ジオターゲティング
2016年06月06日(月) 06時11分44秒

情けは自分の為なり

テーマ:説教
皆さんは自分は幸せだと思っているでしょうか?それとも自分は不幸せだと思っているでしょうか?それはどうしてでしょうか?よくよく考えてみれば、幸せも不幸せも「他人と比べて」という話か、そうでなければ、「過去と比べて」という話で判断するのではないかと思います。よく、不幸に見舞われたとき、「私は何もしていないのになんでこんな目に合わなければいけないのだ」と口走るのは、そんな現実からなのだろうと思います。その一方で、幸運だなあと感じるときだって、子供が生まれたとか、恋人ができたなど相手があることによって味わえる感情です。

よく知られた「情けは人の為ならず」は、最近誤用が後を絶たない慣用句の一つとして紹介されますが、じゃあ、正解は?と問うと「「情けは人の為ではない、(巡り巡って)自分のためなのだ」という意味づけが一般的に言われています。でも、この「巡り巡って」はどこから現れたのでしょう。
 古語の文法に照らして考えても、本来は「人の為なり(古語:「だ・である」という「断定」の意)+ず(打消)」、すなわち「他人のためではない」となるわけです。そして、それは「自分のためだ」という意味に転換されます。

じゃあ情けとはそもそもなんでしょうか?辞書で調べると「1 人間味のある心。他人をいたわる心。人情。情愛。思いやり。2 男女の情愛。恋情。また、情事。いろごと。3 風情。おもむき。あじわい。 4 もののあわれを知る心。風雅を解する心。風流心。」とあります。つまり、情けとは、その人らしさを表すものであり、情けとは自分の心そのものなのです。

「あの人は情け深い」と褒める言葉がありますが、それは、立ち居振る舞いに心が籠っている人に対する褒め言葉です。逆に言えば、「薄情」という言葉は、立ち居振る舞いが場当たり的で自己中心的な人を指す言葉です。これを容れて、現代語に直訳すれば、「心は人のためにあるのではない」となり、転じて「心は自分のためあるのだ」ということになります。自分が自分であるために心はあると考えれば、「情けをかける」ことは自分が自分であるためにやってしまう行為と言うことになります。イエスは「サマリア人の喩え」の中で、情けをかけることを「隣人となる」と教えました。

先だって、イジメを受けた子に対して、同級生の女の子が二人、「今度は私たちが助けるから早く学校に来てね」と手紙を出した話を耳にしました。いい話だなあと思う一方で、この二人の女の子の決意が見えてきました。多分、彼女たちは、イジメの現場に遭遇しても止められなかったことを悔いていたのでしょう。そして「今度同じようなことがあったらは私たちが助ける」と決意をしたからこの手紙を出すことができたのでしょう。

私たちは、出会いの中で、心を成長させていきます。多くの人々との歩みの中にあって、ある時には喜び、ある時には怒り、ある時には哀しみ、ある時には楽しみ、そうやって、自分の心が育てられてきたことを知るでしょう。「情けは人の為ならず」はそのような歴史を背負っている自覚の上に立ち、自分の過去を否定しない強さを持って行うからこそ、そう言い切れるのだと思います。「情けは人の為ならず」とは、実は「自分が自分であるための、プライドをかけた行い」であり、自分の心を磨き続けることなのです。
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2016年05月03日(火) 12時42分57秒

にじの樹無料解放デー

テーマ:子供たち
「保育支援センターにじの樹」無料開放デー。

今日はうちの子供達をひっくるめて、10人の子供達とにじの樹で、まったりと過ごしています。

無料開放なので、スタッフも私ともう一人の二人だけ。自主事業でやっているので、保育所の職員を動かすわけにもいかず、今日は子供の解放区として、やっとります。

「ゲーム、タブレット、漫画何でも持ってきていいよ。」と。

でも、見ていれば、ゲームもやるものの、外に出て走り回ってみたり、学校ごっこで盛り上がってみたり…。昼食後は、まったりと過ごしています。

ちょっと聞いたら、「にじの樹でいっぱい遊びたいから宿題は家でやってきた」と言っていました。

ゲームはだめ、漫画も読むな、ゴロゴロするな、宿題しろ、先生が決めた遊びでみんな楽しく…って無理がありすぎると思うのは、私だけかしら?

