地球一周の船旅 『たびログ』

世界一周しちゃえば?(*^m^*) tabilog コメント&トラバはお気軽に♪


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・あげるお金よりも貸すお金の割合が大きい。
  借りた国は、そのお金を返さないといけない。そのため途上国に負担の重いものとなる。


・アジアに多い
  日本のODAはアジア向けが中心.
  世界にはアフリカのいくつかの国のような最貧国があるのに、最貧国ではないアジア諸国への援助中心。


・公共事業のようなプロジェクト
  ダムや発電所・道路など、経済インフラ向けが大きい割合を占める。
  これらは、貸すお金で行われることが多く、無償でしかも医療や教育などの直接貧しい人々に届く援助のありかたとは対照的。




ODAは、何がいちばん問題なのか.


いろいろな問題があるが、大切なのは情報公開と市民参加。
私たち、市民がODAに関心を持たなくては!!!
そのためには、まずは自分で知って、それを周りに伝えていくこと。
日本は民主主義の国なんだから、市民がみんな関心をもったら変わっていくだろう。

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ODAって、発展途上国のためにつかわれるもの。あたりまえじゃん.世界中には、貧しくて、毎日の食事も満足にとれず飢えている人、お金がなくて学校に行けない子ども、日本なら簡単に治る病気で死んでしまう人がいる。その人たちのためにODAがあるのでは...?
日本は世界の中でも多額のODAを出してて、すごいじゃん... ......


  でも現実は、日本企業のためにODAが使われている!??

(バタンガス港プロジェクトの例)
フィリピン、バタンガスには、もともと国内専用の港があった。それを約58億円かけて8倍に広げ、国際港にしよう、というプロジェクト。
これにより、大規模な住民立ち退き(約1500世帯)を伴うことは計画当初からわかっていた。が、フィリピン政府は有効な対処をせず....。


⇒事件発生!!!
1994年6月27日。住民がまだ立ち退きに反対している中で、フィリピン政府は強制立ち退きを実行。その過程で、警察隊の発砲により住民が撃たれた。これは、日本のODA初の流血事件。なぜこんなことになってしまったのだろう?

なぜ住民はここまで立ち退きに反対したのか.
 1.立ち退かされる住民の負担がとてつもなく大きい。
 2.立ち退きに伴う補償が不十分。
  (政府が用意した移転地は、港から7~18㎞も離れた内陸部.)

なぜフィリピン政府はきちんと補償をしなかったのか.

 フィリピン政府は、「資金不足」を理由としてあげた。

では、なぜ補償が不十分なこの計画に日本ははODAを出すのか。
資金不足が理由なら、日本が補償の文貸してあげればよいのでは?

 日本政府は、「自助努力」がODAの理念であるから、お金をただあげる、貸すというのではなく、それによって相手の努力を促し、最終的に相手国の自立を目指す、だから、立ち退き費用は相手国が負担すべきだと主張する。


しかし、フィリピン政府にお金がないこともわかっている。立ち退かされる住民の生活が壊されることもわかっている。だったら、ODAをそのプロジェクトには出さない、または、立ち退きの費用までODAで出す、という対応が必要なのではないだろうか??
  ↓

結局、バタンガスの件では十分な補償がされず、多くの住民は港の近くにバラックを築いて住みつくことになった。現地住民を貧民に突き落とす。

そんなものが「援助」と言えるのだろうか?



このように、日本のODAによって周辺住民の立ち退き問題や環境問題が起こっている。


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日本には、途上国の豊かな未来を思って行う、政府ベースの国際協力があります。

O ... Official     ( 政府 )

D ... Development  ( 開発 )

A ... Assistance   ( 援助 )

開発途上国の経済、社会の発展や福祉の向上に役立つために行う 資金、技術提供による協力のこと。

( 「青年海外協力隊」も、この技術協力 )

・第二次世界大戦後、

 しばらくは日本も援助の受け入れ国だった。 アメリカ、カナダ、メキシコなどの国から食糧や生活物資が送られた。

・1980年代から急激に援助予算を増やし、91年には世界一の援助国に。

ODAのお金は、どこから出ているの?

・税金 ・郵便貯金 ・年金

      ↑( 賃代の場合 )


私達の国民のお金がもとに、ODAは成り立っています。

年間一兆円以上のお金が使われていて、国民1人当たりにすると、

約年間9千円。

どんなことをしているの? @フィリピン 

例えば...

