ジオターゲティング
2013年01月28日(月) 19時15分07秒

感謝を忘れると…

テーマ:政治
ここ数日、教員の駆け込み退職の話題で持ちきりです。そりゃあ、今の学校制度で担任も引っくるめて多くの教員がやめられてしまえば、パニックになるのもわかります。でも、その結果、「生徒より金を取るのか!」とか、「卒業を待たずに生徒を放り出して無責任だ」などという声が、テレビなどでも取り沙汰されていますし、その一方で駆け込み退職をした教員の苦渋に満ちた声なども紹介されています。

でも、どうなんでしょう?

これらの言葉によれば、例えば、「どんなことがあったとしても教師が辞めるのは3月末でなければならない」と言うことを意味していませんか?

教師だって人間です。個人の事情、家族の都合、病気などがあるはずです。結婚だってするでしょうし、女の人であれば出産だってあるでしょう。そんな中「担任なのだからクラスを放り出せない」といって、結婚式を3月末に持ってきたり、育休も最低限の取得で復帰したりしていたなあと、自分の学生時代を振り返りますし、また、病気なのにも関わらず責任感の故復帰され、命を削るように勤務をしていた先生も知っています。でも、それは教師側の善意でしかありません。

その善意にべったりとぶら下がってきたのが、現在の教育システムの問題が露呈したに過ぎないと私は思っています。学校とは何をするところなのかと言うことをもう一度、利用者である私達がしっかりと検証しなければならないと思うのです。

学校の担任になってしまえば、有給休暇は疎か、生活や事情についての行動も憚られる様な雰囲気は、強制されるべきものではありません。あくまでそれは教員の善意に基づくものであることを理解し、感謝することからはじめるべきだと思うのです。

最近の日本は、「安かろう」に傾き、結果、「悪かろう」を招く悪循環を来しています。福島の手抜き除染問題にしても、そして青森の除雪問題にしても、官が安く買い叩き、真面目な人がその割を食ったり非難され、その結果、行政サービスの質が落ち、地域の生産性自体が落ちていくという悪循環を断ち切る事が出来ないで居ます。

「聖職であれ」という権利は誰にも持ち合わせません。それでも、そうあって貰いたいのなら、給料が払えないにしても、「聖職であろう」とする人に目を向け、感謝し、支える決意を示さねばなりません。

「まず隗より始めよ」という言葉があります。どうすれば賢者を招くことができるかと燕の昭王に問われたときに郭隗が、「まず私のような凡人を優遇することから始めて下さい。そうすれば優秀な人材が集まってくるでしょう」と言ったという、『戦国策・燕』にある故事に基づく言葉です。

退職金や給料は補填できないかも知れませんが、でも、その前に教員に感謝を向けることは誰にでも出来るでしょうし、それだけでも、先生方にとって、大きな支え、大きな喜びになるでしょう。そして、それが先生方の成長にも結びつくのです。教育はシステムではなく、人でなるものなのですから…。


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2013年01月24日(木) 00時15分05秒

自民党憲法改正草案を後ろから読んでみる…番外編(人間の尊厳…麻生発言に思う)

テーマ:自民党憲法草案
「出来る限りの手を尽くしましたが…、残念です」と医師が臨終を宣告し、それに対して家族が「ありがとうございました」と涙ながらに深々と頭を下げる…一昔前のドラマなどで、看取りのシーンによく聞かれた台詞ですが、30年ほど前までは、私達は治療は死との闘いであるという風に思っていました。

医師が足りない時代、まだ、医学が進歩していない時代、臨終の際のこのやり取りに象徴される人間の尊厳とは、死の瞬間まで医師が立ち会い患者と共に死と闘ってくれることだと多くの人が受け止めていたことを示します。

