ジオターゲティング
2017年05月29日(月) 13時04分07秒

狼と蛇と鳩

テーマ:説教
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
(マタイ福音書10章16節)
 
先日面白いニュースがありました。
 
ご存知の方も居られるかも知れませんが、ある強盗犯が追っ手を振り切るために車を捨て山に逃げ込んだそうです。警察は捜査が難航すると覚悟したとも思いますが、実はあっさりと捕まりました。なんと、強盗犯が向かおうとする先に熊が現れたからです。そりゃあ、熊だったら殺されますが、警察だったら殺されるまではしないわけで、強盗犯が追っ手の警官に助けを求めて捕まったというものです。「蛇のように狡賢い強盗が鳩のように素直になった瞬間」っていうこともできるかも知れません。
 
でも、熊をはじめとする動物にとっては人間は油断のならない、ズル賢い動物だとしか思えないでしょうね。金になると思えば、絶滅するまで取り尽くし、愛情を注いだかと思えばそれまでの愛情と引き換えに「命を頂く」。住むところを焼き払い、人間に害をなすという理由だけで駆除する。そして、それに飽き足らず、それを国家や人種、さらには主義主張の違いだけで、人間同士にまで同じことを展開する…。蛇だって、人間の狡賢さには到底叶わないって言ってるんじゃないかと思います。
 
今、卒園児達に本当に送りたいみ言葉はこれだ!と今の私は思っていますし、「蛇のように賢く、鳩のように素直」は私たちの保育でもあるはずだと思い始めました。卒園後の小学生も預かりながら思うのは、保育とは綺麗事だけを教えるものではないということです。人に渦巻く様々な欲望を知らせつつ、その中で「鳩のように素直」に生きなければならないのです。そうでなければ、純粋さ、素直さは単なる綺麗事にされてしまう。
 
事実、自主事業の保育支援事業を立ち上げ、支援事業を展開してきたこの5年間を振り返ると、「狼の群れの只中」で、「身を竦ませざるを得ない状況」になっている保護者さんやお子さんと向き合わせられ続けた5年間でした。
 
卒園式の年度末、入園式の年度始めをつつがなく終えてた一方で、保育の環境はなお一層厳しさを増してきました。教育や保育の質だけを考えればいい時代ももはや遠い過去の話。理事長や園長にとっては、受難の時代を迎えたと言っても過言ではりません。「生き残りだ」「差別化だ」を大義名分にして、昨日の友は今日の敵みたいに園児どころか保育士さえも奪い合いっていう状況です。そんな状況にハタハタ嫌気がさした私は実は、今年度限りで、木造教会と木造保育所辞することにいたしました。
 
保護者さんに「今度の園長はいつまでいる?」と問われ、「最低10年はいます」と答えたたのが10年前の今頃でした。後進に道を譲る準備も、もうすぐ完了というところまで辿り着きました。先日、木造教会の役員会に任期をあと一年としたいと申し出まいした。そして、その時に示されたみ言葉が、今日の聖句「MAT10:16  「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」でした。
 
国の情勢を見ても、この国は本当に大丈夫なのか?と考え込んでしまうような状況です。卒園という区切りが、私たちが育て上げた園児を「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」とすればどうでしょうか?
 
私が住んでいるところは青森県つがる市木造というところになります。大森めぐみ教会員であられた森田キヨ先生は、1945年11月に農繁期などの時に持て余されたり、労力として駆り出される子供達の姿を見かねて、また、「次代を担う子供達を守り育てる」という理念のもと保育所を立てたのが木造保育所の全身でした。その後1952年の社会福祉法児童福祉法成立に伴って、運営法人としてその土地建物を寄付されて立てられたのが木造教会です。旧西津軽郡最初の認可保育所として、当時は公立保育所の設置などにも尽力したそうです。
 
保育所の名前は、「宗教法人日本基督教団木造教会立木造保育所」ですが、その実態は、「木造保育所立木造教会」だったわけです。
 
ところで、つがる市にイオンモールがあります。なんとも中途半端な大きさで、以前住んでいた地域のイオンモールに比べれば正直モール?と疑問に思う向きもあります。しかし、話を聞いてびっくりしました。全国のイオンモールのプロトタイプがこのイオンモールつがる柏なんだそうです。それ以外にもあります。数年前、スターバックスが青森に初出店したのは、隣の市の五所川原市。さらにセブンイレブンが去年青森県に初出店しましたが、その時にも一号店はつがる市柏。実は、この人口3万4千人ほどのつがる市を中心にでき始めています。今話題の「企業主導型保育事業所」も御多分に洩れず、青森県では青森とこのつがる市柏にできました。
 
