皆さんの中に読む人もいるでしょうが、例によってジャーナリストの方が、私を批判しています。何を書くか決めていなかったので、丁度良いかもしれません。

 

統一教会では、「様」をつけて、呼ぶことが多いのです。世間から見れば、「様」付けするのは異様に見えるはずです。

 

一般に、「様」という言葉をつけて、誰かを呼ぶ人は、その人に対する尊敬の年が強いからでしょう。私が、「様」を使わないのは、東洋圏を超えた、もっと普遍的な観点で表現したいからです。しかし、尊敬心ということにおいては、違いがありません。

 

たとえ「様」という言葉をつけなくても、一人の人に対する強い尊敬の念を持った文化というのはあります。モハメットに対するイスラム教徒の姿を見てもわかるように、その文化の外にいる人が安易に批判できるものではありません。天皇陛下を尊敬する日本の文化を、外国からむやみに批判できないのと同じです。

 

統一教会の皆さんは、文先生を「真のお父様」と呼びます。これは、世間から見れば、理解しにくいことです。でも、統一教会においては、そのように呼ぶのが正しいと感じる、文先生に対する尊敬の念と、その方の価値に対する理解があるので、受け入れられるはずです。

 

でも、長男である、文顕進会長に対しては、文先生に対するのと同等の、尊敬や価値に対する理解のある統一教会の人は、それほど多くないはずです。ですから、私が、文顕進会長に対する強い尊敬の念を表現した言葉を書くときに、それに違和感を感じる人もいるはずです。

 

ジャーナリストの方からの批判の内容は、まさに、文顕進会長に対する理解と、尊敬の念に対する問題を扱っています。私は、この批判に該当するような思いは、統一教会の人たちの中にもある、と推測しています。しかし、文先生を信じた人たちの理解が、ジャーナリストの方と同じで良いでしょうか?

 

私は、自分が文顕進会長に対して、強い尊敬の念を抱き、表現できないような価値を感じていることを否定しません。それは、宗教は違うのに 、文顕進会長に対して、強い尊敬の念を抱き、価値を感じる、いわゆるVIPの人たちが持っている思いに、共通しています。そうした方達は、キリスト教の人であっても、イスラム教の人であっても、そうした人々は、文顕進会長が今の時代にもたらすものの価値を感じています。そのように理解したときに、尊敬するのは、当然であるはずです。

 

しかしながら、現状においては、統一教会に関わっている人のほうが、文顕進会長に対して感じる尊敬や価値が小さい状態にある、と思われます。いかがでしょうか?

 

そうした状況の中で、ジャーナリストのような人が、文顕進会長に対して強い尊敬の念を表現することに疑問を示して、教会員たちのことを気にかけていない、と批判することに対して、文先生を信じた皆さんは、同調するでしょうか?

 

「アジェンダ」という映画を紹介したことがありますが、メディアは、中立のように振る舞いながら、アジェンダ(意図、もくろみ)があることが多いのが現実です。

 

神様を否定したり、信じなかった人たちは、この数百年の間、あちこちに出ましたが、ほぼ一貫したアジェンダを見出すことができます。今回の批判においても、そのパターンの一つを見るのではないでしょうか?私たちは、 「民を見よ。この悲惨な人々を見よ」という声と「神は何をしているのか?」という声を過去に聞かなかったでしょうか?

 

では、日本において、天皇陛下に強い尊敬の念を抱いたり、崇拝したりする人たちを、私たちは侮るべきでしょうか?同じ理屈を使えば、天皇制に対する批判もできるし、キリスト教の信仰、統一教会の信仰、どんな信仰も批判できるではないでしょうか?「様」という表現そのものに、ドン引きするべきではないでしょうか?

 

全体に当てはまる批判を使って、一部の人を攻撃することを、Selective Criticism(選択的な批判、攻撃対象を意図的に設定した批判)と言います。もしも、批判するのなら、「様」付けして人を呼んでいる、統一教会の人たち全体を批判するべきではないでしょうか?

 

私はこれからも、堂々と、自分自身が感じる、文顕進会長に対する尊敬の念や、価値観を表現します。それが、統一教会の方達に対して、自分がするべきことだからです。そして、私は、他の宗教の人たちとも力を合わせることを目指しています。

 

神様は、苦労した方達の人生が踏みにじられることがないようにすることができます。しかし、そのためには、誤解が解かれて、中心に正しく対することが必要である、と思われます。統一教会の方達の立場は、他の宗教の方達の立場とは違います。内部にいながら、中心に対する攻撃をした立場に立ったら、外部にいて、賞賛したり、批判したりした立場とは違うことになります。天の目から見た観点は、この世での観点とは違う、と思われます。

 

「和をもって貴しとなす」と考えておられる方には、違和感を感じたり、同意し難いかもしれませんけれども、もし本当に攻撃しようとするのなら、私は本当に攻撃することができます。今日書いたようなことは、防御的なものにすぎません。

「和をもって、ではないのでダメだ」と即断なさらないことを願います。

 

 

------------------------------------------------------ 

読み終えたら下のアイコンをクリック、お願いします。(統一教会ブログ村に訪問中) にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合(統一教会)へ
にほんブログ村