ところで、麻生財務相がその終末医療について、下記の様な発言をしたことを知りました。

ここから===================

 やっぱり現実問題として、今経費をどこで節減していくかと言えば、もう答えなんぞ多く(の方)が知っておられるわけで。高額医療というものをかけてその後、残存生命期間が何カ月だと、それに掛ける金が月一千何百万(円)だ、1500万(円)だっていうような現実を厚生(労働)省が一番よく知っているはずですよ。
 チューブの人間だって、私は遺書を書いて「そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから」と渡してあるが、そういうことができないと、あれ死にませんもんね、なかなか。
 死にたい時に、死なせてもらわないと困っちゃうんですね、ああいうのは。いいかげんに死にてえなと思っても、とにかく生きられますから。
 しかも、その金が政府のお金でやってもらうというのは、ますます寝覚めが悪いんで。ちょっとさっさと死ねるようにしてもらわないと、いろんなこと考えないと、これ一つの話だけじゃなくて、総合的なことを考えないと、この種の話って解決がないんだと僕はそう思っているんです。(時事ドットコム2013/01/21-19:27)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301%2F2013012100565&g=pol

ここまで===================

ふーん、なるほどなあとは思いますが…。

ただし…。

「その金が政府のお金でやってもらうというのは、ますます寝覚めが悪いんで。」というのはお門違いだと思うのです。だって、そう言う制度を作ってやってきたのは政府ですし、そもそも、「政府のお金」って理解自体がおかしいと思うのです。話は逆で、政府が「高額医療というもの(中略)に掛ける金が月一千何百万(円)だ、1500万(円)だ」って掛けても生すことが大切だと考えているからこそ、そう言う制度を作り、そこに国民が納めた税金を振り向けているだけの話です。制度が悪いのに、無駄遣いだと言うのは、それこそ人生の終末期を迎えている人たちの尊厳を踏みにじる行為だと私は思います。人を人として扱うということそのものが尊厳を守ると言うことです。

冒頭に書いた様な国民感情の中ではそれが認知を得ていましたが、医療技術の進歩や、医療制度の競争化によって、生物学的な死と、国民感情とは遙かにかけ離れた状況になってきたと言うことです。

もし結果的に、「非延命型医療」の方が経費がかかるようになったとしてもその様に言うのでしょうか?

ウィキペディアフリー百科事典には、緩和ケアの定義を下記の様に定めています。

ここから===================
世界保健機構(WHO)は2002年に次のように定めた。

緩和ケアは、生命を脅かす疾患による問題に直面する患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的、心理的、社会的な問題、さらにスピリチュアル(宗教的、哲学的なこころや精神、霊魂、魂)な問題を早期に発見し、的確な評価と処置を行うことによって、 苦痛を予防したり和らげることで、Quality Of Life(人生の質、生活の質)を改善する行為である、としているのである。

また上記の定義文に続いて次のようなことも記述されている。

・痛みやその他の苦痛な症状から解放する。
・生命(人生)を尊重し、死ぬことをごく自然な過程であると認める。
・死を早めたり、引き延ばしたりしない。
・患者のためにケアの心理的、霊的側面を統合する。
・死を迎えるまで患者が人生をできる限り積極的に生きてゆけるように支える
・患者の家族が、患者が病気のさなかや死別後に、生活に適応できるように支える
患者と家族のニーズを満たすためにチームアプローチを適用し、必要とあらば死別後の家族らのカウンセリングも行う。
・Quality Of Life(人生の質、生活の質)を高めて、病気の過程に良い影響を与える。
病気の早い段階にも適用する。延命を目指すそのほかの治療(例えば化学療法、放射線療法など)を行っている段階でも、それに加えて行ってよいものである。臨床上の様々な困難をより深く理解し管理するために必要な調査を含んでいる。

すなわち緩和医療とは、生命を脅かす疾患の患者やその家族にたいして、現在の治療の目的を認識し、予後の見通しをたて、患者が現在何に困っているかの見極めをおこない、その苦痛を緩和することにより、患者や家族の現在のQuality Of Lifeを最大限まで高めることを目標とする医療行為といえる 。