園長になって10年目。色々なものを見聞きし、最初はわからなかったこのつがる市柏の優位性がだんだん見えてきました。それは、この地域が、ある意味日本の最前線を行っているからなんだということです。そうです。つがる市では少子高齢化が進み、人口は減少するのに世帯数が増えるというちょっと考えるとわけのわからない状況に陥っています。園児の減少は著しい一方で、赤ちゃんの待機児童が発生しかけている状況。バスも汽車も1日数本。高齢化も著しいそういう地域です。でも、逆に言えば、この状況の中で、つがる市は大都市などの10~20年先を体験していると考えることもできるのではないでしょうか。そんな10年先を歩んでいるつがる市で園長をやってたら腹黒くもなりますよ。でも、その一方で腹黒さだけでは全滅するって事も気づきました。
 
理事長、園長って相当腹黒くなければ、これからの時代はやれないかも知れません。皆さんは、どうかわかりませんが、私は相当腹黒くなったと自覚しています。だったら、腹黒さを素直に受け入れて、鳩の皆さんたちを助けたいと思うようになりました。
 
腹黒い私から見たら、狼には、皆さんは美味しそうな羊に見えますよ。
 
じゃあ、狼の中でも、狼に食べられない方法を考えましょう。
 
ひたすら、忍従のシンデレラ作戦だけでもないでしょう。子供たちの中に飛び込むおむすびころりん作戦。僕よりもっと大きい美味しそうなのがきますよってのがガラガラドン作戦。呉越同舟のブレーメン作戦。
 
なんだ、保育の世界にこそ、蛇のように賢く鳩のように素直に生きるすべはもはや示されて居ましたね。
 
私たちが、本分に忠実に保育に関わり続ける限り、楽しく、明るく、そして賢く、素直に神様の導きに支えていくことはこれからもできそうです。皆様のお働きに、主の祝福がありますように。
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2017年04月02日(日) 08時43分01秒

赦された者として

テーマ:説教

 自らの破滅を感じ取りそれに囚われた人の醜い姿を、私たちはテレビなどを通じて見せられ続けています。ああはなりたくないものだなあと眺めつつ、なんでそんなことになっちゃうんだろうとぼんやり考える今日この頃です。

 

 誰だって破滅は恐ろしいと考えるものです。信仰者だってそれは同じことです。イエス様だって「御心ならばこの苦い盃を取り除けてください」と祈ったほどです。

 

 キリスト教信仰の奥義の一つは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10章10節)です。義とされることと救われることは同時に行われるわけではなく、段階を踏んでいることが解ります。

 

 信じるとは、自分が赦(ゆる)された者であることを信じることです。この「赦し」ですが条件や対価を求める「許す」とは真逆の「対価や条件を問わない、温情的な行い」を指します。つまり、この信仰は最終的にはそれぞれの甦りを約束します。そして、この甦りを「口で公に言い表」すことを通して私たちは救いに至ることができるわけです。多くの人々が困難や破滅に立ち向かっていきました。その原動力は、自分がここにいることの意味なのだということです。「善行の結果が救いを導く」ではなく「私たちの救われた確信が私たちの善行を導く」からだと信じるからです。だからこそ信仰の先達たちは、その破滅に立ち向かっていくことができたのでしょう。いや、立ち向かったというより立ち向かわざるを得なかったというべきでしょうか。それは、愛そのものに裏付けられていたからということなのでしょう。「六千人の命のビザ」で有名な杉原千畝は、「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言っています。

 

 私が私であることは、私を今まで支えてきた全ての総称としての「神の意思」ということができるでしょうか。「神に背く」という言葉は実に「自己否定」としての意味にも聞こえてきます。赦された者として歩むことは、大切なことなのです。

 

 報酬を期待して善行を行うのなら、その報酬を得た時点で、善行ではなく仕事と呼ばれるでしょう。しかし、私たちが神様から託された私たちの存在理由はそういうものではありません。サービスとしての代替えが聞く労働者としての存在ではなく、神様の赦しに基づいた私たちらしさこそが大切なのだということです。だから、この受難節の期間に私たちは一体何を赦されているのかを感じ取らなければなりません。

