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2014年11月10日(月) 09時30分48秒

偉くなると言う事

テーマ:教育
幼児期、お手伝いなんかをした後「偉い?」と聞いてくる子って結構多いものです。そこで「ああ、偉い偉い」と返すと、嬉しさにとろけそうな顔をします。

彼らの中では、「偉くなること」=「大人になること」という構図があるのが見て取れます。これは、上下の関係性の中に子供達が身を置いていると言う事を意味します。

その一方で、「偉い人」が「良い人」であるかどうか思慮を巡らす必要があるのが、大人の世界の悲しい現実です。

世の中には、「偉い人になりたい」という子供の願望を持ったまま大人になる人が多くいるようです。

子供の「偉い人になりたい」という願望は、「出来る事が多くなりたい」、「相手に喜んで貰いたい」という意味合いを含んでいるのに対し、大人の「偉くなりたい」というのは、「周りの人をこき使って、使って自分が何でもできるように見せたい」という願望に無意識の中で置き換えていることに気が付いていません。でも、そういう人は「偉い人」とは決して呼ばれないでしょう。

「偉い」という褒め言葉は結果論でしかありません。
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2013年02月03日(日) 07時44分50秒

人間とは何か

テーマ:教育
「私は褒められて伸びるタイプです」という言葉を最近よく耳にします。逆に「私はいじめられて伸びるタイプです」という言葉はほとんど聞きません。殴られて、貶されて上達するのと、褒められて上達するのだったら誰もが褒められる方を選ぶでしょう。保育の世界でも「子供を褒めて伸ばす」と言うことはもはや常識的な保育理論の根幹です。

2月2日、大阪市教育委員会が体罰を桑田真澄氏を招いての講演会で桑田氏が「スポーツマンシップとはどうあるべきかを話した」と説明。体罰について「ダメなものはダメで、論理なんていらない。仕返しをされない絶対服従の中で行われる。一番卑怯だ」と熱弁、それに耳を傾けた橋下徹市長は、「開眼させられた。暴力指導は兵隊養成だ。絶対根絶する」と語ったと報じられました。

体罰問題がクローズアップされている中で、巻き起こるのは、「どこまでが体罰なのか」とか、「じゃあこういうのはどうなんだ?」と論争です。こういう事を論じることは、結局、今までの教育方法の体罰の部分だけを変えようとしていることを示しています。

もし、現在までの教育に体罰というものが大きな意味合いを持っていたのであれば、その部分がゴソッと抜ける訳ですから、本来的には今までの教育方法は意味をなさないと言うことになりますから、体罰を日々の活動に取り入れている人々にとっては、この事柄が重要な部分になります。

つまり、従来の教育論はもはや受け入れられないのだと言うことでもあります。脅してやらせたとしても、それは教えられる本人にとって意味のないことだと言うことが明確化したと言うことに他なりません。ひいては、今までの効率管理主義教育の否定という所にまでたどり着きます。これは、学校制度そのものの崩壊を示しています。

もともと、指導者というのは、専門家と素人の間に立つ存在です。スポーツの世界で顕著ですが、トップレベルの選手が良き指導者になれるかというと、実はそうではありません。むしろ、現役時代に苦労した経験を持つ人たちが良き指導者となり、トップレベルの選手を育てている事実があります。教育とは、そもそも人間関係なのです。挫折を知っているからこそ、教え子の苦悩を知り、それを乗り越える手段を共に考えたり提示できるのです。教育というのは、教師が自分の失敗を後進に生かすことによって成し遂げられるべきものです。

昭和を代表する作家の石川達三が昭和51年『自分を誤解しない為に(暮しの手帖40号)』の中でこんなことを言っています。『若い人たちはよく、「生き甲斐がない」と言います。しかしそれは当たり前です。孤立した人には生き甲斐はない。生き甲斐とは人間関係です。人間関係という泥沼の中に埋もれて、その人肌の温かさによって生き甲斐を与えられるのです。』

凄い言葉だと思います。そして何よりも、現代という時代を見回して、「人間関係」以外のものに生き甲斐を目指している人たちがたくさんいることを思わされました。

「教師の生き甲斐」が「教え子の“実績”」になってしまっては居ないだろうかと言うことに思い至ります。良き師弟関係とは「良き人間関係」に由来するのです。教師としての適否は「人間関係を生き甲斐とすることが出来るか」という一点にかかってくるのです。力関係が人間関係だという事は思い違いであることをはっきりしなければならないのです。