ここまで===================

このところ、人間の尊厳を守る「尊厳死という権利」さえも「経費の問題」で考えられていることについては、異を唱えなければならないと思っています。最近では、尊厳死を選ぶことのブームというのを生み出そうと躍起になっているような世論形成が見受けられます。「なかなか死なない」とか「死にたい時に死ねない」という問題を経費で語る前に、人間の尊厳をどう考えるかが、論じられるべき問題です。

そうでないと、終末期だと判断された患者はすべて、その意思を問われることなく、自動的に治療を打ち切られてしまうでしょうし、反対に、生きることさえ経費で算定されることになりかねません。「国民の死に方を決める権利は政府にはない」と言うのが、基本的人権の根幹であったはずです。

例えば、いじめで追い詰められたお子さんが自殺を図ったが植物状態になってしまったと仮定して、その人に対し、「政府のお金でやってもらうというのは、ますます寝覚めが悪いんで。ちょっとさっさと死ねるようにしてもらわないと」と言えるのでしょうか?

終末医療とは、「一人一人の人間の尊厳を守るか」という問題で語られるべきで、そういうことは、まず、経費抜きで語られなければならないでしょう。尊厳とは、人権そのものを意味しなければなりません。そして尊厳の本質は、それぞれの人がどう命の終わりを迎えるか…逆に言えば、どう、有意義な人生をその人に送らせる事が出来るのかというその一点に尽きると思うのです。

「尊厳を守る」と言うことは、「命を守る」と言うことであり、「その人の人間らしさを守る」ことです。それをどのように考え、理解しているのかと言うことを問われているのです。日本国憲法では、尊厳を土台にして基本的人権が語られます。政権中枢部の人からこんな言葉が飛び出したり、人権が大切にされない限り、死の尊厳を守るなんて事は、夢のまた夢なのかも知れません。


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2013年01月18日(金) 17時00分31秒

保育所がなくなるかもしれない日

テーマ:地方保育事業の崩壊
去年8月に三党合意の下に成立した「子ども・子育て関連三法」ですが、この法律によって保育所や幼稚園から認定こども園への移行を積極的に推進するそうなんですが、実はそれには条件があります。

近い将来、ばたばたと保育所が廃止されていくかも知れません。

「認定こども園への移行は、学校法人か社会福祉法人に限る」ということが明記されています。

まあ、そんな事言われて「ハイそうですか」と訳にはいきません。

私が園長をしている木造保育所は、1945年、当時の子供達の置かれた状況に心を痛めた森田キヨという方がはじめた保育所を前身とし、その後、運営母体として設置された木造教会が引き継いだという経歴を持ちます。もうちょっと突っ込んで言えば、この保育所の園舎を教会として教会が設置された訳です。

宗教法人木造教会立木造保育所というのが、正式な名前です。事業実施法人は宗教法人なんです。つまり、認定こども園にはなりたくてもなれないということです。更に、その先には少子化による激しい淘汰がおこり、保育所のままでは生き残ることはできないだろうといわれています。

当時は西津軽郡最初の保育所として、公立保育所の設立などには保母を派遣し、協力するなど、この地域の保育の黎明期を支えた保育所なのです。

でも、少子化や新制度のことを考えると現状は厳しいんです。

急激な過疎化による子供の減少。3万人ちょっとの市で年間出生者数が200名ちょっと…。そこに民間保育所だけでも12園っていう状況です。どんな経営努力をしても、その年齢層がいなければ、保育所の経営は成り立ちません。今までの保育所は0歳から6歳までの子供しか面倒を見ることが出来ない福祉施設という側面があります。

