ジオターゲティング
2013年12月13日(金) 17時00分43秒

歴史が繰り返さないと誰が言えよう

テーマ:埋もれた歴史
facebookでこんな文章がシェアされていました。

ここから======

【この文章は誰が書いたでしょうか?短いのでぜひお読みください】 ★自民党内の若い議員を見ても、怖い。過去の戦争を「すべて正しかった」と考えていて、頭は大丈夫かと疑いたくなる。日中戦争は明らかに侵略戦争だし、韓国併合は植民地化で、自衛戦争の面がある太平洋戦争でも、インドネシアの人を日本人化しようとしたのは間違っていた。 なぜ戦争を始め、途中で止められず、負けたのか――。そこから目をそらし、責任の所在を不明瞭にするのは愛国心ではない。戦争を語ることがタブーとされてきた反動で、「戦争に負けた」と教わった昭和40年代前半までとそれ以降の世代の分水嶺が消え、社会が左から右に大きく振れている。 この2~3年、大っぴらにナショナリズムが叫ばれ、不快だ。国は戦中、言論統制により新聞など批判勢力を排除し、従わなければ「非国民」と斬り捨てた。なぜ同じことを繰り返すのか。そんなやり方では、国を誤っても幸せにすることはあり得ない。 愛国心をあおって戦争し、負けたのが日本だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これ誰が書いたと思いますか。 2006年8月、毎日新聞・鳥取版・石破茂防衛庁長官談です。今の石破幹事長と同じ人ですよ。どう思われますか。 これみんなに知らせてください。

ここまで======

さらに、こんな写真が出回っていました。

ある教会の牧師室-繰り返し?


「歴史は繰り返す」とは言えないと思います。しかし、その一方で「歴史は繰り返さないと誰が言えようか」と言う疑問も持つのです。


「歴史は繰り返さない」とは、私たちの決意でなければなりません。意思を込めた強い決意を求められます。

「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから…」

これは原爆慰霊碑に書かれた言葉です。

これについても様々な論争があります。特にパール判事が「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と、言ったことが有名になっていますが、これは、通訳の過程でパール判事が「日本人が日本人に謝罪している」と解釈した事が問題であったわけです。

ウィキペディアフリー百科事典によれば、「この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したもの。浜井信三広島市長が述べた『この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる』に準じたものであった。」とあります。

前例主義と言う言葉があります。前例が基準となり、法律がなくても(もしくは法律に規定されていない部分で)法律と同じような効果を持っていくことを言います。逆に言えば、何かの要望があって、行政に掛け合っても「前例がない」という理由で却下されることが少なくないこともまた事実です。

さてはて、今回の国会の中と外、これだけ大騒ぎだったことは近年まれに見る様相であったと私には思えました。

民主主義とは一体何かと言うことを多くの人が考えさせられたと思います。

前例主義が行いきつけば、法案として提出されるのは、今や周知の事実です。特定秘密保護法もこの前例主義の行きついた結果だと読み解けばどうでしょう。昨日の安倍首相の記者会見の中で、昔から秘密は前例として存在していたということを言い、それを問題視したからこそ、特定秘密保護を法律化したのだと言う文脈で語っていたように思います。

しかし、それは、一体どういう事を示すのでしょうか。

国家の運営の見えない部分は、結局、前例を引き継ぐ形で行われてきたと言うことができます。もっと言えば、「法律になると言うことは見える化すること」と言う風に捉えてみれば、その見える化する過程そのものを大切にしなければなりません。

前例を法律化するだけであれば、それは過去から継続していた誤りを「正当だった」と宣言することを意味してしまうからです。

パール判事は先程の言葉に続けて、「ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常にりっぱな決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現をもちいないのか」とも語っています。

パール判事が言いたかったことは、そもそも、「それならばなぜそのようにはっきりした表現をもちいないのか」と言うことであったのかも知れません。

「霞ヶ関文学」と言う言葉があります。曖昧な言い回しを多用して、どのような解釈でも可能とする文章を作る…。文章自体が霞がかかったようなものにするのが前例である以上、「歴史が繰り返さないと誰が言えようか」という問いは消えることはないでしょう。

