〜あなたの人生をあなたらしく生きる〜

ゲシュタルト療法&フォーカシング指向心理療法

自分らしく生きる、いまここ(here And now)に生きる。

いまここでの気づきは私たちに生きる喜びや豊かさを運んでくれます。

私たちのからだは生きることを知っています。


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おはようございます。

今日は体の声について書いてみたいと思います。

先日の福岡でのゲシュタルト療法アドバンスコースでもファシリテーターがなかなかクライエントの現象へと焦点を当てられない場面がありました。

それは、ファシリテーターはクライエントへしっかりとついていこうとしているのだが、堂々巡りとなってしまうということ。

堂々巡りが私は全て悪いとは思わない。何故なら、クライエントにとってその行為が必要なこともあるからだ。

ファシリテーターが堂々巡りに陥っていると言った方が正しいかもしれない。

この時、ファシリテーターはクライエントの何を見ているのかということだ。

ファシリテーターはクライエントにしっかりとついて行こうとしている。基本中の基本であり、本当に大切なことだ。

しかし、クライエントの言葉について行こうとしている。

クライエントの言葉にばかり囚われて、本当にその時クライエントが発しているメッセージを見逃している。

クライエントの言葉は本当のものもあれば、そうでないものもある。言葉は嘘をつくことがある。

しかし、体は絶対に嘘をつくことはできない。

私は今穏やかです...とクライエントが言ったとしてもクライエントの体全体を見ればその言葉が本当かどうかは理解できる。

それは表情であるかもしれない、体の硬さや柔らかさという質感であるかもしれない、体が表現している仕草であるかもしれない。

クライエントの言葉と体全体の表情が一致するならその言葉は本物だ。

私はゲシュタルトのファシリテーターをする時、クライエントの話は5〜6割くらいしか聴かない。残りはクライエントの体全体に注意が向いている。

そして、このクライエントの話や体が表現してしているものから、その時クライエントが感じているであろうクライエントの世界(情景)を私の中にイメージしている。

これができて初めて本当の意味でクライエントにしっかりとついて行くということが可能になる。

クライエントの世界を追体験するということ。

体は絶対にその人が進む方向を知っている。暗々裏に答えを知っているのだ。

そして、クライエントに向き合う人々は自らの体の声を聞けるようにならなければならない。

自らの体の声を聞くことのできない人々にクライエントの世界を追体験することは絶対に不可能である。




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昨日まで福岡グループのアドバンストレーニングでした。楽しい3日間でした。

ゲシュタルト療法のワークをしていて最近思うことはワーク時間が短くなっていること。

だいたい、30分から40分の時間でグランディングする。

この3日間でワークを7本したが全てが40分以内に終わっている。このことは私にとってとても意味あることだ。

以前は1時間前後が当たり前であったわけだが、無駄が削ぎ落とされてきたと感じている。

無駄なことも必要と思われる読者の方もいると思うが、私もそう思う。

だから、必要ない無駄なアプローチがなくなってきているということ。

必要ない無駄なアプローチとは、あってもなくともよいもの、セラピスト側の満足のためにやっていること、セラピスト側の感覚がクライエントとずれているために起こるもの...

その他もあるだろうが、そんな感じだ。

その分、とてもワーク自体がシンプルになっているように私自身の感覚としても感じる。

それは私に迷いがないということにも繋がる。それは、私がゲシュタルトのワークを構造的に見ることが多少なりともできるようになったことにも繋がる。

自分が持つテクニックのボックスからいろんなアプローチを次から次へと出すという感覚ではない。

よく、多くの引き出しを持つ必要があるというのを聞く。しかしそれは私に言わせると何の意味もない。

それはただのテクニックの引き出しでしかなく、テクニックでクライエントをかわそうとしているとしか思えない。

残念ながらそんな人々が多い。テクニックを学ぶのならゲシュタルト療法は学ばない方がいいと私は思っている。

ゲシュタルト療法とは生き物がどのように生きるかということでしかない。

その生き方はシンプルであり、複雑化しては時代に遅れてしまう。進化する生物たちはシンプルにその環境へと対応する。

複雑化したなら変化する環境へと対応する間にその種は絶滅してしまうだろう。

話は逸れたかもしれないが、必要な無駄を持ちながら、シンプルにクライエントと向き合うこと。

それはクライエントの気づきを一層深めてくれるものだと確信する。







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昨日まで福岡グループのアドバンストレーニングでした。楽しい3日間でした。

