ジオターゲティング
2015年11月01日(日) 08時21分59秒

幼稚園と保育所と

テーマ:ブログ

 先日、ある会議の中で、幼稚園の方々が痛烈に保育所を批判しておられる様子に接する機会がありました。「保育所は教育を行っていない、単なる託児所だ。それを綯い交ぜにする新制度に対して私たちは声を上げなければならない」とそういうものでした。いろいろな場面で、このような声が上がっているということは、間接的には聞いていましたが、直接耳にするのは初めてでした。

「保育所だって教育をやっている」と論証しようとしたって、それは無理というものです。そもそも法的な根拠が違うのですから。間違えないように言っておくと、幼稚園と保育所は全く違う性格を持つべきものです。幼稚園は教育を、保育所は福祉を担当させられているわけですから、それは当然というべきものです。もう少し言えば、幼稚園は幼児に対して教育をする施設であり、保育所は全ての幼児の福祉を守り、そのために実践するべき施設であり、それはどちらか一方あればいいというものではありません。「それらを綯い交ぜにする」と考えるか「それらが連携しなければならない」と考えるのかは、唯一それが属する文化の懐の広さに拠ります。

 ご存知の通りつがる市では、去年度末で考えれば、保育所が14園に対し、幼稚園が3園という具合に保育所が多かったのは、保育所という機能を市民は圧倒的に必要としていたからということです。つまり、第一次産業(農魚業)、第二次産業(製造業)が中心である地域にとっては、幼児を預かる施設が何より必要とされていたことを意味します。そのため、西津軽郡最初の保育所として設立された木造保育所の創設期においては、西津軽郡内の公立保育所の設置に協力することが求められたわけです。

 一方、幼稚園の元は寺子屋でした。読み・書き・算盤を教えるところから出発し、その後、情操教育を手厚くしながら発展してきたのが幼児教育なのです。ですから、第三次産業(商業)が盛んな地域で幼稚園は発展してきました。そういう意味では、住み分けができていたのでしょう。しかし、第三次産業が24時間型の経営形態に移行する中で、子育て世帯は幼稚園に通わせることが難しくなっていきます。二者択一を求めるようなこれまでの制度の中では保育所を求める声が圧倒的に増えたことは想像に難しくありません。全国で待機児童という言葉が問題視されているのも、労働力の確保という本来児童福祉とは別次元のものが優先された結果でしかないのです。

 だからこそ、冷静になって考えてみなければなりません。今後少なくなっていく幼児を取り合うのであれば、それは一人のお子さんどころか、その地域の福祉や教育を薄くするだけの話になってしまうからです。教育も福祉も、地域や幼児の幸せを願って展開されるべきものであると確信します。

 子供達の未来を守るのは、大人の等しい義務であり責務です。子供がいないからとか、独身だからとかそいういう理由は成り立ちません。そして、子供には守られ、教育を受ける権利があります。親に問題があるからとか、障害を持っているからという理由も成り立たないのです。

 そして、私たちは自分が子供達に対しても不完全であることを知るべきです。そして、たくさんの人たちと連携し、協力しあって、知恵を出し合って、一人一人の子供に対して最善を提供するために模索を続けていくことが私たちの責務だともいます。
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2015年10月07日(水) 18時56分31秒

なすべきこと

テーマ:保育所
園長に就任した最初の職員研修の時に「児童虐待」のことを話したが、職員たちは「それって、都会の話でしょ?こっちではあり得ない」という顔をしながら聞いていた。

数年前青森でネグレクトの問題が報道された時、その内の一人が「あの時は、田舎であるこっちの方でそんなことが起こるなんて信じられなかったけど、園長先生が言ってた通りでした」と話しかけてきた。

保育所だけでは見えない事実。保育所は給食があり、職員たちの愛情があり、兄弟とも呼べる友達にも恵まれている。

以前、私と同い年の方から聞いたのは、とても切ない話だった。

「うちはシングルマザーだったから、保育所を卒園してからは、小学校の帰りに保育所に妹を迎えに行って、家に帰って、冷蔵庫から夕食を出して、チンして食べてた。保育所にいた時が一番幸せだったよ。」

今から、40年前、高度経済成長の真っ只中にあった時代にも、そういう現実があったことに驚いた。そして、現代も「(学校が休みになり給食が出ない)夏休みに痩せる子どもたち」のことが問題になっている。