もう一度、石波幹事長の2006年代の発言に耳を傾けてみましょう。

「 なぜ戦争を始め、途中で止められず、負けたのか――。そこから目をそらし、責任の所在を不明瞭にするのは愛国心ではない。(中略)国は戦中、言論統制により新聞など批判勢力を排除し、従わなければ「非国民」と斬り捨てた。なぜ同じことを繰り返すのか。そんなやり方では、国を誤っても幸せにすることはあり得ない。 愛国心をあおって戦争し、負けたのが日本だ。 」

今も、公然の秘密として霞ヶ関に巣くっている前例主義は、歴史を繰り返させるベクトルを持ち合わせているのです。

誰もはっきり言わなければ、結局歴史は繰り返すのだよ…。

彼が言いたいこともそういうことなのかも知れません。



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2013年05月03日(金) 09時01分02秒

三代の伊達政宗像から見える歴史

テーマ:埋もれた歴史
伊達政宗像として有名な騎馬像。

ある教会の牧師室-政宗像3代



実は、今、旧仙台城跡にある騎馬像は2代目。伊達政宗像としては3代目のものです。

ある教会の牧師室-政宗像初代


初代は、今、写真のようになって、仙台市博物館の一角にあります。台座には

「伊達政宗像
 この像は現在青葉城跡にある政宗公騎馬像の最初のものであって第二次世界大戦中軍に徴用されたものの騎馬部分のみ溶解されこの部分は終戦後塩釜市内に打棄てられてあった
 幸い郷土史家故石川謙吾氏がこれを発見し私費を投じて購い青葉神社に奉納したものを石川氏のこ意志により神社側の了解のもとに本館に移したものである」

と書いてあります。

1935年に宮城県柴田町出身の小室達という彫刻家によって作られた初代騎馬像は、太平洋戦争末期に金属回収令によって徴用されたからです。その時溶解されてしまったのですが、後日、戦後塩釜市内で正宗の胸像部分が溶解されずに残って残っていたのが発見され、1978年に博物館の庭に設置されました。多分、忍びないと馬の部分から少しず切り取り、最終的に胸から上は溶解を免れたのでしょう。

現在の騎馬像は、小室達の出身地である柴田町で分割保存されいた石膏の鋳型によって、1962年10月に復元されたものです。これが三代目。

実は、その間に昭和28年から昭和39年までの間、2代目の伊達政宗像として伊達政宗立像が存在していた時代がありました。それがこれ。

ある教会の牧師室-政宗像2代


平和を願い平服姿にしたものです。作者は彫刻家の柳原義達でコンクリート製。戦後すぐのこと、平和を願い、また伊達政宗個人を偲ぼうと平服姿の立像としたと聞きます。そのため、この立像は「伊達政宗公平和像」と呼ばれています。

しかし、この「伊達政宗平服立像」の評判は芳しくなく、その後市民の騎馬像の復元要望が上がったため復元された騎馬像の完成を受け、昭和39年、岩出山城址に移設することになり現在に至ります。

「奥州の覇王」と呼ばれ、騎馬像で有名な伊達政宗は、実は文化人、教養人として一流であるという評価を当時得ていました。

『酔余口号』という漢詩は有名ですね。

「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何」

漢詩のみならず和歌も一流、豊臣秀吉には「鄙の華人」と評され、また、茶道にも通じ、能にも深い造詣があったとそうです。

更には料理も極め、「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」という政宗の料理観は現代に和・洋・中を問わず後世の多くの料理人に感銘を与えています。

実は、正宗が62万石の大名として名を残したのは、戦によってではなく彼の教養の深さも深く関係しているのです。

以前にも紹介した正宗の遺訓があります。

一、仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

この中に、「この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。」とか「元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。」、「今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。」という死生観が示されています。