40年弱前になる私の小学校の思い出は、近所の子たちと毎日のように外で遊んでる思い出がたくさんあります。でも、本当にそればっかりでしょうか?

強烈な体験が思い出となります。でも、そればっかりではないはずです。

そう、子供の頃のことを思い出すと、毎日外にでて走り回っていたわけじゃないって記憶が蘇ってきました。

友達とゴロゴロしながら過ごしていたこともあったっけ。

今の子供に必要なのは、自由だと思うのです。

どこに行っても大人の監視がつき、大人が提供する遊びに興じさせられる…

それが窮屈だと彼らは体で語っているような気がします。
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2016年04月04日(月) 19時59分43秒

主の復活おめでとうございます

テーマ:説教
最近、日本でも認知を得てきたイースターですが、イースターは復活祭とも呼ばれ、墓に葬られたイエスが復活した日を覚えるキリスト教のお祭りです。

今年のイースター(復活祭)は3月27日でした。「今年の」と断らなければならないのは、イースターがもともと太陰暦にしたがって決められた日であったため、年によって太陽暦での日付が変わるからです。イースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められ、復活祭は3月22日から4月25日の間のいずれかの日曜日になります。

「イースターを春を迎えたことをお祝いする行事」と紹介される場合が多いですが、本来は四旬節という主の受難の苦しみを味わうイースターまでの40日間と対にして考えられるべきお祭りです。敬虔なキリスト教の地域では、祝い事はこの期間には行いませんし、この期間、肉、乳製品、卵などの動物性の食物を食べる事を禁じられるので、イースターエッグをはじめとした肉、乳製品が久しぶりに食卓を賑わす日でもあります。そういう意味ではクリスマスよりも盛り上がる地域もあるほどです。ただ、「死からの復活のお祝い」とするといかにも胡散臭いので「春を迎えたことを祝う行事」と紹介するのでしょう。

サバイバーという言葉があります。「事故や事件、災害などに遭いながら生きのびた人、闘病中の人、またはその病気の経験者」を指した言葉です。彼らは「自分はいわば一度死んだ人間」という概念を強制的に獲得させられた人たちということもできるでしょう。そして、彼らがその死地を乗り越えて辿り着いた考え方や行動が多くの人々には想像もできないような素晴らしい結果を導くため、このサバイバーという言葉は、「死地を乗り越えた」という尊敬の念を込められて語られます。

その一方で、サバイバーギルトという言葉も存在します。こちらは「奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと」です。彼らもその思いから這い上がるために様々な言葉や行いを起こしていきます。

前者が「生き残ったことに祝意を持って周りが尊敬する概念である」のに対し、生き残った本人は「生き残った罪悪感から突き動かされる概念」という悲壮なイメージが付きまといます。この両者を結ぶ切っ掛けが聖書であるということができると私は思っています。

イエスは、サバイバーではなく、復活者だからです。無から始まり死で終わる私たちの人生は、死の前で絶えず沈黙してしまわざるを得ません。しかし、私たちは感覚的に死が無であるとは受け入れられないのです。近しい者がたとえ死んだとしても、その存在を無と考えることはできないのです。私たちは、私たちの周囲に絶えずその息吹を感じるではないでしょうか。

イエスの復活は、死からの復活が眠りから覚めるような気軽なものであることを証ししています。だからこそ、死を恐れずに、生きることにこだわらず、罪悪感を持たずに、正しいことを堂々とせよと聖書は私たちに語っています。「復活おめでとうございます。」という言葉は、その息吹の存在に確証を与えます。私たち一人ひとりは、生という一点で死を乗り越えて結ばれているのです。主に人生を委ねるということはそういうことだと思います。
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2016年03月13日(日) 08時03分24秒

独り言

テーマ:ブログ
世の中、どうしてこんなにお金お金と騒ぐようになったのだろう。もはや命の価値さえお金で換算されるような時代になってきた。

福祉を展開するはずの保育業界にあっても「経営戦略」などという言葉が当たり前に飛び交っている。

感動さえ、憎しみさえ、お金を生み出す道具に使われ始めてはいないか。

作り話としか考えられない逸話に感動の拍手を送り、自分たちは関係ないと孤立化の一途をたどる。

人と人の結びつきは国を強くし、国の強さはお金の価値に現れる。

でも、お金は人を結ばず、切り離す。

お金は人を結ばない。愛が人を結ぶのだ。
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2016年03月06日(日) 09時28分18秒

