ジオターゲティング
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2012年06月27日(水) 13時59分01秒

全ての背後に…

テーマ:ブログ
こんなアメリカンジョークを見つけました。
=======================
犬:
この家の人たちは、餌をくれるし、愛してくれるし、
気持ちのいい暖かいすみかを提供してくれるし、
可愛がってくれるし、よく世話をしてくれる・・・。
この家の人たちは神に違いない!

猫:
この家の人たちは、餌をくれるし、愛してくれるし、
気持ちのいい暖かいすみかを提供してくれるし、
可愛がってくれるし、よく世話をしてくれる・・・。
自分は神に違いない!

=======================

神ってなんだろう、そう思います。

まあ、難しい事なんですけど…。

人を形容し、犬型、猫型なんて言葉まである私たち人間にとって、このジョークはとても皮肉に聞こえます。

自分が神か、周囲が神か、なんて結局どうでもよい話です。だって、このジョークは閉じられた世界の話なんですから。

現実には、様々な状況があってこその信仰です。でも、信仰っていうときに、結局は、利益(先のジョークで言えば、「餌をくれるし、愛してくれるし、気持ちのいい暖かいすみかを提供してくれるし、可愛がってくれるし、よく世話をしてくれる・・・」ということ)のみを基準として判断しないとなると、そこではどっちにしても必ず綻びが生まれます。運が良ければ傲慢になり、運が悪ければ捻くれた人生になっていく…。

こうなるとその人の良さは見えなくなります。

人間形成はその逆を求めます。人間、運が良くても悪くても謙遜さが一番です。

日本古来の思考とは「謙遜」です。やるべき事、やらざるべき事を、自分の中の謙遜さに照らして生きてきました。「周囲の人は自分より一等高い」と考えることで、多くの人たちと和を築いてきた歴史が日本の歴史です。勤勉さ、実直さ、誠実さ…世界が感嘆する日本人の美点はそんな歴史の成果です。

周囲の人、そして全ての事象の背後に神様がいるという思いは、日本人の発想の原点でした。

情けは人のためならず

積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」

なども、そういう理解の中で読む時と、自らを慎み、今、目の前にいる人に対して最善を為すという事は、とても大事だと思うのです。




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2012年06月25日(月) 21時03分53秒

親に向ける自己責任論の無謀

テーマ:ブログ
最近、子供が交通事故に巻き込まれるニュースに付け、

>子供の飛び出しは全て親の責任なのは確かです。
>子供が飛び出して、その結果の責任は全て親に係るべきです。

>ところが、実態はその責任の大半が車の運転手にか
>かります。
>それが大きな間違いだと思いませんか?

等という声が持ち上がります。果たしてそうでしょうか?

私事になりますが、先日、酔っ払いが夜、道路の真ん中で寝ているのを見つけました。車を止め、状況を確認し、その人を抱き起こし、路肩まで連れて行き、警察に通報して事なきを得ました。道路というところは、そういうところです。自転車だって飛び出してきます。道路を横断中転んでしまう人、突然引き返すお年寄り…その誰を轢いてしまったとしても、それは、ドライバーの責任が問われます。ハンドルを握るという事はそういう厳しさを背負うことです。

自動車教習所でそう習うはずです。そういうビデオだって見せられます。そしてそういう内容を理解したか確かめる免許試験を受けて免許を取得したはずです。それ(「もし轢いていたら、普通に運転していただけのドライバーが犯罪者になるという厳しさ」)を否定したら免許は取れないはずです。

親が自分の子供を守るために飛び出さないような対策を講じる事に反対しているのではありません。必要を感じてそうするのであればそれは良い事です。しかし、「飛び出し事故は親の管理責任」ではありません。なぜならば、ハンドルを握る人たちは、「たとえ子供が飛び出したとしても轢かない運転の仕方」という教育を受けて、それが出来るかどうかの試験を受けて合格して始めて、免許を与えられるからです。逆に言えば、そうでない運転を無謀運転と言い、子供を轢かなくても、免許取り消し…最悪は懲役刑になります。

