この夏、主人と共に戦争映画「野火」を見てきました。


「野火」は原作者・大岡昇平自身の戦争体験に基づく小説で、1951年に発表されたものです。


映画としては、1959年に市川崑(いちかわ こん)監督のもと作成され、現在もDVDなどで見ることができます。


今年2015年7月25日に公開された「野火」は、塚本晋也監督が自ら主演、脚本、製作を手がけ、高校生の時に原作を読んで以来「構想に20年を費やした」という思い入れのある日本映画だとのことで、是非見たいと思いました。


第二次世界大戦中のフィリピン戦線を描いたもので、ジャングルの中で生き延びるために空腹と孤独、暑さに耐えながら、人肉を食べるかどうかという極限の状況と選択が描かれています。


こんなことは滅多にないのですが、映画を見た日の夜、私は眠れなくなりました。


「怖くて眠れない」とか「怖くてトイレに行けない」とか、そういう部類ではなく、神経が興奮して寝付けなかったんだと思います。


確かに、映画はショッキングな映像が続き、どこで誰に狙われているか分からない、次は自分が殺されるかもしれないという「87分間の戦争疑似体験」でした。


映画館に座っている間中、心臓がどきどきしていました。


以前、「パッション」というキリストの受難を描いた「メル・ギブソン」監督の映画を映画館で見ましたが、同じ「PG12」であったにもかかわらず、夜眠れないとか、座っている間中、心臓がどきどきしたということはありませんでした。


中高生なら保護者の許可が、大人でも、かなり覚悟を持ってみた方が良い映画です。


「PG12」とは?
映画観覧年齢制限で、映倫管理委員会(映倫)によって定められています。
PG12 = 12才未満および小学生の観覧には、親又は保護者からの助言や指導が必要になります。



映画を見て、生きた心地がしなかったし、この状況で生き延びることはほとんど奇跡に近いと感じました。


実際、太平洋戦争での戦死者は、半数以上が餓死によるもの、またマラリアなどの病気も多かったとのこと。


「87分間の戦争疑似体験」でも非常に疲労感を覚えたのに、ぞれがずっと続き、いつまで続くか分からない状況なら、いっそ手榴弾で散ってしまった方が楽になれると考えた人も多かったかもしれません。


生存率は地域によって異なりますが、「野火」の舞台となったレイテ島の日本軍生存率は6%。


米軍と比べて圧倒的に数が少なかった日本兵の生存率が、わずか3%、1%、0.6%という地域もあったようです。


原作者・大岡昇平はキリスト教の影響を受けているということで、どこかにその断片が出てこないかと見ていましたが、キリスト教的な要素は一切なく、ただ教会が出てきただけでした。





主人が「原作を読みたい」と言って購入し、すぐに「聖書の言葉が出てるよ」と教えてくれました。


表紙をめくったページの表題「野火」の裏に、ちょこんと書かれた聖書の言葉が、私にはまた衝撃的でした。


「たとい我死の陰の谷を歩むとも」ダビデ と書かれてあることに、聖書中、多くの言葉の中からこの言葉が選ばれたことに意表を突かれ、次に度肝を抜かれるような衝撃を受けました。


大岡昇平は、主人公「田村」と旧約聖書のダビデを重ねていたのか?


映画を見ている間、私にその発想はありませんでした。





詩篇23篇


「たとい我死の陰の谷を歩むとも」は、イスラエルの2代目の王「ダビデ」による、旧約聖書の中の有名な「詩篇23篇4節」の冒頭にあたります。


詩篇23篇1節は2015年、今年の干支「羊」にちなんでブログで年頭に取り上げた聖書の言葉でもあります。


この詩の背景は、妬みからイスラエルの1代目の王「サウル」に命を狙われるようになった「ダビデ」(後にイスラエルの2代目の王となる)が「ダビデの賛歌」として「敵の前で」歌ったものとされる歌。


