2歩進んで3歩下がって6歩進む

つれずれなるままにもっちゃりと

とにかく。更新することって大切だなぁっておもいました。
うん。
森良太です。よろしく


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とにかく青い朝だった。まだ太陽が地平線からおでこをだそうかだすまいか悩んでいるくらい。

新聞配達のカブのエンジン音が鳴り響く。排気口からは俺と同じ、白い息を吐き出して。

信号はまだ点滅している。田舎は夜に信号が点滅に変わる。

もやがかかった思考の行く先には自販機のホットココアがあった。

目の前の景色はフィルムカメラの質感のようにたくさんの細かい粒子でできている。

忘れる。っていうのはその粒子がばらけて散らばって行くことなんだと思う。

犬の散歩をする初老の女性。靴はスーパーの婦人服売り場の隣にある靴コーナーで買ったみたいなランニング用の靴だ。

犬は丁寧に服を着ている。黒い大きな目の周りの白目が嫌に目立つ。

多分ポメラニアンだと思う。犬に詳しくないからそんなにわからないけど

もしあいつが人間だとしたらそんなに仲良くはなれないと思う。ベロがでている。

缶のココアがぬるくなってきたので一気に飲み干してからの缶を右手にもったまま

ただぶらぶらと歩いていた。

ホームレスらしきおじさんががゴミ捨て場で缶をつぶしておおきな袋に入れている。

「ああ、そうか水曜日か今日は。」

たくさんの空き缶。

「あれ、はこんでもっていっていくらなんだろう。ついでにこのココアの缶も持っていってもらおう」

と思って渡そうとしたら

「スチールはあかへん。」といって突き返される。

「あ、すみません。」

世界で一番無益な会話だと思う。だけどそれにもきっと意味がある。

おじさんの目は朝日の光を受けて脳みその奥まで見えそうなくらい透き通っていた。

んや、厳密には白目は黄色く濁っていた。が、黒目はとても綺麗な薄い茶色の目をしていた。そんな感じだった。

全てのことには意味がある。

小3のときの担任の先生の口癖だ。別にどうだっていいんだけど

妙にその言葉を思い出す。特に最近。

だんだん日がでてきた。まだ街はギリギリ眠っている。

仕方がないので、さっきココアを買った自販機のゴミ捨て場まで戻ることにした。

もどる煩わしさよりも缶をもっていることのほうが嫌だった。

だからといって道ばたに捨てることができない。良心がとがめるから。

俺は祖父母に育てられた。少し教育が古い。畳の縁を踏んではいけないだとかそんな細かいことまで

教えられたくらいなのでまずポイ捨てなんてもちろん駄目に決まっている。

そういえば思い出した。おもしろかったのは

小さい頃喧嘩に負けて帰ってきたとき。

「手をだしてはいけない。でも男が喧嘩に負けて帰ってくるな。」

と言われて家から追い出されたことだった。

無茶苦茶だと思ったけれど、家にも喧嘩相手のところにもどちらに戻るわけにも行かずに日が暮れるまで一人で砂場の縁に座って考えを巡らせていた。

「なんで人は生きてるんだろ。」

その時の答えをまだ俺は見つけることができずにいた。

多分、なんでとかそういうことではないんだろうということは幼いながらにも薄々感じていた。

ただ、答えを探しながら成長する過程で

小3のころの先生は「全てのことに意味はある。」

という話をしてくれた。何度も。

そのせいで、意味を探すことが癖になってしまった。

「なんでみんな生きてるんだろうなぁー。」

そんなこと普通ならどうでもよくなっていく。そうじゃないと大前提がおかしくなってくるからだ。そしてめんどくさい、そういうことを考えるのは。

 

意味?理由?そんなものは無い。

 

という結論にいきつくたびに俺は死に、生き返る。

不死鳥のようなその命題に肉体という時間的制限をもった人間達は勝ることもできず

その結果、人類がミジンコよりもちいさな粒子だったころから

いままで。

全然なんにも基本的には変わらないのである。

 

