ジオターゲティング
2016年09月11日(日) 21時35分42秒

ベールの内側…血抜きの儀式に迫る

テーマ:千葉家新報
お父さんが、久しぶりに血抜きの儀式に参加した、と発表した。
 
お父さんはこの儀式にもう、28年参加していると言う。
 
今回、本紙はお父さんに内部の潜入レポートを依頼した。この儀式に参加する人が増えてくれればとの返事と共に快諾を得た。
 
長年秘密のベールに覆い隠された儀式の全貌が伝えられるのは今回が初めてであると思われる。
 
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私が年に1度は参加をしている密儀について今回90回目の参加を記念してレポートをいたします。
 
まず、この儀式を受けるためには神官のカウンセリングを受けなければいけません。カウンセリングでは神官に質問を受ける形で行われますが、私が最初の儀式の地が京都であるこ、また、直近ではアキバで行ったことまで言い当てられ、なんでもお見通しで驚きました。
 
更には、90回もこの儀式に参加していることも判明し、お褒めの言葉と、これからも頑張るように励ましのお言葉を頂き、感激しました。
 
いよいよ儀式に臨めば、白衣の巫女さんにいい血管してるから5分くらいで済みますね〜と褒められました。
 
儀式も無事終了し、お振る舞いにラップとティッシュ、ボールペン、お神酒の代わりに清涼飲料を頂きました。
 
抜かれた血が、お役に立ちます様にお祈りをして、神殿を後にしました。
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この問題に詳しいお母さんは、「この団体は、赤い十字架を掲げて儀式を行っており、世界中にその支部を置いて活動しています。穏健な団体ではありますが、最近ではこの様なイニシエーションにお父さんの様にのめり込む人も少なくありません。回数に裏付けられた懸賞システムなどによって、信者は知らないうちに競争意識が植え付けられてしまいます。まあ、人命を救うためにはやむをえないのかもしれませんがね。」と語った。
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2016年09月04日(日) 08時26分31秒

汝の隣人、汝の敵

テーマ:説教

 先日、藤崎で中学生が電車に飛び込み自殺したというニュースに触れました。ついに青森でもそういうニュースが出たことに大きな衝撃を覚えました。

 

 私は牧師であると同時に、児童福祉施設である保育所の所長です。こういう事件に出会うたびに、自分には一体何ができるのだろうかと考えている自分がいます。

 

 先日、ある若い女性が礼拝堂から出てくるところに鉢合わせました。手には以前卒園記念で送られていた聖書が握られていました。これは悩み事でもあるのかと思って声をかけますと、「実は園長先生を探しているのです」との答え。聞いてみれば、3代前の小池園長を訪ねてきたということでしたので、「先生は異動されました。今は私が牧師であり園長です」とお伝えしましたら、質問を受けたのが「汝の敵を愛せ」と書いてありますが、その意味がわかりませんということでした。この「汝の敵を愛せ」という言葉はキリスト教の教義を示す時によく使われる者でもありますが、一方で、私も、牧師としていろいろな出来事に遭遇する傍らで、「汝の敵を愛せ」とは一体どういうことなんだろうかと時々思いを巡らせます。

 

 マタイ5章43-45節では、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とあります。これを見る限り「愛する」というのは「心を向ける」とか、「思いを尽くす」という意味合いで使われていると思われます。もっと言えば「殺すな、生きさせよ」というメッセージだと思うのです。

 

 先ほど紹介した卒園生の女性の来訪は、私が「キリスト教保育とはなんだろう?」ということグルグルと考えていた矢先のことでした。

 

 彼女のことを覚えていたり担当したことのある保育士がほとんどだったので、保育所を案内しましたら「懐かしい!私のことを覚えてくれてた」とだんだん彼女の顔が明るくなってきました。その姿を見て、私が木造保育所というキリスト教保育実践の施設の所長として求められていることの意味は、「敵の子供でも受け入れよ」ということなのだと今更ながら思い知らされました。そして愛とは「最後の最後まで共にいること」というなのだなあと思いました。

 

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:47)