「毎日毎日が、この世の客なのだ」という考え方から伊達政宗の足跡を辿ってみるのもよいかも知れません。


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2013年04月22日(月) 18時30分27秒

ラジオ体操…調べてみれば

テーマ:埋もれた歴史
日本に生活したことがある人だったら、誰でもやったことのあるラジオ体操。このラジオ体操、

1951年(昭和26年)5月 現在のラジオ体操第1を制定、放送開始
1952年(昭和27年)6月 職場向けとして現在のラジオ体操第2を制定、放送開始

という事でした。

私もうろ覚えながら、「昭和天皇の昭和天皇即位を祝う事業」としてラジオ体操が普及されたという風に思っていましたから意外でした。

で、調べてみれば、もうちょっと複雑な経緯でした。ウィキペディアフリー百科事典:ラジオ体操によれば、

日本のラジオ体操の原型は、アメリカのメトロポリタン生命保険会社により健康増進・衛生思想の啓蒙を図る目的で考案され、1925年3月31日から広告放送として放送されていたラジオ体操番組 "Setting up exercise" なのだそうです。1923年に保険事業に関する調査のため訪米した逓信省の猪熊貞治簡易保険局監督課長がメトロポリタン生命保険会社のラジオ体操の企画を知り、1925年7月に『逓信協会雑誌』で紹介した。「猪熊は1927年8月、簡易保険局の会議において昭和天皇即位を祝う事業としてラジオ体操を提案」したとあります。(ウィキペディアフリー百科事典:ラジオ体操)

つまり、保険の観点から、「健康増進・衛生思想の啓蒙をはかる」と言うのが、当初の目的であったと言うことを示しています。更に、その頃「1926年大正天皇崩御、翌 1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪。1928年(昭和3年)11月10日京都御所で即位の大礼を挙行。」という流れで天皇の代替わりがあったときでしたので、全国普及の手段として「天皇の御大典記念事業の一環」として呼び掛けたと言うことだったのではないかと思えます。

敗戦を経て、1951年、新たに「老若男女を問わず誰でもできることにポイントを置いた体操」として作られたのが現在のラジオ体操第1、さらに翌年の1952年「働き盛りの人が職場で行うことを目的とした体操」ラジオ体操第2が制定されたそうです。

因みにそれまでのラジオ体操は、現在のものとは違い、指導などはほとんど号令だけ、更には動きも現行のラジオ体操に比べて原始的(?)という感じのものでした。NHKアナウンスルームというサイトに当時のアナウンサーを紹介したページ(http://www9.nhk.or.jp/a-room/jidai/01.html)があります。

「全国の皆さん、お早うございます。今朝もお元気で体操はじめて頂きましょう。肉体のこわばったのや疲れをほぐして頂きましょう。~」

陸軍の退役軍人である江木理一という人が、このラジオ体操の専属アナウンサーとして採用されたのだそうですが、彼は「初回からブリーフパンツ1枚でマイク前で体操していたのであるが「照宮成子内親王もラジオ体操に御執心なり」と聞き及ぶや濃燕尾服に蝶ネクタイを締め、正装に身を包んだ上で放送に臨むようになった。実際の振り付けは郵便局員が全国に周知した。」(ウィキペディアフリー百科事典)と言うから、コミカルです。

戦前のラジオ体操には、歌が付いていたそうで、それをボーカロイドの「初音ミク」に歌わせたバージョンがyoutubeにアップされていました。



聞いていれば、まあ、ほのぼのとしたものですねえ。

調べてみれば、何事にも歴史があるって事で…。

それからもう一つ。

ラジオ第1放送では地震、台風などの大災害が発生した場合は大幅に番組の構成を変更して報道主体の体制になるが、この番組が中止されたり時間を変更されたりすることはほとんどない。1995年の兵庫県南部地震のときも、地震報道を行った関西地方を除けば放送されていた。ただ番組の途中で地震情報、気象警報、交通情報(主に高速道路の通行止や鉄道路線の不通区間)が放送されることはある。NHKワールド・ラジオ日本では全国一斉に放送される臨時ニュースがある場合を除いて中断することはない。また、オリンピック中継の最中であっても休止することなく予定通りの時刻で放送される。ただし、以下の例外もある。(ウィキペディアフリー百科事典:ラジオ体操)