駅に続くまでの道を歩いていた。

道の両サイドにはサギのくちばしみたいな街灯が等間隔にならんでいて

銀色の光を朝日とぶつけて戦っていた。

ふと、諦めたみたいに街灯が消えて街が目覚めた。

まるで意識の奥の出来事みたいだと思った。

灯りは光に負けて朝と夜がひっくり返った。

 

 

そういえば

さっきまではとにかく青い朝だった。

 

目の前の景色はフィルムカメラの質感のようにたくさんの細かい粒子でできていたはずだ。

忘れる。っていうのはその粒子がばらけて散らばって行くことなんだと、思ったんだと思う。

 

そういえば手にはまだ、ココアの缶を持ったままだった。

 

 

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老人は海の見える丘の上に住んでいた。

人と話すことをしなくなってどれくらい経っただろうか。

歳を経るごとに身体は力を失い、同じことをくり返し思いめぐらせてしまうようになっていた。

学生の頃何度も行き来した通学路や

ライブハウスで聴いた轟音

初めて聴いた娘の産声

悲しむ妻の泣き声と真夏の蝉の声。

 

今はペンと紙が言葉だ。

しかし、頭の中に鳴り続ける生々しい情景や音を再現する術は無い。

くり返し何度も、忘れてしまうことを惜しみながら思い出すことを繰り返す。

なるべくリアルに、雑念を排して。

でないと、ひょっとすると勘違いの末に全く違う音を思い出し続けることになりかねないからだ。

二度と同じ音を聞くことはできない。

二度と同じ景色を見ることがなきない。

その儚さを知ったのは本当につい最近のことだった。

 

そうか、人はこうして終わりを迎えるのだな。

明日がくると思って迎える今日。少しだけ今日と違う明日。少しだけ明日と違う明後日。

そうやって日々は摩耗し、いつしか再生できなくなる。

それが死だ。

老人は随分と昔から死に対しては深い理解を持っていた。

それは恐ろしいものではないのだ。ということを話す人間が周りにたくさん居たからだ。

どうしてそれが恐ろしくないことなのか、考えに考えて日々を過ごしていた。

海外旅行に行って強盗に銃を突きつけられたことがある。

そのときには本当に恐ろしかったし、そこで自分の一生が終わるということを悟った瞬間

どうしても生きたいと思った。

あれはまだ自分が20代の後半の話だったかな。

そんな風に想いを巡らせて、また陽が水平線に隠れて行く。

 

老人は10年以上前に聴力を失った。完全に、ではないがほぼ聞こえないも同然の状態だ。

そうなってから1本のギターを買った。

毎晩、120Wのアンプにそのギターを繋いで爆音でコードをかき鳴らすのだ。

だから海辺に居を移した。

老人は若い頃ずっとバンドでギターを弾いていた。

神様ってのは皮肉なもんで。大切なものを最後に奪っていくものだ。

そう思いながらもそのままではどうしても許せなくてギターを買ったのだ。

チューニングなんかあっているかどうかなんてそんなことはわからない。

聞こえないのだから。

ただ、身体に響く音の振動で大きな音がなっていることはわかる。

本当に。部屋が揺れるくらい大きな音で、もしかしたら海を行き交う船の乗組員にも聞こえるかもしれないくらいの音で。

毎日毎日、鳴らしていた。

 

誰に聴かせたいわけでもなく。ただ毎日鳴らしていた。

 

それだけが老人の生きる証明だった。

 

 

新しい年の明けた1月のある日、ぱたりと音が鳴らなくなった。

誰もそのことに気付いた人間は居ない。

ただ一人、老人を除いては。

 

 

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メジャーデビューしてから色んなことが変わった。

バイトもやめたし、それなのにスタジオに入る為に自分でお金をださなくても良くなった。

ツアーにでて、高速代もガソリン代もメンバーで割り勘したりしなくてよくなった。

関わってくれる人も増えた。その人の好きな食べ物も知らないけれど

俺たちの音楽を広めるためにがんばってくれる。

そんな人が増えた。

 

がんばらなきゃなー。

とか漠然とおもうんだけども

ずっと昔からそれは思ってた。

がんばらなきゃなーって。笑

 