事業じゃなくて事情で動く

テーマ:説教
 目の前にいる子供もの姿を見たとき、私はただただ「健やかに、心豊かに育ってほしい」と願っています。しかし、その一方で、保育所の園長という立場に立つと、その願いは「事業」になってしまいます。「保育所は子育てを事業として行う所」という定義もできるでしょう。

 年度末にかけて作成している書類にも「保育事業」だの「子育て支援事業」だの事業という言葉が並んでいます。なぜなら、国が定めた「子ども・子育て支援制度」を従い、そこに定められている支援を展開するなかで「事業費」を貰うのが保育所のお仕事だからです。

 振り返ってみて、じゃあ、その制度だけで、子育ては完了するかといえば、それはあり得ないわけで、周囲の人々からの有形、無形の様々な様々な支援がなければ、やはり子育ては難しいと思います。事業という言葉には「損・益」という言葉が必ず付いて回るからです。

 最近、児童の貧困問題がクローズアップされています。先日、この件に関し、設立された「子供の未来応援基金」をめぐり「広報のみではなく、国民運動としての広報・啓発活動として(2億円を)使っている」という国の政策が指摘され、賛否で論争が行われていますが、貧困問題も事業ということになれば、必ずその事業所単位で「損・益」というお金の問題にすり替えられてしまうでしょう。

 子どもの貧困問題は、実は社会の分断という構図を強く描き出しています。共働き当たり前の社会では、子供は学校や保育園、学童施設と自宅を往復するしかありませんし、その一つ一つは事業として行われるべき物でしかありません。その中で、例え、一人の子が貧困状態にあったとしても、それは「(全体的な)事業」では「(個人的な・特殊な)事情」として受け止めざるを得ないわけです。これは、事業所と呼ばれる組織の限界を示しています。

 子ども・子育て支援の支援制度は、制度的には洗練されてきたようにも見えます。しかしながら、その一方で、地域のいたる場所から子供のいる場所は限定されてきました。公園や空き地で真っ黒に日焼けして遊んでいた子供たちは、学童保育や保育所に入れられて姿を消しました。私が子供の頃には学校の近所に必ずあった駄菓子屋ももはや前世紀の遺物のように語られます。制度が前進して、しかし、その一方で、子供の生活空間、生活スタイルはどんどん小さくなってきているのです。制度が拡充される一方で、住民それぞれの横の繋がりは分断され続けています。相手の困難を、自分の困難と受け入れることができなくなってきている時代に突入し、最終的に辿り着いたのが、子供の貧困であったというのは、皮肉なことだと思います。

 ご近所さんの家に入り浸っている子を挟んで、「うちの子がご迷惑をおかけして」「いえいえ、もう、うちの子みたいなもんですから、気にしないで。いつでも遊びに来させて」そういうやり取りが忌避される現在を招いた責任は、私たちそれぞれが制度に甘えてしまい、「自分が隣人から愛されること」と、「自分が隣人を愛することを放棄してしまったこと」の結果であると思わざるを得ません。

「事業ではなく事情で動く」…自分の眼の前にいる人の事情を個人として汲むこと、これこそが隣人愛です。そして、これをできるかを国民である私たち一人一人が問われています。
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2016年02月07日(日) 08時52分14秒

3Kとの付き合い方

テーマ:ブログ
「汚い、危険、臭いの3K」はリスクの代表格です。最近、保育の内容が「行政から求められている」と勝手に思い込みで解釈した「無臭、清潔、安全」の環境を提供することしか考えなくなっているように思います。そして保育所はどこも安全、清潔(そして無臭)を売りせざるを得なくなっています。

 数年前、「猫アレルギーの猫っているかなあ」という冗談を言っていたことがありましたが、先日、数名の小学生が大騒ぎをしていました。聞いてみるとトイレがウンチの臭いで臭くて入れないということでした。その中の二人は「吐きそう」と騒ぎ、本当に吐き気を模様していたのには驚きました。子供達の遊びが、大人主体に切り替わって「臭い、汚い、危険」は徹底的に除去されながら、育てられてきた訳で、そのツケは、思春期に差し掛かる頃顕著に現れます。そういえば、最近では排便の後、「汚い」といって自分のお尻を紙で拭くことを嫌がる子がいるのも気になっていました。

