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2017年11月05日(日) 08時49分27秒

教会と保育所と

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先日、幼稚園団体から「保育所から学ぶ」というテーマで話してほしいとのご要望を頂き、講演の準備をしている中でハタと気付いたのが、この教会を挟んだ幼稚園と保育所の関係は、いわゆる「伝道」と「宣教」に対応するのではないかということでした。

 

教会が主の愛を伝える教育に専念してきた歴史は様々な教会史の中でも語られていますが、その一方で、万人愛に立脚した主の御業の実践については、実は体系立った研究はあまり積極的に展開されて来なかったような印象を私は持っています。

 

それは、それぞれの歴史の長短も大きく関係しているでしょう。日本最古の幼稚園は130年あまりの歴史を数える一方で、保育所は戦後というほぼ現代史に於いてのみ語られる場合が少なくありません。また、幼稚園が教会の次世代育成を主体的に担ってきたと評価される一方で、保育所は教会が行う幼児伝道の副次的な事業としてしか見られて来なかったように思います。

 

幼稚園が教育をうたうことができる一方で、保育所は行政の措置を執行する機関という位置付けを与えられたに過ぎなかったわけで、保育所が教会の主体的な技だと捉えられなかったのは、必然だったのかも知れません。

 

斯くして、幼稚園と保育所は教会を挟んでその対照的な位置関係から、互いに対する誤解を解く術さえなく、ただただ表面的なことばかりを批判し合うという悲劇的な現代を迎えるに至ったのだと思っています。

 

しかし、社会福祉的な目線で考えた時、教会の思想の体現をしていったのは、保育所であったということは否定のしようがない事実です。現に、家庭や地域などの様々な事情の中で幼稚園には入れないお子さんを受け入れているわけですし、幼稚園どころか他の保育所からも受け入れてもらえない障害や慢性疾患を持っているお子さんたちを受け入れることは、キリスト教主義保育所の使命だと思って歩んでまいりました。事実、木造保育所はこれまでも障害を持っておられるお子さんを受け入れてきましたし、今は一型糖尿病のお子さんを受け入れています。さらに木造保育所では卒園児の支援を付帯の訪問看護ステーションなどと連携して行っています。


特にこれから先のことで考えれば、圧倒的な少子化の中で、保育所がその立ち位置を大きく変貌させて行かざるを得ないことです。特にこれから先のことで考えれば、圧倒的な少子化の中で、保育所がその立ち位置を大きく変貌させて行かざるを得ないと思います。

 

次期の子ども子育て支援五カ年計画は、フィンランドのネウボラという制度などを手本に総合こども園への展開などが予測されています。保育所はこれから大きく変貌していくでしょう。そして、それを支える教会が問われることは子ども子育て支援のどの部分をどの様に担うかということです。その意味で、教会と保育所はもっと手を取り合うべきであろうと思います。主体を奪い合うのではなく、責任を押し付け合うのでもなく、地域の人々と一緒に支えることが私たちの未来に期待されていることだろうと思います。


「ふつう」「くらし」「しあわせ」の頭文字を合わせて福祉なのだと教えられたことがあります。この日本にも、学校に行けない子がいます。夏休みに痩せる子がいます。親の愛を知らない子がいます。そして、その子達のために私達がいる、保育所はそう思ってこれらの業務に専念してきましたし、用いられることを願っています。そのためにお役に立てることであれば、大いに使っていただきたいと願ってきました。


そして何よりも地域の人たちが暮らしの中で幸せを実感していただけることが教会の宣教の業として、今まで保育所を導いてきたのだと感謝しています。教会だけではなく、地域の人々とともに形作られるこの業に、主の救いは豊かに示されていると信じています。

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2017年10月08日(日) 08時27分18秒

Jアラートを耳にして

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例えば、園児たちを連れての散歩中にJアラートが鳴ったとする。悠然と散歩を続けていたらどうなるか。ネットなどで袋叩きにあうかもしれない。じゃあ逆に、近くの建物などに駆け込んだり、その場に伏せたりしゃがみ込んだりして「落下地点が特定され、危険がないとの情報があるまでは、最寄りの避難所に留まる」べきなのだろうか。駆け込んだりして怪我をしたり、伏せたりしゃがみ込んでいる間に車に轢かれたりしないか。だとすれば、車も即座に路肩に停車し、安全が確認されるまで動けないとしなければ、逆に避難・防御行動をとったほうが危険である。