ほぼ毎日、どんな事件があっても続けられている長寿番組と言うことが出来そうです。


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2011年06月10日(金) 18時18分07秒

エレクトーンの解体3 エレクトーンの中に古き良き日本を見た

テーマ:埋もれた歴史
さあ、エレクトーンの解体もいよいよ最終回。

ある教会の牧師室


ある教会の牧師室


足鍵盤を外します。

ある教会の牧師室


ゴソッと外れてきました。

この、ペダル鍵盤、どのようにして踏み方によって音色が変わるのかと気になっていたのですが、横から見ると二段の接点を使っていることが判ります。

ある教会の牧師室


しっかり踏んだ状態。

ある教会の牧師室


踏んでいない状態。

ある教会の牧師室


さてはて、残りはこれだけになってしまいました。因みに合板製。楽勝かと思いきや、ネジが抜けない。

ドライバーで外すのはあきらめ、力業で無理矢理外してみて、何でだろうと観察してみると、

ある教会の牧師室


ネジがさびています。他の電子部品を止めていたネジなどはさびていませんでしたから、多分、分解できないようにとか、抜けてこないようにわざとさびさせたのではないかと思います。これは、家具みたいな作りなのかも…。

ある教会の牧師室


それでも、ここまで分解しました。

ある教会の牧師室


解体後の姿。

でっかいスピーカーが見えています。

スピーカーは大きさにこだわりはなく、小さいスピーカーと共鳴部分をしっかりとすることの方が大事な事って言う最近の理屈とは全くかみ合わない大きさです。こんな所にも時代を感じます。そう言えば、共鳴部分というのがあまり意識されていない感じでした。

それにしても、この当時の日本の技術とはとても高かったのだろうなあと思わされました。

久しぶりの解体。初体験の大物解体でしたが、そこに見たのは当時、制作に携わっていた方々の技術とハートでした。

いろんな分野が協力し合っていることがよく判りました。

解体完了まで中途の休憩を入れて5時間ほど。楽しい時間でした。


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2010年06月20日(日) 07時05分26秒

出島とオランダ国旗

テーマ:埋もれた歴史
ワールドカップ一次リーグが盛り上がっています。日本と同じリーグに入っているオランダが、前評判どおり決勝トーナメント進出を果たしました。さて、このオランダと日本が歴史上深い繋がりを持っている事は周知の事だと思います。

江戸時代の鎖国体制の中、幕府は朝鮮王国、琉球王国、中国とオランダを相手国としていましたが、オランダとの唯一の窓口がこの出島でした。1641年、出島にオランダ商館が置かれ、そこにはオランダ国旗が翻っていました。 

さて、このオランダが、一時ナポレオンが率いるフランスに占領された時代があります。1810年から1813年ナポレオン帝国の崩壊までオランダはナポレオン帝国に直轄領とされていましたが、この間も長崎の出島にはオランダ国旗が翻っていました。日本はこの占領期間もオランダを国として扱っていたと言えます。

そんな中、フェートン号事件という事件が起こります。オランダ国旗を掲げオランダ船と偽って侵入してきた英国船の領海侵犯事件です。

オランダ船と誤認した出島のオランダ商館員ホウゼンルマンとシキンムル、長崎奉行所のオランダ通詞などが人質とされ、食料の供給を求め、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきたイギリスに対し、長崎奉行はやむなく要求を入れ食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を送ったそうです。結果的に、日本がイギリスの圧力に屈する形にはなりましたが、この時も出島のオランダ商館やオランダ人は友好国としての扱いを受け続けたという事になります。