人間関係とは、人間とは何かを知ることです。それは、十人十色であることを知ることです。人間は規格物=製品ではないことを知ることから、人間関係が始まるのです。


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2013年01月12日(土) 14時12分55秒

学校教育の崩壊。さらば「先生」…

テーマ:教育
「ゆとり教育」を批判する人たちには、二通りいます。

第一に、子供の可能性を引き出すことの出来る人たちにとって、ゆとり教育のカリキュラムはあまりに緩すぎると感じてしまう。

第二に、子供には強制をするべきだと考える人たちにとっては、カリキュラムがなくて、何をして良いか判らなくなってしまう。

どちらにしろ、ゆとり教育の本当の意味を受け止めることが出来ない人が多いのは確かです。

虐めや自殺の問題がクローズアップされ、その結果産まれてきたゆとり教育が、学力低下の声に押されて、撤回され、そしてまた、虐めや自殺がクローズアップされる…。

そもそも、「ゆとり」という名前が良くなかったのかも知れませんね。

構想段階の「経験重視型の教育方針」という風に言っていれば良かったのかも知れません。

しかしながら、この「経験重視型の教育方針」をどのようにカリキュラムに落とし込むかと言うことは結局教員の側の研究不足とパニックを露呈することにしか繋がりませんでした。

なぜか…。

それは、現在の教員が校長から新任の教師に至るまで、「詰め込み型の知識重視型の教育方針」しか体験していなかったからです。

詰め込み型の教育方針を否定されたショックから、「『子供の好きにさせろ』とでも言うのか」とヒステリックに言う人もいましたし、「こんな教科書、教科書とは呼べない」という人もいました。結局、玉石混淆の教師たちや、教育に携わる人たちは自分の力量がどこにあるかということを振り返ることなく批判を展開し、それを競争主義の受験産業が後押しした結果、「子供が勉強しないで良いのが『ゆとり教育』」という誤解を生んでしまいました。実力ある教師から指導力が奪われて、また、無能な教師の無責任が露呈した結果が現在です。

「教育とは2万%、強制です」「生まれたての赤ちゃんから大人になるまで、教育は強制そのもの。もちろん、子どもが成長するにつれ強制の度合いが弱まり、子どもの自立に軸足が移るでしょう。それでも教育の基本は強制。社会のルールを教えるというのは強制そのもの。」「場合によっては、子どもを脅してでも。まあ、この辺はあまり偉そうに言えません。」などとツイートしている橋本市長が先日起きた大阪の体罰自殺事件で、怒りをぶちまけていますが、彼が怒っているのは、体罰を否定しているのではなくて、契約関係にある生徒の死に対する現場の人たちの隠蔽、責任回避の姿勢に怒りを向けているだけです。

元プロ野球投手の桑田真澄さん(44)が「体罰は不要」と訴えています。
ここから===================

私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。

 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。

 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。(朝日新聞デジタル「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえhttp://www.asahi.com/national/update/0111/TKY201301110314.html)

ここまで===================

問題なのは、学力低下ではありません。教職員一人一人の現場力の低下なのです。

そして苦労しているのは教員ではなく、子供達なのです。

教師という名称は、カリキュラムを修了し、資格を取れば名乗ることが出来ます。

しかし、そこから、先生と呼ばれるようになるには、子供達の信頼を担うための自分の力量を常に高める努力が求められるのです。免許を持っているから先生なのでありません。

「ゆとり教育」が失敗したとするならば、その失敗の原因は、優秀な教師を無能な教師と並べてしまう仕組みを作ってしまったことです。本来は到達目標だけ示し、学校の教育方針にもっと自由度を持たせるべきだったのだと思います。