 

 完全とは、最初から最後までという時間的な概念も含まれるものでなければなりません。ある時は「受け入れてくれた」、ある時には「受け入れてくれなかった」と一期一憂するのではない、過去から未来を突き通す一本の芯が「敵を愛する愛」ということになるのだと思うのです。

 

 子供達は成長と共に、大人を挑発もします、裏切ります。そして、彼らは敵・味方で判断するようになっていきます。それでもなお「自分の子供の時を覚えてくれていて『お前が小ちゃい時には…』と言われると敵わない、そういう人」を彼らは成長と共に欲するようになっていきます。私たちだってそうじゃないですか。

 

懐かしい人を思い出してみましょう、会ってみましょう。

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2016年08月23日(火) 17時12分03秒

消えるお手伝い

テーマ:ブログ

「子供の育ちを保証する」ことはなんと難しいものなのだろうと思います。

 

自分が子供の頃に当たり前だったものが、当たり前ではない時代、しかし、その一方で、「現代の当たり前」が子供の育ちを奪っていることは、まかり間違いようのない事実です。お手伝い一つにしてもそうです。掃除も洗濯も、ボタン一つで終わらせられる世の中になってくると、子供に巡ってくるお手伝いのチャンスが消えるわけです。

 

大人も忙しくなってきましたから、子供に手伝わせるのは非効率的だというふうに思う向きも増えています。そんな中、保育所は第二の家庭としての機能を求められ始めました。

 

園児はみんなお手伝い好きです。

 

「先生、お手伝いしたい」とみんなが訴えてくるのは、そういう理由かなあと思います。生活習慣をはじめとして、様々なことをこれからも経験してもらう努力をしなければいけないと感じています。

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2016年08月22日(月) 17時29分24秒

コミュニティーススペースにじの樹

テーマ:ブログ

「保育支援センターにじの樹」内に、妊産婦サロン(仮称)の部屋を確保しました。

コンセプトは以下の通りになります。

 

対象:①妊婦もしくは産後の母親
   ②子育て中の母親

目的:対象者の居場所の確保を前提に、母親同士の情報交換、産前産後の相談支援や情報提供などを行う場所とする。

 

設置にあたって:
つがる市の「子ども子育て支援」の実態は、子供の処遇については、保育料の軽減策や、医療費の中学までの無償化など数多くの支援策が盛り込まれていますが、産前産後の支援については、まだまだやるべきことが山積しています。

 

特に、産前産後については保健師の巡回指導などしか実施されておらず、初産の母親にたいする支援はまだまだ拡充しなければならないと考えています。

 

私事になりますが、転勤族の我が家では、一人目の子供が生まれた時には退院後の生活は試行錯誤の連続でした。病院で数回練習しただけで、授乳や沐浴などを退院したその日から行うことは相当勇気のいることでもありました。

 

そのような経験から、産休入りしたお母さんたちの居場所の確保と伴奏支援の必要性を実感し、妊産婦を中心にした母親のコミュニティースペースとするべく、この部屋を整備しました。

 

なるべく早期の正式運用を考えておりますが、現在は、上記コンセプトを実現するために、試用期間として解放してまいります。お近くにお越しの際は、ぜひお寄りいただければ幸いです。

 

 

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2016年07月10日(日) 07時00分00秒

選挙に行きましたか?

テーマ:ブログ
現在、ちょうど朝7時です。

今日は、大切な国政選挙が行われる日です。

選挙に行きましょう。

最近は、何かと言えば「政治的な問題」と指摘され、「中立を守れ」ということを言われます。

「中立」という概念をどのように捉えるべきなんでしょうか?

中立とは概念的には「何もしないこと」というふうになってしまう風潮が強いと思います。
「時代の変化を望まない思想」こそが中立なのだと思っていないでしょうか?

でも、中立とは時代の変化を受け入れることではないでしょうか?

