ジオターゲティング
2016年03月06日(日) 09時28分18秒

事業じゃなくて事情で動く

テーマ:説教
 目の前にいる子供もの姿を見たとき、私はただただ「健やかに、心豊かに育ってほしい」と願っています。しかし、その一方で、保育所の園長という立場に立つと、その願いは「事業」になってしまいます。「保育所は子育てを事業として行う所」という定義もできるでしょう。

 年度末にかけて作成している書類にも「保育事業」だの「子育て支援事業」だの事業という言葉が並んでいます。なぜなら、国が定めた「子ども・子育て支援制度」を従い、そこに定められている支援を展開するなかで「事業費」を貰うのが保育所のお仕事だからです。

 振り返ってみて、じゃあ、その制度だけで、子育ては完了するかといえば、それはあり得ないわけで、周囲の人々からの有形、無形の様々な様々な支援がなければ、やはり子育ては難しいと思います。事業という言葉には「損・益」という言葉が必ず付いて回るからです。

 最近、児童の貧困問題がクローズアップされています。先日、この件に関し、設立された「子供の未来応援基金」をめぐり「広報のみではなく、国民運動としての広報・啓発活動として(2億円を)使っている」という国の政策が指摘され、賛否で論争が行われていますが、貧困問題も事業ということになれば、必ずその事業所単位で「損・益」というお金の問題にすり替えられてしまうでしょう。

 子どもの貧困問題は、実は社会の分断という構図を強く描き出しています。共働き当たり前の社会では、子供は学校や保育園、学童施設と自宅を往復するしかありませんし、その一つ一つは事業として行われるべき物でしかありません。その中で、例え、一人の子が貧困状態にあったとしても、それは「(全体的な)事業」では「(個人的な・特殊な)事情」として受け止めざるを得ないわけです。これは、事業所と呼ばれる組織の限界を示しています。

 子ども・子育て支援の支援制度は、制度的には洗練されてきたようにも見えます。しかしながら、その一方で、地域のいたる場所から子供のいる場所は限定されてきました。公園や空き地で真っ黒に日焼けして遊んでいた子供たちは、学童保育や保育所に入れられて姿を消しました。私が子供の頃には学校の近所に必ずあった駄菓子屋ももはや前世紀の遺物のように語られます。制度が前進して、しかし、その一方で、子供の生活空間、生活スタイルはどんどん小さくなってきているのです。制度が拡充される一方で、住民それぞれの横の繋がりは分断され続けています。相手の困難を、自分の困難と受け入れることができなくなってきている時代に突入し、最終的に辿り着いたのが、子供の貧困であったというのは、皮肉なことだと思います。

 ご近所さんの家に入り浸っている子を挟んで、「うちの子がご迷惑をおかけして」「いえいえ、もう、うちの子みたいなもんですから、気にしないで。いつでも遊びに来させて」そういうやり取りが忌避される現在を招いた責任は、私たちそれぞれが制度に甘えてしまい、「自分が隣人から愛されること」と、「自分が隣人を愛することを放棄してしまったこと」の結果であると思わざるを得ません。

「事業ではなく事情で動く」…自分の眼の前にいる人の事情を個人として汲むこと、これこそが隣人愛です。そして、これをできるかを国民である私たち一人一人が問われています。
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2016年02月07日(日) 08時52分14秒

3Kとの付き合い方

テーマ:ブログ
「汚い、危険、臭いの3K」はリスクの代表格です。最近、保育の内容が「行政から求められている」と勝手に思い込みで解釈した「無臭、清潔、安全」の環境を提供することしか考えなくなっているように思います。そして保育所はどこも安全、清潔(そして無臭)を売りせざるを得なくなっています。

 数年前、「猫アレルギーの猫っているかなあ」という冗談を言っていたことがありましたが、先日、数名の小学生が大騒ぎをしていました。聞いてみるとトイレがウンチの臭いで臭くて入れないということでした。その中の二人は「吐きそう」と騒ぎ、本当に吐き気を模様していたのには驚きました。子供達の遊びが、大人主体に切り替わって「臭い、汚い、危険」は徹底的に除去されながら、育てられてきた訳で、そのツケは、思春期に差し掛かる頃顕著に現れます。そういえば、最近では排便の後、「汚い」といって自分のお尻を紙で拭くことを嫌がる子がいるのも気になっていました。