今度の教育制度改革が「脱ゆとり」という言葉でひっくくられた時、学校において大切なものがまた一つ置き忘れられ、魅力ある有能な先生が切り捨てられていくのでしょう。

学校が「純粋な学校」になる事はもうないのかも知れません。

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2012年11月04日(日) 07時50分06秒

取扱説明書を書いてみよう

テーマ:教育
中高生キャンプなどで、私が自己紹介の時間を担当する時に良くやるのが、「自分の取扱説明書」を書こう!ってやつです。

私達が製品を使う時には製造者の意図を汲み取って使う訳です。ガソリン車に軽油は入れないでしょうし、携帯電話をわざわざ水に漬けようとは思わないでしょう。しかし、その一方で、人間がお互いを見る時には、「人間という万能な画一性を持っている」と勝手に信じてしまうことが少なくありません。ですから、初対面同士であろうと、昔からの知り合いであろうと、こういうものを用意するのは、とても大切だと思っているのです。

私の場合、こんな感じです。

品名:千葉敦志 製造年月日:1970年9月5日 産地:宮城県

製品の特徴
1. 葬式、結婚式や教会などの運営をさせると結構役に立ちます。
2.喋ることが好きです。特に他の人が知らないような情報を仕入れると黙っていられなくなりますので、情報の与えすぎにはご注意下さい。
3.ひねくれている性格のためか少数派であることに誇りを持っています。適当に煽てると結構いろんな局面で役に立つ筈です。
4. 相手を恐れず意見を言うため、議論の時には注意が必要です。状況によっては誤作動を起こす場合があります。その場合は使用を速やかに停止し、再起動を試みて下さい。
5.事務仕事(経理、記録)に用いる仕様にはなっていません。正常な動作を保証できません。無理に引き受けさせればお互いに後悔することになります。
6.体質によっては、本製品の使用によってまれに、動悸や発汗などのアレルギー症状を起こす場合があります。その場合は使用を即座に中止して下さい。

なんて感じでやります。こんなのを見せてから参加者にやって貰うのですが、と、「機嫌が悪くなった時」の扱い方とか、自分の悪いところを克服してもらうための方法などが、おもしろおかしく書いてくれます。

そんな中で、一つ気が付くのは「私は褒められて伸びるタイプです」と言う人が必ず何人か居ることです。最初の内はあまり気にしなかったのですが、その逆は一人も居ないことにある時気が付きました。「貶されて(「けなされて」とはこういう漢字だったんですねえ、知らなかった)伸びるタイプ」なんて、居る訳はないんだということ…。

振り返って考えてみると「貶す」というのは、「結局は相手より自分が出来る事を誇りたい」という事から来るのでしょうね。それから、もう一つは悪いところを克服して貰うには、一発で事が足りると貶す側が信じているのは問題だなあと思う訳です。

私にも、得意なことがある一方で、壊滅的に出来ない事があります。それを日常生活で知って貰うのはとても大変です。「みんなやっているのだからあなたにも出来るはずだ」と言われてさせられることは、誰だって苦痛でしょう。結果、本人に仕事を任せた人たちに大きな不利益をもたらすとすれば、生産的なものとは言えない訳です。

だったら、長所を認め、出来る事を褒めて伸ばし、そしてお互いのために用いて言う方がよっぽど効率的です。

「お買い上げいただきありがとうございます。この取扱説明書をよくお読みになって正しい方法でご使用頂き、本製品を末永くご愛用下さい。」

こんな文章で始まる取扱説明書。

「こんな事もできないで!!」と製品に対して怒る人は居ないでしょう。むしろ、愛用品と呼べるものは、手間がかかったり独創的だったりするものが多いのではないでしょうか?

その人を知る、私を知って貰う…そういう中で、私達はなお深い関係を結ぶことができるでしょうし、豊かな世界を形作っていけると思うのです。



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2012年10月20日(土) 17時10分35秒

子離れ

テーマ:教育
虐待なんかで耳にする話に、「暴力」ではない「躾け」だというものがあります。暴力を振るう親には、親の理屈があるのだということを言いたいのでしょう。虐待とは暴力を伴った愛情表現なのだと言いたいのでしょう。

しかし………

「『厳しい躾』が子供の心を開く」という理解が親の側に生まれているケースがほとんどなのです。結果、子供が従ったにしろ反発したにしろ、どちらにしても暴力がエスカレートしていきます。親は愛情を示すつもりで「厳しい躾」を継続し、その結果に満足できなくなると更に「厳しさ」をエスカレートさせていきます。例え、エスカレートして子供が病院に搬送されたり、例えそれが原因で子供が死んだとしても、その愛情形成の方に依存していますから、「良い子だった」と涙も流せますし、その一方で「暴力ではなく躾だった」と不可抗力であったように物事を語ります。