「子は国の宝だ」と言う。

しかしある人々は、「それも親の自己責任だ」とか「そういう体験も大事ではないか」などと取り合おうとしていない。

さらに言えば、「子は人類の宝」であるはずだ。

「子は親を選べない」し「子は一人では生きていけない」し「子は政治(国や制度)を選べない」のは厳然たる事実だ。

子は親を必要とし、親子は助けを必要とし、助けは政治(国や制度)を必要とする。

だとすれば、制度を研究し、親を助け、そして一人の子を支えることは、社会を構成する私たちの責務だろうし、曲がりながらも児童福祉施設を営む私のなすべきことであると思っている。

それにしてもやるべきことが多すぎる。

でも、自分の全知全能を注ぎ込む価値のあることだろうと思うと奮い立つ反面、思い上がってしまうかもしれない恐ろしさも生まれる。

謙虚に、しかし大胆にやっていこう。
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2015年10月04日(日) 08時39分31秒

テーマ:説教
 孫子は「兵とは詭道なり」と言い、「戦争とは、騙し合いの生き方」だと説いています。その孫子は「およそ戦争の原則としては、敵国を傷つけずにそのままで降服させるのが上策で、(~中略~)百たび戦闘して百たび勝利を得るというのは、最高にすぐれたものではない。戦闘しないで敵兵を屈服させるのが、最高にすぐれた道である。」と説いています。
 概して、「生き方」のことを「道」とよんだわけですが、武士道では「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」と言い、騎士道は「武勲を立てることや、忠節を尽くすことは当然であるが、弱者を保護すること、信仰を守ること、貴婦人への献身」を求めます。

 「王道」という言葉があります。「王の生き方」という意味ですね。これは、孟子の言葉に由来するもので、Wikipediaフリー百科事典にはこうあります。

「孟子は古今の君主を「王者」と「覇者」とに、そして政道を「王道」と「覇道」とに弁別し、前者が後者よりも優れていると説いた。孟子によれば、覇者とは武力によって借り物の仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの~中略~(王道)を行うべきだと主張したのである。」

 この「王道」ですが「学問に王道なし」なんて、「王道」=「楽な道。近道。」という意味も持っているわけですから不思議なものです。

 人は死ぬまで生きようとする本能を持っています。そして、力や財産を持てばその本能は、欲望というものに変質し、その人を変質させていくわけです。それをどのようにコントロールするかというのが「道」であったわけです。もっとも言えば、力や財産を持てば持つほど極めることを求められたのが「道」であったわけです。特に、命がけで物事を行わなければいけない人たちは、その理由を求めたわけです。「人が正しいことしようと命をかけることが『道』」という前提に立たなければ、これまでご紹介した「道」を極めようなんてことは酔狂でしかありません。

 「命をかける生き方」といえば、なんか途轍もない凄まじい生き方のように思えますが、「(その生き方を求められている)自分がいついなくなっても大丈夫なように備える生き方」であるということもできるでしょう。結局は、自分が課せられた責務や意味に基づいて「今日が最後の日であると思って生きる」というのが「道」であろうと思います。道というのは「備える生き方」ということができます。聖書にはこんな言葉があります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 多くの人々の流れに任せての生き方にあっての勇気や力は、流れに逆らう者を傷つけることしか導き出しません。

 道を極める時に求められることはただ一つ、「私らしくあること!!」なんです。

 皆さん、それぞれが自分らしく輝きを放って下さいますようにと祈っています。
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2015年09月29日(火) 18時41分54秒

ディズニーリゾートに行ってきました ビビディ・バビディ・ブー!!