でもがんばって力んでノートとペン用意して机に向かったところで

別にいい曲ができるわけでもない。ある程度は努力やとはおもうけどね。

作曲して、作詞して。っていう人は24時間寝てるときも起きてる時も

全部が作曲と作詞の時間なわけで、この1時間どう考えて過ごすかで

出来る曲もあれば出来ない曲もある。

なんか変なことやってんなーって思う。

ずっと前からがんばんなきゃなーって思ってるってのも

結局、その一瞬をどうやって曲にして歌詞にすんのか。っていうことが

ひとつずつ形にできたり、できなかったりでモヤモヤしてた。ってことなんやと思う。

 

そういうわけで、思いついたことをすぐ形にしなくてはと思って過ごしていた10代20代前半は

バイトをしているときも浮かんでくるアイディアを形にできずに無くしてしまうことが嫌で

バイトも全然続かず笑

最終的に友達の紹介で人材派遣のバイトをしていた。

現場系の仕事とか、事務所移転の仕事とか色々やったけど

とにかくきつかった。めっちゃ重たかった(運ぶものが)

でもそれが一番楽しかった。

毎日違う現場で、毎日違うおっさんと働くのが刺激的でたのしかった。

「オレ昨日ガールズバーで5万円飲んだってんー」

「え、5万とかやばないすか。(エフェクター買える、、、)」

「余裕やろ、3日死ぬ気で働いたら稼げるわ」

「えー、、、(死ぬ気で働かなあかんねやん、、、)」

「もう多分次くらいで連絡先ゲットできるわ」

「えー、無理無理絶対無理っすよーwww(ゲトれたらいいですね)、、、あ。」

「あぁ?無理ちゃうわしばくぞw」

みたいなお兄さんとか

 

「お前音楽やってんのか。モテるんやろ?」

「んや全然っすよー。音楽やっててモテてたら現場で働かんでも食えてるっすよ。」

「まあがんばれや。売れたときのためにサインもろとこかな」

とかいいながら。

なんか、うざ嬉しい感じというか。笑

俺は全然知らんかったけど、そういう人達のおかげで御堂筋沿いにイルミネーションが設置されたりするし

高級ブランドのお店の床とか、壁の色が変わったり。階段できたり。

事務所の移転がされて、昨日と別のフロアやのに朝来たときにちゃんと机と荷物が一致するように用意されてて。

一緒に働くやつも面白くて。

同じ年くらいのやつやと格闘家目指してたり芸人めざしてたり

はたまたなんも思いつかんからとりあえず働いてたり。

いろんなやつがおって。

なるほどなぁ。って。おもったなぁ。

 

 

そういう経験のおかげで

なんか、見えないところで働いている人達のありがたさとかがなんとなく身にしみてわかるというか。

人は見えないところでこそ葛藤してそれでいて強く居なくてはと思ったりしているのだなぁ。と思ったりしたな。

そして、そういう今まで関わった人が働いてるときとかにラジオで俺らの音楽聴いたときに

「あー。あいつがんばっとんねんな。俺もがんばるかー。」

とか思ってほしかったりもするよな。

 

そういうことができるところにやっとなんとなく辿り着いたような気もするな。

彼女ディズニーランドに連れて行く為に日勤夜勤連勤ではいってたヤンキーとか

絶対ふんではいけない床を踏んだときに鬼のように怒ってきたおっさんとか

準備体操だらだらやってて帰らされた先輩とか

なんかそんなような人が日本の各地にたくさんおると思うと

ええ曲かきたいなぁー、と思うな。

 

まぁ、ええ曲ってなにかおれもまだわからんねんけど。

とりあえずそういう想いを忘れぬことを続けていこうぞ。

 

さーて。ツアー初日仙台編。

やりまっせー。

 

 

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今年の抱負はみなさん決めましたでしょうか。

 

おれの今年の抱負は

 

その1 何事もできるだけめんどくさがらない。

その2 愛をもって生きる。

 

です。

去年はメジャーデビューの年でした。

それこそ、メジャーデビューの初期衝動で書いた曲達が幸いにも

みなさんのお耳にかかる機会もありましたし。

なんとかかんとか乗り越えれたのではないかと思います。

余裕で。って感じではないですけどね。

 