時代の変化をどのように受け入れるかを「中立」は問われているのです。

人間は生きています。

生きるということは、多くの人に世話になり、多くの人に迷惑をかけることです。
そして、多くの人の世話をし、多くの人の迷惑を引き受けることが生きるということです。

時代は絶えず、難問を私達に突きつけながら変化していきます。

私達は、その変化をどのように受け入れるかを数年に一度、国政選挙で表明するのです。

そして、実際、その変化は私達に結果として負わされていくのです。
選挙に行っても行かなくてもです。

だから、選挙に行きましょう。

中立を自認するからこそ、選挙に行かなければなりません。

選挙に行きましょう。
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2016年07月03日(日) 08時07分23秒

どうなるのかではなく、どうするのか

テーマ:説教
大都市圏などの待機児童が多い地域においては、保育所が足りないことを理由に、「企業主導型保育事業」という制度が新設されました。これは、福利厚生の観点で「企業が社員に対して無認可保育所を設置できる」制度で、「地域子ども・子育て支援計画」に規制を受けない無認可保育所ですが、その一方で保育給付金は満額受け止めることができるとした画期的な内容です。無論、企業が設置する保育所ですので、社員の子に対しては福利厚生費から保育料を割り当てて実質無償化することも可能ですし、企業の都合に合わせて営業時間や営業日を定めることができる自由度の高さも魅力です。社員は結婚や出産に向けて何の心配もなく就職できるわけですから人材確保にも大きな宣伝材料になります。保育所の施設長で、情報収集に気を使っている私でさえ全く寝耳に水でした。もうすでに企業関係者は、敏感に反応し、内閣府の主催で三回行われた説明会はどれも満員だったそうです。

今の所、5万人という定員枠を設けての先着方式で行わせることを政府は考えているようですが、このタイプの保育所がある程度実績を上げた場合には、制度そのものが、そちらに移行していくことも保育所経営者としては、覚悟しておいたほうが良いと思います。もし仮にそうなった場合、現行の認可保育所や認定こども園の職務は、完全に子どこ・子育て支援制度を支える方に回らなければならなくなるからです。

実はこんな大変革は、保育所に限ったことではなく、これからあちこちに起こってきます。その胎動も見えてきています。なぜなら、これらのことは国際条約によって定められたことだからです。国際条約は憲法以外の法律の上位に位置し、それまでの内容の変更を迫るからです。

一方で、こういう激変期には「これからどうなるんだろう」という心配が私たちを襲うことになります。人間とは不思議なもので、こういう時の思考というのは、「強がりながら消極的」というものになります。「何考えているんだ」と相手を疑い、その一方で自分自身はそれに即応できないためにこれまでの制度を守り保証してもらえるように動こうとします。そして人間は排他的保守主義に陥るのです。しかし、現実はどうでしょう。その排他的保守主義は常に使い捨てられる運命にあります。先日、国民投票でEU脱退を決めたイギリスの混乱を見れば一目瞭然です。そしてこれから日本もそんな時代に突入するのです。

日常のいろんな場面で「これから一体どうなるんだろうね」という言葉を口にし、耳にします。しかし、信仰は聖書を通じて「これからあなたは一体どうするんだい?」と私達一人一人に問いかける神の声を私達に伝え続けています。

「(イエスは言った)さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ福音書10章36~37節)

「どうなるんだろう?」と私達が考えるのであれば、神様は「どうしたい?」と聞き返されるでしょう。その時こそ、私達は希望を口にしましょう。そのことによって「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということ」(ローマ5章3~4節)を私達自身に体現するのです。

それぞれの希望とお働きに主の祝福がありますように祈ります。
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2016年06月06日(月) 06時11分44秒

情けは自分の為なり

テーマ:説教
皆さんは自分は幸せだと思っているでしょうか?それとも自分は不幸せだと思っているでしょうか?それはどうしてでしょうか?よくよく考えてみれば、幸せも不幸せも「他人と比べて」という話か、そうでなければ、「過去と比べて」という話で判断するのではないかと思います。よく、不幸に見舞われたとき、「私は何もしていないのになんでこんな目に合わなければいけないのだ」と口走るのは、そんな現実からなのだろうと思います。その一方で、幸運だなあと感じるときだって、子供が生まれたとか、恋人ができたなど相手があることによって味わえる感情です。