 包丁そのものが怖くて触れない、他人のウンチの臭いに耐えきれず吐き気を催してトイレに入れない、汚れることを気にして仕事に専念できないなど今までの生活では想像もつかなかった、しかし具体的な生活での困難を招いている人が現実にいます。

 「汚いから触った後は手を洗おう」、「危ないから気をつけて使おう」、「臭いけど我慢しよう」と教えることがその子の将来の生活の幅を広げる訳ですが、もう既に、そのようなものに耐えきれない大人が親や保育士になっている以上、保育の中からそのような要素の遊びは徹底的に排除したいという潜在的な思いが働き、結果として保育は室内遊び中心、そして早期教育中心として展開するのが自然な流れになっています。最近では「汚いから、臭いから、危ないから」という理由があれば、最近では人を避けても良いという風潮も世の中に見受けられるようになってきました。冒頭の子のように具体的に身体症状に出るほどになってしまえば、「臭いがするようにしているのが悪い」、「身綺麗にして臭わないようにするのが常識でしょ??」、「自業自得!!」と強く出る人もいます。「猫アレルギーの猫」ならぬ「人アレルギーの人の存在」が冗談では語れない時代になるのかもしれません。

 しかし、生物としてみた時に「臭い、汚い、危険」のいわゆる3Kは、幼児の頃に体験しなければいけないものに該当します。最初にたくさんの人に抱かれて「人間の臭い」を覚ます。保育園のお泊まり保育でやっている肝試しの時、お化けに抱きつかれた一人の園児が、「あ、この臭い、◯◯先生だ」とお化けの変装には全く気も留めずに抱きついたことがありました。

 「お手伝い」という大人の真似事をしながら危険を身につけます。年下の子達に、「こうやると危ないから、こうやって」と教えていた子がいました。

 驚くほど泥まみれ、砂まみれになって遊んで、手が汚れるのを嫌がる子に対して「汚れても最後に洗えばいいんだよ」と平気な顔をしていた子がいました。 平時にあっては安全、安心、良い香りばかりの生活は大切です。しかし、一つでもその歯車が崩れた時に、その快適性が奪われた時にも支障をきたさないだけの生活力を身につけなければいけないのです。

 3Kと付き合う方法を身につけた人は自身と周囲の人を幸せにできるのです。
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2016年01月24日(日) 08時15分04秒

大雪の騒ぎ

テーマ:ブログ
東京で雪が降ったと大騒ぎしているのを津軽から見ると、「何をそんなに…」と思ってしまう。

しかし、よく考えてみれば、大騒ぎする地域は、スタッドレスタイヤだって装着率は低いだろうし、スコップだって置いていないうちも多いだろう。除雪機なんか皆無に近いだろうし…。

そこに10センチ以上積もれば、事故は続発、移動も困難ということになるだろうし、降雪を想定していない設計の施設は壊れてしまう。

津軽では、深夜から早朝に除雪車が出動し、その後、それぞれが自宅や職場の前をいろいろな機材を駆使してやっているわけで、除雪車が出ない、機材がない状態なら、やっぱり手も足も出ないに違いない。

私だって雪が降ったら大騒ぎするところ出身の人間だ。津軽に来たのは8年前。除雪体験は、8シーズン目。毎朝4時30分に起き、防寒具を着て、5時から除雪に出るのも、何の苦もない日課になった。「降って当たり前」という気持ちと「道具」があれば、そんな風になる。

逆に言えば、気持ちも道具がなければ、大騒ぎもしたくなる。

「備え」というのは、そういうものだと思った。
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2016年01月18日(月) 18時59分17秒

悲しいお知らせ

テーマ:ブログ
今夜から明日にかけ大雪だということで、今日は午前中に急遽、自宅の駐車場の雪をどかすことにしました。

保育所の除雪機を借り出し、駐車場脇の雪を畑に飛ばし、どけていきます。

途中までさしかかり、除雪機の排雪口から出てくる雪が黄色っぽいことに気がついた。

見ると




猫の


ウンコがあったらしく…


猫のウンコを粉砕してぶち撒いたようです。



orz

もう、何もしたくない気分。
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2016年01月03日(日) 16時37分04秒

あけましておめでとうございました?