■ スービック自由港環境整備事業 ( 2001 )

( スービック特別経済自由港において、新規衛 埋立処分場の建設 )


なんのため? → ・スービックの投資促進

           ・周辺住民の生活環境向上

供与限度額  → 9億 9100万円


■ 中部ルソン高速道路建設計画 ( 2001 )

( スービック・クラーク間に90kmの有料高速道路の建設 )


なんのため? → 中部ルソン地域における物流の効率化を促進.

いくらで?   → 419億 3100万円.

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C,おわりに ピープルズパワーが社会の流れを変える

http://ameblo.jp/peaceboat/entry-10003367638.html


 今回スービックの元米軍基地の検証を通して、私たちが強く感じたことは、フィリピンの人々のピープルズパワーでした。

 みんなが力を合わせて米軍基地撤退を勝ちとったということが、この街の人々の大きな自信と誇りにつながっているのだと思います。それを象徴するように、議会での基地撤退の要求が可決された時の議員12人の手形と女神の像がモニュメントとして港を見下ろしています。

 決してあきらめることなく、米軍への補償を求める闘いを続ける力強さに希望を感じ、勇気づけられました。日本にある沖縄をはじめとする米軍基地の問題を自分の課題として、もう一度真剣に考えるきっかけを与えられた今回のエクスポージャーでした。

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B,エクスポージャーツアー報告

http://ameblo.jp/peaceboat/entry-10003367638.html


1、 スービック元米軍基地

 スービック海軍基地は、隣接するクラーク空軍基地(日本占領時は神風特攻隊の基地でしたが)とともにベトナム戦争時にはアジア最大の規模を誇っていました。1991年ピナツボ火山の爆発で基地内の廃棄物による放射能やPCBが流失し、体内で分解されないで人間だけでなく他の動物にも50年以上悪影響が出ることが判明しました。このことで市民運動を盛り上がり、基地も火山の噴火により使い物にならなくなったので米軍は基地撤退を余儀なくされたのです。しかし、この被害についてのくわしいデータは地元の漁民には知らされず、汚染された湾内でもいまだに漁をして魚を取り食べ続けているそうです。また、BRMOという米軍払い下げ物資の処分店では汚染された廃棄物を処理もせずに地元民に売るという行為が続けられていました。また、米軍が船を洗う為に使っていた有機スズが生態系に悪影響をもたらす環境ホルモンを出していたことも深刻な問題です。

元米軍基地は周辺森林7千ヘクタール、港湾1万1千ヘクタールは、米軍撤退後レジャーセンターに再開発され、基地ができる前元々ここにあった熱帯雨林の森にすんでいたアエタの人たちにナビゲータになってもらってサバイバル体験ができるテーマパークを作る計画もあるそうです。また、猿をはじめとする野生動物の放し飼いの動物園でサファリ体験を売りにした観光開発も行われているようです。しかし、これらの開発に際しても汚染が心配されています。

元基地内には今も367箇所に弾薬庫が残っています。爆弾や火薬の片付けをしたアエタの人たちの健康被害も出ています。また、飲み水の供給源となっている河川もクロムによる汚染があり、その影響が深刻なものとなっています。

2、 フォーラムでの地元NGOとの交流

 まずわたしたちは、昼食をとるレストランMAX‘Sでの地元NGOとの交流会とプレスによるインタビューに参加しました。

そこでは、憲法9条をもつ日本からきたピースボートというNGOに対して地元で活動してきた人たちやメデイアが注目し、一緒に闘ってくれるという大きな期待をしておられることを感じました。それに対してAHPTの佐久間さんが沖縄の辺野古の問題や韓国の従軍慰安婦問題について報告をされました。