 例えば、職員の早番職員の通勤時間帯にJアラートが鳴ったとする。職員の避難行動によって、保育所を定時に開けられなくなったとするとそれは、認められることなのか。「落下地点が特定され、危険がないとの情報があるまでは」と施設の閉鎖を決め込み、園児を自宅待機とするべきなのか。

 

 例えば、登下校時間帯にJアラートが鳴ったとする。「子供達は避難行動をとるように努めるとともに、周囲の大人の誘導に従う」と教えられている。しかし、その場に居合わせた「周囲の大人」が本当に彼らを誘導できるのか、また、その誘導に従うべきなのかどうかは大きな問題である。そのゆえに事故が起こった場合に、「その場に居合わせた」だけの大人が責任を負わされるのは、酷ではないか。

 

 例えば、道ゆく人々はJアラートの音を聞きつけた時に、最寄りの建物であれば、一般家庭であっても助けを求めて飛び込むのは有りや、無しや。しかし、本当に危機的な状況であれば助けを求めて飛び込んでくる人々を受け入れる義務が家主に発生せざるを得ないだろう。Jアラートが鳴ったことを受け、私は保育所に直行し保育所を解放した。それが準公共事業を担う施設の義務だと思っているからである。しかし、有事というのは、こう言うことが日常茶飯事で起こる状態のことを言う。Jアラートは、国民保護情報である。定められた行動を取らなければ、命を失っても文句は言えないというものであろう。しかし、定められた行動はあやふやである。

 

 Jアラートは「ミサイル発射。今すぐ、近くの頑丈な建物や地下(地下街や地下駅舎などの地下施設)に避難して下さい。 」と警告する。しかし、世の中は、そんなことは構っていられない。それは日本が現在、有事ではなく日常だからだ。

 

 もし、その状態を平和ボケというならJアラートが鳴った時に車を走らせている「一般人」は厳しく罰を受けるべきだし、その時点で自宅にいる人々は自宅待機が義務になるし、外にいる人たちに対する保護責任は、地域全体の連帯責任を求めなければいけなくなってしまうだろう。果たして、それを求められる覚悟を持って、今の状態を「平和ボケ」と表現する人が何人いるのだろうか?

 

 相手を自分より劣等だと見做すようになると人間は、残虐性を発揮する。先日もたった一人で数百人を死傷させた事件が、護身用の銃を持つことを許されているアメリカで起こった。強力な兵器や軍隊を持てば、犯罪や殺人や戦争を抑止できるという考えの方がよっぽど平和ボケだと思う。安部首相が一時期好んで使った、「積極的平和主義」は国連の議題の中の最重要課題であって、それは「戦争の原因に成り得る全ての貧困や国際格差、差別など」や「資源の奪い合いなど」を解決していこうとする行動のことであって、軍事的恫喝や軍事的抑止を指すものではないことは以前にも指摘した。過去に人類を何十回も滅亡に追い込むほどの核兵器を積み上げてきた。 しかし、現代、技術は進歩し新しい世界が現出しようとしている。私たちがするべきことは、新しい時代に思いを馳せ、互いに思いやり、労わりあうことによってのみ平和が形作られることを何度でも再確認する事なのだ。

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2017年09月02日(土) 17時16分16秒

国が大人が義務を負うのが義務教育

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今の子供達の悲劇の根底には、義務教育が基本教育となっていない現実があると私は思っている。文字は知っている、計算はできる、歴史は知っている。でも、現代の複雑な仕組みを理解しようとしないし、できないと信じ込んでいるよう見える。そして、「(主体的に)生きること」を知らないし、そんなことしなくても生きていけると思い込んでいるように見える。

 