 

 過去を恥じるのではなく、過去を問うのでもなく、また、未来を案じるのではなく、今、この場所での最善を行うことが私たちに赦されているのです。

 

 私たちの世界はこの数十年で大きく無信仰化してしまったようです。信仰さえ、対価を求める時代になってきました。その中では、過去を問いあげつらい、未来に責任を求めて、今なすべきことを見失っているようにも思えてきます。
 

 木造教会は今年度65周年を迎えます。そしてこの65年の歩みはいつもその時成すべきことをを忠実に成し遂げてきた積み重ねでもあったことを思い返したいと思います。この一年度もその時成すべきことに信仰を注ぎ、言い表し、歩み続けるものでありたいと願っています。

 

 皆様の歩みの上に、主の赦しと導きと祝福が豊かなありますようにお祈りします。

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2017年01月01日(日) 00時00分00秒

人生の転機に向かって

テーマ:説教

調べてみると、1月1日が日曜日になるのは直近では、1989年、1995年、2006年、2012年だそうです。1989年は、私が高校を卒業した年、1995年は最初の教会に伝道師として赴任した年。2006年は息子が生まれ、2012年は保育支援事業を始めた年でした。今年2017年は社会福祉制度改革が行われる年であり、福祉のあり方が大幅に変わるであろうことが言われています。こんなふうに考えてみるとなんか特別な人生のように思えてきますが、でも、人生というのは、転機の連続です。望んだもの、望まなかったものをひっくるめて私という人間を導いていきます。無論、忘れてしまいたい経験も含めて、私という人間を形作ったものは、もはや忘却の彼方にその大半が押しやられているでしょう。

 

「あけましておめでとうございます」という挨拶の後には「今年もよろしくお願いします」という挨拶がつけられるのが、定番になっています。何をよろしくとするのかと考えてみれば、それは、逆にこれから起こるであろう転機に対して、お世話になるであろうことを予測しての話だろうと思うのです。正月を無事に迎えても、その一年が自分の最後の年になるかもしれない…私たちの人生は、そういう風に儚いものでしかありません。

 

何をするにしても誰かは喜び、誰かは傷つくのが人生ということができるでしょう。これからも私たちは、できれば可能な限り最小の迷惑と、可能な限り最大のお役立ちを目指して歩んでいくものであり続けるしかないのでしょう。

 

新しい一年という括りをみるときに、私たちは、その年に希望を抱きます。しかし、その希望を抱けない人々が大勢いることを忘れることは許されません。ある人は、死に至る病の宣告を受けるでしょう。生きる望みを奪われている人もいるでしょう。毎日が不安の中にいる人もいるのです。年齢を重ねる毎に忍び寄る死に向かって、私たちは生き続けるのです。

 

「もういくつ寝るとお正月」と正月を楽しみにする子供達を見ると、大人が生きるということは、彼らに希望を示し続けることなのだろうと思うのです。子供の姿は昔から変わりません。遊ぶ道具が電子化されようとも、家族が縮小しようとも、面倒を見る人が変わろうとも、子供は子供の夢を見ます。しかし、その一方で、大人は本当に子供達の夢や希望に向き合っているかととわれればお恥ずかしい現実であったと思わされます。「子供は黙っていなさい」、「言われたことをしていれば良い」とそのように振舞っていたのではないでしょうか。

 

大人はいつの間にか、子供の希望や転機を奪って消費していく世の中になってきたように思います。

 

「お金がないなら子供を産むな」とか「面倒を見られないなら子供を産むな」とか言われる昨今、子供達は保育所や学童クラブなどに押し込められ、しかし、自分たちの転機を探し、待っています。そんな彼らに私たちができることは、精一杯彼らを尊重することです。共に生きる相手として、祝福し続けることでしょう。そして、それは私たちに帰ってくるのです。

 

子供達に「あけましておめでとう。今年もよろしくね」と私たちはどのような想いを込めて言うのか考えてみればわかるでしょう。彼らは私たちをいつも見ているます。そして私たちを求め続けるのです。彼らに恥じない歩みを進めていきましょう。