また、午後からは基地のあったころと撤退後の生活について基地で働いていた労働者の方から体験を聞く機会をもつことができました。

彼は、1986年から17年間スービックの米軍基地で働いて、ベトナム戦争も湾岸戦争も経験したそうですが、今は教会の牧師として活動されています。「軍の労働者としての生活は一見羽振りがよく華やかだったが、一人の人間として思い返してみるとむなしく無駄な人生の期間だった気がする。なぜならそのころは自分が人間としてモラルや誇りが低下していたからだ。ベトナム戦争から戻ってきた血の着いたボートを洗ってまたベトナムへ送り返すという仕事をしていながら何の心の痛みも感じない状態だった。基地に働くじぶんはフィリピンもアメリカも守ってくれない立場だったので、自分はどんな生き物になっていくのだろうと感じていた。IDカードをなくしてしまうとすぐ停職になるのは分かっていたし、安全面でも放射能の脅威などについてはおびえていたが考えるのが怖かったので、基地の外にいる女王のよう着飾った女性たちを買うことできをまぎらわしていた。あのころはフィリピン人一人一人の頭に銃口が向けられていた状況だった。」と基地のあったころのことを語られたのが印象的でした。

基地撤退後は4万人以上もいた基地関係の仕事に就いていた人たちの雇用について心配がありましたが、2004年9月の調査では5万4千人の人たちが自由港スービックでの雇用をえているとのことでした。また、売春業が中心となっていた街の観光産業もエコツーリストへと転換していき、街の風紀もよくなり犯罪も減ってきたそうです。

 地元のNGOからは有害物質の汚染やアメラジアンの問題について米軍と政府が責任のなすりつけあいをして真剣に補償や解決の為の対策を考えないことやのひがいの実態について世界に訴えていく活動が必要だとの訴えがありました。

3、 ピースマーチ参加

 ピースマーチとは、ABCを中心としたいろいろなNGO団体が旧米軍基地による汚染問題などに対して保障を求めるため共催されたアピール行動です。また単にフィリピンの問題だけでなく、アジアからの米軍基地撤退や世界平和を訴えるという大きな目的もあり、今回はピースボートも、沖縄の辺野古への米軍基地移転に反対するデモンストレーションをしました。

 ピースマーチでは、とにかくフィリピンの人々の明るさや前向きさというものが感じられました。カラフルで明るい絵柄のプラカードが並び、平和を訴える言葉が多く使われていました。参加している人々の世代はさまざまで、800人もの高校生が学校ぐるみで参加していました。参加者はみんなとても明るくて、笑顔で平和を訴えていました。

4,ABC訪問


 ABCとは、Alliance for Bases Cleanup Internationalという、米軍基地撤退後の有害物質による被害を訴えるNGOの事です。日本語でいうと、「基地クリーンアップ連合」になります。事務所内には、有害物質によって白血病、心臓病、水頭症、皮膚病にかかってしまった子供たちの写真が飾ってありました。これらは、有機水銀による水俣病やPCBによるカネミ油症など、今なお続く日本での問題をも連想させる写真でした。それを被害者の一人、すでに亡くなってしまったクリーゼルという女の子の書いた絵が飾ってありました。鮮やかな色彩で描かれているのが印象的でした。このNGOは、フィリピンの国内および海外へ向けて被害を訴え続けてきた事で、メディアに知られるようになり、ここ最近でだいぶ発展してきたそうです。話を伺ったMyra(ミルラ)さんは、とてもパワフルな女性で、「草の根運動のつながりから世界規模へと活動を発展させ、アメリカへ訴えて行きたい!」とおっしゃっていました。

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A,はじめに 船上で学んだこと

http://ameblo.jp/peaceboat/entry-10003367638.html

1, 沖縄からの出発 AHPT(Asia History Project Team)によるセミナー

第34回ピースボート南北コリアクルーズの参加者の若者が中心になってAHPTが結成されました。それまで年代と出来事を暗記するものとしてしか捉えていなかった「歴史」をいままでの学校教育できちんと教えてこられなかった当事者や体験者の生の声に基づいた東アジアの人たちと共有できる「歴史認識」としていくために現地調査を踏まえて学び続けていこうという熱い思いで。そして、2002年に「歴史航海 私たちが伝えたいこと」2004年に「歴史航海 沖縄編」を発刊しました。わたしたちは「沖縄を通して自己を見つめ、日本を考える。」ことが必要だとおもいます。そのきっかけとして沖縄にある米軍基地を取り上げたいと思いました。「沖縄の闘いは終わっていない。」この言葉を沖縄では何度も聞きました。戦後、日本本土から切り離され、本土が経済成長を遂げる一方、沖縄はアメリカ軍統治の下へ。1972年に本土復帰を遂げてから現在にいたっても在日米軍基地の3/4が沖縄に集中しています。2001年9月11日の米同時多発テロの際も沖縄にある米軍基地では厳戒態勢がとられ、その年に予定されていた本土からの観光や修学旅行は相次いでキャンセルされました。「危ないから行かない」と本土の人は簡単に言えます。しかし、では沖縄の人はどうなるのか。なぜ沖縄は危ないのか。その状況を生み出しているのは誰なのか。そして、そんな危ない状況の中で沖縄の人々のいつもと変わらない生活があるということをきちんとうけとめていかなくてはと思います。とくにいま辺野古で起こっている米軍基地移設に反対するおじい、おばあの闘いはあまりマスコミで取り上げられていませんがしっかり注目して支援していきたいと考えています。 