この国は、誇り高い国であろう。しかし、その誇り高さの反面、影に紛れた落とし穴はひっそりと獲物を狙って口を大きく開けている。


若者を破滅に追いやるのは、色々だ。様々な誘惑ばかりではない。借金、突然の災害や病気、事故、そして対人関係での悩み。最近では労務環境が槍玉に挙げられているのは新聞などで報じられる通りだ。いじめやハラスメントを苦にした自殺が後を絶たない。それらを避けることができたとしても、親や子供などの家族の介護だって同様だ。複雑で余裕のない現代においては、セーフティーネットや福祉リソースの利用が避けられない。しかし、現実は生存のための情報やリソースは日々高度化し、高尚化し続けている。

 

逆に言えば、泥臭さを忘れた生き様が賞賛される。何事にも理由が必要とされ、細かな約束に緩やかながらしっかりと縛り上げられ、大切な部分から目をそらされ続けながら人生を歩む子供達の姿はさしずめ、目隠しされ、手足を縛り上げられて綱渡りをさせられているように私には見える。一歩踏み外せば奈落の底に落ち込んでしまうことを知らずに、そして周囲に追われていることさえ知らずに生きている若者をよく見かける。自分の生存に関わる部分が脅かされていることも知らずに、更には自分の生活に当然のごとく存在する成病老死からさえも目をそらし、否定しながら生きている姿を垣間見る。

 

義務教育とは一体なんだろうか。成人になるまでに受けさせるべき教育のことだろう。成人とは成長期を終えた成体のことを言うのではないのだ。私たちは、小、中学校時代に一体彼らに何を望み・望まれ、何を教え・教えられて来たであろうかと痛切に反省しなければなるまい。


共に生きると言うことはどう言うことなのか、次の世代を育むと言うことはどう言うことなのか、そして自分はなぜ生きていくのかと言うことを考える機会はついぞ与え・与えられて来なかったのではないか。国を構成する一員として数えられるはずなのに、国が備えている福祉リソースやセーフティーネットなど存在はほとんど知らずに学校を終える。そして遠慮と思い込みだけで突っ走り、辿り着いたその先は破滅まであと一歩というところだったりする。

 

キリスト教に照らして考えれば、人間が生きるために必要なものをパウロは、信仰と希望と愛の三つだと言った。キリスト教の義務教育はこの三点を基礎とするはずだと私は思う。一人一人、それぞれが、自分が召された自覚、周囲の人と歩むべき生き様、そして、周囲の人との支え合いが、教育で伝えられなければいけないものの核心であるべきだと私は思っている。この世界で生きるための力をしっかりと養い、分かち合い、引き継いでいくことのできる存在をキリスト教では成人というのだ。これを一般的には全人教育という。

 

義務教育とは全人教育であるべきであったし、キリスト教主義は、この信仰と希望と愛をしっかりと伝え続けることなのだ。

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2017年08月06日(日) 09時22分47秒

光栄ある席?

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先日、東京出張の帰り、飛行機に乗ろうとしたら、座席に「非常口座席のお客様へ」と書かれたカードがついていました。

 

それがこれ。


 

非常口の前の座席に座った場合、緊急脱出時に乗務員の手助けをすることになっているので、協力してほしいという依頼文な訳ですが、この書き方がどうにも興味深い書き方でした。

一部を引用いたしますが、「迅速な脱出の援助をしていただくため、非常口座席に着席されるお客さまには、万一の場合、客室乗務員の指示のもと、緊急脱出時の援助をお願いいたします。なお、当てはまらない項目がある場合、非常口座席の着席ができません。」つまり、非常時には、乗務員の指示に従い、乗客の脱出を手助けすることが求められているわけです。ですから、荷物も足元には置けない、リクライニングやテーブルは使えないということになります。また、緊急脱出の時などは、他の乗客を静止したり、脱出を助ける義務を負うわけですから、その分、生存率も低くなるかもしれません。

普通に考えれば制約が多いわけですから、少しは見返りをつけても良さそうなもんですが、文章ではその逆で、「緊急脱出の援助を実施することに同意」しないとその座席には座らせることはできませんよというなんだか高飛車な感じの書き方で驚いたわけです。