その後、ナポレオンの失脚と共にオランダは「ネーデルランド連合王国」として復活。以後、再びオランダ商館とオランダ人たちと日本との出島を窓口とした交流が1859年出島のオランダ商館の閉鎖まで続きました。そして、オランダ国旗は絶えることなく翻っていたのです。

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2010年03月11日(木) 11時03分35秒

才能が開く時

テーマ:埋もれた歴史
スターリング・エンジン(http://members.jcom.home.ne.jp/kobysh/stirling/stirlingIntro.html)って聞いたことありますか?


現実に存在しうる熱機関の中で最も高い効率で熱エネルギーを運動エネルギーに変換する事ができるエンジンです。また、熱を運動に交換するエンジンですから、安全性も高く、熱源さえあれば騒音も排気ガスもほとんど出ない、「究極のエンジン」と呼ばれているエンジンの一つです。

私は、最初聞いた時、名前から単純にソビエトで使われているエンジンのことかと思いましたが、エコロジーが叫ばれるようになってから注目されているエンジンの一つです。発明は古く1816年です。

さてはて、このエンジンを開発した人が、ロバート・スターリング(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0)という人で、スコットランドの牧師という異色の経歴の持ち主です。

彼が生きた時代は、蒸気機関が普及しだした時代に当たります。当事の蒸気機関は技術的にもまだ未開拓で、その結果、爆発事故なども頻発していました。その度にボイラー工夫が死傷していた時代です。そんな状況に心を痛めたスターリングは、爆発しないエンジンの開発を自ら手がけ、1816年に新しいシステムの熱機関を開発、それが、スターリング・エンジンと呼ばれるものになりました。

美談だと思いながら、スターリング・エンジンを調べていくと、wikipedhiaフリー百科事典によれば、

初期に作られた少数のエンジンは、蒸気機関のボイラーのような危険さはないものの、頻繁に故障を繰り返した。実際、スターリングのダンディー工場でも4年間で3回、シリンダーを交換するような故障が発生し、その後蒸気機関に置き換えたという。

注目されてから、最近、本やキットなどが発売されていますが、原理的には簡単なエンジンではあるものの、癖も強く、動作するようになるまでには、微調整も必要なようです。つまりは、原理までたどり着いても、そこから先が一苦労だと言うことです。「発明は閃きだ」と聞きますが、その閃きは様々な幸運の中で、実現されていることが少なくないことは発明秘話としてよく紹介されている通りです。また、実用化されても、世が必要としないかもしれません。

実際、その後は蒸気機関から、ディーゼルエンジンやガソリンエンジンに動力の主体が移り、スターリングエンジンはその影を潜めていました。特許を取ったスターリングではありましたが、それで大儲けできたわけではありませんでした。

「死傷者を出したくない」と思った一人の牧師の発明が、200年弱の時を経て、気候温暖化対策の切り札の一つとして今、注目されているのです。

「神様はなかなか味な事をなさる」

先輩牧師の言葉ですが、本当にその通り、私たちの想像を超えた力ってあるのだなあ、とつくづく感心してします。

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2009年12月08日(火) 12時25分48秒

死中に活を求めたのか?

テーマ:埋もれた歴史
今日は、日米戦争の開戦記念日です。正確に書けば、アメリカでは12月7日。時差が12時間ほどもある国と闘ったということを改めて思わされます。

さてはて、ご存知の通り、日本はこの戦争に敗戦して今日を迎えています。

この名称に対して、太平洋戦争というのが一般的(?)だと思いますが、日本人たるもの大東亜戦争と呼ばなければいけないみたいな意見があります。

大東亜戦争の命名理由は「今次の対米英戦は、支那事変をも含めて大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と証するは大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」と当事紹介されています。

平たく訳すと「今までやってきたことは、東亜新秩序建設の目的でやってきたことで、その結果今回アメリカやイギリスと戦うことになったわけですから、今までのこともひっくるめて名前は大東亜戦争とします。それから、大東亜は戦争をする地域の大東亜に限定するものという意味ではないですよ」ということになります。