2, 越田清和さんによる講座と地大ゼミ

*歴史をどの視点から見るか 

 歴史というものはどこに視点をおくかで大きく変わってきます。

たとえば、マゼランはヨーロッパでは探検家としてたたえられていますが、フィリッピン民衆の視点で書かれた初めての歴史書レナト=コンスタテーノ著「フィリッピン民衆の歴史」によればスペインの侵略の象徴であり、そのマゼランと闘って彼を殺したラプラプというセブ島のリーダーは侵略に対して抵抗した英雄と捉えられています。これは、日本の北海道でのアイヌの人たちの歴史においてもいえることで侵略者の立場から「シャクシャインの乱」「コシャマインの乱」「クナシリ・メナシの乱」といわれているものもアイヌの人たちにとっては「シャクシャインの乱」「コシャマイン戦争」「クナシリ・メナシの乱」という民族の誇りをかけた抵抗の闘いだったということがあるのです。また、朝鮮半島での伊藤博文と彼を暗殺して死刑となった安重根の関係においてもいえることです。フィリッピンという国の名前の由来からして当時のスペインの王子の名から取ったもので以下に屈辱的なものだったかといえるかもしれません。また、フィリッピンはカトリックの信者の多い国ですがカトリック協会は侵略の先兵としてスペインの支配を広げることに一役買ってきたのです。ホセ・リサールというフィリッピンの国民的英雄は小説「ノリ・メ・タンヘレ」(私に手を触れるな)で修道院の神父の酷い状況を告発しスペイン軍に殺されたのですが、なんと東京の日比谷公園に彼の碑があるのです。彼は日本に来て学んでいたわけです。また、スペイン人はイスラム教徒を嫌がりモロという差別的呼び方をしていました。ミンダナオ島はイスラム教徒が多いのでスペインの支配は受けず自治的だったのですがアメリカの攻撃で支配されてしまいます。これは、日本における北海道や沖縄と似た雰囲気があるようです。

*フィリピンの歴史と米軍基地 

 フィリピンは、スペイン・アメリカ・日本に次々に占領されてきた歴史を持っています。日本の占領については、オプショナルツアーでマパニケ村を訪れ、かつて従軍慰安婦をしていた方からお話を聞き、ショックを受けた方もいると聞いています。

 フィリピンの歴史の中で、フィリピンに米軍基地がやってきたのは、アメリカの占領が始まった1899年です。

 基地は多くの雇用を生み出しましたが、その一方で、有害物質による環境汚染や米兵による犯罪、売春などの社会問題を引き起こしました。それらの問題を何とかしようと1970年代から市民運動が起こり始めました。運動の甲斐あって、フィリピンの議会でも基地使用を認めないこととなりました。また、東西冷戦の終焉によるアメリカの対アジア政策の変更もあり、ついに!1992年、米軍基地は撤退。しかし、なんと、約100年もの間、米軍基地はフィリピンにあったのです。それまで、米軍基地があることによって、精神的なストレスを受けていたフィリピンの人々は、やっとそれから解放されることが出来ました。

 現在、基地そのものは無くなっていますが、VFA(随時中流協定)という基地は置かずいつでも自由に港を使える特権を持つというアメリカとの軍事的な協力関係はいまだに続き、それは、アメリカ側にとても有利なものです。それだけではありません。基地撤退後も環境汚染は続き、残された有害物質によって、水・土地など、人々の生活に直接関わる大切なものが脅かされています。この問題は、フィリピンの人々を苦しめ続けています。