ゲシュタルト療法のワークをしていて最近思うことはワーク時間が短くなっていること。

だいたい、30分から40分の時間でグランディングする。

この3日間でワークを7本したが全てが40分以内に終わっている。このことは私にとってとても意味あることだ。

以前は1時間前後が当たり前であったわけだが、無駄が削ぎ落とされてきたと感じている。

無駄なことも必要と思われる読者の方もいると思うが、私もそう思う。

だから、必要ない無駄なアプローチがなくなってきているということ。

必要ない無駄なアプローチとは、あってもなくともよいもの、セラピスト側の満足のためにやっていること、セラピスト側の感覚がクライエントとずれているために起こるもの...

その他もあるだろうが、そんな感じだ。

その分、とてもワーク自体がシンプルになっているように私自身の感覚としても感じる。

それは私に迷いがないということにも繋がる。それは、私がゲシュタルトのワークを構造的に見ることが多少なりともできるようになったことにも繋がる。

自分が持つテクニックのボックスからいろんなアプローチを次から次へと出すという感覚ではない。

よく、多くの引き出しを持つ必要があるというのを聞く。しかしそれは私に言わせると何の意味もない。

それはただのテクニックの引き出しでしかなく、テクニックでクライエントをかわそうとしているとしか思えない。

残念ながらそんな人々が多い。テクニックを学ぶのならゲシュタルト療法は学ばない方がいいと私は思っている。

ゲシュタルト療法とは生き物がどのように生きるかということでしかない。

その生き方はシンプルであり、複雑化しては時代に遅れてしまう。進化する生物たちはシンプルにその環境へと対応する。

複雑化したなら変化する環境へと対応する間にその種は絶滅してしまうだろう。

話は逸れたかもしれないが、必要な無駄を持ちながら、シンプルにクライエントと向き合うこと。

それはクライエントの気づきを一層深めてくれるものだと確信する。







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おはようございます。今日まで筑後船小屋 公園のでゲシュタルト療法アドバンストレーニングでした。

昨日はCFOと個人ワーク3つをやりました。
今日もCFOと個人ワーク2つやりました。

CFOも初日からすればこの3日間でメンバー全員がその存在感を増してきたように感じる。

ゲシュタルト療法の基本である今ここでの気づきに焦点が当たるようになってきた。

クライエントの現象にただシンプルについていく。そして、その現象の中にあるクライエントの感覚や気持ちに寄り添っていく。

そのことが次第にできるようになっていく。

クライエントにしっかりとついて行けば必ずクライエントの気づきが訪れる場所まで到達する。

それは私のこれまでの体験から確信していること。

面白いことにCFOをすればするほどメンバーのファシリテーター力は推進する。

前回の課題を持ちながらファシリテーターへと挑む。

ゲシュタルトのワークは本当にシンプルでなくてはならない。

シンプルさがゲシュタルトの一つの真実。

しかし、それを複雑にすることも事実。

どうして複雑化するのか...昨日も書いたが、ファシリテーターの問題がワークの中で重なる。

または、ゲシュタルトの基本を忘れる。

今ここでの気づきと言う基本を疎かにするとき、複雑さが訪れる。

私自身がファシリテーターをする時、今は迷いはない。

たた、私の2年目の終わり頃を考えると今回のメンバーのレベルは明らかに高い。

それは教えることがその頃とすれば充実しているからに他ならない。

しかし、一方で教えられると言うことは、受身であり、試行錯誤する体験が少ない。

ゲシュタルトとは自らが自分のゲシュタルトを作り上げることが最終目標であり、誰かの人生を真似ることはできない。

一人一人が私の人生のゲシュタルトを作り上げる作業なのだと思う。

福岡のメンバーのこれからの成長を楽しみに!