 

6月ごろ。ツアーが立て込んでいる時にアルバムを制作しました。

パトスとエートスという作品をみんなで作り終えて

時風に敏感でいることを少し手放せたような気がします。

それについてはまたかくとします。

 

時代というのは移り変わり行くものだと、なんとなくみんな思って生きています。

年配の方は「時代がかわったなぁ。」と思うこと、いままでたくさん経験してきたかと思われますが

多くの人にとっては「時代がかわったんだな。」ということ自体がなんとなく先入観からうまれる言葉

だったりするような気がします。

自分自身時代の変化を感じることはあるにはありますが

それを言い出すと、時代なんてもの安定していたためしがありませんから

なんとなく象徴的な出来事なんかがあって、それを共通の話題としてどれくらい話せるか

みたいなところで感ずるところをみんなは時代と呼ぶのかもしれません。

 

流行というのは交差点でそれぞれに向かう人が交わる瞬間の出来事のように

それ自体にとくに意味があるというよりは、みんなが通るべくして通る場所にある出来事なんだと思います。

 

話はすこしかわりますが。

先日、大型のフェスに出演したときのことです。

タイムテーブルに沿ってそれぞれのバンドが演奏していて

それを見る為に大勢の人が移動していました。

おそらく「今見ておきたい。」と思うバンドをみんな見に行くんでしょうけども

見ておきたいから見に行っているのか、みんなが見に行くから見ておきたいのか

その両者が5:5くらいで居るんだろうなぁ。と思いながら

表現は難しいですが

人って、自然現象なんだなぁ。と感じました。

水が高いところから低いところに流れるように、あたかも何かの法則にしたがって

動いているみたいに不思議だなあ。と思っていました。

そう思いながら見ていると

「意思」というものを自発的にコントロールできると思っていることすら間違っているのかもしれないなぁ。

と思いました。

「意思」が意識的に知覚できるくらい表面にでてきているということは

潜在意識がその表面下に根付いているということに気付きました。

つまり。

見ておきたい。という意思は、見ておきたいと思わせる何かによって見ておきたいと思わされているということで

そうさせているのは潜在意識なのです。

潜在意識とは意識的に知覚することのできない意識のことですから

触れた時点でそれは別の物になってしまうわけです。

 

 

みんなが感じているように感じて

自分がかきたい曲をかく。

それに尽きる。

 

というシンプルなことを伝える為に

ものすごく回りくどい表現で長々と説明してしまいましたが

流行の真ん中にいるためには

誰も思いつかないような突飛な「普通」を生み出す必要があるような気がします。

そのために、誰よりも平凡であること自分には必要なことです。

もっとも、誰よりも平凡でいることが という言葉自体が既に矛盾に満ちそして 平凡ではないということを強く示してしまっているので

俺はまだまだその境地に達することはできなそうです。

完全に悟りきることを解脱するといいますが

解脱する直前の一番大きな壁が似たようなことで

私は悟っていると思うこと自体がすでに悟りから最も遠いことなんだと

なんかの本で読みました。

 

まぁ、そんなことを日々感じながら森は生きておりますよ。

 

 

あけおめ。

ことよろ。

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生きることが善で、死ぬことが悪だとしたら

人は悪に向かって一直線ってことになってしまう。

 

最近、100円の自販機がよく目に留まる。

結構な確率でホットのミルクティー(俺が好きなやつ)が売っている。

俺は小銭入れをすぐなくすのでいつもポケットに直接小銭をいれている。

先日も、友人が気を利かせて小銭入れをくれた。

白い革製の小銭入れで小銭をいれるポケットとカードが1枚入るスリットがついた

とてもシンプルなものだった。

その簡素な作りに惚れ込んで、出来る限り長く使おうと心がけていたのにも関わらず数日で無くした。

心当たりのある場所と道を3往復してまで探したが(10キロ以上は歩いた)まるで見つからず自分のアホさにほとほと呆れ返り、もう小銭入れはもたない。と心に決めたのだ。(その決意もすぐに揺らぐのだと思うが。)