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2016年12月04日(日) 09時02分13秒

当たり前にはありがとう

テーマ:説教

 当たり前が当たり前じゃなくなると、私たちはとても大きな混乱に陥ることは衆知の通りですが、当たり前って当たり前じゃ無いんだということを最近、しみじみと感じております。当たり前は、長い間をかけて形作られるものです。そして、その長い間には、多くの人たちの途方もない努力が存在しています。無論、その当たり前を維持するためにも多くの人たちが人知れず努力を重ねています。そんな人たちの事を私たちは知る由もありません。少しだけ垣間見ることができるとすれば、それはお金の動きということになるかも知れません。

 

 「当たり前」の語源を調べると「当然の当て字で当前となった」という説と「一人当たりの分け前のこと」という説があるそうで、どちらにしても「当然=まさにそうするべし(本当にそうあるべき)」という単語と重なったのであろうと思います。微妙なニュアンスで考えれば「当然」は与える方で「当り前」は受ける方という感じで広まったようですね。そう考えれば、今私たちが言う「当り前」は、受ける方としての自覚が強く働いていると言うことが言えます。しかし、その一方で私たちはお互いに授受を繰り返す社会の一員であるわけですから、与える方にも目を向けなければいけません。平和は当り前が狂う中で崩れていきます。お金の動きは、それを如実に示しています。

 

 デフレと言われ久しい昨今ですが、デフレとは「デフレーション」の略で、経済の解説では「簡単に言えば物やサービスの値段が下がっていくこと」です。でも、心理的には逆で「お金の価値が上がっていくこと」であろうと思います。何としてもお金を掻き集めようとして、安売り合戦が始まりますし、その結果、将来の需要までも食いつぶしてしまいます。その一方で、多くの人々は将来への不安や備えからお金を溜め込み始めます。

 

 たとえ一千万円の貯金があったとしても来年クビになるかも知れないと思えばお金を使うことなんてできないわけですから、なるべく倹約して少しでもお金を蓄えようと必死になるでしょう。つまり「世の中は金が全て」と多くの人が思い始めるとデフレは起こります。当たり前は崩れ去り、その崩れたところに人々は殺到します。

 

 こうなってくると当たり前は当たり前として機能しなくなります。当たり前が当たり前ではなくなりますので、分かりやすい金銭の授受に人々の関心はさらに集中していきます。当たり前は当たり前では無いので、色々なことにお金が必要になってきます。そして「お金が無ければいきていけない」ということが当たり前だということになると更にデフレは進行していきます。

 

 当り前とは、私たちが黙々と重ねる努力ということができます。私たちそれぞれが当り前のことを常に意識しつつ、互いに感謝を持って生きていくことによって日本が日本であり続けられるのです。

 

 「ありがとうございます」と笑顔で言うと、相手は笑いながら「いえいえ、当然のことをしたまでですよ」と答える、こんなやりとりが実は世界を支えていたのです。ヨセフとマリアを馬小屋に泊めた宿屋だってこう言ったでしょう。「ありがとう」と言う感謝の言葉はその「当たり前」と言う行為が、多くの人々の努力によって成り立っていることを忘れないための呪文のようにも思えてきます。皆様のお働きに主の祝福がありますように祈っています。

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2016年11月13日(日) 09時22分30秒

「生き残る」ではなく「生きる」

テーマ:説教

最近、様々な現場で「どう生き残るべきか」なんて言葉を耳にします。自然に考えれば「生き残」れなければ、死ぬしかないという事になりますが、なぜ、そんなに生きることが難しいのだろうと不思議に思ってしまいます。もはや世の中はそんな生存競争をしなければならないほど一人一人が追い詰められているのでしょうか?

 

確かに、私たちは世界の激しい変革に晒されていると感じる場面は多くなりました。求められる事が増大し、それに追いつくのに必死である事は否定できません。でも、その変革そのものは、私たちが望んでいる事であったはずです。

 

私たちには、得手不得手があります。そしてそれが私たちの個性であると考えて今まで歩んできました。しかし、その一方で、その得手が通用しない時代の入り口に立っている様な不安を抱いているのが現実だという事が出来るのでしょう。

 

