Penntoro Stream

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人にかかわるときの自分に気づく。「私」の形。
わがままな自分自身と、素直な「私」。
社会が「私」をかたどるけれど、自分自身を忘れてはいけない。
そんな、わたしのひとりごと、きいてね。

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集英社のファッション誌『MORE』の採用ページにある、現編集長の記事を読んだ。

 

 「MORE」は1977年に誕生した雑誌で、そのときの編集長が創刊にあたりこんな言葉を書き残していました。「私たちの周辺にはあまりにも多くの物と情報が氾濫しています。(中略)私たちにとってほんとうに必要なものは何か、無視してよい情報は何かを、選別する能力を身につけることが大切ではないでしょうか」(引用:「MORE」創刊号より)。
 私は、これを読んで驚いたんですね。もちろん当時は、いまとは全く異なる状況下で、20代女性たちの主体性を必要とされていたと思います。むしろいまよりも“少しとがった感覚”の方に向けて、発信されたメッセージだったかもしれません。

 

 1978年、私はホテルオークラで開催されたMORE国際文化セミナーに参加した。

 登壇者はバーバラ・アダチ、ウェンディ・ホールデンソン、イレーネ・イアロッチ、シャーリー・テュダー、桐島洋子、ソニア・リキエル、中村紘子、清家清、並河萬里、アーリン・ダール、グロリア・スタイナムなど。

 

 ソニア・リキエルは、こんな話をしてくれた。

 

 ファッションとは今を生きることだと思う。私はファッションを乗り越えたかった。デ・モードとは個人主義である。野心といつもいっしょにいるようなもので、肉体のためにファッションをつくるのである。他と区別するため、自分を示すためである。

 どうしてファッションをつくるのかといえば、それは子どもを産むようなもので、コレクションが生まれるのは子どもが生まれるのと同じこと。そして、生まれたあとも子どもと同じ扱いをする。服のあちこちに私が顔を出す。服が私をつくっているのだ。始めは、服をつくるのは手段だと考えていた。けれども服は私の人生で、私を表現するものだった。

 それはヒッピー運動と同じで、空間の捉え方が同じだった。自由な服、服がしぐさなのである。服はいつも違っていて、いつも表情をもっている。服は決して鋳型ではなく、鋳型になるのは女性のほうで、服に着られてはならない。

 私はファッションを定義しないよう訴えたい。どうか、自分の好みや望みに合わせて服を着てほしい。それは自分を理解することから始まる。スタイリストの型ではなく、自分らしい型をみつけてほしい。

 それは自分自身を研究することでもある。自分自身のことについて考えることが大切なのだ。服に対して自分を解放してほしい。服に合わせて自分をつくるのではなく、何を着ても素敵であるような女性になってほしい。

 私からのアドバイスは、ブティックの売り子の「お似合いですよ」という言葉にのせられるのではなく、自分自身で鏡を見て判断することが大切だということ。自分自身のことがわかっていれば自分が着こなせているか、その服が似合っているかどうかはわかるはずだ。だって、何をどんなふうに着てもいいのだから。それはあなたがあなたの価値を表現することなのだから。

 

 

新型コロナウイルス感染症が猛威をふるいだしてから、

私の生活は自宅で過ごすことが多くなった。

それならブログを書く時間はたっぷりあったほずなのに

少しも更新せず、どんな生活を私は送っていたのだろうと、

我ながらいぶかしく、情なく、反省をこめてここに書きたいと思う。

 

2020年 夏からWEB講座開催の動画編集に取り込んでいた。

たしかに、それは時間のかかる作業だった。

2020年9月から、社内の外国人メンバー向けの日本語勉強会を

はじめた。だいたい週に1回のペースで現在も行っている。

2021年から始めたことがある。

1つは工芸部。友人5人で、編み物、洋裁、粘土細工、書道など、いろいろなことに挑戦している。

もう1つはラジオビジネス英語の視聴。4月のテーマは

「オンライン会議の英語」だった。

5月に取り上げられたInterviewは「マインドフルネス」だった。

毎朝、ラジオを聴く習慣がついた。

 

11月 国際交流協会の説明会に参加。

しばらくはコロナでなかなかすすまなかったが、

6月からこども日本語教室のボランティア活動を始めることになった。

 

2021年~2022年も、

ラジオ講座、日本語勉強会、ボランティア活動は続いた。

加齢と総体的に活動量が減り、体力の衰えを感じる毎日だが、

ZoomやLINEなどで連絡をとる家族や友人が多数いて、

なんとかやっている。

月2回の工芸部の活動と、

こども日本語教室の子どもたちとの出会いも大きい。

活動はゆっくりになったと感じるが、知的好奇心は旺盛なまま。

これからも元気に活動できるよう、体力維持が今年の目標かな。

 

私が本に関わる仕事に興味をもちはじめたのは中学生の頃だった。

みつはしちかこさんの「チッチとサリー」という漫画が人気で、

友だちがみんなそのシリーズが出ると買って読んでいた。

チッチとサリーの日常を描いただけなのに、

どのシーンも、どんな思いも、読者それぞれが共鳴するような、

そんな漫画だった。

チッチとサリーには詩がたくさん掲載されていた。

詩を書くのがブームになっていた時代でもあり、

中学生の女の子たちはノートに詩をしたためた。

私もその一人だった。

 

私は運動部に所属していたが、図書館にも通って本をよく読んだ。

時代はちょうど多くの雑誌が刊行され、世の中にファッション誌や

サブカルチャーや、情報誌などが出始めた頃でもあった。

だから、私は秘かに出版界を見始めていたのかもしれなかった。

はっきりと覚えているのは、

「お茶くみでもいいから、本を作る人たちのいる場所で

 仕事がしたいな」と考えたことだった。

 

高校生になって編集者を目指す人の専門学校を見つけたときは、

「これだ」と思った。今のようにネットなんかなく、どうやって私は

その情報にたどり着いたのだろうと我ながら感心する。

足で探したのだと思う。人に聞いたのだと思う。

そして、書物からみつけたのだと思う。

 

編集学校では自分の無知に落ち込んだりもしたが、

運よく編集プロダクションに入社できた。

研修期間に通った赤坂のデザイン事務所で、

「それならいい文章をいっぱい読まなきゃね」と応援してもらい、

おススメを聞いてみた。

「有吉佐和子なんかいいんじゃないかな」

それから私は有吉佐和子の小説を読んだ。

当時のお給料の約半分は家賃に、そして残り半分のうちの

三分の一を私は雑誌や書籍に費やしていた。

いったいどうやって暮らしていたんだろう(笑)。