧から新への過渡期で、冷蔵庫(木製の分厚い扉の付いたもので、そこに大きな氷を入れて冷やした)や炬燵(掘り炬燵で、炭を置く場所があった)も旧式のもの形跡が残っていた。
'60年代初頭になるとさすがに冷蔵庫も炬燵も電化され、実際に使ってはいなかったが……。
また、洗濯機は、例のローラー式絞り機付きのものが重宝がられた。



懐かしメモリアル~プチ・フェアリが綴るエッセイ集~  そしてテレビ。新しもの好きの父のお陰で、家には早くからテレビがあった。
モノクロだが、高級品ということで周りにひだの付いた立派な刺繍のある布製のカバーがかかっていて、見る時はそれをまくり上げて見るのだった。
演劇並みである。ときどき近所の人が見にきていた。


 おもしろいのは風呂で、最初の頃は薪で焚いていた。
「バスタブ」はまったくの木の桶で、そこに釜が付いていて石炭と薪で湯を沸かす。
釜からは煙突に続く管が延びていて、風呂桶の一部を通って屋根に抜けている。
桶内の煙突に続く管の近辺には仕切りがあって、小さなスペースがあり、そこに水を張って沸いたお湯が上がり湯となる。
シャワーなどというものがなかったので、上がり湯で身体をきれいに洗い流して風呂から上がるのである。
我が家ではガスに変わってからも、しばらくこの上がり湯の付いた風呂桶を使っていた。


 私が住んでいたのは街のど真ん中で、それでも賑やかな方だった。
隣はアルバイト・サロン(当時流行ったキャバレーのような店)で、毎晩バンドのジャズやハワイアンの生演奏が聞こえていたし、はす向いはビリヤード場で、私はいつもその店の窓から大人の世界をかいま見ていた。

ABBY
2009.6.23発表

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管理人のKaito(海渡)と申します。
本日よりブログ開始させていただきます。
よろしくお願いいたします。(*⌒∇⌒*)
当ブログはシュガ・プラム・フェアリというサイトの中の「懐かしエッセイ」を集約したものです。
執筆者は他にKUMAMO、ABBYの2名がおりましてそれぞれの気のむくままに綴ってます。
(プロフィール欄をご覧くださいませ)


第一弾は「プロローグ 一丁目の朝日」、60年代の街並みや生活を回顧したエッセイです。

情景はやはりこんなとこでしょうか?

70年代の都電と街並み (Youtube動画)

黄色い都電の車窓から当時の風景をかいま見ることができます。
当時はこんな街中まで走っていたんですね。


ともかくあの頃は冬が寒かった…。
暖房はコタツと火鉢か石油ストーブだけで足元から冷えて必ず足の指がシモヤケになったんです。
お風呂に入って暖めるとシモヤケのところが痛痒くて辛かったものでした。
寒さで水道管が凍りついたなんてニュースもよくありましたね。


それからアルバイト・サロン。
略してアルサロとかいわれてたんですが近所に無かったんで私はよく知らなかったんですが想像してたものより健全だったんですねえ。
それでも素人さん目当てにお客が来るって、今も昔も変わらないんですね。


……さて、当エッセイは日曜以外はほぼ毎日更新させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。

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