テーマ:説教
保育園の園児が困る言葉遣いの一つに、過去形か現在進行形なのかというのがあります。「ありがとうございます」なのか、「ありがとうございました」なのか、これを使い分けられないのです。

新年を迎えて、「あけましておめでとうございました」という子がいました。無論、正解は、「明けましておめでとうございます」なわけですが、その挨拶に遭遇した時、確かに、あけてしまったんだから、「おめでとうございました」でも良いのではないかとハタと考えさせられます。

新年がめでたいのは、旧年を何事もなく無事に送ることができたということを意味します。故に、親しい者を失った時には「喪に服す」という意味で、喪中欠礼の葉書を出すわけです。「本来でしたらご挨拶に伺うべきところですが、忌み事がありましたので、新年という希望にあふれた時のご挨拶には伺えません」という意味です。

そういう意味では、クリスマスも正月も、今までを振り返ることなくしては迎えられないということになります。つまり、「おめでとう」と言うからには、旧年の感謝と同時に新年の希望が込められなければならないのです。

クリスマスは、12月25日で終わりではありません。1月5日の公現日までをクリスマスとして祝うから、キリスト教ではクリスマスが年越しの行事として扱われてきました。キリスト教でもクリスマスはこの一年の振り返りから始まるのです。

さて、「あけましておめでとうございます」なのか「あけましておめでとうございました」なのかという問いに答えるためには、結局は、「この一年の希望を現実のものとして捉えているか、過去のものになってしまっていないか」という問いを突きつけられていると捉えて考えるべきでしょう。旧年を振り返る時に感謝を覚えるのか不満を覚えるのかによって、おめでとうございますの方向性は変わってしまうでしょう。

新約聖書の第1テサロニケ5章16~18節には「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と書いてあります。しかし私たちは、「そんなことって、できるわけないよなあ」と反感に似た感情を抱いてしまいます。

でも、もう一度読んでみます。「しなさい」であり、「キリスト・イエスにあって神が望んでおられる」のだそうです。そう考えれば、旧年の振り返り方も変わってくるのではないでしょうか。苦しみの中にもあなたは微笑んだはずです。悲しみの中にも感謝があったはずです。旧年もあなたは守られて今を迎えているのです。

「あけましておめでとう」の意味は「旧年も守られました。悲しみも苦しみもあったけど、でも今私はここにいて、新年の歩みを希望を持って始めています」という意味だと思います。「今を感謝する」からこそ現在進行形の「おめでとうございます」なのです。クリスマスや正月が終わって「おめでとうございます」が「おめでとうございました」になってしまっては、「神の望み」は空しいものです。

希望を持って歩むということは、「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して歩む」ということを意味するのです。

新年あけましておめでとうございます。皆様の希望が主にあって豊かに祝福されたものであり続けますように祈ります。
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2015年11月24日(火) 08時19分55秒

引き継がれるもの

テーマ:ブログ
昨日は盛岡に会議の出張が有り、その足を伸ばし久しぶりに仙台に帰ってきました。

実家には母と弟が待っててくれて、こうして、父の代わりに彼のコンピューターの前に座っています。座っている自分の姿を後ろから見る錯覚にとらわれながら、自分のことながら、なんと似た座り方だろうと感心します。

最近、自分の仕草の中や話し方の中に、父の仕草や話し方がいろいろと残っていることを自覚する時が時々あります。そして、子育てをしている私としては、それが今度は息子や娘にも引き継がれていることを実感することがよくありました。

じいちゃん

この写真は、父が温泉に静養に行った時のもの。

一緒に泊まろうと予定を合わせて、待ち合わせた旅館で会った時に、娘が「じいちゃん!!」と飛びついた時の写真です。

父は余命宣告されたあと、「せめて孫娘の入学式は見たいものだ」と言っておりました。そして「しっかりと孫たちの記憶に残る年まで、生きていたい」とも言っておりました。

彼らにはちゃんとした「じいちゃん」の記憶があります。今、青森の我が家では「じいちゃんの話」はよく飛び出てきます。彼らには「じいちゃん」はちゃんと存在しています。ただ、この写真のように飛びつける相手ではなくなっただけ。

彼らは真っ直ぐに、じいちゃんの大切なものを引き継いで大きくなっています。
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