「和を似って貴しとなす」という諺(ことわざ)があります。聖徳太子の17条憲法にある言葉で、「人々がお互いに仲良く、調和していくことが最も大事なことであるという教え」であると解釈されています。しかし、聖徳太子も、飛鳥王朝きっての対外強硬派だった、という人もいます。

 

孔子は「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言いました。意味は、「すぐれた人物は協調はするが、主体性を失わず、むやみに同調したりしない。つまらない人物はたやすく同調するが、心から親しくなることはない」と解釈されています。

 

私たちが持つべき主体性とはどのようなものでしょうか?それは、神様に侍った人間としての主体性である、と私は思うのですが、神様に侍るという言葉も様々に解釈できます。より正確には、神様の創造目的を中心とした主体性である、と思います。これは、歴史の上で初めて登場した内容です。キリスト教にも、仏教にも、イスラム教にも、このような内容はありませんでした。

 

霊的世界があるとわかった人は、幽霊がどうのこうのという次元ではなくて、肉体が死んでからも、次の世界があることがわかった人たちです。私は、このブログを、霊的世界のことが理解できる人に語っているのであって、そうでない人に向けて語っているのではありません。ですから、霊的内容が出てくるのは当然なのですが、霊的に、今は、混乱の中にあります。天宙的葛藤という表現もされます。

 

神様と善霊との体験、サタンと悪霊との体験がある人には、こうした戦いの内容が現実味を持って感じられるのではないかと思います。天宙的葛藤が起きている時に、私たちがただ静かにぶつかることもなくいられるか、といえば、そうは行きません。でも、私たちがどのような主体性を持つべきかといえば、神様の創造目的を中心とした、主体性を持つべきだとなり、神様の創造目的を知らないといけない、ともなります。

 

私たちの本当の強さは、感謝と謙遜の姿勢から生まれてくるというお話を文顕進会長はします。感謝と謙遜の姿勢とは、神様の対象としての姿勢のことです。神様の対象となり、神様の創造目的を成し遂げる摂理に自分を合致させるということです。

 

霊的なものが見える人たちには、私たちが霊的サタン、悪霊から攻撃されているのが見えるそうです。でも、同時に、私たちは、祝福中心家庭として、霊的サタンに「出て行け!」と命じることもできる、というアドバイスをする人もいます。私は、それは本当だ、と思います。

 

私たちが持つべき強さ、とはどのようなものでしょうか?神様は私たちが弱いことを願うのか、それとも強いことを願うのでしょうか?何を中心とした強さであるべきなのでしょうか?強さを持って、「愛せ、許せ、団結せよ!」と言うことは可能でしょうか?

 

 

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