よく、卒園式の頃になると年長児の保護者さんから、「園長!木造保育所、赤字だからってなせばマイネよ」と言われます。

さあ、ここからが腕の見せ所。

気合いを入れて参りましょう。

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2013年01月16日(水) 18時42分24秒

憧れ

テーマ:保育所
1歳を超えるあたりから、子供は色々なものに憧れるようになります。彼らにとっては、「自分より何かが出来る人」=「憧れの対象」なのでしょう。

早い子は1歳半ぐらいからオマルやトイレに座りたがります。でも、出し方がわからない。彼らからすれば、オシッコやウンチをすることだって、難しいことです。

よく見ていると、そう言う子達って、オシッコやウンチをオマルやトイレで出来る子達に憧れ、尊敬し、自分もはやく出来るようになりたいと思っているようです。

我先にと座ってそのことに満足してニコニコしている子もいれば、見様見真似で踏ん張っている子もいます。

で、なんかの拍子に出たりなんかすると、嬉しさのあまりオマルやトイレをまじまじと覗き込み、そしてまた、保育士に知らせに行ったりします。

昔、息子が私がトイレに入っていた時に、ついてきて用を足す様子をしげしげと見て、そして彼は拍手をして


「お父さん、すごいすごい!!じょうず~!!」




妻に話したら、妻もされたとか…




尊敬されてるんだよな…多分…


星野富弘さんの詩の中にもそんなのがありましたっけ。首を骨折し動けなくなった星野さんは、病室の窓から外を眺めて、道を行き交う人々の歩く姿を見て「なんて凄いことなんだろう」と感心したという内容の詩だったと記憶しています。

自分にとっては他愛もないことが、ある人達から見れば凄いことであったりすることは実はたくさんあります。

先日、教え子の夫婦ゲンカの相談に乗りました。

「先生のところは、仲良い夫婦じゃないですか。私の所なんか喧嘩ばっかりで…」

返した言葉は「あなたにはそう見える我が家だって8年前はそうだったさ…」と。

子供の「憧れ」って何かと言えば、そうなりたいと願うこと、そしてそれを見様見真似でやってみようとすることです。

それに対して、大人の「憧れ」って、「いいなあ、そうなりたいなあ、でも無理だよなあ」ってため息をつき、そしてまず、距離を置こうとする事の方が多いような気がします。

子供の頃に抱いた憧れを、私達が少しでも取り戻せば、世界はきっと素晴らしいものになるはずだと思うのです。

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2013年01月12日(土) 14時12分55秒

学校教育の崩壊。さらば「先生」…

テーマ:教育
「ゆとり教育」を批判する人たちには、二通りいます。

第一に、子供の可能性を引き出すことの出来る人たちにとって、ゆとり教育のカリキュラムはあまりに緩すぎると感じてしまう。

第二に、子供には強制をするべきだと考える人たちにとっては、カリキュラムがなくて、何をして良いか判らなくなってしまう。

どちらにしろ、ゆとり教育の本当の意味を受け止めることが出来ない人が多いのは確かです。

虐めや自殺の問題がクローズアップされ、その結果産まれてきたゆとり教育が、学力低下の声に押されて、撤回され、そしてまた、虐めや自殺がクローズアップされる…。

そもそも、「ゆとり」という名前が良くなかったのかも知れませんね。

構想段階の「経験重視型の教育方針」という風に言っていれば良かったのかも知れません。

しかしながら、この「経験重視型の教育方針」をどのようにカリキュラムに落とし込むかと言うことは結局教員の側の研究不足とパニックを露呈することにしか繋がりませんでした。

なぜか…。

それは、現在の教員が校長から新任の教師に至るまで、「詰め込み型の知識重視型の教育方針」しか体験していなかったからです。

詰め込み型の教育方針を否定されたショックから、「『子供の好きにさせろ』とでも言うのか」とヒステリックに言う人もいましたし、「こんな教科書、教科書とは呼べない」という人もいました。結局、玉石混淆の教師たちや、教育に携わる人たちは自分の力量がどこにあるかということを振り返ることなく批判を展開し、それを競争主義の受験産業が後押しした結果、「子供が勉強しないで良いのが『ゆとり教育』」という誤解を生んでしまいました。実力ある教師から指導力が奪われて、また、無能な教師の無責任が露呈した結果が現在です。