当事、日支事変…これも現在では日中戦争とよばれている戦争が続いていました。結局それが拡大する形で行われることになった戦争なのだということになってしまいます。

これについては、阿川弘之著の「軍艦長門の生涯」の中で「海軍は反対だったのだ、品が悪い、せめて『太平洋戦争』にしてはどうかという意見が省内にあったが、陸軍に押し切られたらしいと、噂が聞こえて来た」(下巻172ページ)と紹介しています。

つまり、陸軍の都合であるということですね。

日本は維新でこそ活躍し、皇軍としての栄誉を一身に浴びた陸軍でしたがその後は、海軍にその輝きを奪われていきます。日清戦争の黄海海戦や日露戦争の日本海海戦で制海権の大切さが実証されるようになってからは、海軍に頼らない作戦は日本では難しくなってきます。

当事、陸軍は中国大陸に対する進出に自分たちの活路を見出していました。陸軍ですから、陸上で戦うしかないわけで、陸軍が政治的に主導権を握るのは、中国を舞台にするしかなかったのでしょう。内陸部では海軍は口出しできませんから…。

日中戦争、太平洋戦争と分けたい海軍、全部をひっくるめて全面戦争としたい陸軍という対比がこの噂話の中には込められていると思います。

それにしても「戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」とありますが、その通り戦線はどんどん拡がり、遠くはオーストリアやアリューシャン、シベリア、インドまで…。

仮に“自存自衛の戦い”だったとしても、よくこれだけ戦線を拡大したものだと思わされます。

伸びきった戦線は最後には維持できなくなり、縮小さえままならず、軍人のみならず民間人まで置き去り、玉砕が当たり前になっていきます。そして、「一億一人となるを敢然戦ふべきは当然なり」と「一億玉砕」が叫ばれ始めるときには、「大東亜新秩序建設」ではなく「死中に活を求める」なんてものでもなくなっていました。

開戦当初、表向きでは「大東亜新秩序建設を目的」としていましたが、開戦ギリギリまで政府首脳の中で言われていた戦争の目的は「死中に活を求める戦争」であるとか「戦わなくても負けてしまうよりは、戦って負ける(全滅する)ほうが良い」でした。本当にそうだったのかは検証すべき課題であると思います。今、私もあなたもこうして生まれてすらいなかったのかもしれないのですから…。

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2009年11月25日(水) 14時10分34秒

色分けのない世界へ

テーマ:埋もれた歴史
今から4年前の8月14日、長野県上田市にある「無言館」という美術館に仕事の下見で行くことになりました。上信越自動車道上田菅平インター出口から30分ほどナビの指示に従って走ると、中世ヨーロッパの修道院のような建物が姿を現します。これが無言館。無言館には、志半ばで、戦場に散った画学生たちの遺作が展示されています。

当日は、30度を越える厳しい夏の日で、蝉の声だけが響いていました。中に入るとひっそりとした空間に、多くの作品が展示されていました。「無言館」とは館主の窪島誠一郎さんが「その前に立つ人々は無言を強いられる」という意味で命名されたそうです。更に窪島さんは読売新聞の取材に答え、「無言でいると自分と向き合うことができるんです」と話しています。

2005年、そんな無言館の慰霊碑「記憶のパレット」に真っ赤なペンキがぶちまかれるという事件(http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/kikaku/067/3.htm)が起こります。ひょっとすれば、その戦争に抗議する姿勢から、「こんな施設はアカだ」とでも抗議したかったのかもしれません。「アカ」⇒「共産主義」⇒「反戦」という主張だとすれば、それはそれこそ大間違いです。共産主義国の旗が赤いのは「共産主義革命で散った人たちの血の色」だと言われます。「彼らが血を流したことを忘れないという決意の色だ」と聞いたことがあります。共産主義の中での「赤」は「戦いの勝利を意味するもの」であり、戦争に抗議をする意味は持ち合わせていません。

それでは「赤」に対応する言葉は何でしょうか?