 包丁そのものが怖くて触れない、他人のウンチの臭いに耐えきれず吐き気を催してトイレに入れない、汚れることを気にして仕事に専念できないなど今までの生活では想像もつかなかった、しかし具体的な生活での困難を招いている人が現実にいます。

 「汚いから触った後は手を洗おう」、「危ないから気をつけて使おう」、「臭いけど我慢しよう」と教えることがその子の将来の生活の幅を広げる訳ですが、もう既に、そのようなものに耐えきれない大人が親や保育士になっている以上、保育の中からそのような要素の遊びは徹底的に排除したいという潜在的な思いが働き、結果として保育は室内遊び中心、そして早期教育中心として展開するのが自然な流れになっています。最近では「汚いから、臭いから、危ないから」という理由があれば、最近では人を避けても良いという風潮も世の中に見受けられるようになってきました。冒頭の子のように具体的に身体症状に出るほどになってしまえば、「臭いがするようにしているのが悪い」、「身綺麗にして臭わないようにするのが常識でしょ??」、「自業自得!!」と強く出る人もいます。「猫アレルギーの猫」ならぬ「人アレルギーの人の存在」が冗談では語れない時代になるのかもしれません。

 しかし、生物としてみた時に「臭い、汚い、危険」のいわゆる3Kは、幼児の頃に体験しなければいけないものに該当します。最初にたくさんの人に抱かれて「人間の臭い」を覚ます。保育園のお泊まり保育でやっている肝試しの時、お化けに抱きつかれた一人の園児が、「あ、この臭い、◯◯先生だ」とお化けの変装には全く気も留めずに抱きついたことがありました。

 「お手伝い」という大人の真似事をしながら危険を身につけます。年下の子達に、「こうやると危ないから、こうやって」と教えていた子がいました。

 驚くほど泥まみれ、砂まみれになって遊んで、手が汚れるのを嫌がる子に対して「汚れても最後に洗えばいいんだよ」と平気な顔をしていた子がいました。 平時にあっては安全、安心、良い香りばかりの生活は大切です。しかし、一つでもその歯車が崩れた時に、その快適性が奪われた時にも支障をきたさないだけの生活力を身につけなければいけないのです。

 3Kと付き合う方法を身につけた人は自身と周囲の人を幸せにできるのです。
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2016年01月24日(日) 08時15分04秒

大雪の騒ぎ

テーマ:ブログ
東京で雪が降ったと大騒ぎしているのを津軽から見ると、「何をそんなに…」と思ってしまう。

しかし、よく考えてみれば、大騒ぎする地域は、スタッドレスタイヤだって装着率は低いだろうし、スコップだって置いていないうちも多いだろう。除雪機なんか皆無に近いだろうし…。

そこに10センチ以上積もれば、事故は続発、移動も困難ということになるだろうし、降雪を想定していない設計の施設は壊れてしまう。

津軽では、深夜から早朝に除雪車が出動し、その後、それぞれが自宅や職場の前をいろいろな機材を駆使してやっているわけで、除雪車が出ない、機材がない状態なら、やっぱり手も足も出ないに違いない。

私だって雪が降ったら大騒ぎするところ出身の人間だ。津軽に来たのは8年前。除雪体験は、8シーズン目。毎朝4時30分に起き、防寒具を着て、5時から除雪に出るのも、何の苦もない日課になった。「降って当たり前」という気持ちと「道具」があれば、そんな風になる。

逆に言えば、気持ちも道具がなければ、大騒ぎもしたくなる。

「備え」というのは、そういうものだと思った。
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2016年01月18日(月) 18時59分17秒

悲しいお知らせ

テーマ:ブログ
今夜から明日にかけ大雪だということで、今日は午前中に急遽、自宅の駐車場の雪をどかすことにしました。

保育所の除雪機を借り出し、駐車場脇の雪を畑に飛ばし、どけていきます。

途中までさしかかり、除雪機の排雪口から出てくる雪が黄色っぽいことに気がついた。

見ると




猫の


ウンコがあったらしく…


猫のウンコを粉砕してぶち撒いたようです。



orz

もう、何もしたくない気分。
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2016年01月03日(日) 16時37分04秒

あけましておめでとうございました?