「教育とは2万%、強制です」「生まれたての赤ちゃんから大人になるまで、教育は強制そのもの。もちろん、子どもが成長するにつれ強制の度合いが弱まり、子どもの自立に軸足が移るでしょう。それでも教育の基本は強制。社会のルールを教えるというのは強制そのもの。」「場合によっては、子どもを脅してでも。まあ、この辺はあまり偉そうに言えません。」などとツイートしている橋本市長が先日起きた大阪の体罰自殺事件で、怒りをぶちまけていますが、彼が怒っているのは、体罰を否定しているのではなくて、契約関係にある生徒の死に対する現場の人たちの隠蔽、責任回避の姿勢に怒りを向けているだけです。

元プロ野球投手の桑田真澄さん(44)が「体罰は不要」と訴えています。
ここから===================

私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。

 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。

 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。(朝日新聞デジタル「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえhttp://www.asahi.com/national/update/0111/TKY201301110314.html)

ここまで===================

問題なのは、学力低下ではありません。教職員一人一人の現場力の低下なのです。

そして苦労しているのは教員ではなく、子供達なのです。

教師という名称は、カリキュラムを修了し、資格を取れば名乗ることが出来ます。

しかし、そこから、先生と呼ばれるようになるには、子供達の信頼を担うための自分の力量を常に高める努力が求められるのです。免許を持っているから先生なのでありません。

「ゆとり教育」が失敗したとするならば、その失敗の原因は、優秀な教師を無能な教師と並べてしまう仕組みを作ってしまったことです。本来は到達目標だけ示し、学校の教育方針にもっと自由度を持たせるべきだったのだと思います。

今度の教育制度改革が「脱ゆとり」という言葉でひっくくられた時、学校において大切なものがまた一つ置き忘れられ、魅力ある有能な先生が切り捨てられていくのでしょう。

学校が「純粋な学校」になる事はもうないのかも知れません。

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2013年01月11日(金) 10時04分03秒

地方保育事業の崩壊 その5(待機児童がいなければ…)

テーマ:地方保育事業の崩壊
このテーマで書き始めて、5本目の記事となりますが、過疎地域では地方保育事業が軒並み衰退してきています。

保育所は0歳から就学前のお子さんを預かる施設ですから、いくら住人が多くなったとしても子育て世帯がなければ話になりません。保育所は経営努力をしたとしても、その実効性は限られています。利用者がいなければ経営努力のしようもないわけですから…。

一本目の記事でも書きましたが、出生者数が下がれば、その煽りを一番に受けるのが保育所という事になってしまいます。地方では民間保育所を下支えする意味もあり、公立保育所を統廃合していますが、その一方で民間委託を繰り返し、公立保育所はほとんどなくなったかわりに、市立保育所の間では水面下で園児獲得競争が熾烈になってきています。

そもそも、保育事業とは地方自治の中で行われる福祉サービスです。しかし、今それは、「経営の独自性を守る」というお題目の中で、質の担保については配慮されていないのが実情です。監査の中でも問題になるのは、法によって決められた数字が守られているかどうか、関係法に沿っているかどうかと言う事だけしか問われません。その結果は、経営に於いても数字のみが一人歩きを始め、それに取って付けたように保育目標が掲げられているような実情になりつつあります。

先日、「厚生労働省は7日、私立保育所に勤める保育士の給与を4月から引き上げる方針を固めた。具体的な額は各施設が個別に決めるが、最大月1万円程度上乗せされる見込みだ。私立保育所の保育士は公立保育所や他業種に比べて給与が低水準になっているため、待遇を改善して人材を確保し、子育て支援充実や待機児童解消につなげる。」(中國新聞)なんて報道されました。

園児不足に苦しむ過疎地の園長としてはこの政策が良いかどうかは難しいところ。出れば出たで、園長としてはうれしいが、そもそもの目的が達せられるかは覚束ないところです。