テーマ:子供たち
もう、前回の投稿から4ヶ月以上過ぎてしまいました。楽しい思い出を楽しく書く暇もなく、過ごしてしまいました。やっとこ、思い出しながら書く事にしました。お付き合いいただければ幸いです。

===========

さてはて、二日目のプログラムのメインは、何と言っても、 ビビディ・バビディ・ブティック

前回ディズニーランドに行った後、娘が時々溜息まじりに ビビディ・バビディ・ブティックの動画を見ていたので、今回はそれにトライをすることにしたのです。

調べてみたら、とにかく値段がすごい。キャッスルコースは30,800円。キャリッジコースが23,100円、クラウンコースが8,200円…。調べてみれば、差は、衣装やカメラ撮影が付くかどうかということ。確かに七五三なんかの撮影でもなんだかんだで数万円ですから、相場といえば相場かなあ。

去年、ある方が、娘にプレゼントしてくれたシンデレラの衣装がありましたので、それを利用し、写真撮影は、自分たちですることにして、8,200円のコースでやることにしました。

で、決めたものの、今度は予約が大変。びっしり予定が入っています。

空いているのを確認すると私たちの予定での最終日の1時からしかありませんでした。

しかしここからが、面白いところ。

暇ができるたびに予約を確認するとキャンセルが入って空きが出ます。最初の予定をキャンセルして、少しでも良い時間帯に予約を近づけていき、やっとこ二日目の8時半という我が家の旅程にとって最もよいところまでたどり着きました。

娘も二日目の目覚めから、楽しみにしていました。

それが、朝ごはんを食べ、ドレスを着せたところで、娘の表情が一変しました。「やりたくない」と言い始め、なんとか連れ込みましたが、嫌だ嫌だの一点張り。どうも、緊張しすぎたようです。

嫌だ!1

ブティックの方も加わって説得してくれますが、打つ手もない状況。

嫌だ2

ブティックの方が、「30分遅らせても大丈夫ですよ」と提案してくれましたので、外を散歩することにしました。お菓子を買って、二人で散歩していろいろ娘と話した結果、「ドレスを脱いだらやる」とのことで、やっとこ椅子に座ってくれました。

気を取り直して

親としては冷や汗もんでしたが、ナントカやる気になってくれて良かった良かった。



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2015年09月06日(日) 08時53分37秒

「10年後を見据える??」

テーマ:説教
 保育所の経営者となって、7年8ヶ月を過ぎようとしています。経営を学ぶ時に良く耳にするのが「10年後を見据えた経営」ということです。でも、ご承知の通り10年後を見据えるってできるわけもありません。

私だって10年前に自分が保育所の経営をしているとは思っても見ていなかったのですから、それは当たり前のことです。私が就任した7年前の園児数は112名で上限ギリギリ。泣く泣く入所を断らざるを得なかったのが、今では90名の総定員を12名も下回る78名です。途中、東日本大震災も経験しました。政治では、民主党が大勝したかと思えば、自民党が大復活を果たし、政治は右往左往しています。その一方で世界経済はグローバル化の一途をたどり、疲弊した各国の経済が悲鳴をあげ始めています。「子どもの貧困率」「経済的徴兵制」などという日本とは無縁だと思われていた言葉が現代の日本を語る上で重要なキーワードになってきたりしています。

どれも予想がつくものではありますが、なってみなければその深刻さが予想を超えていたものであったことは否定できるものでもありませんでした。

教会では、平均年齢が8歳も増加した一方、地域の諸問題に対応するために、訪問看護ステーションや保育支援センターを設置したりと、大きな動きを相次いで起こしています。じゃあ、それが10年後を見越した動きなのかと問われると、それは違うと言わざるを得ません。あえて言えば、「10年後にこうあって欲しい」という思いから行っているにしか過ぎないのです。
新島襄が同志社大学の設立を夢見て活動していた時に「教育とは国家百年が大計なり」と言ったことは正にそのような思いであったのだろうと思いを巡らせます。「100年後を見越して」ではなく、「100年後を夢見て」その事業を始めたのだと思います。

振り返ってみれば、自分の人生の中で、「こうはなりたくない」ということをことごとく体験し、その一方で「こうなりたい」と思ったことは何一つ実現しなかったように思います。たくさんの人々に迷惑をかけ、たくさんの人々を傷つけてきた人生でした。でもその一方で、追い込まれた先にはその経験が用いられ、たくさんの人々と共に生きる現在があることも確かです。

「10年後を考えて行動していますか?」と問われた時、その10年後は不透明で不安ばかりが先立ちます。「ああはなりたくない」、「こうなりたい」と、全ては自己を中心とした世界観を心ならずも形作ろうとしてしまうのです。