 

ポケットに手を突っ込んで、小銭の側面を指の腹でなでる。

そして、穴があいていないことを確認して100円を自販機に投入する。

ホットのミルクティーのボタンを押す。

温かいなぁと感じるのも束の間、飲み干すまでには冷たくなってしまう。

「あぁ、何かを例えるのには便利な出来事だなぁ。」

と思う。

例えば情熱なり、恋なり。空っぽになるまで温かさを保つのが難しいことは

世の中にたくさんある。

最近、生きることと死ぬことについてよく考える。

いや、別に最近ってわけでもないな。

ずっとずっと小さいときから、自分が生きていることが不思議でならなかった。

2本の足で立って進むことができて。

こけたら痛い。

小さいときに周りにいた見渡す限りの年長者はみんな生きる為に生きているように思えたが、その理由を考えれば考えるほどいつも言いようのない不安を感じていた。

 

いた。と過去形で書いたが、別に今だってそうだしこれから先もそうなんだろう。

 

意味や理由なんてものは別にないのだ。と納得できるほど素直でもないし

かといって、それが明確に分かる訳でもない。

日々、生かされているという感覚を全身で受け止めながら

自分のことを必要としてくれる人達や、自分が必要に感じる人達に対しての感謝や愛までわからなくなってしまうことが不道徳なことだという感覚も根っこには備わっている。

 

だから、どうすればいいかわからない。

 

と思うことがたくさんある。

ホットミルクティが冷えて、舌に残る甘ったるさに嫌気がさすように

ただ、温度が違うだけで人生というのはまた変わった一面をみせることもある。

 

家にかえって、机に散らばった小銭に目をやる。

いつもかえるとポケットから小銭を出して机に置く。

今日は冷えてアイスになったミルクティも隣に。

とても散らかって見える。

だけど、俺はそれが好きだ。

小銭は価値が見た目でわかるようになっている。

違いを識別できるように記号としての形を与えられた小銭の顔しか人はしらない。

だけど、机に散らばった小銭からは個性を感じる。

くすんだ100円でも、比較的綺麗な100円でも

ホットミルクティは買えるし、違う100円で買ったホットミルクティも同じように冷える。

それを不思議だなぁ。と思う感覚が俺を生かしているのだと思う。

 

上着を脱いで、ハンガーにかけながら滲んできた汗を感じる。

こんなようなときにたまに、飲み干す前に冷えてアイスになったミルクティを美味しいと感じることがある。

 

だから、わからないのだ。生きるということは。死ぬということは。

 

くすんだ100円を見て親近感がわいたりするのも、500円がひときわ立派に感じるのもなんだかものすごくめんどくさいと思う。

人はその気になれば100円で「わからない」を買えるのだ。

生きるということはわからないしめんどくさい。そして美味しいし、空っぽになってまだ飲みたいと思ったりもする。

 

 

 

生きることが悪で死ぬことが善なのだとしたら

そんな極論には誰も耳を傾けないだろう。

 

 

 

まぁ、くそどうでもいい話だな。それも。

 

 

 


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また、何回も

書いては消して。を繰り返している。

 

正直、森良太として伝えたいことが価値を生んでしまうのであれば

俺は音楽の悪魔に魂をお裾分けした意味がなくなってしまうのじゃないかと

いつも不安になる。

なんというか、俺個人のことなんか誰にも理解してほしくないのである。

というか、誰にだって理解できないと思っている。

そういう、一種の孤独みたいなものがなくなってしまったら

カップラーメンみたいな曲を量産するようになるんじゃないかと思う。

あくまで想像でしかないけど、それがなんとなく嫌で首を縦に振ることができずにいる。

孤独と愛情は11:59と12:00くらい近くて遠い。

 