親の管理責任を問う意見は一見理論的です。しかし、その理論は「道路は公共のもの」であることを忘れている理論なのです。

高速道ならいざ知らず、一般道は老若男女、自転車、交通弱者が絶えず行き来する公共施設です。そういう中では、子供がいない方がおかしいのです。

道路交通法においては、「飛び出した子供を轢いてしまう様な運転」を「普通の運転」とは規定していません。法律においては、「たとえ子供が飛び出したとしても轢かない」のが「普通の運転」だと考えられています。もし、その様な(うっかり轢いてしまうなどの)危うさを感じるのであれば、スピードを落とす、一時停止などの励行などの対処をするべきです。それが嫌なら、極力、運転することを避けることをお勧めします。タクシーやバスなどの公共交通機関を使いましょう。

それが出来ない人の運転は自分自身の命のみならず、他人の命…ひょっとするとその両方を失う危険を孕んでいます。自転車でさえ運転しない方がよいとさえ思います。

更に、この理屈には、「子供嫌いの人たち」の思いが見え隠れします。しかし、誰だって将来確実に子供の世話になるのですよ。子供を作らなかったり、生涯独身であればなおさら、現在の見ず知らずの子供達の世話にならなければ、年金も福祉も受ける事が出来ません。

子供を、「邪魔だ」とか、「煩い」とか、単に好き嫌いで判断する…そう言う人たちに対して「法律」は弱者を大切にする事を教えています。



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2012年06月23日(土) 09時13分44秒

知らなきゃそれで…国内のデモよりエジプトのデモ?

テーマ:ブログ
エジプトで、大統領選挙の結果を巡って、数万人規模のデモがテレビで報道されていたが、東京の首相官邸の前でも、こんな事大飯再稼働:撤回求め官邸前でデモ 列は700メートルに(毎日新聞 2012年06月22日 21時22分)http://mainichi.jp/select/news/20120623k0000m040067000c.html?fb_ref=s%3DshowShareBarUI%3Ap%3Dfacebook-like&fb_source=timelineになっているとは、テレビでも新聞でもついぞ知らされなかった。facebookで知らされたのが最初でした。

私の就寝時間後に報道された「報道ステーション」では詳細に伝えられていたようです。



主催者によると約4万5000人、警視庁によると約1万1000人の参加者があったそうで、主催者側の発表の数字だとすれば、エジプトのデモに匹敵するデモが国内で起こっていた事になりますし、警察側の発表にしても無視できない大事だと思います。

エジプトのデモと、首相官邸のデモ。

ニュースで、新聞でこんなに扱いが違うのはどうしてなのでしょう。理解に苦しみます。



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2012年06月22日(金) 17時22分27秒

凄い文章に出会った。

テーマ:保育
木造保育所の所長に就任し、5年目になります。先日出席した障害児の保育研究会の機関誌に、凄い文章が載っていました。「たいなか保育園」という保育園の小瀬川園長先生が寄稿した文章でした。ブログで紹介したい旨お話ししましたら、快諾頂きましたので、その一部を紹介させて頂きます。

「たいなか保育園」は八戸市にある認可保育所でホームページには、

保育方針

Happy Day Home   昼間の家庭
ご家族の負担になるような行事はできるだけ行わないように心掛けております。
子どもが生活する場所ですから家族の目で確かめてください。
保育所の特色

子育てのことならどんな事でもサポートし応援致します。子育てを一緒に楽しみましょう。

また、分園の「いちごみるく」の紹介には、

Happy Day Home  昼間の家庭
保育=子育て支援と考えています。お母さんがお休みの日もお預かりしています。
ご家庭の負担になるような行事はできるだけ行わないように心掛けています。
子供が生活する場所ですから家族の目で確かめてください。


保育所の特色

商店街の子育てサロン
市の中心街にお勤めしながら、赤ちゃんを母乳で育てましょう。職場と間近なので休み時間に赤ちゃんと会えます。送迎時間が短縮でき、病気時の素早い対応も可能な全国初の中心街認可保育園です。0~2歳児の赤ちゃん専用です。