しかし、「10年後を作る努力をしましょう」と言われれば何かできることがあるのではないかと思えてくるのではないでしょうか。未来を考える時に、自分が生き残ることを考えていたとしても、その未来が本当に存在するのかどうかは、残念ながら「神のみぞ知る」ことでしかありません。そうだとすれば、未来に対しては自分抜きに考えていくことが得策なのだと思わざるを得なくなります。「今日を精一杯生きる」というのは「明日を見なくても良い」という事ではなく、「自分がいないかもしれない明日を形作る」ということでなければらないのです。

10年後、私はいないかもしれません。私自身も、教会も、訪問看護ステーションも、保育所も、必要とされない時代になるのかも知れません。ただ願うのは、「全ての人々の尊厳をまま守る必要がないから必要とされない状態」ではなく、「老若男女全ての人々が、その尊厳を互いに守り合い、助け合い、支え合える世界である状態」になっていることです。「生き残る」ではなく「残し、支えあっていく」という目的に信仰の本質があると思っています。皆様のお働きが未来に実を結びますように祈ります。
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2015年08月22日(土) 20時43分34秒

法人法改革案?

テーマ:ブログ
今日は青森県立保険大学での「社会福祉トップセミナー」に参加してきました。一年半後に行われる「社会福祉法人改革」と「介護人材の確保」をテーマで社会福祉法などの改正法案について学んできました。

内容的には、2000年から2008年に行われた公益法人改革並みかそれ以上のことを求めている内容にも取れます。さらに言えば、「いわゆる内部留保金」を「社会福祉充実計画(再投下計画)」などが、財務規律に盛り込まれるなど、透明性と、公共性を強調した内容となっています。

子ども子育て支援新制度が施行されて、4ヶ月を経ようとする中で、施設側のパニックもまだ冷めやらぬ中、今度はその経営母体である社会福祉法人改革が始まるわけです。

社会福祉法人改革の肝は、何と言っても評議委員会の設置。今までは、任意であったものが、必置になりますので大変です。定数は、理事数+1名。しかも、この評議委員会が理事の選任や経営方針・予算・決算の承認を行う議決機関として機能させるということです。

更に「評議員にふさわしい人材」ということが求められます。案の中での具体例ですが、「社会福祉事業や学校などその他の公益的な事業の経営者」、「社会福祉に関する学識経験者」、「社会福祉法人に関与した経験がある弁護士、公認会計士、税理士等」、「地域の福祉関係者(民生委員・児童委員等)」、「社会福祉法人職員退職者(退職後一定期間を経験した者)」、「地域の経済団体が適切な者として推薦する者」などだそうですから、確保するには準備していないと結構、大変なことになりそうです。

「そんなに人脈がないという施設もご安心ください」ということなのでしょうが、もし見つからない場合には、「自治体や社会福祉協議会が具体的に法人の相談に応じ、ふさわしい人材の紹介など評議委員の確保を支援する」そうです。

透明性と公共性の確保を謳っているこの改革案ですが、うまく機能しないと「乗っ取りの自由の確保」という意味合いが出てきかねないと私は思ってしまいます。

さて、この社会福祉法人法改革ですが、対岸の火事ではありません。公益法人改革をモデルにして社会福祉法人改革が検討されているわけですから、のちに控える学校法人改革、更には宗教法人改革もこれをモデルにやっていくのでしょう。

更に言えば、公益法人改革→社会福祉法人改革→学校法人改革→宗教法人改革というように、行政関与が強い法人格から順に改革して行くわけですから、逆に言えば、今までタブー視されてきた問題に対して切り込んでくることは間違いがないと思われます。

また、それぞれの法人法改革の時には、俎上に上がる直前に、その法人格が持っている特権の乱用について、ニュースが飛び交うのが通例になっています。その例に従って言えば、学校法人改革・宗教法人改革もどのような部分が俎上に上げられるのかは、推して知るべしです。

さて、では宗教法人改革は、どのような形になるのでしょう。

私の今までつかんでいる感触として、問題視されているのは、下記の点になります。

1、休眠法人の整理
2、課税問題
3、法人財務の不透明性
4、ガバナンスとコンプライアンスの強化
5、活動の公益性の担保
6、暴力団などのブローカー等が法人格を売買し脱税や霊園、人材派遣、葬祭会社などに利用する事例が後を絶たない
7、その他…宗教総人口が日本総人口を数倍上回っている等

上記を見て、この法人法改革の流れを参考に、色々と考えてみると、なんとも背筋が冷たくなるような予測を立ってしまいます。

私の中での予測では、結構厳しいものになりそうな予感がしています。

私の予測、聞きたい方います?

