拙ブログ「犬死という考え方、靖国への視点 」にコメント、トラックバックをいただいた、まきこさんのブログ(たまごの距離 )の「戦死した人を慰霊するということ 」という記事で、死生観に関する議論が静かに盛り上がっている。


この記事は、そのコメント欄でいただいたものへの返信である。


靖国には南方で、あるいは北方で、「本土決戦までの時間稼ぎのため玉砕せよ」と命じた側も、命じられ玉砕作戦を遂行した側も奉られている。

よくよく考えれば、おかしな話ではないか?

「貴方は捨石です」と命じた側と、命じられた側が同列に奉られているのである。


そして、今年8月15日。靖国神社に参拝した閣僚のひとりは「今の平和、繁栄の基礎を築き、命を懸けた方々に深く感謝するために参った」と報道陣に語っている。


これは、怖い話・・・

玉砕作戦を命じられ、ほんの数日の時間稼ぎのために命を懸けた方々に(も)深く感謝する。

現閣僚は、哀悼の意を表しながらこのようなことを平気で言う。


靖国という装置は、国のため、天皇のためという美名のもと、国民に或いは軍人に「死ぬ」ことを強要し、それを正当化する。


100歩譲って、あの戦争が防ぎようのない国防のための戦争であったとしよう。

それでも、玉砕命令を下した軍幹部は、東京裁判という戦勝国の裁判によらずとも、何らかの裁きが必要であったのだろう。

東京裁判を否定しても、国民に或いは軍隊に玉砕せよと命じた事実は残る。


戦争を正当化するプロセスの中で、戦争中に行われた作戦までも正当化している。

そしてそこには、国民の生命を守るという国としての最低限の思想が欠落している。


それ故に、どのような作戦行動の中で死のうとも、名誉の戦死に奉られ、命令を下した側への批判は許されない。戦後60年経てもそれは変わっていない。


国が国民を守らないことを正当化する仕組みの中に靖国神社は存在している。


無為な作戦で生命を落した遺族に対して、無為な作戦を批判する自由を奪ってはいけない。

英霊として無為な死を称えていけない。


それらは、国民を捨石にした作戦そのものを肯定することになるからだ。


参考ブログ)

PACOLOG 靖国と消防士



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