保守と日傘と夏みかん

政治・経済・保守・反民主主義

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こうした日本人の日和見主義的な傾向にも、一定の効用があるのは否定しないけれども、現下の政治状況にも見られる通り、それが行きすぎるあまり、混沌とした状況を生み出すことにもなる。

例えば、戦後の日本では、民主主義が最高価値として崇められ、政治は「民意」によって左右されるべきものとして捉えられてきたが、それゆえに、政治家が合意形成にもとづいて政策を実施しようとすると、時間も掛かってしまい、かえって「決められない政治」だの「待ちの政治」だのといった批判に晒されることになる。
それでは、政治家が強力なリーダーシップを発揮して、トップダウンで政策を推進しようとすると、今度は「強権的」だの「独裁的」だのといった批判が投げかけられることになる。

実際、民主党政権を「決められない政治」だと批判していたマスコミは、まるでそれを忘れたかのように、現在の安倍政権を「強権的」だと批判している。

現実には、どちらかの側面だけでいいということではなくて、そのバランスこそが大事になるのだが、バランスを養おうとはせず、気まぐれに両極端な批判を繰り返し、矛盾に塗られた評価のなかで政治家は「消費」されていく。
こうした状況は、この四半世紀間に繰り広げられてきた「政治改革」や「行政改革」でも少なからず見られることだ。

選挙制度改革こそが「政治改革」だとされ、小選挙区比例代表並立制が導入されたが、当時、「政党本位の政治」があたかも立派なものであるかのように議論されていた。
本来的に政党本位と人物本位は二者択一すべきものではないが、政治家の人格や見識、経験を含めた個人的な力量を等閑視させることになった。世論の「風」に乗っかって量産される「チルドレン」現象も必然なのだ。

政治の枠組みを変えたからといって、政治が良くなるとは限らないが、当時は、政治本来の目的や理念について語ることなく、政治の手段にすぎない選挙制度の改革を政治改革に短絡させる「空気」が日本中を覆っていた。
今日の政治状況を見て、誰もが小選挙区制の弊害を口にするようになっているけれども、政治改革の成れの果ての政治劣化なのである。

政治改革と同時に進められた「行政改革」では、日本の政治構造ではリーダーシップが発揮しにくいとして、官邸機能の強化が謳われて、経済財政諮問会議などが創設され、その後も、内閣人事局の設置などが行われ、官邸に権力が集中する構造になった。
だが、官邸主導の政権運営が行きすぎると、派閥や族議員は存在感をなくし、誰もが首相や党幹部の顔色ばかりを窺うようになるのは当然だ。その結果、自由で活発な討論を政治の舞台から消し去ってしまうのである。

「森友学園問題」の次に表面化した「加計学園問題」にしても、旧民主党も含めて、「政治主導」の必要性を声高に叫び続けてきたはずである。
官僚の政策判断を排除し、政治家に従いさえすればいいのだといってきたのだから、個別の行政上の判断に政治家の影響が強まるのは必然的結果であり、むしろ歓迎しなければならないのではないかと嫌味をいいたくもなる。

そして、規制がまるで「悪の温床」であるかのように見なす「空気」が蔓延し、規制緩和の大合唱を繰り返した先に登場したのが国家戦略特区だ。しかし、既得権益の打破を声高に叫びながら、単なる権益の付け替えに終わる。

眼前に広がる政治の醜悪さは自らが招き寄せた事態なのだが、他方で、前文部科学事務次官が「内閣府に押し切られた」などと発言しているのにも、違和感がある。

それぞれの役所として異なる意見はあっても、最終的には首相の判断と責任の下、政権として方針を決める。そこには常に微妙な緊張関係が生じる以上、本質的な政策論として議論すべきであって、まるで疑獄事件の犯人捜しのような批判はみっともない。
ましてや「安倍憎し」のあまり、これまで徹底した官僚批判を行ない、政治主導を盛んに主張してきた人たちが、首相に反旗を翻せば称賛するというのは滑稽に映る。

日本人が「空気」に支配されやすい特徴があるのだとすると、こうした状況になるのにも必然性はあるが、世界全体も混沌とするなか、「空気」に靡くのではなく、自らの拠って立つ基盤や価値の基準を確立していかなければならない。





『表現者 平成29年9月号』 村上正泰

 

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