よく知られた「情けは人の為ならず」は、最近誤用が後を絶たない慣用句の一つとして紹介されますが、じゃあ、正解は?と問うと「「情けは人の為ではない、(巡り巡って)自分のためなのだ」という意味づけが一般的に言われています。でも、この「巡り巡って」はどこから現れたのでしょう。
 古語の文法に照らして考えても、本来は「人の為なり(古語:「だ・である」という「断定」の意)+ず(打消)」、すなわち「他人のためではない」となるわけです。そして、それは「自分のためだ」という意味に転換されます。

じゃあ情けとはそもそもなんでしょうか?辞書で調べると「1 人間味のある心。他人をいたわる心。人情。情愛。思いやり。2 男女の情愛。恋情。また、情事。いろごと。3 風情。おもむき。あじわい。 4 もののあわれを知る心。風雅を解する心。風流心。」とあります。つまり、情けとは、その人らしさを表すものであり、情けとは自分の心そのものなのです。

「あの人は情け深い」と褒める言葉がありますが、それは、立ち居振る舞いに心が籠っている人に対する褒め言葉です。逆に言えば、「薄情」という言葉は、立ち居振る舞いが場当たり的で自己中心的な人を指す言葉です。これを容れて、現代語に直訳すれば、「心は人のためにあるのではない」となり、転じて「心は自分のためあるのだ」ということになります。自分が自分であるために心はあると考えれば、「情けをかける」ことは自分が自分であるためにやってしまう行為と言うことになります。イエスは「サマリア人の喩え」の中で、情けをかけることを「隣人となる」と教えました。

先だって、イジメを受けた子に対して、同級生の女の子が二人、「今度は私たちが助けるから早く学校に来てね」と手紙を出した話を耳にしました。いい話だなあと思う一方で、この二人の女の子の決意が見えてきました。多分、彼女たちは、イジメの現場に遭遇しても止められなかったことを悔いていたのでしょう。そして「今度同じようなことがあったらは私たちが助ける」と決意をしたからこの手紙を出すことができたのでしょう。

私たちは、出会いの中で、心を成長させていきます。多くの人々との歩みの中にあって、ある時には喜び、ある時には怒り、ある時には哀しみ、ある時には楽しみ、そうやって、自分の心が育てられてきたことを知るでしょう。「情けは人の為ならず」はそのような歴史を背負っている自覚の上に立ち、自分の過去を否定しない強さを持って行うからこそ、そう言い切れるのだと思います。「情けは人の為ならず」とは、実は「自分が自分であるための、プライドをかけた行い」であり、自分の心を磨き続けることなのです。
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2016年05月03日(火) 12時42分57秒

にじの樹無料解放デー

テーマ:子供たち
「保育支援センターにじの樹」無料開放デー。

今日はうちの子供達をひっくるめて、10人の子供達とにじの樹で、まったりと過ごしています。

無料開放なので、スタッフも私ともう一人の二人だけ。自主事業でやっているので、保育所の職員を動かすわけにもいかず、今日は子供の解放区として、やっとります。

「ゲーム、タブレット、漫画何でも持ってきていいよ。」と。

でも、見ていれば、ゲームもやるものの、外に出て走り回ってみたり、学校ごっこで盛り上がってみたり…。昼食後は、まったりと過ごしています。

ちょっと聞いたら、「にじの樹でいっぱい遊びたいから宿題は家でやってきた」と言っていました。

ゲームはだめ、漫画も読むな、ゴロゴロするな、宿題しろ、先生が決めた遊びでみんな楽しく…って無理がありすぎると思うのは、私だけかしら?

40年弱前になる私の小学校の思い出は、近所の子たちと毎日のように外で遊んでる思い出がたくさんあります。でも、本当にそればっかりでしょうか?