とありました。よほどの確信がなければ、出来ない保育をしておられるようです。

さて、その凄い文書ですが、

ここから====================

「気になってしょうがない」
最近色々な団体の研修会のテーマに「気になる子どもへの対処」などという言葉がやたら目に付く。臍曲がりの私には、その様な研修が氾濫していることがそれこそ、気になって仕方がない。なんと、今日青森県保育連合会から届いた、「平成24年度青森県保育研究大会開催要項にも、【「気になる子」の秘めた力を伸ばす大作戦】という発表があると載っていた。意地悪く言えば「気にならない子」は秘めた力がないのですか?と、おちょくって見たくなります。ずいぶん昔のことですが、「自由遊び」と言う言葉が流行ったことがあります、その時私たちは「今までは不自由遊びしかしていなかったのですか_」と皮肉を言った事を思い出します。

~中略~

「気になる子ども」と一括りにするのは、良く捉えれば目に見えて分かる何らかのハンディを持っている子には、それなりの援助をしているが、保育園で多くの時間を占める集団生活の中で、他児と比較して何らかの差違が窺われる子どもを「気になる子ども」と表現しているように思われる。それを「個人差」という概念で言い切ってしまう方が多い。その時すでに「個性、もしくは一人一人の人間の尊厳」と言う大切な視座を失っているといえないだろうか。

一見して健常児(嫌いな表現だが)だろうと独断し、問題なしのグループに入れられてしまう子どもの一人一人は、気にならないのだろうか?健常児は聞き分けも良いし、日常の保育で煩わしい事もないから、為すがままで気にしなくて良いと思い込んではいませんか?落とし穴に気が付きませんか?多分心身共に健全に、さしたる問題もなく今日まで育ってきた貴女。自分ではどうしようもなくブルーになる日とか、体のどこかに不調を感じる日はありませんか?全日晴れ晴れとした日が続いていますか?

すべての子どもは、それぞれ産まれ持った個性と特有の家族構成の中で、今日までの全く違った生育歴を持ち一日一時を過ごしている。極端な言い方をすれば、去年の震災や原発事故を持ち出すまでもなく、明日いや一秒後に何が起こるか分からない大変危うい時を過ごしている、一人一人の子どもが固有の時と世界を生きている、それを気に掛けてケアしてあげられる能力が保育者(保育士だけではない)に求められていると思う。「気になる子ども」に何らかの原因(例えれば身体障がいのヨウ素等)を、専門家と言う方が「疑いあり」と言ってくれれば「やっぱり」と変な意味で安心する。確かに早期発見・早期治療開始が必要なケースがある事も否定しない、ただ保育者が「気になる子ども」と言う曖昧な概念を、簡単に持ち出す事に、底知れぬ恐怖感を持つのは私だけだろうか。

マザー・テレサが「愛の反対概念は無関心である」と定義した事を思い出さずにいられない。もっとおおらかな気持ちで、しかし総ての子どもに関心を持ち、始終視界から外す事無く、子供一人一人の個性を見守っていけないものだろうか。私は、そのような保育園生活が出来た時に「保育者」は、子どもと親や家庭を構成する人たちと同一化して、「家族」へと進化する事が出来ると思っている。私の保育園では、総てのスタッフが、そうなれる事を保育者としての最大目標と位置付けている。容易な平等論ではない、子供一人一人と対話(言語を介さない場合も含む)して平和で安らげる楽しい時間を持ちたいものだ。

ここまで====================


「一見して健常児(嫌いな表現だが)だろうと独断し、問題なしのグループに入れられてしまう子どもの一人一人は、気にならないのだろうか?健常児は聞き分けも良いし、日常の保育で煩わしい事もないから、為すがままで気にしなくて良いと思い込んではいませんか?」

「ただ保育者が『気になる子ども』と言う曖昧な概念を、簡単に持ち出す事に、底知れぬ恐怖感を持つのは私だけだろうか。」

との指摘はぐっと来ます。そして

「もっとおおらかな気持ちで、しかし総ての子どもに関心を持ち、始終視界から外す事無く、子供一人一人の個性を見守っていけないものだろうか。私は、そのような保育園生活が出来た時に『保育者』は、子どもと親や家庭を構成する人たちと同一化して、『家族』へと進化することが出来る」