ですから、虐待が子供の傷などから表出し、児童相談所などが保護に乗り出すと、親はどうしてよいか判らなくなります。依存していた子供に依存できなくなった…。その事で、取り乱しますから、何とかして子供を児童相談所から、一刻も早く取り返さなければならないとあせり、パニックになります。反省を口にする一方で、「子供は自分の元に戻りたがっているはずだ」、「誰かが子供を返すことに反対している」、「子供を説得して欲しい」と支離滅裂な思考になります。

このパターンには、一種の禁断症状が見て取れます。つまり、親の側には暴力を挟んだ愛情形成に依存しているということになります。こうなってしまうと、虐待の定義を納得させることも困難になってしまいます。そして、何よりも厄介なのは、曲がりなりにも子供を愛していること、それが物事をいっそう困難にします。

無論、子供にとって家族と共に居るのは一番いいことです。でも、親が自律できていることが大前提です。親が子供の存在に依存してしまえば、それは幸せではありません。もし親が薬物依存だったら、ギャンブル依存だったら子供は幸せではないように…。

「子供は授かりもの」、「いつかは神様にお返しするもの」、「子供は親のものじゃない」

そういう言葉を聞いたことがあります。

愛情は注ぐものであり、結果を求めるものではないのです。


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2012年10月07日(日) 09時27分16秒

君は本当はいい子なんだよ

テーマ:教育
「窓ぎわのトットちゃん」(黒柳徹子著)の冒頭、主人公の「トットちゃん」が最初に入学した小学校で「教室の机のふたが珍しくて授業中何度もパタパタ開け閉めしたり、パタパタやってないと思ったら窓ぎわでチンドン屋さんを待っていたり、日本の国旗を画用紙に描く授業では軍艦旗に黄色い房をクレヨンで描いて机に跡が残ってしまったり、本人は好奇心旺盛なのだが先生からは迷惑がられてしまい、とうとう小学1年にして退学させられる」と言う記載があります。そんな彼女に転校した私立小学校の校長先生がかけてくれた言葉「君は、本当は、いい子なんだよ」でした。

国立音楽大学附属高校在学中、“ナヨナヨした動作”で同級生から馬鹿にされ、すっかり自信を無くしていた美輪明宏さんがリトミックの授業で「君は、すばらしい芸術家になれる」と言う言葉を掛けた先生が居ました。

その人物は小林宗作という、同じ人物です。「窓ぎわのトットちゃん」には、小林宗作の行っていたユニークな教育方法が当時の生徒の目から余すことなく語られていますが、この様な学校を作ることができたのはどうしてなのかを探ってみれば、彼は1923年にスイス、フランス、ドイツ、イタリア、イギリスに、更に7年後の1930年に再び渡欧し、リトミックという教育法を研究し、1937年「リトミックによる創造教育」を取り入れたトモエ学園を創設。その頃に黒柳徹子さんが入学したと言うことになります。同級生には、山内泰二という有名な物理学者もいたそうです。

黒柳徹子さん、美輪明宏さんに掛けた小林宗作の言葉に共通しているのは「生徒の本質を保障する」事にありました。そして、その子に合わせ、共に歩む姿勢を大切にして行きたいという願いは、彼が最も得意な音楽を用いたリトミックを取り入れた教育というものを通して、花開いたのだと思います。

黒柳徹子さんは近年「小さいときから考えてきたこと」(新潮社、2004年)の中で、台本を読んでも台詞が覚えられないなど、具体的なエピソードを交えて、自身がLDの計算障害・読書障害である可能性に言及していますし、先日、映画監督のスティーブン・スピルバーグや俳優のトム・クルーズが学習障害の一種であるディスレクシアであることを公表しています。

子供達には、様々な可能性が内包する一方で、関わる教師が気が付かなければ、「できない子」、「ダメな子」、「気持ち悪い」などの外的な評価によって、潰されていくということを意味しています。多くの人々が、教育を語る時、何を教えるのか、どうしたら成績が良くなるのかという問題で語ろうとしますが、その中では、一番大切な部分は常に抜け落ちています。それが、その子のありのままを受け入れる姿勢であることはいつの時代にあっても指摘されていますが、論議の中心に据えられることが無かったのも事実です。