運動会では「白」か。これは源平合戦の名残だとか…。

軍事演習では「青」です。どこの軍隊でも味方=青、敵=赤となります。

学生運動のヘルメットの色で言えば「黒」かな?「青」って言う団体もあったっけ。

学生運動時、所謂「赤ヘル」と「黒ヘル」、そして「青ヘルなどに分かれていましたが、共産主義が赤を使うのに対し、アナキストやノンセクト、民族派右翼の団体は「黒」を好んで使っていたそうです。新左翼は「青」なんだそうです。赤か黒か青かで分かれて争っているのであれば、それ以外の色は?赤と黒と青しかない世界は、なんとなくおどろおどろしい様な気がします。色はたくさんあったほうがよろしい!

時に、芸術や学問は役立たずとされる時代があります。ここに遺作を収める画学生たちは、「創作家としての生き方」を否定され、「破壊者としての死に方」を強いられたのです。「芸術家として戦災で」ではなく、「兵士として戦争で」死んでいったのです。

彼らの作品を見るうち、戦争とは「生き方」でなく「死に方」を強制する愚かしい行為であることを知らされた思いがしました。「死ぬこと」に意味を見出す時代は自由な芸術や学問を否定し、芸術では秩序を求めます。また、それ以外の芸術の破壊を奨励します。そして、ナチスドイツなどを始めとし、戦中の国家は押しなべてそんな風潮を持ちました。血の色まで問題にされ、それに変化がないと血液の型までがその対象とされていくまで続きました。

戦中ならいざ知らず、第二次世界大戦後もそんな発想は根深く残りました。中国の文革然り、ソ連の幾度かの粛清然り、アメリカを始めとした資本主義国のレッドパージ(赤狩り)然りです。そして、その共産主義は、芸術や宗教、自由な生き方を保障しないために行き詰まり、瓦解したのです。国家が一つの色を求め始めるとき、そこに住む人々は、企画化された生き方をせざるを得なくなります。

しかし、人間はみんな違うから人間なのではないでしょうか?

「みんな違ってみんないい」と金子みすずは歌いましたが、なぜかそうはなりません。「平均」が優秀な人間でないことは皆さんよくよくご存知のことです。

しかし、平均が優秀になる手段があります。それは、平均という数の多さに依り頼むこと。多数決には、必ず平均が反映されるからです。平均を標準化すれば平均にある人々は常に勝者となることができるからです。

しかしその一方で、その平均を標準と信じ込もうとする人間の弱さもあります。それは、今の国会を見ればわかります。数の多さだけを笠に着て、数の多さに心を砕いた成れの果てが、同じ国民を「売国奴」とか「敵」呼ばわりして、個では動けなくなっている人たちの多いこと多いこと。

数色の色に分け、グループに分けることは人間それぞれの意思が薄弱なとき百害あって一理なしです。だからこそ、私たちはいろいろな人の声を聞き、また、考え、学ばなければならないのだと思っています。

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2009年08月14日(金) 16時11分35秒

ポツダム宣言受諾

テーマ:埋もれた歴史
1945年8月14日、大日本帝国はとても大きな決定をします。それが、ポツダム宣言の受諾を御前会議で決定した日です。

そのポツダム宣言の受諾は、しかしすんなりは行きませんでした。


8月6日に広島市、3日後の9日には長崎市への原子爆弾投下が米国によって行われ、同日日ソ中立条約を結んでいたソ連の対日参戦により満州国への侵攻が始ったことにより、衝撃を受けた日本の戦争指導者たちは8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、8月10日に連合国に打電したという経緯があります。

しかしながら、物事はそんなにすんなり行きませんでした。天皇の命令で改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定されて詔勅が発せられたのがこの14日。それを受け、加瀬俊一在スイス公使を通じて、ポツダム宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国に伝えられた日でもあります。

1945年8月14日よりの一夜、日本では、様々なことが起こります。その最も大きな事件が、宮城事件といわれるもので、戦争継続のためのクーデーターが実施され皇居やNHKが占拠されます。

そんないろんなことがありながら、日本の敗戦は確定されていきました。

戦争をはじめるのは簡単なことですが、戦争を終わらせるのは難しいことなのです。

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2009年07月22日(水) 12時15分40秒

日食と政変?