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おはようございます。

ブログ更新しました!

【No.810 ゲシュタルト療法とは】

昨日からゲシュタルト療法アドバンストレーニングです。


ゲシュタルト療法とは何かを理解しなければゲシュタルト療法のファシリテーターはできないと言うのは当然のことです。


私の理解しているゲシュタルト療法とは、今ここでの気づきです。


私たちの前景にあるものが背景へと流れる時、気づきが起こります。そして、新たな前景が私たちの前に現れます。


そしてその前景が背景へと流れる時、気づきが起こります。


この繰り返しが私たちを推進してくれるのです。


しかし、クライエントの問題を解決しなければならないと大抵のファシリテーターが勘違いしてしまいます。


クライエントの問題はクライエントしか解決することはできないと言う重要なことを忘れ去ります。


するとファシリテーターはどうにかしてクライエントの問題を解決する方向へと意図を持ってしまいます。


この意図はファシリテーターがクライエント自体に今何が起こっているのかを分からなくしてしまうのです。


クライエントに起こっている現象をあるがままに見ることが既にできなくなっています。そこにはファシリテーターの意図を含んだクライエントの現象があるだけです。


ゲシュタルト療法とはシンプルなものです。


しかし、このシンプルさを複雑化するのはファシリテーターが含む意図に他なりません。


ただ、今ここに起こっている現象にフォーカスし、その現象が図から地へと流れるサポートをするだけです。


あとはクライエントが自ら気づき、自らの力で推進していくことを信じることです。


小手先のテクニックは必要なく、目の前のクライエントにしっかりとついていく、このことが最も大切であることを再認識する必要があるでしょう。


トレーニング2日目、今日はどんな気づきが訪れるのでしょうか...楽しみです!





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おはようございます。
今夜から東京です。

鹿児島5期生のベーシックコースが終了しました。

この2年間の学びはそれぞれに大きな気づきをもたらしたと思う。

なぜそう思うのかと言うと、この2年間でそれぞれの存在が生き生きしたのが手に取るようにわかったからだ。

顔の表情であり、姿勢であり、声の抑揚であり、そして、その人全体から溢れるエネルギーであり...

全く違う人物がそこには存在している。

その人と2年ぶりに出会った人がいるなら、全くわからないかもしれない。

そのくらいの大きな違いがある。

それは感覚に閉じ込めていたエネルギーの解放であり、筋肉に閉じ込めていたエネルギーの解放でもある。

内側に閉じ込められているエネルギーは、行き場なく私自身を攻撃する。

他者へと解放すべきものを我慢する。

その我慢し、エネルギーを内側へ留めておく方法は誰から習ったのかわからないが見事の一言でしか表すことはできない。

生き物が本能的にやっているため、当の本人には全く意識がない場合が多い。

そして、この無意識な感覚はいつしか馴染みの感覚へと変化する。

そして、この感覚がなければ不安になったりする。

他者の価値観を呑み込み、他者の価値観が私のものであると錯覚し、この価値観が崩れ去るなら私が私で無くなってしまうと感じるのだ。

新しい本当の私の価値観を私の本当の価値観なのだと実感するには時間を要するだろう。

しかしだ、その本物の価値観を手に入れたなら、これまでの私とは全く違った私が現れるとは誰も思いもしない。

しかし、他者から見れば明らかに違う私が存在していることがわかる。

鹿児島の5期生もこの2年間でそれぞれの価値観を手にしたのだと思う。

感覚や筋肉の硬直がなくなり、エネルギーに満ちたしなやかな私がそこには居る。

そして、存在していると言う言葉が生まれるのだ。


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おはようございます。

またまた、2日遅れてしまいました...