「私の保育園では、総てのスタッフが、そうなれる事を保育者としての最大目標と位置付けている。」

そうだそうだと繰り返し読み、涙が出そうでした。

保育所は大きな家族、卒園児にとっては大きな実家であるべきと考えてこれまで関わってきましたが、そんな考えで、もうすでに何十年と保育をやってこられた先輩園長がいたことに心強く感じました。



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2012年06月20日(水) 21時16分38秒

地方保育事業の崩壊 その4(迷走する乳幼児保育と幼児教育)

テーマ:地方保育事業の崩壊
消費税の論議で完全にとばっちりを食った形になった「総合こども園」構想。

自民党政権時代は、待機児童解消の切り札として「幼保一元化」という看板の元に幼稚園と保育所の同居型である「認定こども園構想」という提案だったのですが、政権交代と共に、「幼保一体化」となり「総合こども園構想」が立ち上がったわけです。

どちらも内容的には大差がなかったように私は記憶していますが、この2年間の間に、様々な綱引きが行われ、最終的にはすべての保育所に幼稚園機能を付随させるのがその構想の肝でした。

そもそも、幼稚園機能とは一体何かと思うわけですが、公的機関から案内を受けるのは、結局は午前中に「教育」の時間を持つようにしなさいと言うことでした。じゃあ、教育とは何かと言えば、幼稚園教諭が行う授業ということでした。

つまり、今回の消費税の修正協議で問題点となったのは、「すべての子に幼児教育を受させるか否か」という選択を留保するかどうかというこでした。民主党案は、「すべての保育所を総合こども園に移行する」ということで、保育所に通う幼児であっても幼稚園教育を受けられるようにすべきととしたのに対し、自民党案は「幼稚園、認定こども園、保育所の三形態から親が選ぶ」というのが肝でした。各党案も、ここに至るまで、複雑な駆け引きが水面下で行われていたようです。

そして、その中には、効率重視の経営的な観点というモノが相当入り込んでいるようでした。

すべての保育所が「総合こども園」になってしまえば、幼稚園の独自性が著しく制限されてしまい、結果的に幼稚園は総合こども園に追い込まれてしまうという危機感が幼稚園側にはあったようです。

幼稚園と保育所が同居する「認定こども園」の場合では、幼稚園が付加的なサービスとして展開していた「預かり保育」などを保育所機能に置き換えることで可能となるのですから、幼稚園としては、園児募集のメリットが大きくなります。つまり幼稚園サイドとして考えると、保育をプラスα…付加価値として考えることが出来ます。

その一方で、保育所サイドは現状維持で手が一杯。新しい事業を導入する人的、経済的余裕のない状態で、それでは総合こども園に追い込まれるのも止む無しといった状態でした。逆に言えば、認定こども園への保育所からの移行は積極的には行われないだろう事は容易に想像できます。

幼稚園は行政サービスではないので、自由度が高い施設です。保育料も自由に設定できますし、措置制度もありません。経営状態にもよりますが、入園試験なんて行うところさえあります。その一方で地方の幼稚園は、崩壊する保育行政に付随する形(行政サービスである保育所を潰せないという理由)で措置要件が緩和された結果、保育に欠けていなくても保育所に入所できるようになってで園児を失い、どんどん休園(実質上の廃園)に追い込まれています。

この数年間は都市部の「待機児童問題」などに引きずり回されて、地方は幼稚園も保育所も共に窮地に立たされかねない状況に追い込まれてしまいました。

今後、どんな状態になるか創造すると、一番最悪のパターンの場合、子供を取り巻く格差がそのまま、

幼稚園>認定こども園>保育所

という状態で、現出することが予想されます。

「子供は国の宝」なんて、何回か国会でも取り沙汰されていますが、その実、一部の人達には都市部の子供を取り巻く利権だけが、宝の山に見えているだけのような気がして何ともかんとも…。