テーマ:埋もれた歴史
日食…もともとは日蝕と書くらしい。

1987年に金環日食が沖縄で観測されて以来、皆既日食で言えば、1963年以来の出来事ですから日本中がヒートアップするのも止む無しかな。

それにしても、昔長い間日食は、不吉な予兆だと考えられていたそうです。

wikipediaフリー百科事典の「日食」によれば、

「古代において、日食は重大な関心を持たれていた。『晋書』天文志では、太陽を君主の象徴として、日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており、予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。
このため、日本の朝廷でも、持統天皇の時代以後に暦博士が日食の予定日を計算し、天文博士がこれを観測して密奏を行う規則が成立した。養老律令の儀制令・延喜式陰陽寮式には、暦博士が毎年1月1日に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに中務省に報告して、当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。」

「日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、臣下によって国が滅ぼされる前兆」と受け止められているのは判りますが、「あらかじめ日食を予測してこれに備える」ことを古代からしていたというのも驚きです。日食が何で起こるかは知っていますが、どのように予測するのかを聞かれてしまえば、多くの人は戸惑うはずです。

日食をぴたりと予測することが大切だったので、精度の高い暦を持つと言うことが、国にとってはとても大切に考えられていました。ですから、昔は「暦を制するものは国を制す」というような考え方がありました。現代ではコンピューターも取り入れられ、日食、月食、星食などの様々な食(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F_(%E5%A4%A9%E6%96%87))が予測されています。

今後予測される日食は「最低でも年に2回、最多で5回生じる年もあり、21世紀の100年間では合計224回である」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%A3%9F)とwikipediaフリー百科事典にはありました。

さて、昨日、麻生総理大臣が衆議院の解散しましたが、これって偶然?それとも絡めてる?…なんとも微妙な感じがします。


それにしても、なぜ議会を解散すると「万歳」が起こるのでしょう?

調べてみると「質問なるほドリ:衆院が解散されると議員はなぜ万歳するの?」(http://mainichi.jp/select/wadai/naruhodori/news/20090722ddm003070122000c.html)というのがありました。「詔勅に対する敬意」「天皇に対する敬意」など諸説紛々あるそうですが、「慣例だから」という理由でやっているという人たちが大半ではないかとこの記事では紹介しています。更に、「『議員をクビになったのにばかばかしくて万歳なんかやっていられない』という議員も増えています。今回の『万歳』で、自民党の首相経験者が起立しただけで万歳しなかったのが印象的です。一方、民主党議員の万歳は『政権交代』を目指し高揚しているためか、力がこもっていましたが、鳩山由紀夫代表、岡田克也幹事長は万歳しませんでした。民主党が衆院選で既に勝利したかのような浮ついた雰囲気を避けたのかもしれませんね。なお、議場上の傍聴席から傍聴者が議員と同じように万歳すると、規則で退場させられます。」

ふ~む。いろんな思いがこもった「万歳」であることは間違いないようです。





ちなみに次回の日食は期待できますよ。
wikipediaフリー百科事典によれば、

「 2012年5月21日 金環食。見ることのできる地域は、「日本ではトカラ列島、屋久島、種子島、九州地方の一部、四国地方の一部、近畿地方南部、中部地方南部、東海地方の大部分、関東地方の大部分、東北地方南部で観察可能。その他の地域では部分的に欠ける」

3年弱なら、何とかなるでしょう。(^^)/期待して待ちましょう。

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