>具体的な額は各施設が個別に決めるが、最大月1万円程度上乗せされる見込みだ。

多分、設置基準の人数×1万円という事になるのだろうけど、過疎化が進んでいる赤字や収支がカツカツの保育所ではそれは丸々保育所に飲み込まれてしまうでしょうし、逆に引き上げを強要すれば、それは赤字経営園には潰れろと言っているようなものです。

そもそも、設置基準通りに職員を置いている所なんて有り得ないわけで、むしろ、労働基準に基づいて職員を雇用するなら、最低基準以上の人員を配置するしかありません。

民間保育所の人件費の計算根拠は、最低設置基準に基づいていますが、その一方で、8時間開設の分しか費用は出て居らず、「11時間以上が望ましい」という通達によって半強制的に出費がかさむようになっています。

更に、その年の園児の増減によって収入が大きく変わるため、臨時採用を多くして、正職員も極力採用7年以内の使い捨てが経営の一つの基本方針になっている所も少なくないと聞きます。そうすれば、結果的には各保育所に対するばらまきにしかならない危険性は高いかと思うのです。

保育が衰退すれば、余力のある子育て世帯は他地域に移ってしまうでしょう。子育て世代の流出は、最終的に高齢者世代の流出を引き起こします。つまり…一人暮らしが出来なくなった高齢者は続々と、すでに都市圏に移住した子育て世帯に引き取られていくのです。

身寄りのない高齢者しか残らず、税収も上がらず、結果福祉は統廃合され、産業も壊滅し、限界集落にまで陥ってしまうのです。選挙による多数主義の影響は、至る所に見え隠れしています。票を持つ人が多い部分に資金と人が群れ、サービスは更に充実していきますが、その流れには明確な意思を込めていかなければなりません。それが、行政というものです。

逆に言えば、どこかの福祉を厚くするとその反対の結果になります。

高齢者福祉政策を手厚くした、北海道の伊達市はその良い見本です。伊達市の伊達市が平成16年6月に発表した地域再生計画概要「少子高齢社会に対応した豊かなまちづくり計画~伊達ウェルシーランド構想の実現を目指して~」によれば、

①高齢者が住んでみたい町…伊達市内及び近郊だけてでなく、北海道ひいては全国各地から高齢者が生活してみたいと思う魅力ある町
②女性・若者の働きがいのある町…新たなサービスの導入によりコミュニティビジネス+新たな雇用が創出され、働く女性や若者の流入が進む活気ある町
③働く人が住みたい町…そして、このような働く人たちかが住み続けたいと思う安心・安全の町

高齢者福祉を厚くする事により高齢者の移住を積極的に受け入れる事により、それに伴う経済効果と雇用拡大を狙い、結果的に高齢者以外の移住を促進しようという遠大な計画となっていますが、その結果現在では、スマートフォン技術などをも応用した新しい施政モデルを提示し始め、注目を浴びているのです。

問題は、社会福祉インフラを使って、人口構成をどう導いていくかと言うことであるはずです。高齢者に傾く人口構成比は、保育の衰退に拍車を掛けます。選挙の結果は必ず高齢者政策を求めるようになり、その煽りを食うのは、縮小する児童福祉という事になるのは目に見えています。近年、少子化にも関わらず、小学校の建て替えが過疎地で進んでいますが、「将来的に老人ホームにするためじゃないか?」なんて皮肉を言う人もいる程です。

去年の8月に三党合意によって成立した子供子育て関連三法は何を導くのでしょう。これを見通さないまま、保育行政を、保育所経営を続けていくというのは、保育所、自治体、ひいては国単位の自滅に等しい結果が待ち受けていると私は考えています。

「やって貰う福祉」ではなく、「作り上げる福祉」への変換が必要だと思うのです。



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2013年01月09日(水) 19時16分49秒

自民党憲法改正草案を後ろから読んでみる…その3(主語の不在。政治家が作ると…)