言葉というものにはとても不思議な力がある。

言葉は現実を色んな色で照らすことができるし、質量のないなにかに質量を与えることだってできる。魔法みたいなものだ。

ただ、言葉ですら今の自分を正確に表すことができるとは思えない。

それくらい人間の心というやつは多次元的でややこしいものだとおもう。

いままで書き連ねてきたことは、俺自身のことであり、あなたのことでもある。

つまり、俺はあなたのことを理解することなんて到底できないのである。

それを分かり合えたと思った瞬間、それはおそらく消費期限つきの「理解のようなもの」に変わってしまうのだと思う。

世の中にはそういう「本当みたいなもの。」がたくさんあふれているんだと思う。

「愛」という言葉でなんとなくデコレーションされている「欲」だったりとか。

まぁそんな無粋な例ばかり並べていてもぜんぜんロマンチックじゃないからやめておくけれども。

 

正直になればなるほど気持ちはめんどくさい。

本当のことって、わかってもらえないと本当以外のことになってしまうから。意地でもわかってほしいと思ったりするし

本当じゃないことって、わからなくてもわかっても本当じゃないことだから。

 

身も蓋もないことをいうけれど

俺が歌いたいのは「愛情」一点なのである。

本当のことを歌いたいとかそういうことでもない。

全ての原動力は「愛情」だと本気で思っているから

気に入らないことばっかりなのも、いつだってハングリーなのも、僕を殺す君の言動さえも全て愛情に帰結するための萌芽で、必要な情動(パトス)であり、凪いだ海のようなエートスなのである。

 

 

あなたが産まれて、死ぬまでの全ての点を繋ぐ為に

最後のそのうねりの名前を確信をもって言い当てれるように

歌をただ、鳴らしていきたいと思ったりしながら

 

最近生きていました。

 

 

年明けにアルバムがでます。

今までよりも男性的機能を根幹において作り上げた作品になりました。

どうしてそうしたのか。は、もっともっとさきにちゃんと線として理解できると思うので今は「へぇ。」と思っていてください。

 

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夏がだんだんと暑さに飽きたのか、それとも秋を思い出したのか。

風に匂いが付き始め、夜が少しずつ長くなってきました。

 

想像力がすっぽりと、働くことをさぼっているせいで

頭の中にはペーズリー模様の煙がぷかぷかと浮かぶばかりで

なんか、その向こうも、ここから後ろも

なんにも見えないみたいな日が続いてます。

暑さのせいなのか、無意識のうちに癖になった抑圧を無視することのせいなのか。

それは全然わかりませんけれども

最近はただ、目の前にある本を顔の近くでぺらぺらとめくって唇に感じる紙の感触と

埃みたいな匂いを嗅いだりしながら

あ、あと30分で家でなきゃなー。

なんて考えながらそのまま28分過ごす。

みたいな、なんともぼーっとした日々を送っています。

んや、厳密にいうとぼーっとというか

ぱらぱらーの隙間にみえる「酒の壜」だとか「自我の分離過程」だとかなんだかわからないけど目につく言葉の一つ一つが脳みそに刻まれたりはしてるわけです。

瓶じゃなくて壜ってかいてんのはなんでだろなーとか考えながら

古い本だし、土ついてるからなんかもしかしたらガラスの瓶じゃないからかなーとか。

まぁ、でもそんなことを考えて26歳の男が部屋で机に肘ついて本をぺらぺらめくってることなんておそらく隣の部屋の人間は死ぬまで知る由もなく生きていくでしょうし、その瞬間を知っているのは少なくとも自分一人であるということを実感すると

脳みその片隅にぶどう色したシミみたいな寂しさがじわっと滲んだりしてきます。

 

そう、そういう寂しさに気付くことができるのも、幸せといえば幸せです。

昔っからずっと思ってますが

そういう、寂しさやらは趣向品みたいなもので、浸れば浸るだけ気持ちいいもんなんですよ。脳みそは寂しさ中毒なんです。

どうやって、寂しさを紛らわせるか、ってのはすなわち寂しさを欲しているも同義です。

紛らわせることによって得られる安心感は紛らわせる対象がなくなったら得られなくなりますから。

 

 

とかそんなことを書き連ねているとそとでパトカーがうぃーんってサイレンをならしながら通り過ぎていきました。

パトカーの運転手さんはなんらかの手順を経て、サイレンをならして、パトカーのアクセルを強く踏み込みます。足のサイズはどれくらいで、靴下はちゃんとあらってるんだろうか。とか