フィリピンと日本はアメリカとの関係において独立国だが本当にそういえるのか?という疑問があります。ある意味で変形した双子ともいえるのではないでしょうか?たまたま経済成長がうまくいった日本がフィリピンを下に見ていますが民主主義に対する民衆の意識という点では、1992年に米軍基地撤退を勝ち取り、1986年のエズサ革命を成功させ人々が立ち上がれば国の歴史を変えることができるということを世界に示したという自信と誇りが日本よりはあるのではないでしょうか。

* ナボタスのODA問題との共通点

ナボタスの日本によるODAの問題も地元の人たちにとっては米軍基地による汚染問題と共通した点があります。

まず、地元の人たちに正しい情報が知らされていないという点、そして、移転後の土地の環境が住民の現実とかみ合っていないという点です。

フィリピンの先住民族アエタの人たちは精霊の力を信じています。ピナツボ火山の噴火も山の神が発電所建設の為にボーリングしたことによって怒り、

その怒りによって起こった現象だととらえています。これからの環境問題を考えるときもこのような感性を大切にすることが必要ではないかと思います。

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 マパニケを訪れたあの日、私たちはつらい話をたくさん聞き、そして楽しい思いでもたくさんさせてもらった。 私たちが到着するなり、あったかい握手と優しい抱擁で迎えてくれたロラたちの、うすい手のひらの感触をいまでも思い出す。 つらい話をたくさんたくさん聞かせてくれたロラたちに、何度でもお礼をいいたい。 そして、いまからでも間にあうのなら、ロラたちがこれから少しでも、楽しい日々を送れようなお手伝いをしていきたい。 700ドルが集まったいま、次の目標は「集めた募金を持って、もういちどマパニケを訪れること」――今度はこちらから彼女たちの手をとって、一緒に村を散歩すること、だ。


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 その後、この交流に参加したメンバーが、船内でキャンペーンをスタートさせた。 それが「マパニケ医療支援基金」だ。 これは、ジューンさんのこんな希望を受けてものだった――「ロラたちの身の上に起こったことはもう、取り返しがつかない。 私たちは、彼女たちがこれから少しでも安心できる生活、少しでも楽しい、幸せな生活を送れるような支援も始めたいと思っています」。


 元気に踊っていたロラたちも、確実に年を取ってきている。 先乗りスタッフが寄港前に送ってくれた情報では「本当に元気なのは3人ぐらいです」ともあった。 「本当に元気」というのが身体のどこにも特に悪いところがないという意味だとすれば無理もない。 10~30代だったというロラたち、50年以上たったいまは悪いところがあったり病気になったりというのも当たり前だろう。 私たちがマパニケを訪れたその日にも、自分ひとりで動けず、車椅子に乗ってやってきたロラがいた。 また、ほとんどのロラは、私たちにはしきりに椅子を勧めて自分たちは床の上に座るくせに、いちど座り込むと、他の人の手を借りなければ立ち上がることができなかった。 そう、刻々と彼女たちは老いていく。 それもどうしようもない事実、だ。


 もちろん、彼女たちは、日本政府に対し、事実を認め謝罪することなどを求めて活動しており、日本での裁判も起こしている。 けれど、月日が流れていくなかで、ロラたちはひとり、またひとりと亡くなっていく――せめてロラたちの、これからの人生に、少しでも助けになれば。 私たちにとっても、そんな思いで始めたキャンペーンだった。 ひとまずの目標は、フィリピンの銀行に口座が開ける額、400 USドル。 船内では報告会と募金活動をおこない、約1週間で目標金額を突破。 最終的には700ドル近くを集めることができた。

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■ “ふつう” のおばあちゃん


 お昼過ぎ。 私たちとロラを乗せたバスは、マパニケ村の小さな教会に着いた。 ここで待っていてくれたのは、60名をこえるロラたち。 全員が、彼女らいわく「女性の象徴」だという紫色の、手作りのドレスを着ている。 一緒に昼食をとったあとの交流会は、一緒に折り紙を折ったり、福笑いを楽しんだり、習字や歌を披露したり、と、前半とはうってかわってなごやかなムードで進んでいった。