その方には、メッセージで送ります。
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2015年08月19日(水) 08時04分38秒

「変わりゆく時代の中で」

テーマ:ブログ
「あの日のことを忘れない」と誓っても、70年も経ってしまえば、思い出す方が大変になってしまうのは仕方がないことなのかもしれません。 その時代に生きた人々がいなくなれば、その人達にしか理解できないようなことは、基本的に忘れてしまう。さらに、戦争というものを考えると、多くの英雄が生まれる一方で、多くの人々は語ることも許されずに葬られていくわけですから、戦争の本質なんて、言葉を尽くしても伝わらなくなるのは当然です。戦争の恐ろしいところは、そういうところだと思います。

ナチスドイツの空軍司令官で国家元帥だったヘルマン・ゲーリンクがニュルンベルク軍事裁判の期間中、法廷外で米軍の心理分析官に「もちろん、国民は戦争を望みませんよ」「運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を懸けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも、同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。…(中略)…そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるよう仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ」(出典:ジョセフ・E・パーシコ Joseph.E.Persico 白幡憲之訳「ニュルンベルク軍事裁判 下」2003年 原書房)と語っています。結局、戦争への近道は国民を追い込むことなのだということです。自民党の幹部がそう思っているのか、それとも歴史は繰り返すのか、今、日本はゲーリングが言ったような対立構造に晒されています。

日本国憲法には有名な憲法九条があります。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

この二つの項目は、日本国憲法の一番肝心な部分です。平たく言ってしまえば、「国が行う戦争を国民は認めない」と言っているわけです。戦争とはいったい何かと問えば、それは国が形作る「何でもあり」の状態です。「殺人」さえ認められる状態に全国を放り込むことがを意味するのが戦争です。その状態の中では、「非国民」とか「売国奴」とか「愛国心」などという言葉が飛び交い、「やらなきゃ、やられる」という猜疑心と恐怖心が国を覆う時戦争は始まります。

戦争は、開戦日が始まりではないのです。そう、もう、戦争は始まっているのかもしれません。敵に対して命をかけようとするのか、平和国家存続のために生涯をかけるのか、と問われているのかも知れません。8月、たくさんの人々が、戦争に想いを向けるでしょう。でも、戦没者の理解が「御国の為に命を投げ出してくれた人」なのか「国が死地に赴かせた人」なのかを問い始めると、それが大きな違いとなって、噴き出してくるのでしょう。日本ではあまり語られませんが、あの時代、思想弾圧、宗教弾圧の中で命を落とした人々がたくさんいました。敢えて言えば、彼らは戦争に、そして国に殺された人々でした。

語られない事実はそのまま消えていくでしょう。徳富蘆花という文人は、自身の死刑廃止論の結びにこう書きました。「生きよう、生きよう、死の支配を抜けよう。死刑廃止は戦争の廃止に先立つ」
人を生かすことに全力を尽くすことが「本当の積極的平和主義」なのです。
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2015年07月19日(日) 23時59分36秒

無視される議会制民主主義の根本

テーマ:政治
なんかとんでもないことを仰っておられます。

「秩序を欠いた事実と異なる報道により世論は歪む」http://blogos.com/article/123196/

私が問題視していることは、「議事法の裏」をかいて、「粛々」と「ナチスの手口に倣って」、「国民は忘れやすい」と言って済し崩していこうとする国会の手法のことです。

本文引用====
「強行採決を連呼する方々に申し上げたいと思います。選挙という民主主義的な手続きによって選ばれた衆議院議員が475名。それぞれに賛否を代弁すべく、送られています。私も反対の声には耳を傾けてきました。少なくとも選挙で選ばれた反対意見の代弁者たる議員の、全ての審議、議事録を頭に叩き込んでいます。」
引用終わり====

とは仰いますが、では、過去の政権が積み重ねてきた事実は頭に叩き込んでないのでしょうか。戦後処理の問題然り、自衛隊の扱いにしても然り。今の自民党は、昔の自民党内閣が苦労して積み上げてきた解釈などをも叩き潰しているわけで、自民党政権OBからは大きな反発を得ているではないですか。