結果として、自分の取り分を守りたいという過剰な反応が出てきます。「ウチよりあっちがひどい」と互いに互いを貶め合う事しかできなくなります。更に言えば、「何もしない事が何よりも大切」だと思い込んでしまう場合だって出てくるわけです。そうなってしまえば、自分の全てが秘密の対象になってしまいます。出来ること、出来ないことを混ぜこぜにして全てに沈黙をしてしまわざるを得ないでしょう。目立たない、やらない方が意味のある時代に向かっています。制度が複雑化すれば、理念や希望といったものは忘れ去られてしまうでしょうし、これまで蓄積した常識などが通用しなくなるのですから「やらない方」を選びたくなるのは人情です。しかし、だからこそ、そこからの選択が大切なのです。複雑化したり陳腐化した制度を前に、「どうやって生き残るか」と問う人の多くは、そもそも、現状にさえ、他者の存在に対してさえ、満足していない事が多い様に思います。

 

「もっと良い世界に!」と他者に望む一方で、自分には変わる余地がないと堅く信じている人たちを多く見受けます。「生き残り」を求める人たちの多くが、実は自分の現状を変えたくないと思っていたりするのです。ですから「生き残らなきゃ!」と考え始めると、他人のことは構ってられなくなります。強がり、突き放し、迷惑をかけること、かけられることが苦痛になります。生きることは迷惑をかけたりかけられたりすることそのものなのにです。

 

迷惑をかけない、かけられたくないという思いは、私たちに、他に出し抜かれる事を恐れを抱かせ、その結果私たちは他を出し抜く事しか考えられなくなってしまうのです。他人の善意さえ悪意と捉えざるを得なくなります。

 

でも本当は、猜疑心が諸悪の根源である事は歴史によって証明されています。その事は人間社会が始まって以来繰り返され続けた大きな過ちなのに、猜疑心に支配された結果、多くの人を巻き込んだ自滅に行き着いてもなお、自分は被害者であると思い込ませられ続けます。

 

こんな現在に立つ私たちがやならければいけない事は、理念や希望、夢を語り合う事です。「これから失うだろうもの」に目を向けるのではなく、「これまでに失ってきたもの」に目を向けるべきなのです。失ってきたもの…それは、「生きることの喜び」です。「生きることの喜びと」は、他者と交わり支え、支えられて歩むことだったはずなのですから。

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2016年09月04日(日) 08時26分31秒

汝の隣人、汝の敵

テーマ:説教

 先日、藤崎で中学生が電車に飛び込み自殺したというニュースに触れました。ついに青森でもそういうニュースが出たことに大きな衝撃を覚えました。

 

 私は牧師であると同時に、児童福祉施設である保育所の所長です。こういう事件に出会うたびに、自分には一体何ができるのだろうかと考えている自分がいます。

 

 先日、ある若い女性が礼拝堂から出てくるところに鉢合わせました。手には以前卒園記念で送られていた聖書が握られていました。これは悩み事でもあるのかと思って声をかけますと、「実は園長先生を探しているのです」との答え。聞いてみれば、3代前の小池園長を訪ねてきたということでしたので、「先生は異動されました。今は私が牧師であり園長です」とお伝えしましたら、質問を受けたのが「汝の敵を愛せ」と書いてありますが、その意味がわかりませんということでした。この「汝の敵を愛せ」という言葉はキリスト教の教義を示す時によく使われる者でもありますが、一方で、私も、牧師としていろいろな出来事に遭遇する傍らで、「汝の敵を愛せ」とは一体どういうことなんだろうかと時々思いを巡らせます。

 

 マタイ5章43-45節では、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とあります。これを見る限り「愛する」というのは「心を向ける」とか、「思いを尽くす」という意味合いで使われていると思われます。もっと言えば「殺すな、生きさせよ」というメッセージだと思うのです。

 

 先ほど紹介した卒園生の女性の来訪は、私が「キリスト教保育とはなんだろう?」ということグルグルと考えていた矢先のことでした。

 

 彼女のことを覚えていたり担当したことのある保育士がほとんどだったので、保育所を案内しましたら「懐かしい!私のことを覚えてくれてた」とだんだん彼女の顔が明るくなってきました。その姿を見て、私が木造保育所というキリスト教保育実践の施設の所長として求められていることの意味は、「敵の子供でも受け入れよ」ということなのだと今更ながら思い知らされました。そして愛とは「最後の最後まで共にいること」というなのだなあと思いました。

 

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:47)

 

 完全とは、最初から最後までという時間的な概念も含まれるものでなければなりません。ある時は「受け入れてくれた」、ある時には「受け入れてくれなかった」と一期一憂するのではない、過去から未来を突き通す一本の芯が「敵を愛する愛」ということになるのだと思うのです。