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2012年06月16日(土) 18時03分20秒

見せたい

テーマ:保育所
先日、登園してきた2歳児クラスの女の子。

お母さんにしっかり抱っこされてやってきました。

「最近、門まで来ると抱っこをせがんで…。家では行く気満々なんですけどね。どうしてかしら?」

とお母さん。

「多分、大好きなお母さんを見せびらかしたいんですよ」

「あ、そういうことなんですね」

というお母さんの顔と、ちょっとムッとした女の子。

そうだよな。

「素敵なお母さん、このお母さんが、私のお母さんよ!!」

って見せびらかしたくなるんでしょう。


先日、妻が、娘を病院に連れて行った時、


待合室に入るや否や、先に待っていたおばさんに娘が

「ほら見て~、お母さんだよ~、かわいいでちょ?」

と言っていたとか。

子供はお母さんが大好きです。



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2012年06月15日(金) 18時07分07秒

夏に向かって

テーマ:保育所
まだ、朝晩の冷え込みは結構きつく、夜はタオルケットに掛け布団という生活ですが、それでも、夏至に向かって日は伸びて行きます。今年の夏至は6月21日とか。日の長さはもう既に、夏を予感させています。

さてはて、木造保育所では7月の初旬に予定されている夏祭りですが、そろそろ準備が始まります。

年長児だけが叩けるねぶたの太鼓も月曜日からは練習が始まります。

そんなわけで、緩めていた太鼓を今日締めたのですが、その音が聞こえたのでしょう、保育室から段ボール箱を叩きく音とと「ヤーレヤーレヤーレヤ」という掛け声が聞こえてきました。太鼓の音が聞こえて俄然その気になったようです。

今年の木造のねぶたは7月26日から28日までだそうです。それを皮切りに、弘前、五所川原、青森、黒石など名だたるねぶた祭りが続きます。

ここから2ヶ月。

子供達の中には、もう、熱いねぶたの火がともりました。



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2012年06月15日(金) 06時31分52秒

ゼロリスクは存在しないということ

テーマ:ブログ
この数日、取り沙汰されているのは、大飯原子力発電所の再稼動の問題と、生レバーの問題。

生レバーは「ゼロリスクでなければいけない」と来月より販売禁止となりましたが、大飯原子力発電所はどうのでしょう。果たしてゼロリスクなのでしょうか?

生レバーの販売禁止をなぜ7月1日からに設定したのでしょう?在庫処分の必要ということなのでしょうが、これから、6月一杯は、各焼肉店などで、「さよなら生レバーセール」などが行われるんでしょうね。この半月の間はゼロリスクなのでしょうか?

どんなものにもリスクは存在します。しかし、そのリスクの存在を行政や政治家は嫌います。ゼロリスクを求めたがります。リスクがあるという声が上がると彼らはそれを袋叩きにして安心しようとするのでしょう。そして、原発もゼロリスクだということになってしまいます。

それは、リスクが現実となった時の被害の大きさを冷静に判定できなくなるということを意味しています。

危機管理は、リスクを受容することから始めなければなりません。そして、受容する術を知らせること。この考えが根本にないと、適切な危機管理は出来ません。

生レバーやユッケを食べて食中毒になったとして、被害はどこまで広がるでしょう。その一方で原発がちょっと事故を起こせばその被害はどこまで広がるでしょう。どちらがどれだけ、影響が大きいでしょう?

リスク管理の基本を知らないと、比較評価すべきリスクを見誤ってしまいます。

例えば、「停電になって都市機能が麻痺する」のと、「原発事故が起きて立地の地方一体が壊滅する」のとを天秤に載せて判断しようとしているのであれば、それは思考の間違いだということです。結果的に、どっちも困るのであれば、利益の大きいほうを取ろうと考えてしまうからです。

リスク管理という天秤に乗せなければいけないのは、「原発が生み出すエネルギー」と「事故によって負わざるを得ない影響」でなければなりません。

現実に去年の大津波で児童の大半が命を失った大川小学校の事例では、「裏山に逃げて倒木などで転び怪我をするリスク」と「津波で流されるリスク」が当事者の間で釣り合ってしまった結果、決断が遅れ最悪の結果になってしまっています。