テーマ:自民党憲法草案
自民党の憲法改正草案は現行の憲法を土台としているだけに一緒の文言も入っています。例えば、(憲法の最高法規性等)と題された第百一条は、現行憲法の第九十八条と同一の文言になります。
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憲法改正草案
第百一条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
=======================
日本国憲法
第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
② 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
=======================
さて、この両者は一言一句変わらないので、ここのところを今回は観察してみることにします。

なぜ、自民党は憲法改正草案を残したのか…。

それは、単純に「変える必要を感じなかったから」と言うより、「変えない必要を感じた」と言うことになります。

特に、一項では「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」とあります。

さて、国の最高法規と言うことは、どういうことか。総てにおいて優越性を認めると言うことです。ですから、「その条規に反する法律、命令、勅諭、及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と言うことは、この憲法を作った人々が一番偉いということを意味します。

もうちょっと遡ってみますと、自民党憲法改正草案では丸々削除された現行憲法の第九十七条を見てみます。

=======================
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
=======================

つまり、この憲法を作った人々は、「日本国民」と言うことになります。つまり、この憲法は日本国民の総意で作ったもので、その相違に反するものは、どんなものでも拒否しますと、いう意思表示だった訳です。

その総意とは何かを憲法第九十七条は、「この憲法が『人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利』である基本的人権を土台にしてつくられたものである」と、憲法の性格を保障しています。

これを削除したということは、由々しき出来事です。この一条が削除されたと言うことは、憲法を作った人々が何を土台にして作ったのかを不明瞭にすると言うことであり、それは、そのまま憲法そのものの理念というものを不明瞭にすることでもあります。

前回触れた自民党憲法改正草案第百二条を思い出して下さい。

第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

と言われてから百一条を読んでみれば、この憲法を造った人が一番偉くなってしまいます。

つまり、憲法改正草案を作って必要性を訴えている人たち(自民党とその仲間の人たち)が、「私達が作った憲法が最高法規なのですから、それに反する『法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を』認めない」と宣言することが出来る訳です。

何かと「天皇陛下」を担ぎ出す方々ですが、その一方で「この憲法は全国民が尊重しなければいけない『法律』で、その『法律』に基づけば、内閣総理大臣の決定には天皇陛下も従わなければならない」と言う訳です。

もうちょっと遡ってみますと、反対に新設、追加された条文に行き当たります。全文を引用します。

自民党憲法改正草案=============
第九章 緊急事態
(緊急事態の宣言)
第九十八条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。

(緊急事態の宣言の効果)
第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
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なんかもう善意的に読み込めません。「『緊急事態の宣言』は内閣総理大臣の判断によって行われ、その内閣総理大臣は国会の多数派によって支持されていて、この憲法によって宣言された『緊急事態の宣言』が効力を有する間、内閣総理大臣の支持母体である政党が過半数を占める『衆議院は解散されない』、更に『両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる』」って一体どういうことでしょう。与党の都合によって「ねじれ国会解消」だって可能になるってことも範疇に入りそうな気がします。

しかも「緊急事態の宣言」の根拠が「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」ってありますけど、その他の法律で定める緊急事態って例えば、法律さえ通してしまえば、倒閣運動なんかも含めることができるということで、一旦緊急事態が宣言されてしまえば、どう考えたって、緊急事態が一度宣言されてしまえば、国会は解散されず、この憲法改正草案すら自由に変えることができると言うことになります。

これって、自民党こそが与党であり、永久に絶えることなく自民党が与党であり続けたいと思って作られた憲法改正草案なんじゃないか、と言う思いまで沸いてきます。そう考えてみると、多分、この憲法改正草案は来るべき本格改正の踏み台として考えているような気がしてきました。

多分、この草案を作った人たちは、そんな事するつもりもないし、考えてもいないと仰るでしょうし、こういう指摘をされたいからこそ「草案」なのだと仰るのでしょうけど…。

今回の感想。

自民党が自分たちのために作った憲法の臭いがぷんぷんしてきました。

でも、「人を呪わば穴二つ」と言います。

もし、何か手違いが起きたと仮定して、これが自民党に敵対する政党で、憲法として採択されたら一体どうなるんでしょう?