 

 子供達は成長と共に、大人を挑発もします、裏切ります。そして、彼らは敵・味方で判断するようになっていきます。それでもなお「自分の子供の時を覚えてくれていて『お前が小ちゃい時には…』と言われると敵わない、そういう人」を彼らは成長と共に欲するようになっていきます。私たちだってそうじゃないですか。

 

懐かしい人を思い出してみましょう、会ってみましょう。

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2016年07月03日(日) 08時07分23秒

どうなるのかではなく、どうするのか

テーマ:説教
大都市圏などの待機児童が多い地域においては、保育所が足りないことを理由に、「企業主導型保育事業」という制度が新設されました。これは、福利厚生の観点で「企業が社員に対して無認可保育所を設置できる」制度で、「地域子ども・子育て支援計画」に規制を受けない無認可保育所ですが、その一方で保育給付金は満額受け止めることができるとした画期的な内容です。無論、企業が設置する保育所ですので、社員の子に対しては福利厚生費から保育料を割り当てて実質無償化することも可能ですし、企業の都合に合わせて営業時間や営業日を定めることができる自由度の高さも魅力です。社員は結婚や出産に向けて何の心配もなく就職できるわけですから人材確保にも大きな宣伝材料になります。保育所の施設長で、情報収集に気を使っている私でさえ全く寝耳に水でした。もうすでに企業関係者は、敏感に反応し、内閣府の主催で三回行われた説明会はどれも満員だったそうです。

今の所、5万人という定員枠を設けての先着方式で行わせることを政府は考えているようですが、このタイプの保育所がある程度実績を上げた場合には、制度そのものが、そちらに移行していくことも保育所経営者としては、覚悟しておいたほうが良いと思います。もし仮にそうなった場合、現行の認可保育所や認定こども園の職務は、完全に子どこ・子育て支援制度を支える方に回らなければならなくなるからです。

実はこんな大変革は、保育所に限ったことではなく、これからあちこちに起こってきます。その胎動も見えてきています。なぜなら、これらのことは国際条約によって定められたことだからです。国際条約は憲法以外の法律の上位に位置し、それまでの内容の変更を迫るからです。

一方で、こういう激変期には「これからどうなるんだろう」という心配が私たちを襲うことになります。人間とは不思議なもので、こういう時の思考というのは、「強がりながら消極的」というものになります。「何考えているんだ」と相手を疑い、その一方で自分自身はそれに即応できないためにこれまでの制度を守り保証してもらえるように動こうとします。そして人間は排他的保守主義に陥るのです。しかし、現実はどうでしょう。その排他的保守主義は常に使い捨てられる運命にあります。先日、国民投票でEU脱退を決めたイギリスの混乱を見れば一目瞭然です。そしてこれから日本もそんな時代に突入するのです。

日常のいろんな場面で「これから一体どうなるんだろうね」という言葉を口にし、耳にします。しかし、信仰は聖書を通じて「これからあなたは一体どうするんだい?」と私達一人一人に問いかける神の声を私達に伝え続けています。

「(イエスは言った)さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ福音書10章36~37節)

「どうなるんだろう?」と私達が考えるのであれば、神様は「どうしたい?」と聞き返されるでしょう。その時こそ、私達は希望を口にしましょう。そのことによって「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということ」(ローマ5章3~4節)を私達自身に体現するのです。

それぞれの希望とお働きに主の祝福がありますように祈ります。
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2016年06月06日(月) 06時11分44秒

情けは自分の為なり

テーマ:説教
皆さんは自分は幸せだと思っているでしょうか?それとも自分は不幸せだと思っているでしょうか?それはどうしてでしょうか?よくよく考えてみれば、幸せも不幸せも「他人と比べて」という話か、そうでなければ、「過去と比べて」という話で判断するのではないかと思います。よく、不幸に見舞われたとき、「私は何もしていないのになんでこんな目に合わなければいけないのだ」と口走るのは、そんな現実からなのだろうと思います。その一方で、幸運だなあと感じるときだって、子供が生まれたとか、恋人ができたなど相手があることによって味わえる感情です。