日本においては、小学校入学以降の児童福祉の機能、観点が決定的に不足しています。目に見える身体的な障害のみならず、広汎性発達障害や学習障害などの問題の周知と対応の具体化は急務ですし、また、その一方で子どもの育ちを保障する環境の構築などは、未だに未整備の部分が多いのが実情です。

教育の本質は、生徒の可能性を信じることから始まります。そして、その教育という業に携わる人は、常に生徒が内包している総ての可能性に謙虚でありつづけなければなりません。
 小林宗作の様に「君には可能性が眠ってるんだよ」と語り続けることこそ、教育の一番大切な部分と言うことができます。

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2012年08月13日(月) 18時43分47秒

社会がいじめを作る

テーマ:教育
タレントであり、魚類学者である「さかなクン」。2006年12月2日朝日新聞に掲載された彼の文章が目に止まりました。「広い海へ出てみよう」http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.htmlという題の文章です。その中にこんな一文がありました。

(前略)
>たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでい
>ます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、
>1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始め
>たのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを
>別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別
>の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また
>次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を
>水槽から出しても新たないじめっ子があらわれま
>す。

>広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世
>界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。
>同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同
>士です。
(後略)

「いじめ」の原因は、何かというと「小さな世界に閉じ込め」られることだと言うのです。人間も同じです。でも、「小さな世界」とは、教室が狭いとかいう話ではありません。小さな世界とは、精神的な広がりを持つかどうかと言うことで判断されるべきです。

例えば、勉強をしなければいけない理由を、どういう風に言いますか?

他の子供と比べたり、順位ばかりにその理由が理解されれば、そういう狭い精神的な世界観で生きざるを得なくなります。すると、その途端にいじめが始まるのです。いじめは子供達をそういう「狭い精神的な世界観」に閉じ込めてしまうことによって始まるのです。

いじめが起こる環境を考えてみればよく判ります。厳しいヒエラルキー(序列)が存在する世界、また、特定の能力差を強調するような、単一の価値観を重視する世界などでいじめは好発します。

そんな「小さな世界」から「広い海へ出てみよう」とさかなクンは私たちを誘います。

「広い海」って一体何でしょう。

一度、考えてみる価値のある問いだと思います。

保育では、環境構成と言う言葉が使われます。子供達が精神的な広がりを実感できる環境を提供する事が保育では重視されるのです。興味を持った遊びを没頭できる環境、また、たくさんの関わりの中で協力することが出来る環境などを構成していくことがとても大事だと考えるのです。だからこそ、環境構成とは、人間関係がどのように構築されるかについても注意を払わなければならず、保育に関わる者は、園児に対する「声掛け」の内容の質まで問われるのです。

誰もがいじめを否定しつつ、それを出来ない理由は、社会そのものにあります。相手を認める事が出来ない風潮、この中でいじめに至る心理は熟成されていきます。私たちが小さな世界で満足してしまう時、私たちは知らず知らずにその世界の中でいじめを行ってしまうのです。


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2012年04月12日(木) 10時42分10秒

Teacher(先生) アン・サリバン …その2

テーマ:教育
昨日ご紹介した、アン・サリバンのこと、私自身も興味を持って調べてみました。調べてみれば、アン・サリバン自身も奇跡的な人生を歩んだ人でした。

アン・サリバンは、1866年4月14日にマサチューセッツ州で生まれたそうです。アイルランド移民の農民の家庭に生まれたアンは、3歳の時、目の病気トラコーマを患い、9歳のとき母親が亡くなると言う体験をします。その後、、結核によって身体が不自由になった弟のジミーとチュークスバリー救貧院へ移り住みますが、弟はすぐに亡くなり、アン自身も目の病気の悪化によって盲目となるというとても苛烈な体験をしています。

母と、それに続く弟の死、そして自分が盲目になるという体験は、9歳のアンを鬱に追い込みました。一切の食事を拒んだアンは、救貧院の職員もが諦める様な状態であったと伝えられています。しかし、その一方で、一人の職員が暇を見つけては、彼女のところに行き、聖書を読み、祈りを捧げ続けた結果、彼女は心を再び開き始めたとされます。

アンはその後、貧院の状態を調査するために訪れたマサチューセッツ州の慈善委員会の委員たちの方へ走り寄り、「わたし、学校へ行きたい!」と叫びました。その願いが聞き届けられ、14歳のときに、マサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校に入学します。在学期間は、訓練と数度の手術を受け、、ある程度視力を回復し、1886年には、アンは卒業生総代としてスピーチを行いました。