福島原発の事故でも、「被曝の危険」と「住民のパニック」が釣り合ってしまい、結果的にはタイミングを逃し続けたのは、周知の通りです。


情報が混乱する危機管理の場面では、リスクの大きさや重大さというものを冷静に判断できなくなります。そんな中で指揮を取る人は、必ずそのような誘惑と戦うことが求められます。

「安全神話の崩壊」とか言われながら、再び政府は「最新の知見に基づ」きとまた、安全神話を展開しようとしている…しかも、それが与党のみならず、野党も…

その覚悟がなく、「責任」とか「安全性」とか言ったとしてもそれは、安全神話に寄りかかるだけのことであり、それはその途端、リスクに対して動けず、、メリットに対して動きやすくなってしまいます。

そして、いざ事故が起きたそのときには、「ゼロリスクだから、認可したのです。今回の事故はその想定を超えたもので、仕方がなかったのです」と与党も野党も官僚も仰りたいのでしょう。




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2012年06月12日(火) 11時41分13秒

大阪市・家庭教育支援条例 (案)を読んでみた。…親学って何だ?

テーマ:大阪市・家庭教育支援条例 (案)
大阪維新の会が提出を試み、断念し、「白紙撤回」した大阪市・家庭教育支援条例(案)ですが、その前文には、

「このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。 」

とあります。市の条例なのになぜ「本県」なのか?

その答えは大阪維新の会から「ある県で提出された条例案を議員団総会にて所属議員に配布したものであり、今後の議論の材料として提出されたものです(抜粋)」

つまり、この内容と同じ条例案が、「ある県」で提出されたか、されている状態であると言うことを示しています。つまり、大阪では問題になりましたが、「ある県」では問題にもなっていないと言うことが問題なのです。

さて、「私たち親自身の成長を期して、本条例を定める」とありますが、それが条例(案)ではどこに出てくるかというと第2章の中に具体的に書かれています。

(保育園、幼稚園等での学習の場の提供)
第7条
すべての保育園、幼稚園等で、年間に1度以上、保護者会等での「親の学び」カリキュラムの導入

(一日保育士、幼稚園教諭体験)
第8条
すべての保育園、幼稚園で、保護者を対象とした一日保育士体験、一日幼稚園教諭体験の実施の義務化

(学習の場への支援)
第9条
保育園、幼稚園、児童館、民間事業所等での「親の学び」等の開催支援


とあります。保育園の園長としてはとても迷惑な話です。単純計算して、園児が90名いれば保護者は180名。更に、第3章では、「親になるための学びの支援」として「中学生から大学生までに対して、保育園、幼稚園で乳幼児の生活に触れる体験学習を義務化する」とあります。守秘義務てんこ盛りの保育園にあって、一日何人の「一日保育士体験」を受け入れろと言うのでしょう。土台無理な話ですから、あまり突っ込みません。

でも、その先では、突っ込まなくてはなりません。第5章(親の学び・親育ち支援体制の整備)
において、

(民間有資格者の育成に対する支援)
第21条
親としての学び、親になるための学びを支援、指導する「親学アドバイザー」など、民間有資格者等の育成を支援する

(「親守詩」実行委員会の設立による意識啓発)
第22条
親と子がともに育つ実践の場として、また、家族の絆を深める場として、親守詩実行委員会を設立して発表会等の催しの開催を支援し、意識啓発をおこなう


とあります。

「親学」って何かと言えば、

第一講座「子供の発達と親の関わり方」、第二講座「親として大切なこと」、第三講座「親学とは何か」、第四講座「親子のコミュニケーション」なんてことをやっていることが親学推進協会のホームページに報告されていました。

まあ、一財団法人がどんな講座をしようと良いのですが、この条例案では、「親としての学び、親になるための学びを支援、指導する「親学アドバイザー」など、民間有資格者等の育成を支援する」とあります。

親学アドバイザー資格を得るには、親学基礎講座をすべて修了(全4講座で13,000円(税込み、別途テキスト代1,680円))した上で、全6講座(25,000円(税込、認定審査料5,000円を含む。別途テキスト代1,680円))が必要となるそうで、合計で4万円を超えてしまいます。