よく知られた「情けは人の為ならず」は、最近誤用が後を絶たない慣用句の一つとして紹介されますが、じゃあ、正解は?と問うと「「情けは人の為ではない、(巡り巡って)自分のためなのだ」という意味づけが一般的に言われています。でも、この「巡り巡って」はどこから現れたのでしょう。
 古語の文法に照らして考えても、本来は「人の為なり(古語:「だ・である」という「断定」の意)+ず(打消)」、すなわち「他人のためではない」となるわけです。そして、それは「自分のためだ」という意味に転換されます。

じゃあ情けとはそもそもなんでしょうか?辞書で調べると「1 人間味のある心。他人をいたわる心。人情。情愛。思いやり。2 男女の情愛。恋情。また、情事。いろごと。3 風情。おもむき。あじわい。 4 もののあわれを知る心。風雅を解する心。風流心。」とあります。つまり、情けとは、その人らしさを表すものであり、情けとは自分の心そのものなのです。

「あの人は情け深い」と褒める言葉がありますが、それは、立ち居振る舞いに心が籠っている人に対する褒め言葉です。逆に言えば、「薄情」という言葉は、立ち居振る舞いが場当たり的で自己中心的な人を指す言葉です。これを容れて、現代語に直訳すれば、「心は人のためにあるのではない」となり、転じて「心は自分のためあるのだ」ということになります。自分が自分であるために心はあると考えれば、「情けをかける」ことは自分が自分であるためにやってしまう行為と言うことになります。イエスは「サマリア人の喩え」の中で、情けをかけることを「隣人となる」と教えました。

先だって、イジメを受けた子に対して、同級生の女の子が二人、「今度は私たちが助けるから早く学校に来てね」と手紙を出した話を耳にしました。いい話だなあと思う一方で、この二人の女の子の決意が見えてきました。多分、彼女たちは、イジメの現場に遭遇しても止められなかったことを悔いていたのでしょう。そして「今度同じようなことがあったらは私たちが助ける」と決意をしたからこの手紙を出すことができたのでしょう。

私たちは、出会いの中で、心を成長させていきます。多くの人々との歩みの中にあって、ある時には喜び、ある時には怒り、ある時には哀しみ、ある時には楽しみ、そうやって、自分の心が育てられてきたことを知るでしょう。「情けは人の為ならず」はそのような歴史を背負っている自覚の上に立ち、自分の過去を否定しない強さを持って行うからこそ、そう言い切れるのだと思います。「情けは人の為ならず」とは、実は「自分が自分であるための、プライドをかけた行い」であり、自分の心を磨き続けることなのです。
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2016年04月04日(月) 19時59分43秒

主の復活おめでとうございます

テーマ:説教
最近、日本でも認知を得てきたイースターですが、イースターは復活祭とも呼ばれ、墓に葬られたイエスが復活した日を覚えるキリスト教のお祭りです。

今年のイースター(復活祭)は3月27日でした。「今年の」と断らなければならないのは、イースターがもともと太陰暦にしたがって決められた日であったため、年によって太陽暦での日付が変わるからです。イースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められ、復活祭は3月22日から4月25日の間のいずれかの日曜日になります。

「イースターを春を迎えたことをお祝いする行事」と紹介される場合が多いですが、本来は四旬節という主の受難の苦しみを味わうイースターまでの40日間と対にして考えられるべきお祭りです。敬虔なキリスト教の地域では、祝い事はこの期間には行いませんし、この期間、肉、乳製品、卵などの動物性の食物を食べる事を禁じられるので、イースターエッグをはじめとした肉、乳製品が久しぶりに食卓を賑わす日でもあります。そういう意味ではクリスマスよりも盛り上がる地域もあるほどです。ただ、「死からの復活のお祝い」とするといかにも胡散臭いので「春を迎えたことを祝う行事」と紹介するのでしょう。

サバイバーという言葉があります。「事故や事件、災害などに遭いながら生きのびた人、闘病中の人、またはその病気の経験者」を指した言葉です。彼らは「自分はいわば一度死んだ人間」という概念を強制的に獲得させられた人たちということもできるでしょう。そして、彼らがその死地を乗り越えて辿り着いた考え方や行動が多くの人々には想像もできないような素晴らしい結果を導くため、このサバイバーという言葉は、「死地を乗り越えた」という尊敬の念を込められて語られます。

その一方で、サバイバーギルトという言葉も存在します。こちらは「奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと」です。彼らもその思いから這い上がるために様々な言葉や行いを起こしていきます。