テーマ:説教
保育園の園児が困る言葉遣いの一つに、過去形か現在進行形なのかというのがあります。「ありがとうございます」なのか、「ありがとうございました」なのか、これを使い分けられないのです。

新年を迎えて、「あけましておめでとうございました」という子がいました。無論、正解は、「明けましておめでとうございます」なわけですが、その挨拶に遭遇した時、確かに、あけてしまったんだから、「おめでとうございました」でも良いのではないかとハタと考えさせられます。

新年がめでたいのは、旧年を何事もなく無事に送ることができたということを意味します。故に、親しい者を失った時には「喪に服す」という意味で、喪中欠礼の葉書を出すわけです。「本来でしたらご挨拶に伺うべきところですが、忌み事がありましたので、新年という希望にあふれた時のご挨拶には伺えません」という意味です。

そういう意味では、クリスマスも正月も、今までを振り返ることなくしては迎えられないということになります。つまり、「おめでとう」と言うからには、旧年の感謝と同時に新年の希望が込められなければならないのです。

クリスマスは、12月25日で終わりではありません。1月5日の公現日までをクリスマスとして祝うから、キリスト教ではクリスマスが年越しの行事として扱われてきました。キリスト教でもクリスマスはこの一年の振り返りから始まるのです。

さて、「あけましておめでとうございます」なのか「あけましておめでとうございました」なのかという問いに答えるためには、結局は、「この一年の希望を現実のものとして捉えているか、過去のものになってしまっていないか」という問いを突きつけられていると捉えて考えるべきでしょう。旧年を振り返る時に感謝を覚えるのか不満を覚えるのかによって、おめでとうございますの方向性は変わってしまうでしょう。

新約聖書の第1テサロニケ5章16~18節には「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と書いてあります。しかし私たちは、「そんなことって、できるわけないよなあ」と反感に似た感情を抱いてしまいます。

でも、もう一度読んでみます。「しなさい」であり、「キリスト・イエスにあって神が望んでおられる」のだそうです。そう考えれば、旧年の振り返り方も変わってくるのではないでしょうか。苦しみの中にもあなたは微笑んだはずです。悲しみの中にも感謝があったはずです。旧年もあなたは守られて今を迎えているのです。

「あけましておめでとう」の意味は「旧年も守られました。悲しみも苦しみもあったけど、でも今私はここにいて、新年の歩みを希望を持って始めています」という意味だと思います。「今を感謝する」からこそ現在進行形の「おめでとうございます」なのです。クリスマスや正月が終わって「おめでとうございます」が「おめでとうございました」になってしまっては、「神の望み」は空しいものです。

希望を持って歩むということは、「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して歩む」ということを意味するのです。

新年あけましておめでとうございます。皆様の希望が主にあって豊かに祝福されたものであり続けますように祈ります。
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2015年11月24日(火) 08時19分55秒

引き継がれるもの

テーマ:ブログ
昨日は盛岡に会議の出張が有り、その足を伸ばし久しぶりに仙台に帰ってきました。

実家には母と弟が待っててくれて、こうして、父の代わりに彼のコンピューターの前に座っています。座っている自分の姿を後ろから見る錯覚にとらわれながら、自分のことながら、なんと似た座り方だろうと感心します。

最近、自分の仕草の中や話し方の中に、父の仕草や話し方がいろいろと残っていることを自覚する時が時々あります。そして、子育てをしている私としては、それが今度は息子や娘にも引き継がれていることを実感することがよくありました。