その頃、ヘレンの両親アーサー・ケラーとケイト・ケラーは聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、ヘレンに対する教育の相談をしています。そして、ベルの紹介でマサチューセッツ州のウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請し、3月3日に派遣されてきたのが、同学校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリバンだったのです。彼女に提示された条件は「家族同様に扱い、月給25ドル支払う」で、結構良い条件だったと言われます。

アンは着任当初から「この仕事に心をこめて献身しよう」と、彼女は自分が心を開いた経験から、信仰と愛をもってヘレンを育てようと心に決めていたのです。それは、着任早々から始まりました。そして、彼女は迷うことなく信念を持ってヘレンに接していきます。

ある時にはケラー家の人々と衝突しながらも、ヘレンにとって大切だと思うことは一つ一つ実行していきました。そして、それはヘレンの内に秘められていた知的欲求を具体化し、開花させます。

「ある新しい明るい表情が顔に浮かびました。彼女は何度も「water」と綴りました。それから、地面にしゃがみこみその名前をたずね、ポンプやぶどう棚を指さし、そして突然ふり返って私の名前をたずねたのです。私は「Teacher」と綴りました。」

自分のことを「アン」でもなく、「サリバン」でもなく、「先生」と答えた彼女の思いはどのようなものだったのだろうかと思いを巡らせます。後にヘレンは「私の誕生日は1880年6月27日ではなくて、私の生活の中にアン・サリバンが入ってきた1887年3月3日です。」と語っているほどです。

「先生」とは何か。

この二人の関係にヒントがあります。

アン・サリバンは言います。

「私たちがいわゆる初歩というものを子供たちに注ぎ込もうとし続ける限り、子供たちの高い能力を正しく開発させることは決してないでしょう。

はじめの間は、子供たちが自然の中に大きな喜びを見出すように指導しましょう。

子供たちを野にかけさせ、動物について学ばせ、真実を観察させましょう。

子供たちは、正しい状況のもとでは自分自身を教育するのであります。

子供たちは教授よりも指導と思いやりをより多く求めているのです。」


先生としての仕事とは、子供の信頼に完璧に応え、子供達を助け、支える存在だと私は思います。信頼され、気づきを与え、考える力を養うこと。それに尽きるのです。


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2012年04月11日(水) 16時43分37秒

奇跡の人 アン・サリバン その1

テーマ:教育
「奇跡の人」という劇をご覧になった人も多いと思います。この「奇跡の人」という言葉からヘレン・ケラーを思い出す人も多いかも知れません。

でも、この「奇跡の人」の原題は「the Miracle Worker」…直訳すると「奇跡の働き手」です。つまり、ヘレン・ケラーを指しているわけではありません。そうではなく、ヘレン・ケラーの家庭教師アン・サリバンの事を指しているのです。生後19ヶ月で聴力、視力、言葉を失ったヘレン・ケラーは、アン・サリバンの力を借りて、目、耳、声の三重の身体障害を克服したのですが、そのこと自体が奇跡だと称えられたわけです。そして、サリバンの業績自体が奇跡であるということから、「the Miracle Worker」と呼ばれる様になったわけです。

そんなこんなで、サリバン先生なんて呼ばれて、あの偉大な業績を上げたくらいですから、アン・サリバンは中年くらいの手練れの教育者だったのだろうと勝手に思い込んでおりました。

じゃあ、一体どうだろうと調べてみれば、左の少女が7歳のヘレン・ケラー、右の女性がアン・サリバンです。家庭教師として着任した頃の写真のようです。

$ある教会の牧師室-ヘレンとアン

写真を見れば、とても若い…。アン・サリバンはなんと、この時、20歳だそうです。パーキンス盲学校を卒業する時には総代としてスピーチをするほど優秀な学生だったようですが、新卒でヘレン・ケラーの家庭教師となったわけです。

目も見えず、耳も聞こえないそんな少女に言葉を教えるという大仕事を20歳のアン・サリバンはやってのけたって言うことです。これだけでも驚異的(miracle)です。その後、アンはヘレンの講演旅行などにも同行したり、ヘレンと一心同体の様に歩み、1936年10月20日亡くなったそうです。その直前、アンは自分が病床にあると言う理由で岩橋武夫の来日要請を躊躇していたヘレンに「日本に行っておあげなさい」と遺言したそうです。