強烈な体験が思い出となります。でも、そればっかりではないはずです。

そう、子供の頃のことを思い出すと、毎日外にでて走り回っていたわけじゃないって記憶が蘇ってきました。

友達とゴロゴロしながら過ごしていたこともあったっけ。

今の子供に必要なのは、自由だと思うのです。

どこに行っても大人の監視がつき、大人が提供する遊びに興じさせられる…

それが窮屈だと彼らは体で語っているような気がします。
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2016年04月04日(月) 19時59分43秒

主の復活おめでとうございます

テーマ:説教
最近、日本でも認知を得てきたイースターですが、イースターは復活祭とも呼ばれ、墓に葬られたイエスが復活した日を覚えるキリスト教のお祭りです。

今年のイースター(復活祭)は3月27日でした。「今年の」と断らなければならないのは、イースターがもともと太陰暦にしたがって決められた日であったため、年によって太陽暦での日付が変わるからです。イースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められ、復活祭は3月22日から4月25日の間のいずれかの日曜日になります。

「イースターを春を迎えたことをお祝いする行事」と紹介される場合が多いですが、本来は四旬節という主の受難の苦しみを味わうイースターまでの40日間と対にして考えられるべきお祭りです。敬虔なキリスト教の地域では、祝い事はこの期間には行いませんし、この期間、肉、乳製品、卵などの動物性の食物を食べる事を禁じられるので、イースターエッグをはじめとした肉、乳製品が久しぶりに食卓を賑わす日でもあります。そういう意味ではクリスマスよりも盛り上がる地域もあるほどです。ただ、「死からの復活のお祝い」とするといかにも胡散臭いので「春を迎えたことを祝う行事」と紹介するのでしょう。

サバイバーという言葉があります。「事故や事件、災害などに遭いながら生きのびた人、闘病中の人、またはその病気の経験者」を指した言葉です。彼らは「自分はいわば一度死んだ人間」という概念を強制的に獲得させられた人たちということもできるでしょう。そして、彼らがその死地を乗り越えて辿り着いた考え方や行動が多くの人々には想像もできないような素晴らしい結果を導くため、このサバイバーという言葉は、「死地を乗り越えた」という尊敬の念を込められて語られます。

その一方で、サバイバーギルトという言葉も存在します。こちらは「奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと」です。彼らもその思いから這い上がるために様々な言葉や行いを起こしていきます。

前者が「生き残ったことに祝意を持って周りが尊敬する概念である」のに対し、生き残った本人は「生き残った罪悪感から突き動かされる概念」という悲壮なイメージが付きまといます。この両者を結ぶ切っ掛けが聖書であるということができると私は思っています。

イエスは、サバイバーではなく、復活者だからです。無から始まり死で終わる私たちの人生は、死の前で絶えず沈黙してしまわざるを得ません。しかし、私たちは感覚的に死が無であるとは受け入れられないのです。近しい者がたとえ死んだとしても、その存在を無と考えることはできないのです。私たちは、私たちの周囲に絶えずその息吹を感じるではないでしょうか。

イエスの復活は、死からの復活が眠りから覚めるような気軽なものであることを証ししています。だからこそ、死を恐れずに、生きることにこだわらず、罪悪感を持たずに、正しいことを堂々とせよと聖書は私たちに語っています。「復活おめでとうございます。」という言葉は、その息吹の存在に確証を与えます。私たち一人ひとりは、生という一点で死を乗り越えて結ばれているのです。主に人生を委ねるということはそういうことだと思います。
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2016年03月13日(日) 08時03分24秒

独り言

テーマ:ブログ
世の中、どうしてこんなにお金お金と騒ぐようになったのだろう。もはや命の価値さえお金で換算されるような時代になってきた。

福祉を展開するはずの保育業界にあっても「経営戦略」などという言葉が当たり前に飛び交っている。

感動さえ、憎しみさえ、お金を生み出す道具に使われ始めてはいないか。

作り話としか考えられない逸話に感動の拍手を送り、自分たちは関係ないと孤立化の一途をたどる。

人と人の結びつきは国を強くし、国の強さはお金の価値に現れる。

でも、お金は人を結ばず、切り離す。

お金は人を結ばない。愛が人を結ぶのだ。
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