じいちゃん

この写真は、父が温泉に静養に行った時のもの。

一緒に泊まろうと予定を合わせて、待ち合わせた旅館で会った時に、娘が「じいちゃん!!」と飛びついた時の写真です。

父は余命宣告されたあと、「せめて孫娘の入学式は見たいものだ」と言っておりました。そして「しっかりと孫たちの記憶に残る年まで、生きていたい」とも言っておりました。

彼らにはちゃんとした「じいちゃん」の記憶があります。今、青森の我が家では「じいちゃんの話」はよく飛び出てきます。彼らには「じいちゃん」はちゃんと存在しています。ただ、この写真のように飛びつける相手ではなくなっただけ。

彼らは真っ直ぐに、じいちゃんの大切なものを引き継いで大きくなっています。
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2015年11月04日(水) 19時45分19秒

「にじの樹」

テーマ:訪問看護ステーション事業
今日、突然の来客がありました。

「先日までにじの樹でお世話になった者の家族です」と。更に、「にじの樹がなければ、あのようには看取れませんでした。本当にお世話になりました」とのご挨拶をいただきました。

聞けば、訪問看護ステーションにじの樹の事務所に挨拶に行って下さり、更に私を訪ねて保育所まで来てくださったということでした。

誠実に看護してくれた職員の看護師たち、そして私たちに身を委ねて下さった患者の方、そして一緒に病と戦って下さったご家族に対して、ただただ感謝の思いでいっぱいになりました。
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2015年11月02日(月) 18時22分51秒

ディズニーリゾートに行ってきました 白雪姫お帰りなさい。

テーマ:子供たち
さてはて、何とかビビディ・バビディ・ブティックで、お化粧をしてもらうつもりになってくれた娘。こうなれば手馴れたもの。美容師さんの話術に娘も引き込まれていきました。

二人掛かり


こちらも余裕ができたので、あちこち見回せば、それはもう、やっぱりディズニーらしいこだわりが随所に見られて面白いです。

ティアラ


娘の髪に合わせて、ウィッグもつけ、最後にティアラを乗せます。

完成


これで完成。

最後は「ビビディーバビディーブー」の掛け声で、椅子をくるっと回し、本人に鏡を見せるという趣向。これには娘も照れながらも満足した様子でした。

その後、頼み込んで、持参した衣装を着せて頂きました。娘も少しは満足したようでした。その後、ホテルの庭園で記念撮影をして、ディズニーランドへ。

コーヒーカップ


この格好をして歩いていると、スタッフの方々が、「ごきげんよう、白雪姫!」とあちこちから声をかけてくれます。シンデレラ城へ行けば、スタッフの方が「お帰りですか?」と声をかけてくれ、私が「いえ、明日帰ります」などと本気で答えたら、「いえ、姫にお伺いしたのですよ」と…。夢の世界に浸るのは難しいですね。(^^;

結局、娘は、この髪型を気に入り、服は脱いだものの、そのまま眠りにつきました。髪をといたのは帰宅後でしたとさ。
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2015年11月01日(日) 08時21分59秒

幼稚園と保育所と

テーマ:ブログ

 先日、ある会議の中で、幼稚園の方々が痛烈に保育所を批判しておられる様子に接する機会がありました。「保育所は教育を行っていない、単なる託児所だ。それを綯い交ぜにする新制度に対して私たちは声を上げなければならない」とそういうものでした。いろいろな場面で、このような声が上がっているということは、間接的には聞いていましたが、直接耳にするのは初めてでした。

「保育所だって教育をやっている」と論証しようとしたって、それは無理というものです。そもそも法的な根拠が違うのですから。間違えないように言っておくと、幼稚園と保育所は全く違う性格を持つべきものです。幼稚園は教育を、保育所は福祉を担当させられているわけですから、それは当然というべきものです。もう少し言えば、幼稚園は幼児に対して教育をする施設であり、保育所は全ての幼児の福祉を守り、そのために実践するべき施設であり、それはどちらか一方あればいいというものではありません。「それらを綯い交ぜにする」と考えるか「それらが連携しなければならない」と考えるのかは、唯一それが属する文化の懐の広さに拠ります。