TPPの問題にして然り、沖縄の問題にして然り。

前回の選挙は「TPP推進を掲げる野田政権」に対して、「TPP反対を掲げる安部自民」が勝ったという図式はすっかり頭から消えているようです。鳩山政権時代に公約とした「少なくても県外」にしてもそうです。議会制民主主義において「あの時は私たちは反対だったから」は通用しないのは常識ではないですか。

記事引用====

国民の8割が法案に反対ならばこんなに平穏ではない筈です。当時の安保闘争に比べ穏やかなものという見解は事実ですね。

ここまで====

よしんば、おっしゃるように「国民の8割が法案に反対ならばこんなに平穏ではない筈」「当時の安保闘争に比べ穏やかなものという見解は事実」だとおっしゃいますが、当時の10万人(推定:公安の発表値なので過小評価の可能性あり)は、ヘルメットをかぶり角材などを手に手に集まったのです。それに比して今回のデモは、立錐の余地のない状態であっても道路にはみ出すこともないわけですから一人当たりの占有面積が違います。故に、そこにたどり着けずにとてつもなく長い行列になっている点は無視されているようです。ちなみに、掲載されている写真も、最前列のごく一部を切り取っている写真ですね。

じゃあ、今集まっている10万人(推定:主催者の発表なので「過大評価」の可能性あり)が当時の安保闘争のようになんでもありという状態にならなければ政治家は耳を傾けないということを言いたいのでしょうか。(まあ、そうなったとしても耳を傾けようとはしないと思いますけど。)

さらにこの方は、

>権利は義務と共に認められるものと思います。

>自由も秩序と共に認められるものと思います。

とありますが、こんなことを言い立てるのは国会議員の思い上がり、驕りとしか言いようがありません。そもそも、この方は、憲法99条を読んだことがないのでしょうか?

「第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」

つまり、国会議員の権利も義務とともに認められるものであるわけですが、その点は敢えて無視をしておられるようです。国会議員である限り、憲法を間違ってると言ってはいけないし、その内容を理解し、憲法の理解を曲解してはならないのですが、その辺を知らないのか、無視をしているのか…。

議会制民主主義においては、国会議員は「国民の権利の代行者」でしかありません。国民は選挙によって、自らの権利を国会議員に付託しているにしか過ぎないのです。
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2015年07月12日(日) 07時12分51秒

イタチの最後っ屁

テーマ:ブログ
前回政権交代した時、その前政権交代した時、そしてその前も、一番国民が嫌がる法案を末期を迎えた政権が無理やり通すように感じていて、なぜかなあと考えていたことをここ数日間思い出しています。

イタチの最後っ屁=「《イタチが窮したときに悪臭を放って敵をひるませるところから》困ったときに非常手段に訴えること。」から転じて、「最後の悪足掻き」という意味合いで取られますが、本当にそうなんでしょうか。

今回の安部政権も必ずいつか、終わりがあります。

その時に、「イタチの最後っ屁」をかますのであれば、それは国民を愚弄するもの以外の何物でもありますまい。

「赤信号、みんなで渡れば怖く無い」という言葉もありますが、国会議員がもし、こんな思考で物事を考えているとするならば、日本の将来は少なくても国民にとって明るいものでは無いでしょう。
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2015年06月30日(火) 08時40分51秒

その民の平素の修養

テーマ:政治
「デンマルク國の話」という内村鑑三が書いたの本があります。明治44年(1911年)、内村鑑三が51歳のときの講演記録です。この頃の日本は、前年に日韓併合や大逆事件などが起こった時代です。

デンマークは19世紀後半、プロシヤ、オーストリアと戦いに破れたこの国は、南部の豊かな二つの州を割譲させられ、国民生活は窮乏の極みに陥ります。その中で、祖国の再建を夢見たダルガスという元工兵士官が「剣で失ったものを鍬で取り返せ」との信念で熱心に植林を呼びかけた事がデンマークに幸をもたらした。敗戦から40年後、デンマークは国民一人当たりの富が栄米独のそれをしのぐ、世界一豊かな国として立ち直った。(「軍艦長門の生涯」阿川弘之著より引用)