前者が「生き残ったことに祝意を持って周りが尊敬する概念である」のに対し、生き残った本人は「生き残った罪悪感から突き動かされる概念」という悲壮なイメージが付きまといます。この両者を結ぶ切っ掛けが聖書であるということができると私は思っています。

イエスは、サバイバーではなく、復活者だからです。無から始まり死で終わる私たちの人生は、死の前で絶えず沈黙してしまわざるを得ません。しかし、私たちは感覚的に死が無であるとは受け入れられないのです。近しい者がたとえ死んだとしても、その存在を無と考えることはできないのです。私たちは、私たちの周囲に絶えずその息吹を感じるではないでしょうか。

イエスの復活は、死からの復活が眠りから覚めるような気軽なものであることを証ししています。だからこそ、死を恐れずに、生きることにこだわらず、罪悪感を持たずに、正しいことを堂々とせよと聖書は私たちに語っています。「復活おめでとうございます。」という言葉は、その息吹の存在に確証を与えます。私たち一人ひとりは、生という一点で死を乗り越えて結ばれているのです。主に人生を委ねるということはそういうことだと思います。
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2016年03月06日(日) 09時28分18秒

事業じゃなくて事情で動く

テーマ:説教
 目の前にいる子供もの姿を見たとき、私はただただ「健やかに、心豊かに育ってほしい」と願っています。しかし、その一方で、保育所の園長という立場に立つと、その願いは「事業」になってしまいます。「保育所は子育てを事業として行う所」という定義もできるでしょう。

 年度末にかけて作成している書類にも「保育事業」だの「子育て支援事業」だの事業という言葉が並んでいます。なぜなら、国が定めた「子ども・子育て支援制度」を従い、そこに定められている支援を展開するなかで「事業費」を貰うのが保育所のお仕事だからです。

 振り返ってみて、じゃあ、その制度だけで、子育ては完了するかといえば、それはあり得ないわけで、周囲の人々からの有形、無形の様々な様々な支援がなければ、やはり子育ては難しいと思います。事業という言葉には「損・益」という言葉が必ず付いて回るからです。

 最近、児童の貧困問題がクローズアップされています。先日、この件に関し、設立された「子供の未来応援基金」をめぐり「広報のみではなく、国民運動としての広報・啓発活動として(2億円を)使っている」という国の政策が指摘され、賛否で論争が行われていますが、貧困問題も事業ということになれば、必ずその事業所単位で「損・益」というお金の問題にすり替えられてしまうでしょう。

 子どもの貧困問題は、実は社会の分断という構図を強く描き出しています。共働き当たり前の社会では、子供は学校や保育園、学童施設と自宅を往復するしかありませんし、その一つ一つは事業として行われるべき物でしかありません。その中で、例え、一人の子が貧困状態にあったとしても、それは「(全体的な)事業」では「(個人的な・特殊な)事情」として受け止めざるを得ないわけです。これは、事業所と呼ばれる組織の限界を示しています。

 子ども・子育て支援の支援制度は、制度的には洗練されてきたようにも見えます。しかしながら、その一方で、地域のいたる場所から子供のいる場所は限定されてきました。公園や空き地で真っ黒に日焼けして遊んでいた子供たちは、学童保育や保育所に入れられて姿を消しました。私が子供の頃には学校の近所に必ずあった駄菓子屋ももはや前世紀の遺物のように語られます。制度が前進して、しかし、その一方で、子供の生活空間、生活スタイルはどんどん小さくなってきているのです。制度が拡充される一方で、住民それぞれの横の繋がりは分断され続けています。相手の困難を、自分の困難と受け入れることができなくなってきている時代に突入し、最終的に辿り着いたのが、子供の貧困であったというのは、皮肉なことだと思います。

 ご近所さんの家に入り浸っている子を挟んで、「うちの子がご迷惑をおかけして」「いえいえ、もう、うちの子みたいなもんですから、気にしないで。いつでも遊びに来させて」そういうやり取りが忌避される現在を招いた責任は、私たちそれぞれが制度に甘えてしまい、「自分が隣人から愛されること」と、「自分が隣人を愛することを放棄してしまったこと」の結果であると思わざるを得ません。

「事業ではなく事情で動く」…自分の眼の前にいる人の事情を個人として汲むこと、これこそが隣人愛です。そして、これをできるかを国民である私たち一人一人が問われています。
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