 

どうしてこのような発想なのかと辿ってみれば、欧米流の考え方がその中心を占めているからだということができます。もともと旅客機の歴史は欧米で熟成されてきました。そして、欧米の考え方の中心にあるのは「市民」という考え方でした。この場合の市民とは、自治体のことではなく「主体的に政治や社会に参加する人」、「近代社会を構成する自立的個人」、「政治参加の主体となる者」という意味で使われます。憲法で保障される主権在民の「主権者」たる人々が市民です。「特別ではないが、知識や人格、力などを備え持ち、他の人々を助けることは自分の当然責務だと考えている人」のことを「市民」というわけで、「あなたは、尊敬されるべき人であり、そうだからこそこの席に座ることができるのです。そういう方でなければお座りいただけませんよ」というのが、このカードの考え方な訳です。

こう考えると、この席に座るのはなんとも誇らしい気持ちにもなれるから不思議なものです。

 

このような考え方は、教会の歴史とも重なります。なぜ、教会は今日まで存在してきたのでしょう。週に一度の休みに、献金を持って教会に集い、面白くもない説教を聞くっていう作業を毎週繰り返すことは、世の人々から見れば不思議なことでしょう。でも、教会は、2000年もの間、先達たちが「神の国」に国籍を持つ者、主の業を担うことを許されている光栄を想いながら歩んできた歴史でもあります。「主がご入用です」との言葉に衝き動かされ、見返りを求めずに主の業と信じる良き行いを当たり前のこととして行ってきたのではなかったでしょうか。

 

私たちには人に与えられた義務や責務とは別に、自らの命と直結する何かがあることを感じています。それに対して「何故?」と問いつつも、最後にはそれが志に変えられ使命とされて行くのであろうと思います。人々とともに平和を作り出すということは、武力によって押さえつける者ではないのです。一人一人に与えられた志や使命に基づいて手を取り合って行くことから平和は形作られて行くのです。

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2017年05月07日(日) 07時04分16秒

隣人のために身を削る

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 東京に行った折、知人たちと飲みに出て聞こえる他の席からの話は、東京の人たちが相当驕り高ぶっていると嘆きたくなるような内容ばかりです。でも一方で、彼らは自分たちが日本の中で勝ち組の地位にいて、地方を負け組にして踏みつけていることさえ自覚していないことも聞き取れます。そして、これは地方に至っても当てはまります。地方は同様に自分たちより田舎を踏みつけて行きます。負け組は頑張るのが当たり前。衰退しているのは、頑張りが足りないからだというわけです。


 日本の政策や経営はどれも、総花的です。そして中央と呼ばれる組織に属する人たちは、何事も努力と根性と気合があれば困難は乗り越えられると信じている。国際化、スポーツの振興、学力向上、技術の開発・獲得、食糧の自給、少子化の克服、高齢者の介護、防衛力の強化、福島第一原発の廃炉作業、そして更には膨大な国債の償還…。その総花主義は深刻な少子高齢化の中では、若者の生き方に総花主義を求め、文武両道、従順の代償が高給という形でまとめてしまった。でもその中でも、また勝ち組と負け組に細分化されて行行きます。
 内田樹神戸女学院大学名誉教授が神奈川新聞に寄稿した「『属国』直視から」の中で「日本ははっきりいって末期的である。これから急激な人口減局面を迎え、生産年齢人口が激減し、経済活動は活気を失い、国際社会におけるプレゼンスも衰える。日本はこれから長期にわたる『後退戦』を戦わなければならない。」とあります。


 保育業界に身を置いていると、この「後退戦」とは本当に骨の折れる仕事だとつくづく思わされます。まず全体にその危機感をもたらし、共有することがまずただ事ではありません。ある人たちは食うや食わずやの状況に追い込まれている一方で、ある人たちは優勢に戦いるわけだから。