「今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、私どもに何を教えますか。
 第一に戦敗かならずしも不幸にあらざることを教えます。国は戦争に負けても亡びません。実に戦争に勝って亡びた国は歴史上けっして尠(すくな)くないのであります。国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。否(いな)、その正反対が事実であります。牢固(ろうこ)たる精神ありて戦敗はかえって善き刺激となりて不幸の民を興します。デンマークは実にその善き実例であります。」

ギリシャ経済が危機を迎えています。ギリシャは支払期限を迎えている本日6月30日までに、債務約16億ユーロ(約2200億円)、さらに、7月と8月に9000億円余り、今年通年でみれば270億ユーロ(3.7兆円)を払わなければならないのです。そのため、ギリシャは、銀行の営業を29日から停止し資本規制を導入すると発表しました。

「(ギリシャが)デフォルト(債務不履行)に陥り、ユーロ圏からの離脱が迫った場合、真っ先に入手困難となるのが輸入依存度の高いエネルギー資源や医薬品とみられるためだ。

ギリシャの2014年の輸入額は620億ドルで、世界全体の18兆8000億ドルから見ると規模は小さいものの、日常生活に不可欠な燃料や人命にかかわる医薬品を確保できなければ、国民に深刻な影響を及ぼすことになる。」(ロイター記事から引用http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0OX0PW20150617)


一言で言えば、国家が破産してしまう状態になったということです。これによって、国民の生命と財産が脅かされ始めています。

ギリシャはEU加盟国です。

EUは通過まで統合した包括的な集団安全保障国家群というべき組織で、欧州合同軍という軍隊さえ持っています。ちなみに、欧州合同軍は、ドイツ・フランス・ベルギー・ルクセンブルク・スペイン・ポーランドの各国から部隊が派遣されて構成されている最大兵力約6万名の軍隊で、「1災害救援もしくは人道問題に対する派遣。2国際連合または欧州安全保障協力機構における平和維持任務。
3北大西洋条約機構および西欧同盟における集団安全保障・防衛任務。」という強力な集団的自衛権を確保している地域統合体です。

さて、「国民の生命と財産が脅かされ」とはどこかで聞いたフレーズですね。

今、日本で大騒ぎになっている安全保障関連法案の説明の中に出てくるフレーズです。ギリシャは他国から攻撃されたわけでもなく、輸入経路を脅かされたわけでもなく、緊密な関係を結んでいる国が攻撃を受けたわけでもないのにもかかわらず、「国民の生命と財産が脅かされる、国家存立の危機」に追い込まれているのです。

ちなみにギリシャが返済に迫られているお金は日本円にして3.7兆円です。に対し、日本は年間で140兆円の国債を発行しているわけです。微々たる金額かもしれません。しかし、それがギリシャの信用問題になっているわけです。それぐらいの借金さえも払うのに言を左右し、時間稼ぎをしているように見えてしまったその時、ギリシャのような国の危機に陥ってしまうわけです。そして、そのつけは、国民が払わされるのです。端的に言えば、それだけのお金を払うことができなくなっただけで、国家というのは、簡単に存立の危機を迎えてしまうということを意味します。

冒頭に紹介した内村鑑三の「デンマルク国の話」の中で、「国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。」とあります。そして、それは、「善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。否(いな)、その正反対が事実であります。牢固(ろうこ)たる精神ありて戦敗はかえって善き刺激となりて不幸の民を興します。デンマークは実にその善き実例であります。」と指摘しています。

そして、内村鑑三は「国の実力は軍隊ではありません、軍艦ではありません。はたまた金ではありません、銀ではありません」と明言した上で、下記のように結びます。

「ダルガスのごとき「智さとき愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。国家の大危険にして信仰を嘲り、これを無用視するがごときことはありません。私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスとにかんする事柄は大いに軽佻浮薄けいちょうふはくの経世家を警いましむべきであります。」

修養とは「知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめること」です。難しく考える必要はありません。「人間として、驕らず、気負わず、為すべきことをする」だけのことです。

実は、その後デンマークは第二次世界大戦に伴い、ナチスドイツに占領されました。そして国民はその時、その平素の修養を発揮しました。デンマークにいたユダヤ人たちは、多くの市民の協力によってその99%がホロコーストから逃れることができたのでした。

その後、連合国の一員として認められ、デンマークは国際連合の原加盟国として名を連ねたのです。100年前も現在も、デンマークに学ぶべきことは日本にたくさんあるようです。
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