ダビデの逃走生活も、映画の中で見た田村のようであったかもしれないと初めて連想しました。


詩篇は全部で150篇からなっていますが、説教者スポルジョンは詩篇23篇を「詩篇の真珠」と賞しています。


なるほど。
サウルの軍隊に追われ、命を狙われたダビデは、フィリピン・レイテ島で孤独にさまよった主人公「田村」と重なるところがあります。


大岡昇平が冒頭にこの聖書の言葉を持ってきた意味を考えさせられました。


ここで提示されて初めて「ダビデ」と「田村」を関連づけて考えてみましたが、映画を見終えて原作に目を向けると、それが実に見事だと感心してしまいました。


原作者・大岡昇平は詩篇23篇4節の冒頭のみを原作のはじめに掲載していますが、4節の冒頭のみを暗記する人は、ほぼいません。


4節の一文、または23篇の前半、または23篇全部を暗唱することがほとんどです。


聖書 文語訳
(原作者:大岡昇平が読み、抜粋した聖書の文体)


詩篇23篇
1節 主は我が牧者なり。我乏しき事あらず。
2節 主は我を緑の野に伏させ、憩いのみぎわに伴いたもう。
3節 主は我が魂を活かし、御名のゆえをもて我を正しき道に導きたもう。
4節 たとい我死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ。汝、我と共にいませばなり。



私が普段、馴染みのある聖書の訳だと、詩篇23編は以下の通り。


旧約聖書 新改訳 詩篇23篇全文

1節 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2節 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3節 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4節 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5節 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6節 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。



原作者:大岡昇平は青山学院中学部に入学し、キリスト教の感化を受けています。


夏期休暇中に読んだ原作には、所々に聖書の言葉や神についての問いが出てきています。


それが映画「野火」からは一切消え、全く出てきていないことについて、遠藤周作の「沈黙」のような神への問いかけ、神の沈黙すら出てこなかったことを私は残念に思いました。


原作の中にちょこんちょこんと出てくる聖書の言葉は、主人公「田村」、いや原作者である大岡昇平が若かりし頃、聖書を読み、覚えた言葉であり、はっきりとした「キリスト教信仰者」とまでは断言できないまでも、戦場の狂乱の中で彼が何を連想し、何を考えたのか、映画では描かれなかった彼の精神面の糸口があると感じます。


映画のしょっぱなから「田村」は肺病で、他の誰よりも先に死んでもおかしくない兵士でした。


彼は元々、穏やかな物書きをする人で、人を殺した経験も日本では当然ありませんでした。


ところが、激しい飢えと暑さ、残酷に人が死にゆく様子を嫌と言うほど見、狂人となった人を見、人肉を食べる戦友を見てもなお生きて祖国に帰ったのが、他の誰でもなく「田村だった」ことの意味を私は考えさせられます。


田村はその後、記憶が飛び、帰国後に精神病院に入り、戦争の手記を書きます。


記憶喪失になるほど心身がボロボロになりながらも「生きて帰った」要素の一つに、わたしは少年期に覚えた聖書の言葉が、彼の心の引き出しにしまってあり、戦場でぽろぽろとその引き出しから出すことができたことが、彼自身も意識していないところの慰めや希望に繋がっていたのではないかと思えてなりません。


映画「野火」は、戦場の狂気をリアルに見せつけ、人の極限の状態を見せながら「戦争はこういうものだ」と教えてくれた、他では味わったことのない衝撃に満ちた映画でした。見て良かったです。


「PG12」であることから、テレビでの放映はほぼ考えられないでしょう。


映画に描かれていることは、セリフも含めてほとんど原作に忠実に再現されていましたが、ただ原作の中にも決して多くはないキリスト教的な要素を一切抜いてしまったのでは、大岡昇平が意図するところが半減してしまっていると思います。


映画では、主人公「田村」の心情や行動の原動力がどこに向かっているのか充分に分からない。

その重要な鍵となり、田村の少年期というバックグラウンドを示すものが「聖書の言葉」であり、「神」に関する自問自答のような文章にあると考えています。


少なくとも私にとっては、映画を見終わった後の、戦争の「残虐」「孤独」「無意味」を表現したとしか思えなかった「野火」が、原作を読んだ後ではその限りではなくなり、より「田村」を理解できたと思えたという点で、もし映画を見るのであれば映画だけにとどまらず、原作を手にする方が多くいらっしゃることを切に願います。


Youtubeに「大岡昇平 自作を語る 野火」 というNHKの番組で大岡昇平の肉声が残っています。


原作の朗読も出てくるので、作品の様子も少し分かります。

14分53秒の動画です。









 

 

 

 

 

 

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参照記事:「野火」原作に出てくる賛美歌「たてよいざたて」







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