ジオターゲティング
2010年08月03日(火) 14時41分05秒

地位か?名誉か?金か?

テーマ:聖書
ある王の跡取りの王子が困ったことになりました。そんな時、あなたにお召しが掛かり、「我が王子を何とか良くしてやってほしい」と懇願されました。頭を下げる王の姿に、王も一人の親であることを感銘し、あなたは持てる力を駆使してその王子のために働きました。

数年を経て、王子は、日を追って元気を取り戻し、また、壮健な若者として成長しました。そんな中で、あなたは自分の願いと王の親としての願いが重なっていく体験をしました。王子の回復や成長は正に自分の喜びと直結したのです。ある時、王はあなたに言いました。「よくやってくれた。今までご苦労であった。もう大丈夫だ。」

それは、もう、王子に働きかけなくても良いと言う宣言であり、あなたは今日限りで王子と別れなければならないことを意味していました。王は言いました。「今までの働きに報いて褒美を取らせたい。何でも言うがよい。そなたはそれだけの事をしてくれたのだ。地位か?名誉か?金か?」

キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!

さて、あなただったら何を求めますか?

=====================

人間には三つの願いがあると聞いたことがありますが、それが、地位、名誉、金の三つです。この三つ、王の言葉ではどれかを選ばざるを得ないものとして、提示されています。それは矛盾するものとして考えられていたからです。

地位を望むのであれば責任が伴います。王子を支える地位に付けられるでしょう。しかし、今まで居た世界を全て捨て、なお、更にその地位に飲み込まれない強い心が必要です。名誉を望むのであれば、王はあなたのすばらしさを広めるでしょう。しかし、その名誉に恥じない生き方をしなければなりません。金を望むのであれば、自由はありますが使えばそれきり。下手に大金を手にして失敗する人もいますし…。言い換えれば地位は未来を、名誉は過去を、そして金は現在を示しているという事ができるでしょう。

しかし、現実にそんな場に立たされたあなたは、愛しんできた王子との突然の別れを告げられて、呆然としているでしょう。そして多分、あなたは何も求める事はできないでしょう。

そうなのです。私たちは生きる場所を離れては生きることができないことを知っています。過去や現在、そして未来…どれを捨てても私たちの人生は悲鳴を上げてしまいます。そんな時に思い出すのは、王子を支え、導き、助けた今までの日々…。人を愛しむ時、その経験は何にも換えがたい事を思わされます。

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6章31~33節)


神の国と神の義とは何か。神の義とは神の本質…愛そのもの、そして神の国とはその愛によって成り立つ世界…。神は全てを愛する方。全てを「神から託された」として愛する事、自分の日常を愛しむ事がやっぱり大切なんだなあと思った次第です。

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2010年01月09日(土) 03時53分20秒

あけましておめでとうございます。

テーマ:聖書
保育所は月曜日から、仕事始め、子供達も続々と登園が始まりました。青森の小中学校はまだ冬休み。学校の光熱費を浮かせるために長いんです。なんと14日あたりまでありますが、そのかわり夏休みは短いのです。それでも、インフルエンザでの学校閉鎖の埋め合わせに早めたりと、今年の冬休み明けはばらつくそうです。

さてはて、保育所では、新年の挨拶がブームです。3歳児、4歳児だとまだ、正月など一年に一度という概念が頭の中に出来上がっていない子も多く、「あけましておめでとうございます」という挨拶がとても耳新しく聞こえるらしいです。

5歳児になってくると今度は、きちんと挨拶できる事が嬉しいらしく、今日などは女の子二人組が手を繋いで保育士を探しては一人一人に「○○先生、あけましておめでとうございます」と大きな声で挨拶していました。私の前にも大きな足音を響かせて楽しそうに現れて、「園長先生、あけましておめでとうございます」と元気よく挨拶し、にっこり笑って去っていきました。


「あけまして」とは、「明けまして」で、「はじまる」という意味があります。ですから、「新しい年がはじまりました、おめでとうございます」という事です。


ところで、この「おめでとう」という言葉は、苦労という言葉と深い関係のある言葉です。「おめでとう」は過去に向かって言うときには、「いっぱい苦労したね、がんばったね」という意味が込められているわけですから、未来に向けて使うときはちょっと曲者の言葉です。そこには、「必ず苦労するよ、でも頑張れるよね」と言うメッセージが込められているからです。


「新年明けましておめでとうございます」という挨拶は、「今年もいろいろ苦労したりするかもしれません。でも、あなたなら頑張れますよね、そう、信じてます。そして、私もそうありたいと願っています」という意味を持っています。

何も「おめでとう」は新年だけではありません。

新しい事がはじまるとき、私たちは必ず、「おめでとう」を口にします。進学、就職、結婚、出産…「おめでとう」は苦労や艱難を乗り越えた時の栄光の先取りという事ができるかもしれません。でも、それは、そんなすべての苦労は必ず乗り越えられると確信しているからこそ、言う事のできる言葉なのだと思わされます。


あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。コリント人への手紙一:10章13節


あなたの人生の中で、今年もいろいろな事がおこるでしょう。

だからこそ、今さらながら改めまして、心の底から確信を持って、大きな声で申し上げます。


「おめでとうございます!」


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2008年07月16日(水) 12時47分09秒

かみのぼく?