 ご存知の通りつがる市では、去年度末で考えれば、保育所が14園に対し、幼稚園が3園という具合に保育所が多かったのは、保育所という機能を市民は圧倒的に必要としていたからということです。つまり、第一次産業(農魚業)、第二次産業(製造業)が中心である地域にとっては、幼児を預かる施設が何より必要とされていたことを意味します。そのため、西津軽郡最初の保育所として設立された木造保育所の創設期においては、西津軽郡内の公立保育所の設置に協力することが求められたわけです。

 一方、幼稚園の元は寺子屋でした。読み・書き・算盤を教えるところから出発し、その後、情操教育を手厚くしながら発展してきたのが幼児教育なのです。ですから、第三次産業(商業)が盛んな地域で幼稚園は発展してきました。そういう意味では、住み分けができていたのでしょう。しかし、第三次産業が24時間型の経営形態に移行する中で、子育て世帯は幼稚園に通わせることが難しくなっていきます。二者択一を求めるようなこれまでの制度の中では保育所を求める声が圧倒的に増えたことは想像に難しくありません。全国で待機児童という言葉が問題視されているのも、労働力の確保という本来児童福祉とは別次元のものが優先された結果でしかないのです。

 だからこそ、冷静になって考えてみなければなりません。今後少なくなっていく幼児を取り合うのであれば、それは一人のお子さんどころか、その地域の福祉や教育を薄くするだけの話になってしまうからです。教育も福祉も、地域や幼児の幸せを願って展開されるべきものであると確信します。

 子供達の未来を守るのは、大人の等しい義務であり責務です。子供がいないからとか、独身だからとかそいういう理由は成り立ちません。そして、子供には守られ、教育を受ける権利があります。親に問題があるからとか、障害を持っているからという理由も成り立たないのです。

 そして、私たちは自分が子供達に対しても不完全であることを知るべきです。そして、たくさんの人たちと連携し、協力しあって、知恵を出し合って、一人一人の子供に対して最善を提供するために模索を続けていくことが私たちの責務だともいます。
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2015年10月07日(水) 18時56分31秒

なすべきこと

テーマ:保育所
園長に就任した最初の職員研修の時に「児童虐待」のことを話したが、職員たちは「それって、都会の話でしょ?こっちではあり得ない」という顔をしながら聞いていた。

数年前青森でネグレクトの問題が報道された時、その内の一人が「あの時は、田舎であるこっちの方でそんなことが起こるなんて信じられなかったけど、園長先生が言ってた通りでした」と話しかけてきた。

保育所だけでは見えない事実。保育所は給食があり、職員たちの愛情があり、兄弟とも呼べる友達にも恵まれている。

以前、私と同い年の方から聞いたのは、とても切ない話だった。

「うちはシングルマザーだったから、保育所を卒園してからは、小学校の帰りに保育所に妹を迎えに行って、家に帰って、冷蔵庫から夕食を出して、チンして食べてた。保育所にいた時が一番幸せだったよ。」

今から、40年前、高度経済成長の真っ只中にあった時代にも、そういう現実があったことに驚いた。そして、現代も「(学校が休みになり給食が出ない)夏休みに痩せる子どもたち」のことが問題になっている。

「子は国の宝だ」と言う。

しかしある人々は、「それも親の自己責任だ」とか「そういう体験も大事ではないか」などと取り合おうとしていない。

さらに言えば、「子は人類の宝」であるはずだ。

「子は親を選べない」し「子は一人では生きていけない」し「子は政治(国や制度)を選べない」のは厳然たる事実だ。

子は親を必要とし、親子は助けを必要とし、助けは政治(国や制度)を必要とする。

だとすれば、制度を研究し、親を助け、そして一人の子を支えることは、社会を構成する私たちの責務だろうし、曲がりながらも児童福祉施設を営む私のなすべきことであると思っている。

それにしてもやるべきことが多すぎる。

でも、自分の全知全能を注ぎ込む価値のあることだろうと思うと奮い立つ反面、思い上がってしまうかもしれない恐ろしさも生まれる。

謙虚に、しかし大胆にやっていこう。
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