「育成を支援する」と言うことですから、公費支出で、市の教員や保育士、保健師などに受講させるのでしょう。そうすると、一体いくらになるのでしょう。百人で400万円。千人で4000万円。1万人で4億円…。独占的な利権が生まれる構図を作っていると思われても仕方がありません。

そもそも、大人の都合で子供の環境が劇的に変化している事については、全くと言っていいほどに省みられていません。

学校は私たちの頃とは全く違い、教員に持たされる裁量はとても小さくなっています。点数主義、成果主義の中にあって、教員の裁量で行える教育的配慮は切り捨てられ、また、教員自体がそんな事を行うことが出来ないと信じてたりします。

でも、どうなのでしょう?

広汎性発達障害は急に増えたわけではありません。それを支える学校制度が崩壊してしまっていることから目を背け、親のせいにしようという論拠でしかないことはまるわかりです。

ある規格に基づき子供を選別し、それをもって親を規格化し、子供の規格化を進めようとしているようにしか思いません。

トンデモ教育論「親学」を推進する人々

では、もっと詳しく紹介されています。読んで見て下さい。



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2012年06月11日(月) 18時25分33秒

多数主義と民主主義

テーマ:ブログ
いきなり問題です。

「少数の意見を大切にしようと多数決によって決める」

ってどうでしょう?矛盾を感じませんか?


多数主義と民主主義とは違います。


民主主義は「民を主とする」主義です。民主主義とは、一人一人がその意思決定を国に繁栄させていくことであり、また、その意思決定は一人一人の権利を保障する事を土台とします。そして、その権利の中に「選挙」があります。

共産主義国として一時期権勢を振るったソ連は「ソビエト社会主義共和国連邦」と日本語では表記しますが、このソビエトとはロシア語で評議会とか理事会という意味です。つまり、国号からすれば「代表を選出し、合議制を用いて国を運営しますよ」と言うことです。ソ連だけではありません。中国は全国人民代表者会議、北朝鮮は最高人民会議常任委員会というものが国家の意思決定機関となります。

もし、選挙の結果を重んじるのが民主主義であれば、上記で紹介した国々は民主主義を実践していることになりますが、その一方で、上記の国々は民主主義とはほど遠い国家体制のように感じ取っています。なぜでしょう?

上記の国々を私たちは全体主義国家と私たちは読んでいます。つまり、多数主義が民主主義と相容れないところがあることを私たちは知っているのです。選挙を重ねて実施することによって、多数の意見を採用していく手法を民主主義と勘違いする人達が多いですが、それは間違いです。例えば、選挙を多数会繰り返していくと、少数意見は切り捨てられていきます。つまり、多数派の意見を押し通そうとすれば、数段階に渡る選挙をしていけばよいと言うことになります。

全体主義国家と民主主義国家の違いは何でしょう?

全体主義国家の場合、指導者とは多数の意見を反映することが大切になります。

じゃあ、民主主義国家は?

実は、少数の意見を全体の中にどう反映するかと言うことに労力を裂かなければなりません。

つまり、民主主義の選挙は、「自分たちに成り代わって少数者を大切にする良識を持っていること」が前提となります。つまり、その人の人格や信頼性によって選ばなければ、公約のみをもって選ぶとすれば、それは民主主義の自滅と言うことになります。

果たして国会は、私たちの首相をどう選んでいるのでしょう?議員同士の権益にのみ終始していませんか?

私たちは多数主義が暴力であることを知っています。

「悪法もまた法なり」と言ってソクラテスは毒杯を飲み干したと伝えられます。

ウィキペディアフリー百科事典ではこう紹介されています。

ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告はメレトスという詩人で、政界の有力者アニュトスらがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。

人の罪で、何が一番罪深いかと言えば、それは大衆を煽り動かすことです。そしてそれは確実にそれをした人に還っていきます。

ソクラテスを告訴した人達然り、ヒトラー然り…。

独裁を否定する事は、独裁を肯定する人々の人権をも肯定するものであるのです。これは矛盾ではありませんが、難しい事です。唯一の道は、私たち一人一人が学び続け、志を高く持ち続けることしかありません。



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