 このときのことを、高山文彦さん(23)はこういう。 「正直いって、証言の生々しさにはびっくりした。 だけどそんなロラたちも、ふつうのおばあちゃんなんだなぁ、と思いました」。 村の子どもたちが披露してくれるダンスに大喜びで身を乗りだし、割れんばかりの拍手を贈り、自分たちの出番になったらなったで今度ははりきって踊り、歌う彼女たちを見て、そう感じたのだ。 「そのときのロラたちはなんだか、孫たちの学芸会を見に来ているおばあちゃんみたいに見えたんです。 それを見てホッとした、っていうか…」。 酒井ゆかりさん(26)も、そう思ったうちのひとりだ。 彼女は、そのあとにつけたしてこういっていた。 「そんな彼女たちを見て、こちらがあったかい気持ちになりました。 けど、そんな“ふつう” の幸せも、いちど戦争がおこったら壊れてしまう…それが戦争っていうものなんですよね。 彼女たちの少女時代は、まさにそうだったんじゃないかと思って。 それを痛ましく感じました」。


 笑い声と拍手が絶えなかった交流会の最後には、寄港前にみんなでつくった折り鶴、それから思い思いのプレゼントを手渡した。 ロラたちからひときは大きな拍手がおこったのは、ある女性が持ってきた小さな鈴が紹介されたときだ。 ジューンさんが、鈴を持ってきた女性の思いを代弁してくれた。 「ひとつひとつの鈴は小さな音だけれど、たくさん集まっていちどに鳴らせば大きな音になる。 それと同じように、ひとりひとりが実践する平和は小さい、はかないものかもしれないけど、それがたくさん集まれば大きな平和につながると思います。そんな思いをこめて、この鈴を贈ります」。

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つづいて始まったロラたちの証言は、その場にいるだけで顔を覆いたくなるほど、つらいものだったからだ。


「私たちは、日本兵たちが私たちの家から略奪したものをこの家まで運ぶよう命じられました。 そして運んできた時に、この家の、あの部屋の中に閉じこめられました。 私たちは当然ここにいたくなかったので、彼らに『助けてください』と懇願したのですが、彼らは私たちが逃げることを許してくれず、みんな一緒に閉じこめられてしまいました。 朝から晩までそこにいて、真夜中になって部屋がノックされたとき、私たちはてっきり逃がしてくれるんだと思っていました」――しかし、そうではなかった。 証言してくれたロラ・ベーニャは、ここまでいうと、また突然泣き出した。 「私は10歳でした」――あとは嗚咽と叫び声にしかならない。

 

 タガログ語から英語への通訳をしてくれていたジューンさんが、「彼女はとにかく若かった。 しかし、その若さも何もかも、あの事件で帳消しになってしまった。 彼女たちに対して、何故いまさらそんなことを持ち出すのかとか、お金がほしいんじゃないかと言う人もいます。 けれど彼女たちは、お金がほしいわけではありません。 ただ日本政府に事実を認めて謝罪してほしい、正義を実現してほしい。 ロラたちのいちばん望んでいるのはそういうことなんです」。 そういって彼女は、優しくろらの肩を抱いた。 そして言った。 「けれどみなさんには、彼女たちのことを犠牲者ではなく生存者(サバイバー)と呼んでほしい。 二度と同じような悲劇が起こらないための証言者、という意味をこめて」。 私たちの前にも『第二次世界大戦の生存者であるフィリピン女性とともに手を結ぼう』と英語でかかれた段幕がある。

 

 瀧澤希さん(24)は、あとでこう話してくれた。 「生存者、という言葉にぐっときた。 彼女たちはもう高齢だし、ということは、だんだん出会える人も少なくなっていくんでしょう?いま出会えて、本当によかったと思う」 。

 

 何名かのロラが前に立って、冒頭で紹介した歌をうたってくれた。 ふと横を見ると、証言のときにはずーっと顔をおおって動かなかったロラが、顔をあげて前を見ている。 小さくくちずさんでいるロラもいる。 歌詞さえ知らなければまるで童謡のようにも聴こえる、優しいような懐かしいような、静かなメロディ。 しかし、ジューンさんは「この歌を聴くだけでひどく感情的になってしまうロラもいますので、数名のみが代表して歌います」といった。 ここにいるどのロラも持っているだろう、つらい記憶。 それが蘇ってくるのにもかかわらず、歌わずにはいられない思いがロラたちにはある。 「私たちは忘れたい。 でも、忘れることはできない」――そういう彼女達を見ているだけで、胸がつぶれそうだった。


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