テーマ:聖書
一人称でよく男の子が使う「僕」。そもそも本来は「相手より格下であることを強調する謙譲語」として使われ始めたらしい。

大辞林第2版によれば

〔(1)一般に対等または目下に向かって用いる。「おれ」よりは丁寧。目上に対して話す時やあらたまったところでは「わたくし」を用いる。(2)漢文の中では、古代から男子のへりくだった表現として用いられるが、「やつがれ」などと訓読されるのが一般である。明治以降、「ぼく」の形で書生などが用いるようになり、現代では男子の自称として広く用いられるようになった。(3)子供に対して、「―、お名前は」のように呼びかけの語として使われる場合もある〕


とある。それにしても、当初の用法とは反対になってしまったのだから面白いと思います。

そんな「僕」と言う字が聖書にはたくさん出てきます。そして、「しもべ」と読みます。


「神の僕」は、決して「かみのぼく」と読んではいけません。(^^;

つまり、創造主の神に対して被造物としての私達の立場がこの「僕(しもべ)」という言葉には込められているわけで、その生き方さえもそこには示されています。

転じて教会では「僕」は「自分の生きる意味を知り、行う人」という意味合いを持ちます。

命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。(ルカによる福音書17章9~10節)

牧師なんて、とても誘惑の多い仕事ですから、大変です。

プロフェッショナルとアマチュアの違いがここにあります。

プロフェッショナルは最高のパフォーマンスを誇らずに当たり前のこととして提供する。
プロフェッショナルになるのも大変なんだなあ…。

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2008年04月23日(水) 13時47分48秒

天国と地獄

テーマ:聖書
ブログネタ:死刑について考えてみる 参加中
本文はここから


あるとき、婦人会のメンバーが牧師の車に乗せてもらって出かけました。この牧師の運転、曲がってからウィンカーを出すような運転だったそうです。

たまりかねた一人が、「先生、私たち年も年だし死ぬのは別にかまわないですけど、もし事故で全員死んだ時にはちゃんと天国に連れてってくださいね」と言い出したそうです。

すると、その牧師。「皆さんだけ天国に行って、『牧師はどこ行ったのかね?』なんてなしですよ。」と切り替えしたそうです。

牧師なんて仕事をしていると、よく「死後の世界ってあるんでしょうか?」といった質問を受けます。死後の世界があるかどうかは、私たちそれぞれの生き方にも関わる重要なテーマです。この数年「千の風になって」という歌が流行っています。葬儀などでもよく流される定番になって来ました。「あの世」ではなく「この世」で「霊魂」ではなく、無機的な「風」として考えることがこれから「死」を迎えることをイメージした時に受け止めやすいのだろうと思います。

昔からよくイメージされるのは、「善人が行く『天国』」と「悪人が行く『地獄』」という考え方。しかし、聖書においては死後の世界は余りはっきりと書かれていません。私が思い出しうるのは、イエスの例え話で出てくる「天の国」という言葉。「“天の国”では」などと語られていますが、死後の世界である「天国」を指しているというよりは、「神の御心がなる国」=「すべての物事が理想的な世界」というイメージのもとに語られているように思え、死後に昇っていく死者の楽園が天国であるというイメージは聖書の中には殆ど出てきません。天国とはいったいどんなところなのかを聖書から確認するのはだいぶ無理があります。

つまり、「正直に言えば、死後の世界はあると信じてはいますが、それがどのような物なのかはわかりません」ということです。つまり、最終的には「ご想像にお任せします」ということなのです。

さてはて、この死後の世界、色々なことが言われていますが、整理すると以下のようになります。

1)善人と悪人は行くところが違う。

2)それでも大抵の人は天国に行けるらしい。

3)一緒に死ねば一緒のところに行ける。

4)迎えに来ることも可能。

5)宗教的なこだわりはないらしい。

6)みんなが地獄に行くべきだと思う人は地獄に行く。

7)自殺は地獄行きらしい。

8)死後天国に行くか、地獄に行くかは人間の側で判断できる。

本当にそうなんだろうか?と考えたくなりますね(^^;。

…なんとも、一般の無宗教を自認している人たちにとっては都合のいいような解釈になってしまいますが、それはそれで良いのです。それが信仰というものですから。でも、少し突き放して冷静に観察すると、こういう「死後の世界観」が現代の私たちの生き方にも関わってくるような気がしています。

ところで、私たち死後の世界があると信じている者にとっては、死刑というのは「あの世」(死後の世界)への島流しであるように思えます。私たちの世界では更生させようもない、存在させたくない人を死刑に処すわけですから…。さて、そうなると死んだ後の世界が一つなのか、複数なのかはとても微妙な問題です。複数あって別々のところに行くのが確定しているのだったら良いのですが、もし一つだとしたら、被害者のいるところに、加害者を送ることになってしまうのかもしれません。

そう考えると、どんな判決だろうとも、加害者が死ぬまでに更生させないとだめな気がするのです。そして、もし加害者が本当に更生した時、死刑自体いらない制度になるのかもしれません。膨大な労力を惜しんで更生をあきらめるか、最後まで人間の英知を結集して加害者の更生にトライするか。

さあ、みんなで考えましょう。人は必ず死ぬもの。その時、私達に何が起こるのか。考えられるのは、生きているうちです。死を考えることは生を考えることと繋がるのです。

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