今週末は鹿児島5期生のベーシックトレーニング最終回。

2ヶ月毎の開催だったので2年間かかった。そして、それぞれに大きな気づきがあり、現実の生き方が変化したはずだ。

今私は特急きりしまに乗っている。そして、宮崎へと向かっている。

カラダはお腹のあたりにやや張りがあるがそんなに不快ではない。

気持ちは沈んではいないが、ウキウキもしていない。

まだ眠たい感覚がある。

この感覚は朝起きるのが早かったからだと想像している。

国分に着きますという音を聞く。

列車から人が降りていくのを見る。

胸のあたりになんだかわからないが嫌な感覚を感じている。

俺は何をやってんだろうという内なる声を聞く。

ガタンゴトンガタンゴトンが聞こえる。

ごくっと唾を飲み込む。

論文のことがふと気になる。

○○の顔が浮かぶ。

座席に接する背中の感覚を感じる。

目を閉じる。

少しカラダが楽になるのを感じる。

足裏が靴底に触れている感覚を感じる。

左足の方がしっかりと触れている。

唾をごくっと飲み込む。

大きく呼吸をする。

ガタンゴトトンガタゴトン、信号停車でーす、しばらくお待ちください。

これが今私が体験している世界だ。










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おはようございます。

先週末はゲシュタルト療法家のためのフォーカシングトレーニング4回目でした。皆さん4回目ともなるとフォーカシングの何たるかが理解でき、自らフォーカシングすることが可能となります。

たった4回でフォーカシングとは何たるかが理解でき、フォーカシングができるようになることは普通ではあり得ない。

やはりそこにはゲシュタルト療法と言う素地があるからだと確信している。

セラピストがクライエントと向き合う時、最も大切なことの一つはクライエントの世界を共に体験することである。

しかし、ゲシュタルト療法だけを学んでいては難しいのだと私は思う。ただ、あくまで私の私見であるが...

フォーカシングとはまだ概念化していない感覚、フェルトセンスへとアプローチする。

このフェルトセンスは微細で繊細な感覚であり、このクライエントのフェルトセンスが感じ取れる感覚を身につけることがクライエントの世界を共に体験する近道となる。

なぜなら、セラピスト側が自らの体の繊細で微細な感覚に触れ、それを理解することができないなら、到底クライエント側の世界を体感することはできない。

今フォーカシングを学んでいる4名にはそのことを理解してもらい、フォーカシングがゲシュタルト療法へもたらす重要なエッセンスを伝えている。

ゲシュタルト療法はクライエントの図となっているものに焦点を当てる。それは、クライエントの情動であったり、仕草であったり、感覚であったりだ。

クライエントに葛藤が起こっている時、私のこれまでの経験からすると、情動が図となり、情動へとアプローチすることが多いように感じる。

しかし、情動へとアプローチする時、ややもすればゲシュタルトエクササイズになりがちだ。

クライエントを苦しみの中へと落とし込む。これがダメだと言っているわけではない。しかし、このパターンに陥りやすいのは確かだ。

情動へとアプローチしない方法がある。これがフェルトセンスへとダイレクトへアプローチすることだ。

これはまだ図になっていない繊細な概念化されていない地隠れている感覚へとアプローチする。

情動の奥底にあるフェルトセンスへとアプローチする時、情動を吐き出す必要はない。

情動は情動でなくなり、気づきが訪れる。

ゲシュタルトよりもフォーカシングでのアプローチの方が気づきが早いのかもしれない。

そしてこのフォーカシングの感覚を手に入れるにはしっかりとしたトレーニングが必要である。







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既に木曜日の朝です☀
おはようございます。
火曜日にアップする予定が2日遅れてしまいました。

先週末は百武さんのスーパーヴァイスだった。残念ながら私は1日だけの参加たったが、東京や神戸、福岡、鹿児島からメンバーが集まり、違う村の人々との空間は閉ざされたものとは一味もふた味も違うものであった。