草案として出すにしても、やり過ぎだとしか言いようがないと個人的には思いました。

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2013年01月04日(金) 14時54分16秒

成長できる?

テーマ:ブログ
開けまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

さて、新しい年が始まりました。

先日の衆議院の総選挙、各党、「成長戦略」なる言葉を使っていますけど、この国の現実で、成長なんて期待ができるのでしょうか?

人口が減り続けている過疎地に於いては、インフラだってガタガタです。公立保育所は閉鎖、統合が相次ぎ、民間の保育所も定員を割るところが増えています。ガスはプロパン。各家庭には免許を持っている人の数だけ車があり…。結果的に、公共交通機関はほとんど使われず、公共交通機関は、一時間に一本走ればいい方。

有効求人倍率0.1倍の辺りをうろうろしている状況が長年続き、更に加速度的に少子化が進み、更に加速度的に人口減少が起こっている地域にあって、どんな「成長戦略」だって実感できる訳がありません。

こうなってくると、政治に期待しろっていう方がおかしいようにも思えてきます。こちらの状況から見れば、どの党の政策も、結局は東京などの大都市が潤うための戦略だとしか思えまえん。

なんか、最近の風潮は切り捨てられるのではないかという恐怖による「我慢比べ」の様相を呈しているように思います。会社や個人なども含めて「出来ない成長」を求められ、そして、我慢していることが美徳とされる…。

待機児童、原発問題、3.11大震災の復興復旧…どれをとっても個人ではどうしようもない状況の中で、先ずは「無理なんです」「努力しています」「日本の危機ですから」などと、全体の意見がポンと出て、それに個人が合わせることを求められていく…。結果的には総ての人々が何かの部分で少数者として扱われ切り捨てられることを恐れ、また実際に切り捨てられることを経験し、国民が相互に不信感を持ってしまいます。

政治は、バランスです。

「老人福祉を充実させるのが得票を得るには一番の得策。なぜなら、利用者は一票を持っているし、その家族の票も狙えるから…。児童福祉政策は親に訴えるのが一番。子供には票がないから…。」

こんな笑い話にならないような話が、過疎地では囁かれていますが本末転倒です。政治家の説明責任とは、少数者の立場を理解しそのことを周知していく事です。

結果責任もその通りです。

選挙に大敗した党の党首は「党としての支持を得られなかった結果責任」をとり、辞任するのが通例になっていますが、これって、結局は党そのものが、前述した「説明責任」を全うしてない事によるものです。なにがどうなって、そういう政策を行う必要があるとするのかを説明しなければ、それは国会議員として失格と言うことになるのです。

民主主義とは、説明責任によって成り立つものです。

全体の事を考えれば、必ず少数者は犠牲になります。

要は、その犠牲を、誰に、どう強いるかというバランス感覚を持たなければ、政治とは言えないと言うことです。選挙の結果に頼るのなら、少数者を切り捨てていくしかなくなるのです。その結果、群衆は多数に切り捨てられまいと必死になります。

そうならないように説明をし尽くすのが、政治家の説明責任であるはずなのです。

新しい年が始まりました。

しかし、その一方で震災後の新しい世界を造り倦ねているどころか、昔の栄光にすがりついているだけの言説を展開したり、現実の問題点を指摘するだけであれば、それは政治ではなく扇動です。

時代は絶えず新しくなります。

来るべき新しい時代を見定め、それを指し示し、その備えを訴えることこそが、政治家の仕事でなければいけないのです。

ですから、国民が問われることも違ってきます。

現状を認めるか、拒否するかの意思表示ではなく、政治家と対話をすること、そしてまた自分の持てる力を公共の福祉に活かす事を考えることが、国民一人一人にとって大切な事です。


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