奥さんの誕生日にちゃんとあえてるのかとか、子供はもしかしたら父親をみてその影を欲してぐれているのかもしれないとか

あることないことがくるくる頭を回ります。

 

でも、どっちにしろ、それもどうでもいいことなんです。

だって、家の横を通り過ぎたパトカーを運転していたおまわりさんと道ばたですれ違ったとしても、それに気付くことはまあできないでしょうから。

 

でも、たしかにさっきそこに、その人はいたんですけど。

 

 

世の中にはどうでもいいことがあふれています。

 

 

それは、どうでも良くないことがあふれているということと同義です。

 

 

 

 

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朝方5時
まあなんというか、いつも通りのこと。この時間から、寝ることを考え始める。
なんとなくだ、こう、なんとなくただぼーっと起きてる時間
そういう時間が俺にとっては脳みそが一番仕事してる時間だったりするんだなぁとふと。

さっき洗濯干しながら
こういう瞬間ってめっちゃ間抜けだなー。生きてんなと思ってたりした。
昔、スティーブンセガールかなんかの映画で護衛の兵士が立ちションしてるところ後ろからセガールに首へし折られて死ぬシーンがあって
こういう最後だけはマヂ勘弁だなーと思った。
おしっこするとき背後気になるのは未だにそのせいなんだろうとも思う。
そう、そんなこと思い出したりしながら
ここ最近ブログ書いてないなぁなんて思ったりして。

厳密にいうと、何回も書こうとしたんだけども、さらーっと書き連ねた言葉をみて全くなんて無駄の多い。しょーもない。と思って消してしまってまた書いての繰り返しでした。



まあ、たまには何か書きましょう最近思ったこととか。



最近、たくさん嘘をついてそれがばれたりだとか、なんかカッコの悪いなあと思う情けないなあと思う経験を幾つかしました。
なんというかそれは人生を振り返ったときに汚点として鮮明と思い出せる(ある意味ではとても美しい)思い出になるだろうという予想ができるくらいには、いろんな人の心にかかる負荷が大きい出来事でした。
そのおかげで、ごく限定的な意味で自分のサイズを明確に知ることができた気もします。
なんとなく、一歩深いところに踏み込んだ気もします。
空の青の青さの中に更に青をみつけたような気持ちになりました。
顕微鏡を覗く自分を適当な距離から見つめているような気持ちにもなりました。

悲しいや寂しいが形を得たので、
悲しいや寂しいがちゃんと栄養になって嬉しいや楽しいを育てたりする実感にも触れました。そだった嬉しいや楽しいは枯れてまた悲しいと寂しいになるわけですけども。
そういうサイクルの中で、使い古したどうだっていいや仕方ないの類も山ほど不燃ゴミとして捨てました。

丸腰で、ただぽつんと

思い出の中の体育館の真ん中に佇んでみると
自分ってのは本当に価値のないちっぽけな存在なんだなぁということに気付くことができます。
それは、なんら大げさなことではなく。

だから、人は人を愛することができ、例えばあいつは来月妻と旅行に行くために休みをとったりできるわけです。

この、貧弱でちっぽけな自分を、できる限りの大切なことを抱きしめるための大きな宇宙にかえるためにまず知らないといけないのは
その無力さなのかもしれません。

俺は歌います。空っぽで歌う。
そこにいる一人一人は、あなたは、空っぽでとても遠くまで声の響く奥行きの無限な空も同然です。
もちろんだからこそそこに境目も区分もなく。
座標という名の個人が散りばめられているだけで、全ては繋がっているんです。
もちろん俺も、あなたも、そのとなりのひとも、もっというと、その隣の人の昔付き合ってた彼氏のお母さんとも繋がってるでしょう。
なんともわかりにくい話ですが
そういうことは、自分が特別で優位だと繋がらずにプラスとマイナスだけの話になってしまいます。
もっともっともっと
複雑で尊く、そして簡単でちっぽけなことなんです。

真実と引き換えに自分の座標を。久々に取り戻したような気がします。

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