百武さんの視点はいつ見ても興味深く、面白いなと感じる。

他のゲシュタルト療法家とは全く異なる視点からのアプローチはそのクライエントの核心を突いている。

私が初めて出会ったゲシュタルト療法家が百武さんだったからそう思うのかもしれない。

しかし、ワクワクする感覚を手にできるのは百武さんの視点だけであることは確かだ。

その感覚に近づくにはどうすれば良いのかと今もこのブログを書きながら思案している。

ゲシュタルト療法家はそれぞれが独自のスタイルを持つ必要があり、十人十色である必要がある。

しかし、クライエントの核心へ迫る感覚には十人十色はないと私は思っている。

なぜなら、クライエントの今ここでの感覚は一つであり、セラピスト側のクライエントの感覚を感じ取るというその感覚は一つだからだ。

百武さんはそのクライエントの感覚よりも構造へとアプローチしているように私には感じられるのだが、それが正しいかは本人に聞いて見ないとわからない。

百武さんのアプローチには、どうしてこのクライエントはこうするのだろうかと言う違和感があり、その違和感からクライエントの問題へと辿り着いているようなそんな感じだ。

恐らく、クライエントの感覚を感じ取るだけなら私もできている気がするが、百武さんのスーパーヴァイスでの解説を聞いた時、この感覚だけでは感じ取れないものを肌で感じる。

それを臨床の経験と呼ぶのかもしれないとも思うが、それだけでは説明できない何かがある。

それは動物としての人間が持つ野生の感覚なのだろうと思う。

いま、私はユバル•ノア•ハラリと言うイスラエル人歴史学者の著書 サピエンス全史を読んでいる。

これは、人類の誕生から今日に至るまでの現人類発達の過程が記されていて面白い。

その中に、人類も他の動物と同じようにいくつかの種があり、その人類が初めて姿を現したのは250万年前なのだそうだ。

生物学的には我々人類はヒト属であり、ヒト属のネアンデルタール種、アウストラロピテクス種、サピエンス種と言うのだそうだ。

現人類の祖先は30万年前に姿を現し、ヒト属のサピエンス種であり、ホモサピエンスとは賢い人間と言う意味である。

話は逸れたかもしれないが、人間も動物のひとつであり、その野生の感覚は持っているのである。

まだまだ百武さんには学ぶことが多々ある。

元気でいてもらわなくては困る...




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おはようございます。

今年も既に10日が過ぎようとしてます。

しかし、まだまだ私のエンジンはかからない。

あまりやる気が起こらないと言うのが本音だ。

思考では、あれやこれをしないといけないと考えるが、身体はその思考にはまだまだついていけない。

論文の執筆、英語の学び、仕事のこと等々が浮かび上がる。

しかし、少しエネルギーか切れかかっている。引っかかっていることを一つひとつクリアにすることが必要かもしれない。

こんなクライエントが私の目の前にいる時、ゲシュタルト的に向き合うなら、今この状況に留まり続けることを提案するだろう。

この図として浮かび上がっていることに留まり続けることで新しい図が現れるはずた。

フォーカシング的に向き合うなら、それを抱えているクライエント全体の身体の感覚に注意を向けることを提案するだろう。

しかしだ。

この2つのアプローチは言葉こそ違うが、同じことをしようとしている。

なぜなら、2つとも身体の感覚へとアプローチすることになるからだ。もう少し正確に言えば、ゲシュタルトは表層にある身体の感覚へのアプローチから大抵入ることになる。

フォーカシングはフェルトセンスと言う深層にある感覚へとダイレクトにアプローチすることになる。

フォーカシングの方が繊細な感覚へとダイレクトにアプローチしようとする。

ゲシュタルトは表層にある情動や感覚から徐々に深層にある感覚(フォーカシングで言うフェルトセンス)へとアプローチしようとする。

どちらがどうと言うことではなく、どちらも知り得ていれば、クライエントへのセラピストの向き合い方が大きく違うだろう。

この2つともセラピストがクライエントの前にどのように存在するのかを教えてくれるから。

私はもう少し今の状況に留まり、その身体の感覚へと注意を向け続けてみたい...




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