教育家としての働きは、ヘレン・ケラーを支えるためだけの歩みであったかも知れません。しかし、その奇跡的な働きはヘレン・ケラーを通じて世界中のたくさんの人々の心を動かし、また、生きる力の源として用いられたと言うことができます。

アン・サリバンはこんな言葉を残しています。

「喜びは、自分を忘れる事にあるのよ。」


「人の唇から漏れる微笑みを、自分の幸せと感じられる人間に私はなりたい。」


「どんなささやかな成功も、他人の目には触れない挫折や苦難の道を、経ているものなの。」





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2011年12月14日(水) 11時05分46秒

教育は“気付き”です

テーマ:教育
橋本徹元大阪府知事は「教育は2万パーセント強制です。」と断言しました。「挨拶をしなかった子供に挨拶をさせた」のを例に出し「教育とは強制だ」と説明しています。でも、7人のお子さんがおられる橋本知事だって、お子さんにやってきたのは、強制ではなかったはずで、気付きを促していたのではないでしょうか。それを「強制」だと勘違いしているのか、もしくは「摩り替えている」のでしょう。

強制で出来ることなんて高が知れている。

保育園の園長として関わっている私に言わせていただければ、彼の主張は「2万パーセント誤り」だと断言できる。

「ほっといたら、挨拶だってできません。おしっこだって、その辺でし放題。ご飯を食べるときには肘を付く。今の世の中のルールって、全て人間の本能ではできないことばかり。だから教えるしかないんです。場合によっては、子どもを脅してでも。まあ、この辺はあまり偉そうに言えません。」t_ishin 2011/06/12 13:38:50

とは、子供を知らない意見だとしか思えない。

強制で幼児に何かさせることが出来ると思っているならやってみるが良い。出来るわけがない。幼児相手に「脅したからって」何を教えられるでしょう。やれるものならやって御覧なさい。

そもそも「強制する教育」とか「脅す教育」ってどうやるんだろう?って思うのです。まさか、教師が要求するレベルまで殴り続け、罵倒し続けるべきだと言っている訳でもないと思うのですが、こういう主張って、他人の子に対する要望の場合がほとんどです。

こんなことを主張する橋本前知事始め、この主張を支持する方々は、お子さんにおしっこの仕方を殴りながら教えたのですか?挨拶を脅しながら教えたのですか?保育園や幼稚園に預けた時にはそう望んだのですか?

乳幼児の姿からは、彼等の身体にやる気があふれていることが感じ取れます。成長したいというモチベーションに溢れています。そして、その根源は、一人では生きていけないと彼らが知っていることろに存在するのです。

挨拶だって、何だって、乳児は嬉しいからするのです。母親から始まりたくさんの人との関係を通し、その関係が通じることを喜ぶのが幼児のモチベーションです。おしっこだって気持ち悪さを覚えて、だんだんに訴えるようになるのであって、保育園で強制しているからトイレでするようになるのではありません。

要は、その子のモチベーションに最も適した状態で“気付き”を促したり示すのが教育です。3歳にもなると字を書ける子も出てきます。彼らは何も強制されたわけではありません。思いを伝えたいためにひらがな表と首っ引きで字を書いた手紙を持ってきたりするのです。

「あの子が3歳で字をかけたんだったら、お前も書ける筈だ。書きなさい。」

そんなことを言えるでしょうか。どう脅すのでしょう。

「今、字をかけなかったら将来どうしようもない大人に成ってしまうよ」とでも言うのでしょうか?

教育とは子供達の中にあるモチベーションに気付き、またそれを保障することです。

豊かなモチベーションを保障された環境にある子供達の実力は凄いものです。常人がどんなに頑張っても敵わない才能を開花させます。

その才能を正しい方向に向けるモチベーションはどこに存在するか…その子が受けた人との関わり…つまり、その子が受けた愛が、そのモチベーションになるのです。

要は、「教育強制論」を支持する方々が「虫唾が走る」と表現する愛そのものがなければ、教育どころか国家そのものが転覆するのです。

要は、「愛に気付き、気付かせること」が教育なのです。


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