 無論、どんな状態にしたって、食うや食わずやの悲壮な状況の中で戦わざるを得ない部分は必ず出るに違いない。好景気の時だって倒産する会社はあるわけだから。すると、「本当に撤退戦が必要なの?」という問いが出る。優勢な人たちからすれば「創意工夫が足りない」、「仕方がない」などの言葉が思い浮かぶ。その故に「足を引っ張るな」と感じてしまうでしょう。結果、勝ち組は驕り、負け組は切り捨てられる。そうなると、「後退戦」は一層難しくなってしまいます。


 少子高齢化への対応という「後退戦」は、放って置いても自然に小さくなっていくパイをどのように切り分けるのか、ということで、気合いや自己責任論では行き詰まります。内田氏は「後退戦の要諦は、ひとりも脱落させず、仲間を守り、手持ちの有限の資源をできるだけ温存して、次世代に手渡すことにある。後退戦局面で、『起死回生の突撃』のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である」と書き、更に「指導層の劣化は目を覆わんばかりだけれど、医療や教育や司法や行政の現場では、いまも多くの専門家が、専門家としての矜持(きょうじ)を保って、私たちの集団を支えるために日々命を削るような働きをしている。彼らを支えなければならない」と綴ります。


 信仰は隣人と次世代への遺産であり、それは高い倫理性と人間性に裏付けられた社会の構築の業です。私たちはそのために福祉を向上させ、教育を充実させる矜持と責任を神様の御業として担って行くのです。

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2017年04月16日(日) 07時54分44秒

社会をどうする?

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資本主義社会では、リーダーには賞味期限がある。
 

リーダーは自分の生存をかけて社会を守らなければならないからだ。

それは、長期間そこにとどまることを意味するのではなく、自分がリーダーになって気がついたリソースの欠けを補うために任期を区切るということ。その人がリーダーから外れてからこそ、その人がリーダーであったことの価値が現出する。


つまり、リーダーそのものも一つのこなさなければならないキャリアに過ぎないということ。


もし、仮にその職位に満足し、天職だと思い、そこに長く留まることを許されてしまえば、組織の大小に関わらず傲慢にもなるし、独裁も自ずから求めてしまう。


キャリアは半自動的に次に譲っていかなければならないものなのだし、だからこそ、その組織の構成員は、誰がリーダーになっても、たとえ、リーダーがいなくても動くことができるようにキャリアの構築を求められる。

コンプライアンスとガバナンスの構築は、そのようなスタイルを構築すること。


それが市民教育と言われるものであるし、それが義務教育の必要性にも繋がる。

アメリカ市民はその辺をしっかり理解している。

何も、日本がアメリカ流になれという話ではない。でも、アメリカに追従する限り、私たちは「真の資本主義社会」になるために、今まで保ってきたことを捨てることをこれまで以上に求められるのは受け入れるしかない。

もし、それが嫌なら、私たちは人間というものの罪深さに向き合いながら自分達で自分達を処するやり方を、紡ぎださねばならない。

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2017年03月03日(金) 11時56分32秒

ガバナンスとコンプライアンスと

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組織は、定期的にトップを入れ替えなければ、窒息します。だから、アメリカの大統領だって2期8年の任期を終えれば何歳であっても年金生活者にならざるを得ないのです。

 

「あの人以外の誰にトップを任せられる?」

 

そういう言葉をよく耳にするけど、本当は誰でもできるようにしなければならないのが組織のガバナンスとコンプライアンスを構築ということです。

 

「あの人」以外にできる人がいないのであれば、その組織は、その組織の構成員が無責任に「任せる」という状態に陥り、他律主義の自動思考に陥っているということを意味します。

 

その中で「(任された)あの人」は組織を維持するために、その責任に応えるために冷徹に振る舞い続けなければなり、一方で、自分を無条件に受け入れてくれる人を渇望するようになります。

 

結果は4年ほどで誰でも独裁者になってしまうでしょう。

 

でも、それで痛い目に遭ってしまったとしても、一度他律主義の自動思考に陥ってしまった人たちは、自分の立ち位置と価値を認識することはとても難しいのです。結果的に、新たに独裁者を求め、育成してしまいます。

 

