前回、雷大臣(イカツオミ)について書きました。


 

この中臣氏について、実はもっと前に書こうと思っていましたが、ちょっとまとまらなかったので延期していました。


 

ブログの最初の方では、鎌足を取り上げ、神主系なのだから兵法など読んでいるなんて周囲は想像しなかったに違いない、と書きました。しかし、今伊勢やすべての神社を取り仕切っている中臣氏は、古代では武人なのです。この雷大臣(イカツオミ)がいい例です。この兄弟から、内宮の神主荒木田氏が出ています。


 

この雷大臣の息子に日本大臣がいます。次男ですが朝鮮で生まれたようです。長男は小橋命といって、後の鎌足に繋がります。産湯などの伝承地が大阪にあります。三男は暴代氏等、後裔氏族がいます。

日本大臣の後裔氏族は、未定雑姓で中臣栗原連のようです。(日本の苗字7000傑)しかし以下に見るように出自には疑問がもたれています。


 

参考1

産湯稲荷神社 大阪市天王寺区小橋町 :大小橋命

雷大臣御父は中臣の

(いかつおみ)御母は紀氏清夫と申す。

大小橋命三男子あり、長男は

(おおおばせのみこと)意穂命男はなり、又は御味宿称とも申す、二

(いほのみこと)阿遅速雄命と申し、三男は

(あちはやおのみこと)と申す。


 

参考2

中臣栗原連とは、新撰姓氏禄・右京未定雑姓に
 「中臣栗原連 天児屋根命十一世孫雷大臣之後也」
とある氏族。ただ、姓氏禄の河内国神別には、中臣系氏族9氏を記すが、中臣栗原連はみえない。
 また、続日本紀・光仁天皇・天応元年条781には、
 「右京の人・栗原勝子公(クリハラノスグリ コキリ)が、『吾らの先祖のイカツオミは中臣氏の遠祖・アメノミナカヌシの二十世の孫です。イカツオミが神功皇后の御代に百済に使いしたとき、百済の女を娶って二人の男子を生みました。その後、彼らがわが国に帰化し、美濃国不破郡(現・岐阜の国府)に土地を賜って居住し栗原勝の姓を負いました。先祖の関係で、中臣栗原連の氏姓を賜りますよう、お願いいたします』と言上した。古公ら男女18人に中臣栗原連の姓を賜った」(大意)
とある。

 これらからみると、当社の祭神・イカツオミとアメノコヤネは祭祀氏族・中臣栗原連の祖神ということになるが、中臣栗原連は、姓氏禄では未定雑姓に区分され、その出自に疑問がもたれていること、また続日本紀には百済から帰化した氏族で、姓・連(ムラジ)を賜る以前は勝(スグリ)とすることなどからみると、渡来系氏族とも推測され(スグリの姓は渡来系に多い)、その氏族が何らかの関係で中臣氏の傘下に入り、アメノコヤネ・イカツオミを祖神としたとも考えられる。また寡聞にして、当地に中臣栗原氏が居住したとの資料はみあたらない

http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/naka-kurihara.html
 


 

中臣栗原連が日本大臣の後裔でないのなら、この厳かな名前の持ち主の後裔氏族はいない事になります。

私は、この人の後裔が皇室に繋がったのではないかと大胆にも予想しています。

雷大臣は中臣氏の重要人物です。この人から始まるといっても過言では有りません。なのに世代を曖昧にさせるような系図の伝承(同名が3人)や、本来、親子ではないはずの真根子(後の卜部氏)を第二子に加え、息子を四人にし、そのうちの日本大臣の後裔と言われる氏族は別な素性であるらしい、極めて創作性の強い箇所です。


 

住吉大神は三神いますが、そのうちの真ん中の神様だけ、別に扱われている事が有ります。兄弟の真ん中とも見て取れます。


 

住吉大神は、以下住吉三神 」と呼ばれる。

· 第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと)

· 第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと)←これが住吉大神と何気に記されていること有り。

· 第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと)

· 第四本宮:息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后
(じんぐうこうごう)に同じ