2007-06-28
ベノワの死
テーマ:wwe
WWEのトップレスラー、クリス・ベノワの死亡の報が入った。
その日予定されていたWWEの生放送番組RAWは急遽、追悼番組へ変更され、3時間にわたる番組中、多くのレスラー、知人たちがクリス・ベノワがいかに素晴らしい、善良な、まじめな、尊敬に値する人物であったのかを語ったのだった。
翌日、状況は一変する。
彼は、自分の妻と息子を絞め殺した後、トレーニングルームのマシンに首を吊って死んでいた。殺した2人の死体には聖書が添えられていたのだった。
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遡ること2年前クリス・ベノワの親友だったエディ・ゲレロが突然死した。エディは僕が10年以上観るのをやめてしまったプロレスの魅力を再発見させてくれた人物でエディから再びプロレスが大好きになった。エディの追悼のとき、クリスはHHHとレッスルマニア20の再現試合を行った。彼は泣きながら試合をしていた。クリス・ベノワと共に僕も悲しかった。そうしたところに共感めいたものを感じながら、今日までいたのだ。
訃報に対してどのように反応すればよいのかわからないうちに、凶事についても知ってしまったため、僕は彼について冥福を祈ることができずにいる。だからといって、悪人なのだと割り切ることも迷いがある。少なくとも殺害した二人に聖書を添えたのは、彼が家族に対し、持続的な遺恨を持ってはいなかったのだと思いたいし、家族に非があるとも思いたくない。
よくわからないが、尋常ではないドラマがそこにあったのだと思う。
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ふと、似たようなストーリーを思い出した。
フェリーニの「甘い生活」の終盤のエピソードだ。主人公マルチェロの友人で文化人として大成し、美しい妻と二人の子供を設けた男がいる。常日頃、マルチェロは彼についてうらやましいと思っているし、先に成功されたことについて焦っても入る。ある日、マルチェロはその男が死んだことを知る。その友人は、妻と子供2人を殺し、自らの命も絶ったのだというのだ。
マルチェロと放蕩な仲間たちは彼の死を弔うため、夜明かしのパーティを開き、その夜明け海辺に打ち上げられた怪魚を発見する。
表向きは成功者であり、善良な家庭人であった男に起こった出来事、それは、マルチェロの価値観を激しく揺さぶるのだ。
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現在、WWE内の人々は混乱しているだろう。
直後に放送した追悼放送もやらなければ良かったと後悔すらしているのかもしれないが、今でも尊敬しているという人もいるのだと思う。
僕らの中にある欺瞞について思う。
僕らは「自由」を素晴らしい言葉だと思っているが、それはあまりにもご都合主義だということについてだ。自由の国といわれるアメリカですら、自由には「但し書き」が多い、
簡単に言って暴力とセックスについて、そして、他人の自由を束縛する行為については自由ではない。
しかし、それは社会と個人との関係上のことであって、暴力とセックスに関わる自由の行使力を肉体的にも、精神的にも人間は備えて生活しているのである。
つまり、僕が思ったのは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」で銃を持つという自由があり、行使しているのだという言い分だ。そもそも、アメリカは暴力とセックスという絶対的な制限が存在しているなかで、自由の行使としてわざわざ銃を所持するという「その先の自由」をも持っていると思いたい欺瞞なのだ。
「その先の自由」を行使するとき、「自由」という言葉について善悪が逆転する。
本質的な意味で自由の行使とは悪の行使なのだから。
はたして、クリスにとってレスリングや家族、友人などあらゆる人生の喜びは、その日その行為で帳消しにしてしまっても良いものだったということだろうか?だとすると、僕の今を取り巻くあらゆるものはどうなのだろう。ただ、僕の価値観は揺さぶられる。
その日予定されていたWWEの生放送番組RAWは急遽、追悼番組へ変更され、3時間にわたる番組中、多くのレスラー、知人たちがクリス・ベノワがいかに素晴らしい、善良な、まじめな、尊敬に値する人物であったのかを語ったのだった。
翌日、状況は一変する。
彼は、自分の妻と息子を絞め殺した後、トレーニングルームのマシンに首を吊って死んでいた。殺した2人の死体には聖書が添えられていたのだった。
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遡ること2年前クリス・ベノワの親友だったエディ・ゲレロが突然死した。エディは僕が10年以上観るのをやめてしまったプロレスの魅力を再発見させてくれた人物でエディから再びプロレスが大好きになった。エディの追悼のとき、クリスはHHHとレッスルマニア20の再現試合を行った。彼は泣きながら試合をしていた。クリス・ベノワと共に僕も悲しかった。そうしたところに共感めいたものを感じながら、今日までいたのだ。
訃報に対してどのように反応すればよいのかわからないうちに、凶事についても知ってしまったため、僕は彼について冥福を祈ることができずにいる。だからといって、悪人なのだと割り切ることも迷いがある。少なくとも殺害した二人に聖書を添えたのは、彼が家族に対し、持続的な遺恨を持ってはいなかったのだと思いたいし、家族に非があるとも思いたくない。
よくわからないが、尋常ではないドラマがそこにあったのだと思う。
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ふと、似たようなストーリーを思い出した。
フェリーニの「甘い生活」の終盤のエピソードだ。主人公マルチェロの友人で文化人として大成し、美しい妻と二人の子供を設けた男がいる。常日頃、マルチェロは彼についてうらやましいと思っているし、先に成功されたことについて焦っても入る。ある日、マルチェロはその男が死んだことを知る。その友人は、妻と子供2人を殺し、自らの命も絶ったのだというのだ。
マルチェロと放蕩な仲間たちは彼の死を弔うため、夜明かしのパーティを開き、その夜明け海辺に打ち上げられた怪魚を発見する。
表向きは成功者であり、善良な家庭人であった男に起こった出来事、それは、マルチェロの価値観を激しく揺さぶるのだ。
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現在、WWE内の人々は混乱しているだろう。
直後に放送した追悼放送もやらなければ良かったと後悔すらしているのかもしれないが、今でも尊敬しているという人もいるのだと思う。
僕らの中にある欺瞞について思う。
僕らは「自由」を素晴らしい言葉だと思っているが、それはあまりにもご都合主義だということについてだ。自由の国といわれるアメリカですら、自由には「但し書き」が多い、
簡単に言って暴力とセックスについて、そして、他人の自由を束縛する行為については自由ではない。
しかし、それは社会と個人との関係上のことであって、暴力とセックスに関わる自由の行使力を肉体的にも、精神的にも人間は備えて生活しているのである。
つまり、僕が思ったのは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」で銃を持つという自由があり、行使しているのだという言い分だ。そもそも、アメリカは暴力とセックスという絶対的な制限が存在しているなかで、自由の行使としてわざわざ銃を所持するという「その先の自由」をも持っていると思いたい欺瞞なのだ。
「その先の自由」を行使するとき、「自由」という言葉について善悪が逆転する。
本質的な意味で自由の行使とは悪の行使なのだから。
はたして、クリスにとってレスリングや家族、友人などあらゆる人生の喜びは、その日その行為で帳消しにしてしまっても良いものだったということだろうか?だとすると、僕の今を取り巻くあらゆるものはどうなのだろう。ただ、僕の価値観は揺さぶられる。




