今、その必要を認知され、構築を求められるガバナンスもコンプライアンスも、それぞれが自身の立ち位置を熟知し、その立ち位置でそれぞれが最高のパフォーマンスを提供するために必要な仕組みなのです。

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2017年02月07日(火) 18時33分29秒

時代だなあ。

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先日、ままごとコーナーの園児の仕草が目に付きました。

赤ちゃん役の年少子を年長児が、寝かしつける素振りで添い寝をしていました。右手でトントンしながら、左手には、紙で作ったスマートフォン。

時代だなあ。

「だから保育所は頑張らなきゃ」と思う出来事。
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2017年02月04日(土) 15時39分19秒

自らをひっぱたきたい…学び続ける理由

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「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を読みました。衝撃的な文章でした。


この文章を書いたフリーライターの赤木智弘さんは、「平和な現代」が「流動性」を欠いたものであって、「社会の格差」を「大きく、かつ揺るぎないもの」にしている時代であるととらえています。そして、その解決策として彼は、「極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する」と論を進めていきます。

 

そして、

 

「国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。

 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる『持つ者』の傲慢であると受け止められるのである。」

 

と語ります。

 

タイトルは軍国主義の日本を批判した社会学者であり東京大学卒の丸山眞男が、二等兵という軍隊では最も低い階級で徴兵され、当時の中学校も出ていない上級兵にいじめられたという戦中の話に由来したもので、赤木さんは「一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、『丸山眞男』の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光」と彼は言います。それは、復讐とも呼べるものなのでしょう。

 

私たちは、この文章に対してどう答えるべきなのでしょうか。「言っていることは分かる気がするけど、何かが違う」と思うのは私だけでしょうか。

 

彼はこの文章の中で「窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう」と語ります。それはその通りでしょう。

 

しかし、私には、それを得るための手法論が間違えていると思えてなりません。つまり、その根底にある思想には「愛」という概念が決定的に欠けていることに注目したいと思うのです。「窮状を脱する」ためには、誰かからの愛される必要があるでしょうし、「社会的な地位を得る」にも、「家族を養う」にも周囲の人を愛する必要がありますが、彼の文章には、全く愛の存在が感じ取れません。「迷惑をかけも、かけられたくもない」というのが彼の意味する「尊厳」なのではないかと思えてなりませんが、それは孤立でしかありません。

 

尊厳とは自らが尊いと思うものを、自身の全存在をかけて護り、育て続けることであり、愛そのものだからです。家族然り、仕事然り、地位然りです。故に私たちはいかに「平和な時代」なのだと言われても愛し、愛される者として学び続けざるを得ないですし、その結果「社会の流動性」は担保され続け、私たちはその中で愛し、愛される者としての尊厳を担保されるのです。だから私たちは、経済ではなく、自分自身を成長させ続ける必要に目を逸らせないのです。

 

愛の中に身を置き、多くの人々と交わることは、私たちの生涯を通じて絶えず問いかけられ続ける課題なのですから。

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2016年10月21日(金) 10時20分59秒

リーダーというもの

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資本主義的な経営を考えていくと、結局、どこかで、最終的には世代交代を考える必要が出てきます。

 

資本主義社会では、リーダーの入れ替えが行われないと組織は窒息してしまいます。プロスポーツなどの監督がその良い例ですね。その組織とのマッチングが完璧であれば、急に勝ちが続き始めます。それは、その組織が足りない何かをキチンと埋めることができたからです。しかし、対抗するチームも同様な状況で、突然化けるでしょう。

 

だから、連勝を続けていたと思っても、ある日ある時から全く勝てなくなってしまいます。直近では、なでしこジャパンが「世界トップからの転落」を経験しました。求められる組織のスキルアップに対し、リーダーの実力は無制限にアップし続けることができません。また、その手法のメリットは時を経るとともに希釈されていきます。

 

ボロ負けを体験してからリーダーを入れ替えるか、それとも頃合いを見計らってリーダーを入れ替えるのか。後者の方が良いのはわかっていても、それを実施するのは相当の勇気を誰かが振り絞らなければ、それは実現しません。

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